中学校というのは、どの世界でも同じにおいがするものらしい。
消しゴムのかすと、給食の残り香と、若干の体臭が混ざったあの感じ。
「碇シンジです。よろしくお願いします」
黒板の前に立って、俺はそう言った。
シンジの体で、シンジのふりをして、シンジの名前で自己紹介する。なかなかシュールな状況だが、もうそういうものだと受け入れることにした。
(さて)
俺は教室をさりげなく見渡した。
(英雄の転入、ということで、多少は注目されてると思うんだけど)
視線はあった。あったが——なんか、違った。
様々な目があった。
好奇、興味。そして、キラキラしてない目。尊敬の目じゃない。どちらかというと、冷めていた。いや、冷めているというより、なんというか——
(なんだ、あの目は)
品定め、というか、どこか値踏みするような、あるいは軽く敵意を含んだような視線だった。
担任の先生が「碇くんは政府の関係者なので、色々と特殊な事情があります、みんな協力してあげてください」みたいなことを言った。
(……あれ?)
俺は席に着いた。窓際の席だった。窓から外を見ると、まだ修復工事の途中らしいビルが見えた。クレーンが何台も出ていて、瓦礫を片付けている。
(あ)
思い至った。
そうだ。使徒が来て、俺が——というか初号機が——暴れたわけだ。あの戦闘で街がどうなったかを、俺は確認していなかった。エントリープラグの中からは外がよく見えなかったし、終わった後は病院に直行したし。
窓の外の瓦礫は、俺が転んだあたりに集中していた。
(……あ、これ俺のせいだ)
使徒も悪いが、十五メートルの巨人が転倒した衝撃も、たぶん相当悪い。
(どうりで冷たい目があるわけだ。)
俺は小さくなった。英雄として凱旋する予定の登校初日は、静かに、地味に、始まった。
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放課後、声をかけてきたのは体のでかいクラスメイトだった。
「転校生」
低い声だった。背が高くて、肩幅があって、体育会系のオーラがあった。
「ちょっとええか。体育館裏、来てもらえるか」
(おお)
俺は内心で拳を握った。
(体育館裏! これは! これはアレだ!!)
ラノベでよくあるやつだ。転校生が呼び出されて、いじめっ子グループに囲まれて、そこで無双して一気にヒエラルキーの頂点に立つ、あのイベントだ。
(来た! ついに来た! 俺の無双ターンが!!)
異世界では魔王幹部と戦ってきた。数多の強敵を、仲間と一緒に、あるいはスティールや短剣で乗り越えてきた。それに比べれば中学生の喧嘩など——
「ああ、わかった」
俺は余裕の笑みで立ち上がった。
体育館裏には、もう一人いた。眼鏡をかけた細い男だった。
「転校生、ワシはお前を殴らなあかん」
でかい方——鈴原トウジ、と後で知る——が、静かにそう言った。
「へえ」俺はわざとゆっくり腕を組んだ。「やれるもんならやってみなよ」
(数多の魔王幹部を屠ってきた俺が、中学生に負けるわけないだろ! ここで一発かわして、逆に一撃入れれば——)
トウジの拳が来た。
速かった。
(あ、これ——)
シンジの体は、動かなかった。
回避しようとした。した、はずだった。でも足が地面から離れなかった。腕が上がらなかった。俺の意識と、この体の反射神経の間に、致命的なラグがあった。
ごつ、という音がした。
俺の顔面から。
「……っ」
地面が近づいた。膝をついた。口の中に鉄の味がした。
(……痛ってぇえ!!全然勝てない!!)
眼鏡の方——相田ケンスケ——が「トウジ、一発でいいって言ってただろ」と声をかけた。
トウジはその場に立ったまま、俺を見下ろしていた。怒っているわけでも、勝ち誇っているわけでもない、静かな顔だった。
「……妹が、入院しとる」
低く、淡々とした声だった。
「エヴァが戦った時、巻き込まれた。今も手術が続いとる」
俺は地面を見たまま、動けなかった。
「お前がエヴァに乗ったせいや、とは言わん。あのデカいのが来なかったら、もっとひどいことになったのはわかる。でも」
トウジは少し間を置いた。
「殴らんと、気持ちの置き場がなかったんや」
返す言葉が、なかった。
俺は魔王を倒した。異世界を救った、という話になっている。でもその過程で何かを壊したか、誰かを傷つけたか——そこまで考えたことは、なかった。
(俺は……)
口を開こうとした。謝ろうとした。謝っても何にもならないのはわかっていたが、それでも言葉を探した。
「碇くん」
声がした。
全員が振り返った。
体育館の陰から、綾波レイが立っていた。
包帯はまだ巻いている。制服を着ていた。怪我はまだ残っているはずだが、そんなことは顔に出ていなかった。赤い瞳が、俺たちを——いや、俺を——無感情に見ていた。
「葛城一尉から伝言。シンクロ訓練の時間が変更になった。今日は十七時」
それだけ言って、レイは踵を返した。
待ちもしなかった。返事を求めてもいなかった。ただ用件を伝えて、立ち去った。
残されたのは、地面に膝をついたままの俺と、トウジと、ケンスケだった。
沈黙があった。
(……なんだ今の)
俺は思った。
レイは、俺が殴られているのを見た。見ていたはずだ。それでも何も言わなかった。助けようともしなかった。ただ伝言を告げて、消えた。
それが——なんとも言えず、俺の心に刺さった。
同情でも批難でもない。ただの無関心。
この世界には、俺が知っている「空気」がない。ダクネスみたいなど変態も、アクアみたいにとりあえず騒ぐやつも、めぐみんみたいに的外れなことを突然する奴も、いない。
(……そうか)
俺はゆっくり立ち上がった。膝が笑っていた。顔が痛かった。
「鈴原、だっけ」
トウジが俺を見た。
「妹さん、早く良くなるといいな」
それだけ言った。他に言葉が出てこなかった。
トウジは何も言わなかった。ただ少し、目を細めた気がした。
俺は体育館裏を後にした。
(あいつらのほうが、まだ人間的な温かみがあったな……)
口の中の血の味を噛みしめながら、俺は一人でそう思った。