止まった針は時の終わりに未来を見る   作:ドレットノータス

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旧校舎のディアボロス
第1刻 止まった針


 朝の光は、いつも決まって東側の窓から差し込み、三番目の棚に並んだ古い時計の硝子を照らしたあと、ゆっくりと作業机の方へ伸びてくる。

 その光が机の端へ触れる頃には、私は店の鍵を開け、いつもの椅子へ腰を下ろしてルーペを目に嵌め、その日に使う道具の位置を確認している。昔から変わらない手順だし、今のところ変える必要も感じていない。

 

 今朝の患者は、古びた銀の懐中時計だった。

 持ち主の話によれば、祖父の代から一度も動いていないらしい。裏蓋を開けて内部を確認すると、長いあいだ誰の手も入っていなかったことは一目で分かり、乾ききった油の跡には細かな埃がまとわりつき、いくつもの歯車が噛み合ったまま眠るように停止していた。

 

 五十年、あるいはそれ以上という時間は時計にとって随分と長い眠りだろうけれど、それだけで致命傷になるわけではない。テンプに大きな損傷はなく、ゼンマイも切れておらず、歯車にも致命的な欠けは見当たらない以上、やるべきことは決まっている。

 分解して洗浄し、必要な場所へ油を差して、元の位置へ組み直す。言葉にしてしまえば、それだけの話だった。

 

 静かな店内で動いているのは、私の指先と、壁や棚を埋め尽くす時計たちの針くらいだった。柱時計も、掛時計も、置時計も、大きさも作られた年代もまるで違うのに、それぞれ好き勝手な音程と間隔で時を刻んでいる。

 規則正しいはずの音が幾重にも重なっても、不思議と一つの大きな音にはならない。細かな雨粒が屋根を叩くような、絶え間なく続く静かな雨音へと変わっていく。

 

 私は、その音の中で仕事をするのが好きだ。

 もっとも、「好き」という言葉が本当に正確なのかは、自分でもよく分からない。ただ、この音が途切れると普段より手元の調子が狂う程度には、長いあいだ身体へ馴染んでいる。それだけは確かだ。

 

 ピンセットの先で取り外した針を金属製のトレイへ静かに置くと、長針と短針は文字盤から外されても、止まっていたときの角度をそのまま保っていた。

 

 ――止まった針は、止まった瞬間の時刻を指し続ける。

 

 時計が止まれば針も止まるのだから、そんなものは当たり前のことで、それ以上でもそれ以下でもない。それなのに私は、ときどきこうして止まった針を目にすると、ほんの僅かに手を止めてしまう。

 なぜそんな癖がついたのか。その理由についてだけなら、正確に答えることができる。

 

 最初からだ。

 私という存在の、最初から。

 

     ◇

 

 最初にあったのは、冷たさだった。

 背中に触れているものは硬く、辺りは暗い。そんな断片的な感覚だけが先に存在していて、それを受け取っているはずの「私」は、まだそこにいなかったように思う。

 

 やがて目が開いたものの、自分の意思で開いたという感覚すらなかった。瞼という身体の一部が、ごく当然の機能として作動しただけだったのかもしれない。

 ぼやけていた視界が少しずつ形を取り戻し、その中で最初に見えたのは、古びた煉瓦造りの時計塔だった。長い年月を経た壁面には蔦が絡みつき、その上部に据え付けられた大きな文字盤では、二本の針が完全に止まっていた。

 

 私は誰かに命じられたわけでも、何か目的があったわけでもないのに身体を起こし、そのまま足元の砂利を踏みながら時計塔の真下まで歩いていった。

 首を反らして文字盤を見上げる。

 長針は動いておらず、秒針そのものも見当たらない。

 

 ――止まっている。

 

 それを見た瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ。

 安堵だったのか、恐怖だったのか、それともそのどちらでもない感情だったのかは、今でも名前をつけることができない。ただ一つ確かなのは、私は目覚めて最初に、時計が止まっていることを確認したということだった。

 

 なぜそんなことをしたのかは分からない。それでも、そうせずにはいられなかった。

 次に考えたのは、自分自身のことだった。

 目の前にあるものが時計塔であることも、煉瓦や針や数字が何なのかも分かる。自分が立っていることも、呼吸をしていることも理解できる。それなのに、それらを理解している「自分」を呼ぶための名前だけが存在しなかった。

 

 ここがどこなのか、なぜここにいるのか、家はどこなのか、誰か待っている人はいるのか。問いだけが次々に浮かび、答えを探そうとするたび、頭の中に並んだ棚が一つずつ空であることを思い知らされる。

 

 いや、正確には空ではなかった。むしろ、そこに何もないわけではないからこそ余計に始末が悪く、脳裏には自分自身の記憶とは思えない、いくつもの映像が次々と流れていた。

 

 腰にベルトを巻いた戦士たちが姿を変え、戦い、傷つき、それでも何度も立ち上がる無数の物語。その中には時を渡る王の姿があり、すべてを失った末に黄金の玉座へ独り座る、金色の魔王の姿もあった。

 

 それとはまるで別の景色として、大きな学び舎や、頭上に光る輪を浮かべた少女たち、ゲームのような言葉を話す青い髪の誰か、そしてその少女を守ろうとした誰かの姿まで浮かんでくる。

 

 知らないはずなのに、私はそのすべてを知っていた。

 けれど、それらは思い出ではなかった。そこには温度も匂いも、痛みも喜びもなく、誰かと話した記憶も、その場所を歩いた感覚も存在しない。

 

 私はそこにいなかった。

 いなかったはずなのに、それらの出来事がどんな物語だったのかを、最初から知識として理解していた。

 

 しばらく考えた末、頭の中に一つの言葉が浮かんだ。

 ――転生。

 前の世界で私はこうした物語を知っていて、その世界で死に、別の世界へ生まれ変わった。前世そのものの記憶は失ってしまったけれど、そこで得た知識だけが残った――そう考えれば、一応の辻褄は合う。

 

 少なくとも、この不可解な状態に説明をつけることはできるのだから、ひとまずはそういうことにしておけばいい。きっと、そういうことなのだろう。

 けれど、そこで改めて「前の世界」にいたはずの自分について考えた途端、その説明は急に頼りないものになった。

 

 前の私は、何という名前だったのか。どんな顔をしていて、誰を家族と呼び、どこで生き、どうして死んだのか。

 何一つ思い出せなかった。

 どれだけ探しても、その「前の私」を証明するものは見つからず、存在しているのは出所の分からない知識だけだった。

 

 私はその場に立ったまま、もう一度時計塔を見上げる。

 文字盤の針は、少しも動いていなかった。

 その光景から、しばらく目を逸らすことができなかった。

 

     ◇

 

 町には、駒王町という名前があった。

 道路脇に立つ電柱の住所表示がそう教えてくれたし、通りの名前も数字も問題なく読むことができた。それなのに自分の名前だけが分からないという事実は、世界中のものには当然のように札がついているのに、私だけがそこから取り残されているように思わせた。

 

 それから、どれだけ歩いたのかは覚えていない。

 気づけば日は傾き、商店街の店先には一つ、また一つと明かりが灯り始め、路地の奥からは夕食を作る匂いが流れていた。すれ違う人々は、それぞれ決まった方向へ歩いている。

 きっと家へ帰るのだろう。

 

 彼らは誰一人として私を知らず、私も彼らを知らない。当然のことであり、そこには何の不自然さもない。何度考えてもその結論は正しかったのに、歩き続けるほど、なぜか足は少しずつ重くなっていった。

 

 その頃になって、私は初めて空腹というものをはっきり認識した。

 腹部には鈍い痛みがあり、身体から少しずつ力が抜けている。単純に燃料を要求しているだけなのだろうし、必要な栄養を摂取すれば解消する、きわめて合理的な身体反応のはずだった。

 

 それなのに、どうして目の奥まで熱くなるのかだけは説明できなかった。

 日が落ちるにつれて寒さも増していた。春先の空気は昼間とはまるで違う顔を見せ、薄い服の隙間から入り込んだ冷気が、指先の感覚を少しずつ鈍くしていく。

 

 私は知らない町の、知らない道の端で、とうとう行き先を計算することを諦めた。

 そもそも行き先というものは、帰る場所か、目指す場所のどちらかがあって初めて決められる。帰る場所もなく、目指す場所もない人間には、原理的に算出のしようがない。

 その理屈自体は簡単に理解できたけれど、理解したところで寒さがなくなるわけでも、空腹が消えるわけでもなかった。

 

 そんなとき、ある店の前でふいに足が止まった。

 理由は、閉じかけたシャッターの向こうから聞こえてきた音だった。最初は雨かと思ったものの空は晴れており、少し近づいて耳を澄ませてみると、その正体が数え切れないほどの時計が時を刻む音なのだと分かった。

 

 それぞれ異なる間隔で鳴る音は、ばらばらのまま幾重にも重なり、店の奥から細かな雨のように降ってくる。

 ――動いている。

 ここの時計は、全部動いている。

 どうして、それだけで足が止まったのか。

 当時の私には説明できなかったし、今でも完全には分からない。

 

「おう、嬢ちゃん」

 

 突然かけられた声は、シャッターの内側からだった。

 少し腰の曲がった老人が、閉店作業をしていた手を止めてこちらを見ている。白髪で、額にはルーペを押し上げており、目つきだけを見れば少し鋭いのに、不思議と怖いとは思わなかった。それでも私は身構え、名前は何か、家はどこか、親はどうしたのか、どこから来て、なぜ一人でいるのかと、聞かれれば答えられない問いを瞬時に頭の中へ並べていた。

 

 けれど老人は、そのどれ一つとして口にしなかった。

 私の顔を見たあと、少し視線を下げて手元を確認すると、ただ一言だけ口にした。

 

「手が、冷えてるな」

 

 そして、そのまま続けた。

 

「中は暖かいぞ。茶ぐらいある」

 

 名前も聞かなければ、事情も尋ねず、どこの誰なのかを確かめようともしない。老人はそれ以上何も言わず、まるで当然のように背を向けると、そのまま店の奥へ戻っていった。

 

 ついて来いとも、来るなとも言われなかった私は、ただ選択肢だけを残されたまましばらくその場に立ち、店の奥から聞こえてくる時計たちの雨音を聞いていた。

 そして、その音の中へ一歩だけ足を踏み入れた。

 それが、始まりだった。

 

 名もなかった私が「ミライ」と呼ばれるようになることも、この店の椅子が自分の居場所になることも、ルーペの扱い方から歯車の洗い方まで一から叩き込まれることも、すべてそれから先の話だ。

 ただ、あの夜について一つだけ、妙にはっきり覚えていることがある。

 老人が出してくれた茶はひどく熱く、最初の一口で舌を火傷しかけるほどだった。それなのに、湯呑みを両手で包んだとき、凍えていた指先へ少しずつ感覚が戻っていく感触だけは、どうしてか長いあいだ忘れられなかった。

 

     ◇

 

 時計の組み上げは、いつも静かに終わる。

 洗浄を終えた歯車を一つずつ元の位置へ戻し、必要な箇所へ油を差したあと、テンプを据えてゼンマイを巻き、最後に細かな噛み合わせを確認する。

 

 ピンセットを置いた私は呼吸を一つ整え、それからリューズを回した。

 小さな音とともにテンプが振れ始め、それに呼応するように歯車が動き、一つ、また一つと力が伝わっていく。五十年以上も止まっていた秒針は、最初の一歩だけ少し躊躇うように進んだものの、その次からは何事もなかったように文字盤の上を歩き始めた。

 

 チ、チ、チ、チ。

 

 店を満たしていた時計たちの雨音へ、新しい一滴が加わった。

 私は文字盤を見ながら針を現在の時刻へ合わせていき、その途中で、ふと手を止めた。

 

『止まった時計はな、壊れた時計じゃない』

 

 あの人の声が、頭の中に蘇る。

 私が初めて修理を失敗した日のことだった。

 原因を突き止めきれず、何度組み直しても時計は動かなかった。結局どうすることもできず、「直せません」と頭を下げた私に、お爺さんは慰めるでも怒るでもなく、まるで当たり前の事実を教えるような顔で言った。

 

『動かし方を、忘れてるだけだ』

 

 あまりにも断定的な言い方だったせいで、こちらには反論する余地すらなく、私は翌日も、その次の日も、同じ時計を前にしてこの椅子へ座ることになった。

 そして、ようやく針が動き始めた日、お爺さんは直った時計を眺めながら、さらにこう続けた。

 

『でもな、ミライ。直すってのは、時間を戻すことじゃねえぞ』

 

 そのときの私には、言っている意味がよく分からなかった。時計を直すというのは、壊れたものを動くようにすることだと、それ以上でも以下でもないと思っていたからだ。

 

『壊れる前に戻すんじゃない。止まる前に戻すんでもない』

 

 彼は古い置時計の裏蓋を閉じながら、いつもの乱暴な手つきで留め具を押し込んだ。

 

『もう一度、進めるようにしてやるんだ。過ぎた時間は戻らん。戻しちゃいけねえものもある。だから、直すんだ』

 

 そこで一度、動き始めた秒針を確認した。

 

『ここからまた動けるように』

 

 その言葉だけは、なぜかずっと残った。過ぎた時間は戻らない――そんなものは誰に教えられるまでもない、ごく普通の常識だ。

 けれど私の中には、その当たり前を踏み越えてしまうかもしれない何かが、ずっと眠っている。

 

 時を渡る王、黄金の魔王、そして止まった針さえ無理やり過去へ巻き戻してしまえるかもしれない力――その気配を、私は知っている。

 だからこそ、ずっと知らないふりをしてきた。

 

 今の私に必要なのは、過ぎた時間を戻すことではない。止まったものを、もう一度ここから進めることだ。

 そう考えながら、私は修理を終えた懐中時計を柔らかな布の上へ置き、伝票の作業欄へ「完了」と書き込んだ。

 

 この店の椅子は、今では私の椅子になっている。

 机の上の道具も、入口に掛かった看板も、棚に並ぶ部品も、昔から通ってくる常連客の名簿も、すべてお爺さんから受け継いだものだった。

 

 あの人は、もういない。

 それでも店の時計は今日も動き続け、店そのものの時間も止まってはいない。それを今動かしているのが自分なのだという事実を、私はまだ上手く受け止められていないけれど、少なくとも止めるつもりだけはない。

 カラン、と入口の鈴が鳴った。

 

「みらーい、いるかー?」

 

 振り返る必要すらなかった。

 この町で、開店前の店へ断りもなく入ってきて、こんなにも気の抜けた声で店主を呼ぶ人間は一人しかいない。

 

「営業時間外です、兵藤一誠」

 

「知ってる知ってる。ばあちゃんの時計、直った? 今日、学校の帰りに取りに来いって言われてさ。朝のうちに確認しとこうと思って」

 

「たった今、完了しました」

 

 そう答えてから、一誠の顔を一度見る。

 髪は少し乱れていて、制服こそ着ているものの、時間に追われて家を出てきたことは簡単に分かった。

 

「……というより、あなた。また朝食を抜いてきましたね。合理性の欠片もない生活習慣です」

 

「うわ、なんで分かんの」

 

「分かります」

 

「いや、だから何で?」

 

「分かるものは分かります」

 

 根拠まで説明する必要はないと判断し、それ以上は答えなかった。

 店の奥には、あの人がいた頃から変わらず茶葉が置いてあり、保存の利く菓子パンもいくつか買い置きしてある。それを客でもない人間へ出すかどうかについては、店主の裁量ということにしていた。

 

「座ってください」

 

「え、いいの?」

 

「立ったまま食べられると床に屑が落ちます。掃除の手間が増えるので座ってください」

 

「理由それ?」

 

「他に何が必要ですか」

 

 一誠は呆れたように笑いながらも、素直に作業机から少し離れた椅子へ腰を下ろした。

 私は店の奥から菓子パンと湯気の立つ茶を持ってくる。

 それを受け取った一誠は、ふと店内を見回したあと、何でもないことのように口を開いた。

 

「お前さ、ほんとじいちゃんに似てきたよな」

 

 その言葉に、茶を置こうとしていた手がほんの少しだけ止まった。

 

「……不本意です」

 

「なんでだよ。褒めてんだけど」

 

「褒め言葉として受け取るかどうかは、受信側に決定権があります」

 

「めんどくせえなあ」

 

「朝食を抜く人間に、面倒さを評価されたくありません」

 

「そこ関係ある?」

 

「あります」

 

「絶対ねえだろ」

 

 一誠は文句を言いながらも袋を開け、菓子パンを食べ始めた。

 その様子を横目に見ながら、私は作業机へ戻る。

 朝の光はいつの間にか三番目の棚を通り過ぎ、机の中央近くまで届いていた。壁に掛かった時計も、棚の上の時計も、先ほど直したばかりの懐中時計も、それぞれの速さで同じ朝の時間を刻んでいる。

 

 幾重にも重なる針の音へ、一誠が茶を啜る音が混じり、それもやがていつもの雨音の一部になっていく。

 私はもう一度ルーペを手に取った。

 その音の中で、私の一日は今日もまた、ゆっくりと動き始める。




この作品の主人公は、オーマジオウの力を持っています。
そのため「主人公最強」ではありますが、基本的には無双で全部を解決する方向にはしない予定です。
強すぎる力をどう使うのか、使わないのか、という部分を重視していきます。

今日中に、原作一巻分の話までは投稿する予定です。
反応を見つつ、好評であればその先も続けて投稿していきたいと思います。

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