グレイフィアさんが告げたのは、部室に全員が揃った夜のことだった。
レーティングゲームは、十日後。
その言葉が落ちた後、しばらく誰も話さなかった。
一誠が最初に顔を上げた。怖がってはいない。むしろ逆だ。腹が据わったような、それでいてまだ底の見えない目だった。
リアス先輩は覚悟の顔をしていた。
私は、改めて自分の立場を確かめた。私はグレモリー眷属ではない。悪魔ですらない。この戦いに、私の席はない。
「ミライも来なさい」
翌朝、リアス先輩がそう言った。
「私は参加資格を持ちません」
「ゲームにはね。でも、あなた自身の訓練は必要よ」
「それは」
「あなたは、自分のことが分かっていないのでしょう。なら、少しでも自分を知る機会にしなさい」
断る前に、腹の中で言葉を止めた。
親切に見せかけた監視にも聞こえます、と言おうとして、やめた。それは言える。言えるが、言ったところで何も変わらない。
「……親切に見せかけた監視にも聞こえます」
やっぱり言った。
「否定はしないわ」
「正直ですね」
「でも、監視だけなら部室に置いておけばいい。連れていくのは、あなたにも必要だと思ったから」
私は少し間を置いた。
「分かりました。行きます」
グレモリー家所有の山奥の別荘は、想像の三倍ほど大きかった。
「合宿先が別荘という時点で、一般家庭の尺度から外れています」
「グレモリー家の所有地よ」
「尺度の修正に時間をください」
「ゆっくりどうぞ」
リアス先輩が少しだけ笑った。
別荘の周囲は山と緑だった。空気が違う。驚くほど静かだった。この静けさに少しだけ、胸の奥が落ち着いた。都合の悪いものはいつも騒がしいので、静かな場所は無条件に好きだ。
まず、一誠と木場くんが剣の特訓を始めた。私は最初、離れた場所で見ていた。
一誠の動きは粗かった。足の運びが甘くて、目線が相手の剣に引っ張られる。木場くんの指摘が入るたびに修正しようとするが、次の瞬間にはまた戻っている。
ただ、倒れた後に起き上がる速度だけが妙に早かった。
木場くんが私の方を見た。それから、一度リアス先輩を見る。リアス先輩は少し考えてから、頷いた。
「ミライも、試してみましょう」
「私は剣術経験がありません」
「だからこそ、確認したいのよ」
木場くんは穏やかだが、揺るがない目をしていた。私はそれに逆らう言葉を持っていなかったので、差し出された木刀を受け取った。
握り方くらいは知っている。あとは何も知らない。
木場くんが軽く構える。私も構えた。
それで終わりのはずだった。
体が先に動いた。
木場くんの剣筋を読んだわけではない。次にどう来るかを理解したわけでもない。ただ、危ないと思うより先に、足が動き、腕が上がり、剣がそこにあった。
乾いた音が鳴った。木場くんの木刀を、私の木刀が弾いていた。
木場くんが止まる。私も止まった。何が起きたのか、一秒ほどかけて理解した。初めて木刀を握った私が、木場くんの剣を弾いていた。
「……続けます」
木場くんが言った。
「はい」
二撃目。三撃目。木場くんの動きが少しずつ速くなる。それでも、私の体は遅れなかった。
分からないまま踏み込み、分からないまま受け、分からないまま返している。私の理解だけが、置き去りにされていた。
数合打ち合ったところで、木場くんが一歩下がった。
「剣術としては、まだ粗い」
「でしょうね。初めて握りましたので」
「でも、戦い方を知らない人の動きじゃない」
「……私にも、意味が分かりません」
意味が分からない、が正直なところだった。
一誠がぽかんと口を開けていた。アーシアさんは心配そうに私を見ている。リアス先輩だけは、驚きよりも先に考え込む顔をしていた。
私は今、何を参考に動いたのか。これは私の技術ではない。私が積み上げたものではない。これまで剣を握ったことなんて一度もなかった。
では、今の動きは誰のものか。
頭の奥で、知らない記録が勝手に開かれていくようだった。私の中には、仮面ライダーたちの物語がある。知識として。記録として。そのどこかにある戦い方を、体が勝手になぞったのかもしれない。
それが怖かった。強いと分かった嬉しさではなく、自分の体が自分の知らない規則で動いている、という恐怖だった。
「もう一度、やってみましょうか」
木場くんが促した。私は頷いたが、内心では別のことを考えていた。
これは私の力ではない。少なくとも、私が自分で選んで積み上げたものではない。
次は魔力の訓練だった。
朱乃さんが一誠とアーシアさんを指導している。アーシアさんは、見ているだけで力の流れが分かるらしかった。神器を扱ってきた蓄積があるのだろう、と朱乃さんが言った。一誠はまるで振るわなかった。真剣にやっているのは伝わるのに、魔力がどこかへ散ってしまうらしい。
私も試した。
「……本当に、魔力がないのね」
朱乃さんが少し困ったような顔をした。
「はい。少なくとも、私自身からは出ていません」
「魔力ではなく、別の体系の力ならあるのかもしれませんわね」
「可能性はあります。魔法の形を経由すれば、発動できる力が私の中にあります。指輪を媒介にして発動する、希望を守るための力」
「試してみたては?」
「試せません」
「できないのではなく?」
「はい。これは私の力ではなく、誰かが戦って得た力です。検証用に使うには、躊躇われるものです」
朱乃さんは少し驚いたように私を見た。
「……ミライさんは、面白い考え方をするのね」
「そうですか」
「力を持っているのに、その使い方に遠慮がある」
その言い方は、私だけに向けられたものではないように聞こえた。
「朱乃さんにも、そういうものがあるのですか」
「さあ。どうかしら」
朱乃さんはいつものように微笑んだ。けれど、その笑みは少しだけ薄かった。
「少なくとも、力というものは、持っているだけで気楽になれるものではないわね」
「……同感です」
午後は組手だった。
一誠と小猫さんが先にやって、一誠はあっさり転がされた。
「近接戦闘において、あなたは小猫さんに勝てる要素がありません」
「言い方!」
「事実です」
「事実が一番痛いんだよ!」
「でも、起き上がる速度は速いですね」
一誠がびっくりした顔をした。
「今、褒めた?」
「事実を言いました」
「褒め方が下手すぎる」
「ご意見は受け取りました。前向きに検討しておきます」
次は私の番だった。
小猫さんと向き合う。彼女は小柄だ。私より頭一つ以上小さい。体格的には私の方が有利に見える。
だが、その判断が間違いであることは、廃教会で確認済みだった。小猫さんは、見た目に反して完全な近接型だ。技巧で崩すというより、正面から相手を押し潰す種類の力を持っている。私が日常的な腕力で勝てる相手ではない。
「……無理だと思っています」
「そうですか」
「それでも、やってみます」
小猫さんが踏み込んだ。
速い。そう思った瞬間、私の体が動いた。
踏ん張った。それだけだった。それだけだったのに、小猫さんが止まった。
いや、止まったのではない。弾いた。小猫さんの突進を、私が弾き返した。
「……今のは、私がやりましたか」
「はい」
「そんなはずがありません」
小猫さんがゆっくり立ち上がった。無表情のまま、ほんの少しだけ目を細める。それだけで、今の結果が普通ではないのだと分かった。
「力が強いです」
「私は、今まで全力を出してもこんなことにはなりませんでした」
「今までと違う、ということですか」
「はい。少なくとも、私の知っている私ではありません」
戦いになると、何かが表に出る。
ずっとこうだったわけではない。もしそうなら、私はとっくに日常を壊している。工具も机も扉も全部壊していたはずだ。だから今のこれは、私が知っている私の力ではない。
名もなき神々の王女。私がそう呼んでいるものの力が、戦闘状態で表に出ているのかもしれない。
それが怖かった。強くなったのではなく、知らない自分が出てきた、という怖さだった。
特訓後、リアス先輩が静かに言った。
「ミライをゲームに出せない理由が、増えたわね」
「同感です」
「強いことは分かった。でも、あなた自身がその力を分かっていない。制御できていない力を盤面に乗せることはできないわ」
「はい」
「怒らないの?」
「怒る理由がありません。正しい判断です」
怒る気持ちはなかった。本当に。ただ、少しだけ、複雑だった。参加できないことへの不満ではなくて、自分の体が自分に黙って何かをしている、という感覚がまだ残っていた。
夕食は一誠とアーシアさんが担当した。魔力制御の訓練として、料理を任されたらしい。
結果、夕食はジャガイモ尽くしだった。ジャガイモのスープ。蒸したジャガイモ。焼いたジャガイモ。名前を変えても、だいたいジャガイモだった。
「……なぜ、ここまでジャガイモに偏ったのですか」
「いや、その、勢いで」
「料理において、勢いで食材を一種類に偏らせるのは判断ミスです」
「ぐっ」
アーシアさんが困ったように笑っていた。
「でも、一誠さん、皮むきはとても上手にできていました」
「そうなのですか」
「はい。途中から、すごく早くなって」
一誠が不自然に目を逸らした。私はその顔を見た。
「……何か隠していますね」
「な、何も隠してねえよ!」
「今の反応で、隠していることは確定しました」
「ミライ、そういうところ鋭いよな!?」
「あなたが分かりやすすぎるだけです」
理由までは分からない。ただ、一誠が何らかの方法で魔力制御の糸口を掴んだらしいことだけは分かった。その方法を、本人は口にしたくないらしい。なら、たぶん碌でもない方法なのだろう。
私はジャガイモを口に運びながら、深く追及しないことにした。
温泉は、お湯の温度が適切だった。
アーシアさんが隣に来て、少しの間、二人で黙っていた。
「ミライさんは、ゲームに出ないのですか」
「出られません」
「……寂しくありませんか」
少し考えた。
「寂しい、というより、落ち着かないです。手を出せない場所で誰かが傷つくのを見るのは、得意ではありません」
「そうですね」
アーシアさんはお湯に肩まで浸かって、少し遠くを見た。
「私も、教会を出てからは、守ってもらうことが多くなりました。自分では何もできないと思うことがあります」
「アーシアさんには治癒の力があります」
「でも、戦えません」
「戦えなくても、誰かをもう一度立たせることはできます」
言ってから、それが一誠のことを言っていると気づいた。アーシアさんも気づいたらしく、少しだけ微笑んだ。
「そうですね。一誠さんは、いつもそうです」
リアス先輩を見た。湯気の向こうで、リアス先輩は目を閉じていた。穏やかな顔をしていたが、眉の間だけがわずかに寄っていた。
私は何も言わなかった。
翌朝の勉強会で、三勢力の歴史を聞いた。
天使、堕天使、悪魔が争い、決着がつかないまま各勢力が激減した。悪魔は長命だが出生率が低い。純血の上級悪魔が連なる名門家系のほとんどが、その戦いで断絶した。
私はそれを聞きながら、ライザーとリアス先輩の婚約の意味を少し理解した。つまり、これは単に嫌な相手と結婚させられる話ではない。断絶と衰退を知っている社会が、血と家を守るために組んだ仕組みでもある。
だからといって、本人の拒絶を軽くしていい理由にはならない。
ただ、ライザーがただの傲慢な男ではないことは、これで分かった。あの男は自分の世界の中で、正しく生きているのかもしれない。その世界とリアス先輩の感情が、噛み合っていないだけで。
アーシアさんが元シスターとして、持っているものを見せてくれた。
聖水、聖書、悪魔払いの道具。念のため、リアス先輩たちは少し距離を取った。
アーシアさんは聖書を開き、一節だけ目で追った。その瞬間、顔をしかめて本を閉じる。
「頭が、割れそうです」
「無理をしないでください」
「でも、こんなに痛いのは初めてで……昔はずっと読んでいたのに」
聖書は今、アーシアさんを傷つける。救われたからといって、失ったものがないわけではない。信じていたものが今は自分を傷つける、という話を、アーシアさんはあまり表に出さない。
だから私も何も言わなかった。ただ、聖書を静かに閉じる彼女の手を、少しの間だけ見ていた。
夜、一誠とリアス先輩が話しているらしかった。私は部屋の窓から、月を見ていた。
何かがあるのは分かった。ただ、あの二人の間に入る理由が私にはない。それぞれの場所に、それぞれの話がある。
翌朝、一誠の目が赤かった。
眠れなかった顔ではない。泣いた後の顔だった。けれど、昨日より背筋が伸びていた。何があったのかは分からない。ただ、何かを受け取った顔だった。
私はそれ以上、聞かなかった。
朝の訓練で、一誠にブーステッド・ギアの使用許可が出た。
訓練場の外周には、リアス先輩と朱乃さんが張った結界があった。それでも、一誠が力を重ねるたび、空気が重くなっていくのが分かった。
一回ごとに、一誠の内側の圧が増していく。弱い。今も弱い。それは変わらない。ただ、弱いまま積み重ねている。倍にしている。その積み上がった先が、弱いとは呼べない何かになっていく。
十二回。
木場くんに向けて魔力弾を放った。弾は小粒だった。そのくせ、着弾した山の斜面が抉れた。
一誠は次の瞬間に倒れた。使い切ったのだろう。
「上級悪魔並みの瞬間火力だ」
木場くんが言った。
「こいつが切り札ね」
リアス先輩が一誠の方を見て、静かに言った。
私も一誠を見た。倒れたまま、荒い息をしている。立てないらしい。でも顔は悔しそうではなかった。やり切った顔だった。
抉れた山肌を見ていた。一誠が作った跡だ。
弱い。未熟。無謀。それでも、彼は積み上げた。足りないものを、自分の中にあるものを、何度も倍にして、あそこまで届かせた。
では、私は。
私は、何を積み上げた。
何かを見せなければ。
何かを、できるようにならなければ。
気づいた時には、手を伸ばしていた。
「戻って」
自分でも、何に向けて言ったのか分からなかった。けれど、言葉は届いた。
抉れた山肌が、奇妙に震えた。砕けた土が持ち上がる。飛び散った岩が、あり得ない軌道で元の場所へ戻っていく。
誰かが息を呑んだ。
削られた斜面が、少しずつ形を取り戻していく。けれど、途中で止まった。
「っ……!」
頭の奥を強く掴まれたような痛みが走った。膝が落ちる。
「ミライ!」
リアス先輩の声がした。戻りかけていた山肌は、半分ほど形を取り戻したところで崩れ、土煙を上げた。完全には戻らなかった。
「今のは、何?」
「……分かりません」
「分からない力を、焦って使ったのね」
言い返せなかった。その通りだったからだ。
一誠は、足りないものを積み上げている。私は、あるはずのものを把握しようとしている。そう思っていた。
けれど、本当はまだ、把握する前に使おうとしてしまっているだけなのかもしれない。
夜、私は部屋の窓を開けた。
山の空気は冷えていた。
レーティングゲームまで、もう数日しかない。
一誠は切り札になれる。それは今日、確かめた。
私は盤面に立てない。それも、今日また確かめた。
参加できないことへの怒りはない。ただ、落ち着かなさはある。手を出せない場所で、誰かが傷つくのを見届けるしかない。その事実は、まだ上手く飲み込めない。
それでも、目を逸らすつもりはない。
盤面の外から、見届ける。
それが今の私にできること全てだと、理解した夜だった。
そしてその盤面の向こうには、不死鳥の名を持つ悪魔が待っている。
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