逃げちゃだめ?いや、全力で逃げるが?   作:李忠成

4 / 6
拳と、血の味

 

中学校というのは、どの世界でも同じにおいがするものらしい。

 

消しゴムのかすと、給食の残り香と、若干の体臭が混ざったあの感じ。

 

「碇シンジです。よろしくお願いします」

 

黒板の前に立って、俺はそう言った。

 

シンジの体で、シンジのふりをして、シンジの名前で自己紹介する。なかなかシュールな状況だが、もうそういうものだと受け入れることにした。

 

(さて)

 

俺は教室をさりげなく見渡した。

 

(英雄の転入、ということで、多少は注目されてると思うんだけど)

 

視線はあった。あったが——なんか、違った。

 

様々な目があった。

好奇、興味。そして、キラキラしてない目。尊敬の目じゃない。どちらかというと、冷めていた。いや、冷めているというより、なんというか——

 

(なんだ、あの目は)

 

品定め、というか、どこか値踏みするような、あるいは軽く敵意を含んだような視線だった。

 

担任の先生が「碇くんは政府の関係者なので、色々と特殊な事情があります、みんな協力してあげてください」みたいなことを言った。

 

(……あれ?)

 

俺は席に着いた。窓際の席だった。窓から外を見ると、まだ修復工事の途中らしいビルが見えた。クレーンが何台も出ていて、瓦礫を片付けている。

 

(あ)

 

思い至った。

 

そうだ。使徒が来て、俺が——というか初号機が——暴れたわけだ。あの戦闘で街がどうなったかを、俺は確認していなかった。エントリープラグの中からは外がよく見えなかったし、終わった後は病院に直行したし。

 

窓の外の瓦礫は、俺が転んだあたりに集中していた。

 

(……あ、これ俺のせいだ)

 

使徒も悪いが、十五メートルの巨人が転倒した衝撃も、たぶん相当悪い。

 

(どうりで冷たい目があるわけだ。)

 

俺は小さくなった。英雄として凱旋する予定の登校初日は、静かに、地味に、始まった。

 

---

 

放課後、声をかけてきたのは体のでかいクラスメイトだった。

 

「転校生」

 

低い声だった。背が高くて、肩幅があって、体育会系のオーラがあった。

 

「ちょっとええか。体育館裏、来てもらえるか」

 

(おお)

 

俺は内心で拳を握った。

 

(体育館裏! これは! これはアレだ!!)

 

ラノベでよくあるやつだ。転校生が呼び出されて、いじめっ子グループに囲まれて、そこで無双して一気にヒエラルキーの頂点に立つ、あのイベントだ。

 

(来た! ついに来た! 俺の無双ターンが!!)

 

異世界では魔王幹部と戦ってきた。数多の強敵を、仲間と一緒に、あるいはスティールや短剣で乗り越えてきた。それに比べれば中学生の喧嘩など——

 

「ああ、わかった」

 

俺は余裕の笑みで立ち上がった。

 

体育館裏には、もう一人いた。眼鏡をかけた細い男だった。

 

「転校生、ワシはお前を殴らなあかん」

 

でかい方——鈴原トウジ、と後で知る——が、静かにそう言った。

 

「へえ」俺はわざとゆっくり腕を組んだ。「やれるもんならやってみなよ」

 

(数多の魔王幹部を屠ってきた俺が、中学生に負けるわけないだろ! ここで一発かわして、逆に一撃入れれば——)

 

トウジの拳が来た。

 

速かった。

 

(あ、これ——)

 

シンジの体は、動かなかった。

 

回避しようとした。した、はずだった。でも足が地面から離れなかった。腕が上がらなかった。俺の意識と、この体の反射神経の間に、致命的なラグがあった。

 

ごつ、という音がした。

 

俺の顔面から。

 

「……っ」

 

地面が近づいた。膝をついた。口の中に鉄の味がした。

 

(……痛ってぇえ!!全然勝てない!!)

 

眼鏡の方——相田ケンスケ——が「トウジ、一発でいいって言ってただろ」と声をかけた。

 

トウジはその場に立ったまま、俺を見下ろしていた。怒っているわけでも、勝ち誇っているわけでもない、静かな顔だった。

 

「……妹が、入院しとる」

 

低く、淡々とした声だった。

 

「エヴァが戦った時、巻き込まれた。今も手術が続いとる」

 

俺は地面を見たまま、動けなかった。

 

「お前がエヴァに乗ったせいや、とは言わん。あのデカいのが来なかったら、もっとひどいことになったのはわかる。でも」

 

トウジは少し間を置いた。

 

「殴らんと、気持ちの置き場がなかったんや」

 

返す言葉が、なかった。

 

俺は魔王を倒した。異世界を救った、という話になっている。でもその過程で何かを壊したか、誰かを傷つけたか——そこまで考えたことは、なかった。

 

(俺は……)

 

口を開こうとした。謝ろうとした。謝っても何にもならないのはわかっていたが、それでも言葉を探した。

 

「碇くん」

 

声がした。

 

全員が振り返った。

 

体育館の陰から、綾波レイが立っていた。

 

包帯はまだ巻いている。制服を着ていた。怪我はまだ残っているはずだが、そんなことは顔に出ていなかった。赤い瞳が、俺たちを——いや、俺を——無感情に見ていた。

 

「葛城一尉から伝言。シンクロ訓練の時間が変更になった。今日は十七時」

 

それだけ言って、レイは踵を返した。

 

待ちもしなかった。返事を求めてもいなかった。ただ用件を伝えて、立ち去った。

 

残されたのは、地面に膝をついたままの俺と、トウジと、ケンスケだった。

 

沈黙があった。

 

(……なんだ今の)

 

俺は思った。

 

レイは、俺が殴られているのを見た。見ていたはずだ。それでも何も言わなかった。助けようともしなかった。ただ伝言を告げて、消えた。

 

それが——なんとも言えず、俺の心に刺さった。

 

同情でも批難でもない。ただの無関心。

 

この世界には、俺が知っている「空気」がない。ダクネスみたいなど変態も、アクアみたいにとりあえず騒ぐやつも、めぐみんみたいに的外れなことを突然する奴も、いない。

 

(……そうか)

 

俺はゆっくり立ち上がった。膝が笑っていた。顔が痛かった。

 

「鈴原、だっけ」

 

トウジが俺を見た。

 

「妹さん、早く良くなるといいな」

 

それだけ言った。他に言葉が出てこなかった。

 

トウジは何も言わなかった。ただ少し、目を細めた気がした。

 

俺は体育館裏を後にした。

 

(あいつらのほうが、まだ人間的な温かみがあったな……)

 

口の中の血の味を噛みしめながら、俺は一人でそう思った。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。