赤い光は、収まらなかった。
一誠の胸元から溢れた輝きは、脈打つたびに強さを増していく。駆け寄ろうとしていた足が、思わず止まった。眩しさのせいだけではない。あの光の中で、何かが変わろうとしている気がしたからだ。
曹操も、聖槍を構え直していた。さっきまでの余裕のある笑みが消え、目を細めて一誠を見据えている。
けれど、すぐには仕掛けてこない。渡月橋で会った時もそうだったけれど、あの人は未知の力を前にすると、その正体を確かめずにはいられないらしい。
一誠は動かなかった。膝をついたまま俯き、まるで誰かの声に耳を澄ませているようだった。胸元の宝玉だけが、静かに脈を打ち続けている。
やがて、その光が鎧のあちこちへ散っていった。肩に、腕に、背中に。砕けかけた鎧に埋め込まれた宝玉の一つひとつへ、赤い灯が順に宿っていく。
一誠が、何かを呟いた。意味の分からない、奇妙な響きの言葉だった。それに応えるように、一誠の前の空間に、大きな魔法陣が浮かび上がる。
光の中心から現れた人影に、私は目を疑った。
「……部長?」
紅の髪が、夜の戦場に広がった。
駒王町にいるはずの部長が、そこに立っていた。しかも、どうやら着替えの途中だったらしい。片手で服の胸元を押さえたまま、部長は呆然と周りを見回している。
「……イッセー? ここは……京都? どうして、私……」
「ぶ、部長!? お、俺にもよく分かんないんですけど、たぶん俺が呼んじゃったみたいで……!」
戦場の真ん中で、二人が慌てている。曹操でさえ、どう出ていいのか測りかねているようだった。
最初に心配したのは、部長が攻撃に巻き込まれることだった。けれど一誠は、すぐに真剣な顔で部長へ何かを頼み、部長も驚きながら、やがて小さく頷いた。
一誠の指が、部長の胸元へ伸びていく。
……いや、何をしているんだろう。というか、この状況で本当にそれをやるのか。
……見なかったことにしよう。
次の瞬間、部長の身体が淡い紅の光に包まれた。その光は一誠の胸元の宝玉へ吸い込まれていき、部長の姿は魔法陣とともに薄れていく。最後に見えたのは、真っ赤な顔で何かを叫ぶ部長の口元だった。
私は一度だけ、背後を振り返った。
アーシアが九重さんを抱きかかえ、必死に声をかけ続けている。九重さんは、まだ頭を押さえて苦しんでいた。何も解決していない。
一誠の方へ視線を戻すと、その全身から、赤いオーラが噴き出していた。
一瞬、背筋が冷えた。あの日の光景が、脳裏をよぎる。理性を失い、仲間たちさえ傷つけた、あの《覇龍》の姿が。
赤いオーラの中で、一誠がゆっくりと顔を上げた。地面についていた膝を起こし、ふらつきながらも両足で立ち上がる。その目には、はっきりとした光が宿っていた。
……あの時とは、違う。
一誠は、自分の意思で立っている。あの時のように、何かに呑み込まれているわけではない。
「
鎧が、形を変えた。背中から二門の巨大な砲身がせり上がり、砲口に赤い光が凝縮していく。
私もアストラノヴァを使うから分かる。あれだけの量の力を、二門に分けて一度に束ねるのは、並大抵のことではない。
砲口が、英雄派の後方へ向けられた。次の瞬間、二筋の赤い奔流が夜を裂いた。
轟音とともに、疑似空間の街並みが丸ごと吹き飛んでいく。家屋も、塀も、遠くの建物の影さえも。英雄派の幹部たちが、たまらず散開した。
それで終わりではなかった。
「
砲身が消え、今度は余分な装甲が次々と分離していく。必要最低限の装甲だけを残した鎧の背中で、赤い光が噴き出した。
一誠が、消えた。
そう見えたほどの速度だった。赤い軌跡が一直線に曹操へ迫る。曹操は驚きながらも聖槍を構え、その突進を迎え撃とうとする。
槍が突き出される、その直前。
「
一誠の鎧が、また形を変えた。今度は分厚く、重い装甲。右腕の巨大な籠手が聖槍を受け止め、火花が散る。
そのまま、左の拳が曹操の腹に叩き込まれた。
曹操の身体が地面へめり込み、石畳が大きく砕け散る。土煙が、戦場を覆った。
砲撃で牽制し、速さで間合いを詰め、迎撃は重い装甲で受け止める。状況に合わせて、一誠は一瞬で自分の形を変えていた。
……私がスターゲイザーを、アストラノヴァへ組み替えたように。
赤い鎧の背中が、大きく上下していた。三つの形態を立て続けに切り替えたのだ。消耗していないはずがない。それでも、一誠は倒れなかった。
土煙の向こうで、曹操がゆっくりと身を起こした。口元の血を拭いながら、それでも笑っている。
「……なるほど。《兵士》が、《王》の許しもなく、自分で駒を成り替える。まるで、盤上のルールを破る一手だ。……イリーガル・ムーブ、とでも呼ぶべきかな」
一誠は拳を握り直し、少しだけ考えるように黙った。誰かと話しているような間だった。
それから、はっきりと口にした。
「……
その名前が、夜の二条城に響いた。
○
空が、裂けた。
比喩ではない。戦場の上空に、一本の亀裂が走ったのだ。
私はとっさにアストラノヴァを構えた。ゲオルクの新しい手かと思ったからだ。けれど、ゲオルクまで驚いたように空を見上げていた。ほかの幹部たちも、突然現れた亀裂を警戒している。どうやら、彼らの仕掛けではないらしい。
裂け目の奥から、長大な影が現れた。龍だった。細く長い胴体をうねらせ、翡翠色の鱗が月明かりを弾いている。
その龍の背の上に、小さな人影が一つ、雲に腰かけるように乗っていた。
「やれやれ、随分と派手にやってるじゃねーの」
しわがれた声だった。その人影は、子供ほどの背丈しかない小柄な老人――いや、老猿だった。黄金色の毛に覆われた身体に僧衣をまとい、皺だらけの顔には奇妙な眼鏡をかけている。その肩には、一本の棒が担がれていた。
「……初代孫悟空……!」
曹操が、初めて声に緊張を滲ませた。
孫悟空。その名前を、こんな場所で聞くとは思わなかった。けれど、驚いている暇はない。九重さんたちから目を離している場合ではなかった。
「玉龍、九尾の姫を頼むぜい。殺すんじゃねーぞ、操られてるだけじゃい」
「分かってるって、じいさん」
玉龍と呼ばれた龍が、九尾の狐へ向かって身をくねらせた。二体の巨体が激突し、その衝撃で、九本の尾に捕らわれていた黒い龍が解放される。
宙へ投げ出された黒い身体は、落ちる途中で人の姿へ戻った。叩きつけられる寸前、玉龍の長い尾が匙さんの身体を受け止め、そのままアーシアたちのいる石垣の近くへ下ろした。
孫悟空は、ふわりと地面に降り立った。
その前に、六本の腕に剣を構えたジークフリートが立ちはだかる。裕斗とゼノヴィアを二人がかりで倒した相手だ。
けれど、孫悟空は棒を軽く振っただけだった。それだけで六本の剣がまとめて弾かれ、ジークフリートの身体が後ろへ吹き飛び、崩れた塀に叩きつけられる。
……強い。それしか言葉が出なかった。
もう一度棒が振られると、戦場に立ち込めていた土煙が、風に払われるように晴れていく。霧に包まれた空間そのものは残ったまま、視界だけが澄み渡った。
「さて、まだやるかい、坊主?」
その問いに、曹操は答えなかった。聖槍を構えたまま、短く息を吐く。
「……潮時か。ゲオルク」
ローブの青年が頷き、手元に霧を集め始める。撤退の準備だ。
これで、終わるのだろうか――そう思いかけた時だった。
「ミライさん! 九重ちゃんが……!」
アーシアの叫び声に、私は振り返った。
○
九重さんが、アーシアの腕から抜け出していた。もう、支えられてじっとしていることさえできないのだろう。石垣のそばに膝をつき、両手で頭を抱えて身体を丸めている。
さっきよりも、明らかに様子がおかしい。身体の震えが止まらず、悲鳴を上げるたびに、耳障りな雑音が混じっている。壊れかけたスピーカーのような、ざらついた音だった。
駆け寄って膝をつき、九重さんの顔を覗き込む。
「九重さん、聞こえますか! 私です、ミライです!」
「……ミ、ライ……」
返事があった。少なくとも、意識はある。少しだけ、ほっとした。
「みんなを……守ら、なきゃ……」
ざり、と。言葉の終わりに、何かを引っかくような音が混じった。
聞き間違いかと思った。けれど、九重さんが次に口を開いた時、私ははっきりと聞いてしまった。
「もう……誰も……傷つけさせぬ……!」
九重さんの声だった。けれど、それだけではなかった。同じ言葉を、同じ瞬間に、もう一つの声が重ねて発していた。
幼い九重さんの声と、落ち着いた大人の女性の声。二つが寸分の狂いもなく重なり、ノイズを伴って響いている。遅れて混じったのではない。最初から、二人分の声で話していた。
「ミライさん……今の、聞こえましたか?」
「……はい」
アーシアの顔からも、血の気が引いていた。私だけに聞こえたわけではない。回復の光を当て続けても、九重さんの様子は何も変わらなかった。
異変に気づいたのは、私たちだけではなかった。
「……ゲオルク、少し待て」
曹操が、撤退の準備を止めさせていた。その目は、まっすぐ九重さんに向けられている。そこにあるのは、興味だけではなかった。あの異変が自分たちにどう転ぶのか、見極めようとする警戒の色が見える。
「……おいおい。何じゃ、ありゃあ」
孫悟空も棒を構えたまま、目を細めてこちらを見ていた。玉龍は九尾の狐を押さえつけながら、首だけをこちらへ向けている。英雄派の幹部たちも、一誠も。
戦場の全員が、何かがおかしいと気づいていた。それでいて、誰も無防備にはなっていない。互いを警戒したまま、九重さんの異変を見守っている。
最初の変化は、指先だった。
頭を押さえる九重さんの小さな手の輪郭が、ノイズとともに一瞬だけ乱れた。細い指が、すらりと長く伸びて見える。瞬きをすると、元の小さな手に戻っていた。
見間違い。そう思いたかった。けれど、私の隣でアーシアも息を呑んでいた。同じものを見たのだ。
続いて、袖の輪郭が乱れた。九重さんの着物の上に、赤と黒の見覚えのない模様が一瞬だけ重なり、すぐに消える。目の前の現実そのものが、壊れた画面のようにちらついていた。
次は、髪だった。金色の髪に、そこにあるはずのない長い黒髪の影が重なって見える。ノイズが走るたびに、二つの髪が入れ替わるように明滅した。
それは肩へ、腕へ、背中へと広がっていく。小さな肩の位置が、一瞬だけ高くなる。その背後に、すらりとした長身の女性の影が、薄く浮かび上がった。
九重さんと、知らない誰か。二つの姿が交互に現れ、少しずつ区別がつかなくなっていく。
そして、九重さんの顔の前に、何かが浮かんだ。狐の面だった。
最初は、薄い映像のようだった。けれど、ちらつくたびに色が濃くなり、じわじわと九重さんの顔へ近づいていく。
「九重さん、駄目……!」
手を伸ばした。指先が九重さんの肩に触れた、その瞬間。妙な感触があった。
確かに触れているはずなのに、指の下にある小さな肩の形が、別の誰かのものへ変わっていく。
直後、赤黒いノイズが走り、私の手が弾かれる。痛みはない。けれど、その異様な感触に、思わず手を引いてしまった。その一瞬のうちに。
九重さんが手を伸ばしたわけでもないのに、狐面は顔へ押しつけられるように、ぴたりと張りついた。
「――あああああああっ!」
悲鳴が、二重になって響いた。九重さんの声と、女性の声。耳を塞ぎたくなるほどの雑音が、戦場中に広がっていく。
九重さんの全身を、赤黒いノイズが走った。
「九重!?」
遠くで、一誠が叫ぶ声が聞こえた。
「アーシア、下がってください! イリナと匙さんを連れて、少しでも離れて!」
「で、でも、九重ちゃんが……!」
「お願いします!」
アーシアは唇を噛み、負傷した二人の方へ駆けていく。
変化が、止まらなくなった。
小柄な身体と、長身の女性の姿。その二つが激しく明滅し、やがて長身の姿の方が安定し始めた。単に身体が成長しているのとも違う。九重さん自身の輪郭へ別の姿が重なり、少しずつそちらへ置き換わっていくようだった。
金色の髪へ黒い色が滲み、ノイズが走るたびに、その範囲が広がっていく。やがて元の金色が見えなくなると、狐面の周りには長い黒髪が広がっていた。
次に、衣服だった。九重さんの着物の袖に、赤黒い色が滲むように現れる。その色は胸元から腰までを染め広げ、見覚えのない衣装を形作っていく。布が現れるのではない。元の着物の上に、別の何かが重ね塗りされていくようだった。
頭上に、赤い輪が灯った。
最初は輪郭が定まらず、明滅を繰り返している。途切れ途切れの線が幾重にも重なりながら、少しずつ見覚えのある形へ近づいていく。
……ヘイロー。
息が止まりそうになった。
九重さんは妖怪だ。妖力が暴走しているだけなら、まだ分かる。けれど、ヘイローが生まれるはずがない。
それに、あの衣装も、あの狐の面も。私は、どこかで見たことがある。
目覚めた時から、私の中にあった記憶。キヴォトスという場所と、そこに生きる生徒たちの記憶。その中に、確かにあの姿があった。
最後に、九重さんの傍らへ赤い光の粒子が集まり始めた。
細長い輪郭が浮かび上がる。銃身、機関部、銃床。一つずつ組み上がっていくその形を、私は知っていた。
《真紅の災厄》。
百鬼夜行の、災厄の狐。そう呼ばれた一人の生徒が、手にしていた銃だ。
完成した長銃は地面に落ちることなく、九重さんの傍らに浮かんだままだった。
ここまで、どれほどの時間が経ったのだろう。実際には、ほんのわずかな間だったのかもしれない。それなのに、一つひとつの変化が、ひどく長く感じられた。
曹操の目が、わずかに見開かれていた。ジャンヌも、ジークフリートも、警戒するように身構えている。誰も、目の前で起きていることを説明できない。私も、同じだった。
孫悟空は棒を握り直すと、倒れた裕斗たちの方へ視線を向けた。九重さんから目を離さないまま、じりじりと立ち位置を変えていく。何かあれば、すぐに動けるよう備えているらしかった。
○
戦場から、音が消えた気がした。
狐面に顔を覆われたまま、その人はまだ苦しんでいた。肩が震え、二重の呻き声が漏れている。
それでも、その手がゆっくりと持ち上がった。
両手が、狐面の縁に触れる。そして、掴んだ。
……九重さんだ。
なぜか、そう確信できた。あの手は、九重さんの意思で動いている。
仮面は、簡単には外れなかった。顔に張りついているかのように抵抗し、引くたびに激しいノイズが走る。九重さんの姿と女性の姿が、何度も、何度も重なっては離れた。
「……もう……誰も……」
二重の声が、途切れ途切れに響く。それでも、手は離れなかった。仮面の縁が、わずかに浮く。その隙間から、赤い光が漏れた。
「――傷つけさせぬっ!」
何かが引き裂かれるような音が響いた。
狐面が、引きはがされた。
赤黒い光が弾ける。全身を覆っていたノイズが一点へ収束し、明滅していた二つの輪郭が、ひとつに定まった。
外れた狐面は消えなかった。持ち主の頭の横へ移り、そこに留まっている。
傍らに浮かんでいた長銃が、ゆっくりと下りてくる。その人が手を伸ばすと、吸い寄せられるように銃が掌へ収まった。
そこに立っていたのは、長身の女性だった。
長い黒髪。赤と黒の衣装。頭の横の狐の面。頭上に浮かぶ、赤いヘイロー。そして、その手に握られた長銃。
私は、その姿を知っている。
「……狐坂、ワカモ……?」
口から零れた名前に、自分で驚いた。
けれど、本人ではない。そんなはずがない。今まで九重さんだった少女が変わっていくところを、私は最初から見ていたのだから。
どうして、九重さんがあの姿になったのか。どうして、キヴォトスの生徒の姿が、この世界の妖狐の少女に重なったのか。何一つ、分からなかった。
「……九重ちゃん……?」
少し離れた場所から、アーシアが震える声で呼びかけた。
その人が、ゆっくりとアーシアの方を見た。
「……アーシアさん。どうか、お下がりくださいませ」
大人の女性の声だった。それだけではない。話し方まで、さっきまでの九重さんとは違っている。
けれど、アーシアを危険から遠ざけようとする気持ちだけは、変わっていなかった。
九重さんの目が、戦場を見渡していく。
最初に、母親の方を見た。玉龍に押さえ込まれた九尾の狐は、まだ正気を失ったままだ。
次に、倒れた仲間たちを。裕斗、ゼノヴィア、イリナ、ロスヴァイセ先生、匙さん。
それから、私の左腕を。破れた袖と、血の滲んだ傷を見て、その表情がわずかに歪んだ。
「……ミライ……」
その声に、胸の奥が締めつけられた。やはり、九重さんだ。姿も声も、話し方さえ変わってしまったけれど、中にいるのは九重さんのままだった。
大丈夫だと、もう無理をしなくていいと言いたかった。けれど、言葉を探すうちに、九重さんの視線は先へ進んでいた。
最後に、その視線が一人の上で止まった。
ヘラクレスだった。
「なんだぁ? 今度は、でっけえ姉ちゃんかよ!」
ヘラクレスは、面白がるように笑っていた。
九重さんは答えなかった。ただ、手にした長銃を静かに持ち上げる。
構えに、迷いがなかった。銃床を肩に当て、頬を寄せ、片目で照準を覗き込む。
九重さんは、銃など握ったことがないはずだった。それなのに、まるで何千回も繰り返してきたかのように、その動作は淀みなかった。
長い銃身が、ヘラクレスへ向けられた。
その瞬間、ヘラクレスの顔から笑みが消えた。
九重さんの横顔が見えた。唇を固く結んでいる。怒っている。けれど、それだけではない。さっきまで彼女が見つめていたのは、傷ついた仲間たちだった。そして今、その視線は、彼らを傷つけた相手へ向けられている。
……そうか。九重さんは、まだ守ろうとしているんだ。母親を助けに来てくれた人たちを。自分のために傷ついた人たちを。これ以上、誰にも傷ついてほしくない――その願いは、何も変わっていない。
けれど、その願いが、どれほどの力を呼び起こしてしまったのかは、誰にも分からない。
背筋に、冷たいものが走った。九重さんの構えは、ごく普通の射撃姿勢に見える。それなのに、あの銃口を前にしていると、どうしても嫌な予感が消えなかった。
射線を確かめる。狙いはヘラクレスだ。けれど、その近くには倒れた仲間たちがいる。九重さんの後ろ、少し離れた場所には、アーシアと、治療を受けているイリナと匙さんがいる。
アストラノヴァを背中の固定具へ預け、空いた左腕を前へ出す。
Shield ON
灰色の光が広がり、左腕に盾が形を成した。そのまま腕を持ち上げようとした瞬間、肩に鋭い痛みが走った。息が詰まる。それでも、腕は下ろさなかった。
そのまま、アーシアとイリナ、匙さんを背に庇う位置へ回り込む。九重さんの射線は塞がない。止めたいのではない。何が起きても、後ろの三人を守れるように。
「嬢ちゃん、そっちは任せたぜい」
いつの間にか、孫悟空が倒れた裕斗たちの前に立っていた。棒を軽く振ると、裕斗とゼノヴィアの身体が宙に浮く。ヘラクレスの近くで倒れていたロスヴァイセ先生までもが持ち上がり、三人はその背後へ運ばれていった。
そうして三人を背に、棒を構え直す。玉龍も、九尾の狐を押さえたまま、その巨体をずらしていた。
「……はい!」
答えて、すぐに九重さんへ向き直る。何をするつもりなのか、問いかけようとした。けれど、その声が口から出るより早く、九重さんの指が動いた。
乾いた銃声が、一発。
ただの銃声だった。拍子抜けするほど、普通の。
ヘラクレスの足元で、小さな赤い光が弾けた。
直後、その場所が赤黒い閃光に呑み込まれた。
轟音。
地面が丸ごと抉れ、立ち上った爆炎が、霧に包まれた夜空を赤く染め上げる。ヘラクレスが拳で起こしていた爆発とは、比べものにならない規模だった。
遅れて届いた衝撃波が、盾を叩いた。足元の地面が削られ、左肩に焼けるような痛みが走る。それでも、一歩も退かなかった。背後には、アーシアたちがいる。両足に力を込め、盾を支え続けた。
爆発は、すぐには収まらなかった。赤黒い光が渦を巻き、その周囲で小さな爆発が連鎖する。
ただの銃撃だったはずだ。九重さんは、引き金を一度引いただけだ。それなのに。
炎の向こうで、黒髪の女性の姿をした九重さんが、静かに銃を下ろしていた。
けれど、その足元では、まだ赤黒い火花が散り続けている。発砲は、もう終わっているはずなのに。
そのあまりの光景に、私は言葉を失った。
カタストロム