止まった針は時の終わりに未来を見る   作:ドレットノータス

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旧校舎のディアボロス
第1刻 止まった針


朝の光は、いつも決まって東側の窓から三番目の棚に届く。

 

 その光が作業机の端に触れる頃、私は店の鍵を開け、椅子に座り、ルーペを目に嵌める。手順は変わらない。変える理由がないからだ。

 

 今朝の患者は、古い銀の懐中時計だった。持ち主曰く、祖父の代から動いていないらしい。裏蓋を開けると、案の定、油の切れた歯車が埃を抱いたまま眠っていた。五十年、あるいはもっと。長い眠りだが、致命傷ではない。テンプは無事。ゼンマイも切れていない。分解し、洗浄し、注油し、組み直す。それだけの話である。

 

 店内で動いているのは、私の指先と、壁の時計たちの秒針だけだった。柱時計、掛時計、置時計。それぞれ勝手な音程で時を刻み、重なり合って、雨に似た音になる。私はこの音の中で仕事をするのが好きだ。好き、という言葉が正確かどうかは検証のしようがないが、この音が途切れると手元が狂う程度には、体に馴染んでいる。

 

 ピンセットの先で、外した針をトレイに置く。

 

 長針と、短針。どちらも十時七分を指した形のまま、外されてなお、その角度を覚えているように見えた。

 

 ——止まった針は、止まった瞬間の時刻を指し続ける。

 

 当たり前のことだ。当たり前のことなのに、私はときどき、そこで手が止まる。

 

 この癖がいつからあるのか、正確には分かっている。最初からだ。私という存在の、最初から。

 

 

 最初にあったのは、冷たい、という感覚だった。

 

 冷たい。硬い。暗い。感覚だけが先にあって、それを受け取っている誰かが、まだいなかった。

 

 目が開く。開いた、のではなく、開く。瞼という装置が作動しただけで、そこに意思と呼べるものがあったかは怪しい。

 

 見上げた先に、塔があった。煉瓦の古い塔。蔦が絡み、上部に大きな文字盤。針は、十時七分を指して止まっていた。

 

 立ち上がる。誰の指示でもなく体が動き、砂利を踏み、塔の真下まで歩く。首を反らし、文字盤を見つめる。

 

 長針は、動かない。秒針は、ない。

 

 ——止まっている。

 

 それを確かめた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。安堵とも恐怖ともつかない、名前を付けられない軋みだった。なぜ真っ先にそれを確かめたのか、分からない。分からないのに、確かめずにはいられなかった。

 

 名前。そう、名前がない。自分、と呼ぶべきこの器に、貼るべき札がない。ここがどこかも、なぜここにいるのかも分からない。問いだけが次々に生まれて、答えの棚はすべて空だった。

 

 いや、空ではない。正確には、空ではないから、余計に始末が悪かった。

 

 頭の中を、映像が流れていく。

 

 ベルトを巻いた戦士たちが、変身し、戦い、傷つき、それでも立ち上がる無数の物語。時を渡る王。仲間を喪って玉座に独り座る、金色の魔王。そして、それとは別の光景——石造りの学び舎。光る輪を頭上に頂いた少女たち。青い髪の、ゲームの言葉で喋る誰か。彼女を守ろうとする誰か。

 

 知っている。全部、知っている。

 

 なのに、思い出ではない。体温がない。私はそこにいなかった。いなかったはずなのに、知識として、物語として、全部が流し込まれている。

 

 転生、という言葉が浮かんだ。前の世界で、こういう物語を知っていた。死んで、生まれ変わって、だからここにいる——そういうことにしておけば、辻褄は合う。合う、はずだ。

 

 前の世界。前の、私。名前は。顔は。死んだ日のことは。

 

 何も、ない。

 

 塔の針は、十時七分のまま動かない。私は、それをいつまでも見上げていた。

 

 

 町には、名前があった。駒王町。電柱の住所表示がそう教えてくれた。

 

 町の名前は分かるのに、自分の名前は分からない。世界は親切に札を下げているのに、私にだけ札がなかった。

 

 どれだけ歩いたのか。日が傾き、商店街に灯りがともり、夕餉の匂いが路地に流れ始めた。すれ違う人々は誰も私を知らず、私も誰一人知らなかった。当然だ。それは何もおかしくない。おかしくないと、何度も頭の中で結論を出した。結論は正しい。正しいのに、足は重くなる一方だった。

 

 空腹というものを初めて認識した。体が燃料を要求している。合理的な信号のはずなのに、目の奥が熱くなるのは説明がつかなかった。

 

 肌寒い。日が落ちると、春先の空気は急に牙を見せる。

 

 私は知らない町の、知らない道の端で、行き先の計算を諦めた。行き先というものは、帰る場所か目指す場所のどちらかから逆算するものであって、両方持たない者には、原理的に算出できない。理解は、いつも簡単だった。理解しても、寒いものは寒かった。

 

 その店の前で足が止まったのは、音のせいだった。

 

 閉じかけたシャッターの隙間から、雨のような音が漏れていた。雨ではない。空は晴れている。近づいて、分かった。時計の音だ。数えきれない時計が、てんでばらばらに時を刻む音が、折り重なって、降っている。

 

 ——動いている。ここの針は、全部、動いている。

 

 どうしてそれで足が止まったのか、当時の私には説明できなかった。今でも、半分しかできない。

 

「おう、嬢ちゃん」

 

 声は、シャッターの内側からだった。腰の曲がった老人が、閉店作業の手を止めて、こちらを見ていた。ルーペを額に上げたままの、白髪の、目つきの鋭い老人。それでいて、なぜか少しも怖くない人だった。

 

 誰何されると思った。名前は。家は。親は。答えられない問いの一覧が、瞬時に頭の中に並んだ。

 

 老人は、そのどれも口にしなかった。

 

 私の顔を見て、それから手元を見て、一言だけ言った。

 

「手が、冷えてるな」

 

「中は暖かいぞ。茶ぐらいある」

 

 それだけだった。名前も、来歴も、何一つ問わずに、老人は背を向けて店の奥へ引っ込んだ。ついて来るとも来ないとも、決めさせる素振りすらなく。

 

 時計の雨音の中へ、私は一歩、足を踏み入れた。

 

 それが、始まりだった。

 

 名もない私がミライと呼ばれるようになるのも、この店の椅子が私の椅子になるのも、ルーペの覗き方を叩き込まれるのも、全部この後の話だ。ただ、あの晩のことで一つだけ、はっきり覚えていることがある。出された茶は熱すぎて、ろくに飲めなかった。それなのに、湯呑みを持つ手の冷えが解けていく感覚だけは、妙に、いつまでも、離れなかった。

 

 

 組み上げは、いつも静かに終わる。

 

 洗浄を終えた歯車を戻し、注油し、テンプを据え、ゼンマイを巻く。ピンセットを置き、私は息を一つ整えて、リューズを回した。

 

 チ、と小さな音がした。

 

 テンプが振れ始める。歯車が噛み合い、五十年止まっていた秒針が、ためらいがちに一歩目を踏み出し、それから何事もなかったように歩き出した。

 

 チ、チ、チ、チ。

 

 壁の時計たちの雨音に、新しい一滴が加わる。

 

 私は針を十時七分から現在の時刻へ送り、文字盤を眺めた。

 

 ——手が、止まった。

 

『止まった時計はな、壊れた時計じゃない』

 

 あの人がそれを言ったのは、私が初めて修理をしくじって、直せませんと頭を下げた日だった。慰めでも励ましでもなく、事実の指摘、という顔で言うのだから性質が悪い。おかげで反論の余地がなく、私は翌日もこの椅子に座るしかなかった。

 

『動かし方を、忘れてるだけだ』

 

 あの人は、続けてこうも言った。

 

『でもな、ミライ。直すってのは、時間を戻すことじゃねえぞ』

 

 その時の私は、意味がよく分からなかった。

 

『壊れる前に戻すんじゃない。止まる前に戻すんでもない。もう一度、進めるようにしてやるんだ。過ぎた時間は戻らん。戻しちゃいけねえものもある。だから、直すんだ。ここからまた動けるように』

 

 老人は、古い置時計の裏蓋を閉じながら、乱暴な指つきでそう言った。

 

 過ぎた時間は戻らない。当たり前のことだ。

 

 けれど、私の中には、その当たり前を踏み越えるかもしれない何かが眠っている。時を渡る王。金色の魔王。止まった針を、無理やり巻き戻す力。その気配を、私は知っている。知っているからこそ、知らないふりをしている。

 

 今の私に必要なのは、時を戻すことではない。止まった時計を、もう一度進めることだ。

 

 私は懐中時計を布の上に置き、伝票に「完了」と書き込んだ。

 

 この店の椅子は、今は私の椅子だ。道具も、看板も、常連客の名簿も。あの人はもういないのに、この店の時間は動き続けている。動かしているのが私だという事実を、私はまだ、うまく採点できずにいる。

 

 カラン、と入口の鈴が鳴った。

 

「みらーい、いるかー?」

 

 振り向くまでもない。この町で、開店前の店に断りもなく入ってきて、この気の抜けた声を出す人間は一人しかいない。

 

「営業時間外です、兵藤一誠」

 

「知ってる知ってる。ばあちゃんの時計、直った? 今日、学校の帰りに取りに来いって言われてさ。朝のうちに確認しとこうと思って」

 

「たった今、完了しました。……というより、あなた、また朝食を抜いてきましたね。合理性の欠片もない生活習慣です」

 

「うわ、なんで分かんの」

 

「分かります」

 

 根拠は言わない。言うほどのことでもない。ただ、店の奥にはあの人の代から変わらず茶と、買い置きの菓子パンがある。それを出すか出さないかは、店主の裁量というものだ。

 

「座ってください」

 

「え、いいの?」

 

「立ったまま食べられると、床に屑が落ちます。掃除の手間が増えるので座ってください」

 

「理由それ?」

 

「他に何が必要ですか」

 

 一誠は笑いながら、作業机から少し離れた椅子に腰を下ろした。私は菓子パンと温かい茶を出す。

 

「お前さ、ほんとじいちゃんに似てきたよな」

 

 その言葉に、少しだけ手が止まった。

 

「不本意です」

 

「なんでだよ。褒めてんだけど」

 

「褒め言葉として受け取るかどうかは、受信側に決定権があります」

 

「めんどくせえなあ」

 

「朝食を抜く人間に、面倒さを評価されたくありません」

 

 一誠は文句を言いながらも、菓子パンを食べ始めた。

 

 窓の光が、三番目の棚を過ぎて、作業机の真ん中まで届いていた。壁の時計たちが、一斉に、朝の時を刻んでいる。

 

 その雨音の中で、私の一日が、今日も動き出す。




この作品の主人公は、オーマジオウの力を持っています。
そのため「主人公最強」ではありますが、基本的には無双で全部を解決する方向にはしない予定です。
強すぎる力をどう使うのか、使わないのか、という部分を重視していきます。

今日中に、原作一巻分の話までは投稿する予定です。
反応を見つつ、好評であればその先も続けて投稿していきたいと思います。

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