逃げちゃだめ?いや、全力で逃げるが?   作:李忠成

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世界に、独りで

 

NERVの廊下は、学校の廊下と全然違うにおいがする。

 

消毒液と機械油と、なんか電子機器の熱いにおい。人の気配が少ないくせに、どこかピリついている。廊下を歩くだけで、「今戦争をしてるんだ」とわかる、そういう場所だ。

 

俺は顔の右側を腫らしたまま、その廊下を歩いていた。

 

「シンジくん! 顔、どうしたの!?」

 

ミサトさんが飛んできた。

 

「転びました」

 

「どこで!?」

 

「体育館裏で」

 

「……なんで体育館裏で転ぶの」

 

「色々あって」

 

ミサトはしばらく俺の顔を見ていたが、それ以上は聞かなかった。大人の判断だと思った。賢い。

 

「シンクロ訓練、今日は軽めにしましょうか。顔も腫れてるし——」

 

「いえ、やります」

 

ミサトが少し驚いた顔をした。

 

「……珍しいわね。シンジくんが自分から」

 

「早く終わらせたいんです」

 

それは本当のことだった。訓練を早く終わらせて、マンションに帰って、ふかふかのベッドに潜り込みたかった。それだけだった。

 

---

 

訓練は二時間で終わった。

 

シンクロ率がまた上がっていた、とリツコが言った。「天才ね」とも言った。俺は「そうですか」とだけ答えた。

 

(天才)

 

更衣室でプラグスーツを脱ぎながら、俺はその言葉を頭の中で転がした。

 

天才。英雄。人類の希望。

 

全部、俺に向けられた言葉だ。

全部、碇シンジに向けられた言葉だ。

 

(……俺は何もしてない)

 

転んだだけだ。恐怖で後退して、足がもつれて、転んだ。その転倒が偶然使徒のコアに刺さっただけだ。幸運値が高いだけだ。それだけだ。

 

なのに街は壊れていて、知らない女の子が入院していて、その子の兄が「殴らんと気持ちの置き場がなかった」と言った。

 

(俺の【幸運値】は、誰かを傷つける方向にも働くのか)

 

考えたことのない話だった。

 

めぐみんの爆裂魔法は、毎回色々なものを巻き込んでいた。でも、あれはアクアが最悪リザレクションかければなんとかなった。

 

でも、この世界は違う。

死んだらそこでおしまい。

俺だって死んだら生き返ることはできないだろう。

 

その事実が、現実が急に襲いかかり恐怖を覚えた。

 

俺はため息をついた。着替えが終わらなかった。シャツのボタンを途中で止めたまま、しばらく壁を見ていた。

 

---

 

廊下に出ると、包帯の少女__綾波レイがいた。

 

壁際に立って、どこか遠くを見ていた。何かを待っているのか、ただそこにいるのか、区別がつかない立ち方だった。

 

俺は少し迷ってから、声をかけた。

 

「……綾波」

 

彼女が俺を見た。その目からは感情は読み取れない。

 

「今日、学校に来てただろ」

 

「用件があったから」

 

「俺が殴られてたの、見てたよな」

 

「見ていた」

 

「……一言くらい、あってもよかったんじゃないか?」

 

レイは少し考えるような間を置いた。本当に少しだけ。

 

「なぜ」

 

「なぜって……」

 

「あなたが殴られる理由は、私が介入する理由にならない」

 

俺は言葉に詰まった。

 

「……そういうもんか」

 

「そうよ」

 

レイはまた視線を前に戻した。会話が終わった、というわけでもなく、ただ終わった、という感じだった。

 

(そうか)

 

俺は歩き出した。

 

(同情を求めても無駄か)

 

めぐみんなら「カズマ! 大丈夫ですか!?」と駆け寄ってくる。アクアなら「ウケるんですけど!プースクスク!」とバカにしながらも、一応気にかけてくる。ダクネスなら何も言わずに一緒に殴られに来てくれるだろう。

 

でもここにはそういう奴らがいない。

 

綾波は悪くない。彼女はただ、綾波なんだろう。

 

でもそれが——なんとなく、じわりと、効いた。

 

(俺はこの世界で独りだ)

 

たった五日間でこんなに孤独を感じたのは、引きこもっていた時以来だと思った。

 

---

 

「シンジくん」

 

ミサトの声が聞こえたのは、その三十分後だった。

 

食堂でコーヒーを飲んでいた俺は、ミサトの顔を見て、ああ、と思った。

 

いい顔じゃなかった。仕事の顔だった。

 

「何かありましたか」

 

「……第四の使徒が感知された」

 

俺はカップを置いた。

 

「どのへんですか」

 

「今のところ、市の北側。でも——」ミサトが一瞬だけ視線を落とした。「進路によっては、第三中学のあたりを通過する可能性がある」

 

俺は、黙った。

 

第三中学。

 

今日まで俺が通っていた学校。トウジがいる。ケンスケがいる。冷たい目で俺を見たクラスメイトたちがいる。

 

(……チッ)

 

俺は舌打ちした。自分でも気づかないくらいの、小さな舌打ちだった。

 

(やってやるよ)

 

コーヒーを一口飲んだ。苦かった。

 

(あいつらが死んだら、俺のせいにされるのは御免だからな。トウジの妹がせっかく生き延びたのに、今度は兄が死にましたじゃ、後味が悪すぎる。俺の平穏なニート生活のためにも、ここで全部うまくいってもらわないと困る)

 

立ち上がった。

 

「乗ります」

 

ミサトが目を見開いた。「え?」

 

「エヴァに乗ります。準備してください」

 

「……シンジくん、今日は顔が腫れてるし、無理しなく——」

 

「乗ります!」

 

俺の声が、廊下に響いた。

 

思ったより強い声が出た。自分でも驚いた。

 

ミサトはしばらく俺の顔を見ていた。顔の右側の腫れを見ていたのか、目を見ていたのかはわからない。それから、静かに頷いた。

 

「……わかった。発進準備、始めるわ」

 

廊下を歩き出した。

 

エントリープラグに向かって。また狭い筒の中に押し込まれて、またLCLを吸って、また十五メートルの化け物の体を動かして、また何かを偶然ぶっ壊す、そういう未来に向かって。

 

(英雄なんかじゃない)

 

俺は思った。

 

(根っこのところは変わらない。いつもクズマだとかカスマとか言われているだろうが。そうだよ俺はクズだ。責任を取りたくないクズが、結果的に正しいことをしようっていうそういう話だ)

 

廊下の窓から、夕暮れの第三新東京市が見えた。

 

どこかで爆発音がした気がした。

 

あるいは、もう来ているのかもしれない。

 

(……やってやる!)

 

佐藤カズマは、英雄の仮面を被り直した。

 

スキルもないし、短剣もないし、仲間もいない。あるのは他人の体と、バカみたいにでかいロボットと、底なしに高い【幸運値】だけだ。

 

それでも——まあ、行くしかないだろ!

 

第1章・了

 

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