スターゲイザーのエンジン音が、霧に包まれた通りに響き渡る。
堀川御池を離れてから、まだ数分も経っていないはずだった。それでも、身体に残った疲労は誤魔化しようがない。ハンドルを握る指先には鈍い痛みが残り、呼吸を整えても、胸の奥に溜まった熱がなかなか引いてくれなかった。
あれだけの大人数を相手にした戦いは、勝つことこそできたものの、決して余裕のあるものではなかったのだ。
もっとも、休んでいる時間はない。あの青年の話が正しければ、一誠たちはすでに英雄派の幹部と戦っている。こちらで随分と時間を取られてしまった以上、少しでも早く合流しなければならなかった。
霧の向こうに、二条城の石垣が見えてくる。
昨日、忍術研究部の皆さんと訪れた時には、歴史ある建物として静かに佇んでいた場所だ。今はその上空を幾筋もの魔力の光が走り、低い爆発音が絶え間なく響いている。
アクセルを開き、城門を抜けて、戦闘の音がする方へ向かう。
視界が開けた瞬間、私は息を呑んだ。
地面はあちこちで抉れ、庭木がなぎ倒されている。建物の一部は崩れ、舞い上がった土埃の向こうで、剣戟の音と爆発が幾重にも重なっていた。
その中心で、赤い鎧を纏った一誠が、長大な槍を持つ青年と打ち合っている。渡月橋で出会った、英雄派の首領。曹操だ。
少し離れた場所では、六本の腕に剣を握った白髪の男を相手に、裕斗とゼノヴィアが刃を交えている。
その反対側では、イリナが金髪の女性の剣を受け止めていた。さらに奥では、巨漢の青年が拳を振るうたびに爆発が起こり、ロスヴァイセ先生がそれを辛うじて防いでいる。
そして戦場の向こうには、巨大な九尾の狐がいた。
荒々しく振るわれる九本の尾の周りを、黒い龍が飛び回っている。あれは、おそらく匙さんだ。そして、あの九尾の狐が八坂様なのだとしたら、まだ救出はできていない。
状況を確かめた直後、ロスヴァイセ先生の足元で爆発が起きた。
とっさに張られた防御魔法が砕け、先生の身体が後ろへ押し流される。そこへ、巨漢が大きく腕を振り上げた。
次を受ければ、危ない。
Rocket ON
背後で噴射音が弾け、スターゲイザーが急加速する。ヘルメットの上に、紫のヘイローが浮かび上がった。
巨漢の拳が振り下ろされる直前、先生の前へ車体を滑り込ませ、そのまま座席から跳んだ。宙で車体を解く。光の粒子が背中へ集まり、悪魔の技術を注ぎ込んだ車体が、巨大な砲身へ組み替わっていく。
着地と同時に足を踏ん張り、アストラノヴァを抱えて撃った。反動が両腕を突き上げる。光弾は振り下ろされかけた右腕を弾き、拳の軌道が大きく逸れた。
ここから先は、バイクで駆け回るよりも、離れた場所から確実に敵の攻撃を止められる火力が要る。守らなければならない人が、戦場のあちこちにいるのだから。
「先生!」
「天童さん!? どうしてここに……!」
「説明は後で! 立てますか!」
「え、ええ!」
砲身を構え直し、巨漢へ向き直る。男は倒れもせず、砲撃を受けた腕を軽く振っただけで、面白そうに笑っていた。
「おいおい、今度はバイクで突っ込んでくるのかよ。随分と元気な奴が来たな!」
「そちらこそ、元気すぎると思いますけれど」
「ははっ! そうかよ!」
笑いながら放たれた拳をかわした途端、すぐ横の地面が爆発した。
直接殴られなくても、爆発に巻き込まれる。しかも、その威力が大きい。堀川御池で相手にした戦闘員たちとは、一撃の重さがまるで違っていた。
Winch ON
近くの建物の柱へワイヤーを打ち込み、身体ごと横へ引いて追撃を外す。ワイヤーを残したまま、足元へ照準を合わせた。《コズミック》に至ってからは、スイッチをいくつ重ねても困ることはない。
Launcher ON
放たれたミサイルが炸裂し、土煙が巻き上がる。
「おっ、面白え!」
その煙の中から、巨漢が平然と飛び出してきた。ほとんど効いていない。
態勢を立て直したロスヴァイセ先生が、私の隣で魔法陣を展開した。
「彼はヘラクレスです! 拳に爆発を乗せてきますから、気をつけてください!」
「名前負けはしていないようですね」
「感心している場合ですか!」
「……すみません」
ヘラクレスが再び突進してくる。私は横へ跳び、先生は魔法を放った。青白い光と爆発がぶつかり合い、周囲の空気が激しく震える。
その衝撃に耐えながら、戦場の奥へ目を走らせた。
裕斗たちは、まだ戦っている。一誠も、曹操と槍を交えている。
そして、九尾の狐の反対側。崩れた石垣の陰に、アーシアと九重さんの姿が見えた。
「……ミライ!」
私に気づいた九重さんが、小さな身体を乗り出す。その声を聞いて、少しだけ胸が軽くなった。九重さんは無事だ。
「九重さん! そこを動かないでください!」
「う、うむ!」
「アーシア、九重さんをお願いします!」
「はい! ミライさんも、気をつけてください!」
その返事を背に、私はヘラクレスへ向き直った。
「やあ、天童ミライ」
聞き覚えのある声が、戦場の向こうから届いた。
曹操だった。一誠の拳を槍で受け流しながら、こちらへ目を向けている。
「あの包囲を抜けてきたか。さすがだね」
「……ええ。とても手強い人たちでした」
ヘラクレスの拳をかわしながら答える。悠長に話している場合ではない。けれど、伝えなければならないことはあった。
「曹操。……答えを、持ってきました」
彼の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「聞かせてもらおう」
私は一度だけ、堀川御池で最後に向き合った、あの青年の言葉を思い返した。自分の力を恐れられ、居場所を失った彼に、曹操は手を差し伸べたのだという。そして彼は、自分でこの人を選んだと言った。
「……あの人たちにとって、あなたは英雄なのでしょう。それは、否定しません」
曹操の目が、わずかに細くなる。
「ですが、私の行く道ではありません。お断りします」
短い沈黙があった。けれど曹操は、落胆するでも怒るでもなく、むしろ面白そうに笑った。
「そうか。残念だよ。……だが、自分の道を選ぶというのなら、それも結構なことだ」
「俺を無視して話してんじゃねえ!」
その言葉が終わるより早く、一誠が殴りかかった。聖槍が閃き、赤い拳が弾かれる。
私はその光景を横目に、ヘラクレスの爆発を避けた。
返事は、できた。
本当に大変なのは、ここからだった。
○
戦いは、想像していた以上に厳しかった。
ヘラクレスの爆発を避けながらロスヴァイセ先生を援護し、時にはアーシアたちの方へ飛んだ流れ弾を撃ち落とす。その間にも、別の場所で剣戟が響き、魔法が炸裂する。視線を動かしたほんの数秒のうちに、どこかで何かが起きていた。
堀川御池では、連携を断つことで活路を開けた。けれど、今回は違う。相手は一人ひとりが強力な幹部で、守るべき仲間は戦場のあちこちに散っている。
誰かを助けようとすれば、別の誰かから目を離すことになる。その数秒が、取り返しのつかない差になりかねなかった。
「天童さん、右です!」
先生の声に反応して、身を伏せる。直後、さっきまでいた場所が爆発し、破片が背中へ降り注いだ。
痛みを堪えて顔を上げると、ヘラクレスが楽しそうにこちらを見ている。
「お前、なかなかすばしっこいじゃねえか!」
「……お褒めにあずかり、光栄です」
押し返すことは、できている。射撃を当てれば下がり、先生の魔法が重なれば、さらに大きく下がる。
けれど三度目に押し返した時、ようやく気づいた。彼は下がるたびに、立ち位置を少しずつ先生の方へずらしている。押されているのではない。押されるふりをして、先生を狙いやすい場所へ回り込んでいるのだ。
頑丈なだけの相手ではなかった。そして、それに気づくのが遅れたのは、さっきまでの連戦の疲れが、思った以上に集中を削っているからだろう。
「先生、右から回り込まれています!」
「えっ……!」
私の声に、先生が慌てて防御魔法の向きを変える。
その時、戦場の中央で大きな爆発音が響いた。
振り向くと、一誠が曹操へ向けて巨大な魔力弾を放っていた。さっきまでのものとは比べものにならない大きさだ。まともに受ければ、曹操でも無事では済まないだろう。
けれど曹操は、聖槍を構えて迎え撃った。
槍の刃が閃き、巨大な魔力弾が真っ二つに切り裂かれる。
驚いたのは、ほんの一瞬だった。切り裂かれた光のすぐ横から、一誠が猛然と飛び込んでいたからだ。
赤い拳が振り上げられる。曹操も素早く槍を引き戻し、その腕を払おうとした。
ところが、一誠の拳は途中で止まった。
……フェイント?
そう思った次の瞬間、一誠が反対の腕を突き出す。その籠手から、見覚えのある聖剣が姿を現した。
アスカロン。
曹操が反応するより早く、一誠が身を引く。それと同時に、アスカロンから聖なる波動が放たれ、曹操の左腕を捉えた。
血が散り、切断された腕が宙を舞う。
一誠が、曹操に一撃を入れた。それも、聖槍を持つ相手に正面から挑み、幾重にも仕掛けを重ねて、はっきりとした有効打を与えたのだ。
「……一誠!」
思わず声が漏れる。鎧越しにも、どこか得意げにしているのが分かった。
これなら、あるいは。
そう思ったところで、曹操が懐から小瓶を取り出した。中の液体を傷口へ振りかけ、拾い上げた腕を切断面に合わせる。
次の瞬間、切り離されていたはずの左腕が、何事もなかったようにつながっていた。
フェニックスの涙。作戦会議では、こちらに用意できたのは三つだけだと聞いていた。それほど貴重なものを、英雄派まで持っているとは思わなかった。
せっかくの一撃が、たった一瓶で帳消しにされた。
その直後、一誠の右肩に細い亀裂が走った。続けて胸元の装甲にも亀裂が広がり、赤い破片が地面へ落ちていく。
……いつの間に。
曹操は槍を肩に担ぎ、何事もなかったかのように笑っていた。飛び退く一誠へ、すれ違いざまに聖槍を当てていたのだ。
思わず奥歯を噛んだ、その時。
「おい、余所見してんなよ!」
爆発。とっさにロケットを噴かして跳び退いたものの、衝撃の一部が背中を叩き、身体が大きく弾かれる。着地と同時に、砲身を構え直した。
「せっかく面白くなってきたんだ! こっちも楽しもうぜ!」
「……私は、あまり楽しめていないのですが」
「そりゃ残念だ!」
再び爆発が迫り、先生の魔法と私の射撃がそれを迎え撃つ。
けれど、戦況は少しずつ悪い方へ傾いていた。
○
最初の異変は、イリナの方から聞こえた。
鋭い金属音が何度も重なり、その後に短い悲鳴が上がる。
「イリナ!?」
振り向いた先で、イリナが大きく吹き飛ばされていた。その前に、金髪の女性が剣を構えて立っている。
「ジャンヌ……っ!」
イリナが、その名を呻くように呼んだ。地面に倒れたまま起き上がろうとしているけれど、身体が思うように動かないらしい。
すぐに駆け出そうとした。その進路を、ヘラクレスが塞ぐ。
「どこ行くんだよ!」
「退いてください!」
足元へミサイルを撃ち込み、巻き上がった土煙を突っ切る。けれどその間に、ジャンヌがイリナへ歩み寄っていく。剣が持ち上がった。
間に合わない。
倒れたイリナの近くの柱へワイヤーを打ち込み、身体ごと引き寄せられる。アストラノヴァの砲身を背中の支持部へ預け、空いた左腕を前へ突き出しながら、勢いに任せて地面を滑った。
Shield ON
振り下ろされた剣の軌道に、間一髪で割り込む。左腕に展開した盾で刃を受け流すと、激しい火花が散った。痺れる腕を堪えながらイリナの身体を抱え、そのまま後ろへ跳ぶ。
「……っ、ミライ……?」
「しゃべらないでください。今、アーシアのところへ――」
背後で、新たな爆発が起きた。
振り返った私の目に飛び込んできたのは、ロスヴァイセ先生が防御魔法ごと吹き飛ばされる光景だった。
「先生!」
ヘラクレスが、拳を振り抜いた姿勢のまま笑っている。先生は地面を何度も転がり、崩れた石垣に叩きつけられて、すぐには動かなかった。
イリナを抱えたまま、私は足を止めてしまった。
こちらの救援は、確かに間に合った。イリナへの追撃も防げた。けれど、その間に先生が倒された。
一瞬、頭の中が真っ白になる。それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
イリナをアーシアのもとへ運び、先生の方へ向かおうとした、その時。今度は、裕斗たちのいる方から激しい衝突音が響いた。
六本の腕に握られた剣が、裕斗へ同時に襲いかかっている。裕斗は受け止めようとしたけれど、次々と繰り出される斬撃に防御を崩され、大きく弾き飛ばされた。
「裕斗!」
「ジークフリート……!」
ゼノヴィアが裕斗を庇うように前へ出た。白髪の男の名を叫びながら、巨大な聖剣を振り下ろす。剣と剣が激しくぶつかり合った。
けれど、相手の腕は一本ではない。別の方向から伸びた剣がゼノヴィアの防御を崩し、続けざまの攻撃が彼女の身体を捉えた。
二人が、倒れる。
助けたそばから、別の誰かが倒れていく。その繰り返しだった。
「……ミライ!」
九重さんの声が聞こえた。アーシアのそばで、こちらを見つめている。小さな顔が、ひどく青ざめていた。
「みんな……みんな、大丈夫なのか……?」
「……はい」
答えた自分の声が、硬いのが分かった。
「アーシアがいます。ですから、九重さんはそこを離れないでください」
「じゃ、じゃが……!」
「お願いします」
本当は、大丈夫だと笑ってあげたかった。けれど、今の私には、その言葉を口にすることができなかった。
けれど、倒れた仲間たちへ、英雄派がそれ以上の攻撃を加える様子はなかった。ジークフリートもジャンヌも、もうこちらへの関心を失ったように、曹操の方へ目を向けている。
……私たちは、もうまともな敵として見られていないのだろうか。
ただ一人、ヘラクレスだけが、まだ戦い足りないという顔でロスヴァイセ先生の方へ歩き始めていた。
ワイヤーで先生のそばまで跳び、追撃から庇うように立つ。ここからなら、アーシアたちのいる石垣も見える。
その直後、戦場の奥から、低く大きな咆哮が響いた。
○
九尾の狐が、九本の尾を大きく広げていた。
その中心で、黒い龍がもがいている。匙さんの身体には、すでに何本もの尾が巻きつき、巨大な体躯を締め上げていた。
「ぐ、ぉおおおおっ……!」
苦しげな咆哮が響く。黒い龍は必死に身体を捩っているけれど、拘束を振り解けない。九尾の狐は、なおも力を込めていく。
「母上ぇっ!」
九重さんの悲鳴が響いた。石垣の陰から飛び出しかけた小さな身体を、アーシアがとっさに抱き留める。
「九重ちゃん、危ないです!」
「離してくれ! 母上が……母上が、匙を……!」
九重さんは必死に腕を伸ばしていた。その先で、九尾の狐は彼女の声など聞こえていないかのように、黒い龍を締め上げ続けている。
「母上! もうやめてくだされ! その者は敵ではないのじゃ! 母上を……妾たちを、助けに来てくれた者なのじゃ!」
それでも、九尾の狐は止まらなかった。
九重さんの表情が、みるみる歪んでいく。
「……どうして」
その声は、ひどく小さかった。
「どうして……妾の声が、届かぬのじゃ……?」
返す言葉が、見つからなかった。
八坂様が操られていることは分かっている。自分の意思で匙さんを傷つけているわけではない。
けれど、そうと分かっていても、母親が仲間を傷つける姿を目の前で見せられることが、どれほどつらいのか。私には、想像することしかできなかった。
「母上……!」
九重さんが、アーシアの腕を振り解こうとして身を乗り出す。
その時、先生の前に立つ私へ、ヘラクレスの拳が振り下ろされた。跳んでかわした足元で地面が砕け、飛び散った瓦礫が、身を乗り出した九重さんたちの方へ降り注ぐ。
アーシアはイリナに回復の光を当てながら、空いた腕で九重さんを必死に抱き留めていた。両方を守ろうとしていて、瓦礫にまで手が回らない。
ワイヤーを石垣へ打ち込み、身体ごと引かれるように地面を蹴った。九重さんの前へ飛び込み、その小さな身体を抱き寄せて、背中を向ける。
直後、硬いものが肩にぶつかった。
「――ぐっ!」
鈍い衝撃が走り、続けて腕にも何かが当たる。
最後に、ひときわ重い塊が後頭部を打った。ヘルメットの内側で、乾いた音が鳴った。前へ押し出されそうになるのを堪え、九重さんを庇ったまま地面に膝をついた。少し遅れて、周りに瓦礫の落ちる音が響く。
左肩から腕にかけて、熱を帯びた痛みが広がっていく。ヘイローのおかげで耐えられても、骨の奥まで響くものは消えなかった。
視界の端に、白い亀裂が走っていた。顔を上げた拍子に、ひび割れたヘルメットが二つに割れ、足元へ転がり落ちる。今朝、一誠が編んでくれた髪が、夜気の中で肩の上に揺れた。
あと少し当たり所が悪ければ、と考えかけて、やめた。今は、腕の中を確かめる方が先だ。
「九重さん……怪我は、ありませんか?」
腕の中の少女は、呆然と私を見上げていた。小さく首を横に振る。
「……妾は、平気じゃ」
「よかった」
立ち上がろうとして左腕に力を込めた瞬間、鋭い痛みが走った。思わず、顔をしかめてしまう。
「……ミライ?」
「大丈夫です。少し、ぶつけただけですから」
笑ってみせようとした。けれど九重さんは、私の左腕から目を離さなかった。制服の袖が破れ、その下に赤い傷が覗いている。
「……血が」
「これくらいなら、すぐに――」
「血が、出ておる……」
その声が震えていた。九重さんの目に、みるみる涙が溜まっていく。
「妾が……前へ出たから……?」
「違います。九重さんのせいではありません」
「じゃが、妾が、母上を助けてほしいと言ったから……!」
九重さんは、私の言葉を遮るように叫んだ。
「みんな、妾のために戦ってくれておるのじゃ! なのに、みんな傷ついて……! 母上まで、あんな……!」
言葉が途切れ、九重さんはもう一度、戦場へ目を向けた。
倒れた裕斗とゼノヴィア。アーシアの治療を受けるイリナ。動かないロスヴァイセ先生。九本の尾に捕らわれた匙さん。そして、曹操を相手に戦い続ける一誠。
小さな身体が、震えていた。
「……妾が、頼まなければ……。母上を助けてほしいなどと、言わなければ……!」
「九重さん!」
少し強く名前を呼ぶと、九重さんがびくりと肩を揺らした。私は膝をついたまま、その目を正面から見つめる。
「助けを求めたことは、間違いではありません。私たちは、頼まれたから仕方なくここへ来たわけではないんです。みんな、自分で決めて戦っています」
涙に濡れた目が、じっと私を見つめていた。
「だから、全部を自分のせいだなんて思わないでください。……お母様も、必ず助けます」
そう言って、九重さんの頭へ手を伸ばした。けれど、その手が触れる前に、戦場の中央で激しい衝突音が響いた。
曹操の聖槍を受けた赤い鎧が、大きく弾き飛ばされていた。鎧の一部が砕け、赤い破片が宙を舞う。
「一誠……!」
思わず立ち上がる。一誠は地面を削りながら、どうにか踏み止まった。けれど、鎧の損傷がひどい。曹操は槍を構え直し、どこか楽しそうに一誠を見下ろしていた。一誠の周りには、もう戦える仲間がほとんど残っていない。
九重さんも、その光景を見ていた。
「……赤龍帝まで」
振り返ると、九重さんは両手を胸の前で強く握りしめていた。
「もう……嫌じゃ……。これ以上……誰も、傷ついてほしくない……」
ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。けれど、その顔を見た瞬間、胸の奥に嫌な予感が走った。
さっきまで泣きじゃくっていた九重さんが、今は涙を流していない。唇を強く噛み、戦場を見つめている。まるで、何かを必死に堪えているように。
「……妾が。妾が、みんなを……」
そこで、言葉が途切れた。
突然、九重さんの身体が大きく震えた。小さな両手が、頭を押さえる。
「九重さん!?」
「……あ、ぐ……っ! 頭が……っ!」
九重さんはその場に膝をつき、苦しそうに身体を丸めてしまった。異変に気づいたアーシアが、イリナの治療を一度止めて駆け寄ってくる。
「九重ちゃん! 待っていてください、すぐに治しますから!」
柔らかな緑の光が、小さな身体を包み込む。けれど、アーシアの表情がすぐに曇った。
「どうして……? 怪我をしているわけでは、ないみたいなんです。なのに……!」
九重さんの苦痛は収まらない。それどころか、さっきよりも激しく身体を震わせている。
「九重さん、聞こえますか!」
「ミラ、イ……っ!」
「ここにいます。大丈夫ですから!」
そう言いながらも、何が起きているのか分からなかった。妖力の暴走なのか。それとも、八坂様を操っている術が、九重さんにまで影響を及ぼしているのか。
「……守ら、なきゃ……」
九重さんが、苦しげに呟いた。
「みんな……これ以上……傷つけさせぬ……」
その言葉に、私は息を呑んだ。
アーシアの力でも治らない。原因も分からない。何とかしなければならないのに、今の私には、何をすればいいのかさえ分からなかった。
その時、戦場の音が変わった。
○
絶え間なく響いていた衝突音が、一瞬だけ途切れた。
顔を上げると、曹操の前で、一誠が膝をついていた。赤い鎧はあちこちが砕け、肩が大きく上下している。
その周りに、もう立って戦っている仲間の姿はなかった。
裕斗とゼノヴィアはジークフリートに倒され、イリナはアーシアの治療を受けている。ロスヴァイセ先生も、崩れた石垣のそばで動けずにいた。匙さんに至っては、今も九尾の狐に捕らわれたままだ。
一誠は、その光景を見渡しているようだった。何かを呟いたようにも見えたけれど、ここからでは聞き取れない。ただ、握りしめた拳が震えているのは分かった。
駆け寄ろうとした。けれど、腕の中では九重さんが苦しみ続けている。
「ミライさん!」
アーシアが私を呼んだ。
「九重ちゃんは、私が見ています! だから、一誠さんを……!」
「……お願いします!」
九重さんをアーシアに預けて、立ち上がる。左肩が痛む。けれど、気にしている場合ではなかった。
地面を蹴った、その瞬間だった。
戦場の中央で、赤い光が瞬いた。
一誠の胸元。砕けかけた鎧の隙間から、何かが光を放っている。
宝玉だった。新幹線で飛び出していったと一誠が話していた、ロビーで見せてくれた、あの赤い宝玉。
最初は小さな光だった。けれど、それは次第に強さを増し、一誠の身体を内側から照らし始める。
曹操も、その異変に気づいたらしい。聖槍を構えたまま、動きを止めていた。
赤い光が、もう一度脈打つ。
そして、夜の二条城を照らすほどの輝きが、一誠の胸元から溢れ出した。