爆炎の向こうで、何かが動いた。
赤黒い炎は、まだ燃え続けている。たった一発の銃撃が穿った巨大な窪みの中で、崩れた瓦礫が音を立てて転がり落ちた。
私は盾を構えたまま、目を凝らした。爆風はようやく弱まってきたけれど、左肩の痛みは引くどころか、強くなる一方だった。腕を下ろせば少しは楽になる。それでも、目の前の光景がそれを許してくれない。
「……冗談じゃねえぞ、おい」
炎の中から、煤けた大きな手が瓦礫を払いのけた。
ヘラクレスだった。服のあちこちが焼け焦げ、むき出しの腕には幾筋もの傷が走っている。それでも、倒れてはいなかった。
九重さんの一撃は、アストラノヴァの全力の砲撃にも劣らないものだったはずだ。それをまともに受けて、なお立ち上がってくるなんて。
「銃を一発撃っただけで、あの威力かよ……。はっ、とんでもねえのが出てきやがったな!」
その口元には、また笑みが浮かんでいた。けれど、さっきまでの侮るような笑いではない。強敵を前にして、かえって昂っているような顔だった。
これで終わってほしい。
そう願いながら私が見ていたのは、ヘラクレスではなく九重さんだった。相手はこれだけの傷を負ったのだから、もう十分のはずだ。少なくとも、今すぐ仲間たちへ襲いかかってくることはないだろう。
けれど、その願いは届かなかった。
「あら……」
九重さんが、小さく首を傾げた。長い黒髪が肩から流れ、頭上の赤いヘイローがかすかに揺らめく。
「まだ、立ち上がれるのですね。でしたら……もう一度、参りましょうか」
穏やかな声だった。けれど、その口元には、さっきまでなかった薄い笑みが浮かんでいる。
「九重さん!?」
止めようとした時には、もう銃口が持ち上がっていた。ヘラクレスも即座に拳を構える。乾いた銃声と、彼の拳から生まれた爆発は、ほとんど同時だった。
赤黒い光と爆炎が、正面からぶつかり合う。
轟音とともに炎が四方へ弾けた。ヘラクレスは腕を交差させて耐えていたけれど、押し返しきれなかったらしい。逸れた光の一部が彼の背後へ流れ、崩れかけた建物の一角へ着弾した。
壁が吹き飛び、大量の瓦礫が夜空へ舞い上がる。その一部が、こちらへ降ってきた。
「伏せてください!」
盾を持ち上げる。灰色の盾へ砕けた石の塊が次々とぶつかり、衝撃のたびに左肩が軋んだ。背後で、アーシアの小さな悲鳴が上がる。
「ミライさん!」
「大丈夫です! そのまま下がっていてください!」
答えながら、九重さんを見つめた。今の一発は、確かにヘラクレスを狙っていた。けれど、防がれたことで、まるで別の場所が吹き飛んでしまった。
九重さんは、そのことに気づいているのだろうか。彼女はもう、ヘラクレスへ次の照準を合わせようとしていた。
「おっと、そう何度も撃たせてあげるわけにはいかないかな!」
横合いから声が響いた。ジャンヌだ。
彼女が剣を掲げた途端、地面から無数の刃が突き出し、九重さんとヘラクレスの間に剣の壁を築いていく。さらに九重さんの足元からも細い刃が伸び、その動きを封じにかかった。
九重さんは軽く後ろへ跳んで刃を避け、着地と同時に銃を構え直す。
「……うふふ。邪魔をなさるのですね」
その笑い方に、聞き覚えがあった。
柔らかく丁寧な話し方も、楽しそうな笑い声も、キヴォトスの記憶にある一人の生徒を思い出させる。百鬼夜行の災厄の狐、狐坂ワカモ。穏やかな言葉遣いとは裏腹に、敵には一切容赦せず、破壊そのものに昂る一面を持った生徒だ。
……まさか。姿だけでは、ないのか。
「九重さん、待ってください!」
呼びかけた直後、銃声が響いた。
剣の壁がまとめて砕け散る。赤黒い閃光がその向こうへ抜け、ジャンヌが慌てて身を翻した。爆発が彼女のいた場所を呑み込み、剣の破片が雨のように降り注ぐ。
「……あらあら。そちらでしたのね」
九重さんの銃口が、今度はジャンヌへ向いた。
邪魔をされたから、次はその相手を狙う。まるで、それがごく自然なことであるかのように。九重さんの目には、もう次の標的が映っていた。
○
ジャンヌは、正面から銃撃を受けようとはしなかった。
九重さんが照準を合わせるたびに、別の場所から剣が伸びる。足元から、背後から、銃身の先から。傷つけるよりも、射撃そのものを妨げるのが狙いなのだろう。
九重さんは刃を次々とかわしていたけれど、その動きは少しずつ大きくなっていった。
ジャンヌが新たな剣の壁を作り出した、その瞬間。陰から、別の人影が飛び出した。
ジークフリートだ。初代孫悟空に吹き飛ばされた痛手は残っているらしく、額から血が流れ、呼吸も荒い。それでも、六本の剣を操る動きに乱れはなかった。
九重さんが銃口を向けるよりも早く、一本の剣が銃身の先を弾く。次の刃が腕を狙い、別の剣が退路を塞いだ。
……上手い。いくら威力が大きくても、銃口を向けられなければ撃てない。銃を持つ相手との戦い方を、彼はよく理解している。
九重さんは上体を捻り、銃を抱え込むようにして後退した。それでも避けきれず、赤黒い袖が裂け、腕に細い傷が走る。
わずかに顔をしかめたその隙に、ジークフリートが踏み込んだ。近すぎる。あれでは、銃を構える余裕がない。
私が援護しようとアストラノヴァへ手を伸ばしかけた、その時だった。
九重さんが、笑った。
銃身を無理に持ち上げるのではなく、ジークフリートの足元へ押し下げる。
「……そこ、ですね」
銃声。二人の間で、赤黒い爆発が起きた。
「九重さん!?」
ジークフリートが爆風に弾かれて大きく後退し、九重さんの身体も地面を滑るように押し戻される。片膝をついた彼女の衣装には焦げ跡が残り、頭上のヘイローが一瞬、大きく揺らいだ。
やはり、無傷ではない。どれほど頑丈になっても、痛みや衝撃が消えるわけではないのだ。あんな近くで爆発を起こせば、九重さん自身だって傷つく。
駆け寄ろうとした私よりも早く、九重さんは立ち上がっていた。傷ついた腕を気にする様子もなく、長銃を構え直す。
「……まだ、終わってはおりません」
体勢を立て直したジークフリートが、剣を構えたままじりじりと距離を取っていく。追おうとした九重さんの前で、その姿が突然、霧に包まれた。
「……あら?」
霧が晴れた時、そこにはもう誰もいなかった。少し離れた場所で空間が歪み、ジークフリートが姿を現す。
ゲオルクだ。ローブの青年の手元で、白い霧が渦を巻いている。この隔離空間を作り出している神器なら、味方の位置を移すこともできるのだろう。
九重さんが銃口を向けるたびに、ジークフリートは霧に紛れて消える。振り返れば背後からジャンヌの剣が伸び、向き直れば横からヘラクレスの爆発が迫る。
三人がゲオルクの支援を受けながら、九重さんの注意が逸れた瞬間だけを狙っていた。
戦術としては、よくできている。けれど、私の胸に広がっていたのは不安だった。九重さんの表情が、少しずつ変わり始めていたからだ。
「……どちらへ、行かれたのです?」
長銃を構えたまま、九重さんが辺りを見回す。ジークフリートは霧の向こうへ消え、ジャンヌも剣の陰に身を潜めていた。
「……あらあら。かくれんぼ、ですか?」
小さく首を傾げた九重さんの銃口が、誰もいない建物へと向けられる。
「それなら……隠れる場所がなくなれば、よろしいのですね」
「――駄目です、九重さん!」
叫びは、間に合わなかった。
建物の一角が赤黒い閃光に包まれ、崩れ落ちる。続いて隣の建物まで炎に呑まれ、崩れた壁の向こうから、さらに大きな爆発音が響いた。
九重さんは敵がいるかどうかも確かめず、次の場所へ銃口を移し、また撃った。
最初は、相手の姿を見て狙っていた。今は違う。誰もいなくても、隠れられそうな場所があれば、迷わず引き金を引いている。
……どこまで壊すつもりなんですか、九重さん。
その問いを、私は口にできなかった。九重さんの頭上で、赤いヘイローが激しく明滅していた。
○
「ゲオルク、全員を退かせろ。あれと交戦を続ける理由はない」
爆発の合間を縫って、曹操の声が響いた。聖槍を構え、一誠と初代孫悟空の動きを警戒している。その顔からは、いつもの余裕が消えていた。
「了解。……ただ、少々厄介だ」
ゲオルクの足元に霧が集まり、円を描くように広がっていく。さっきまでの位置の入れ替えとは様子が違う。撤退のための転移だ。
けれど、霧が広がりきるより早く、九重さんがそちらへ顔を向けた。
「……あら。お帰りになるおつもりですか?」
長銃が持ち上がる。
「お母様を、あんな目に遭わせておいて……?」
驚くほど穏やかな声だった。引き金が引かれ、赤黒い光がゲオルクへ一直線に走る。
その前へ、白銀の輝きが割って入った。曹操だ。踏み込むと同時に聖槍を振るい、穂先を光へ叩きつける。閃光が弾け、赤黒い軌跡が横へ逸れた。
直撃は避けられた。けれど、弾道を変えられた一撃は少し離れた地面へ突き刺さり、凄まじい爆発を引き起こした。
「――っ!」
地面が大きく抉れ、ゲオルクの足元まで亀裂が走る。広がりかけていた霧の円も、崩れた地面とともに形を失った。
「……起点を組み直す」
ゲオルクの声に、曹操が短く頷いた。あの一撃を逸らせる曹操は、やはり只者ではない。それでも、着弾した後の爆発までは防げなかったらしい。
九重さんは、その光景を見て小さく笑った。
「お帰りには、まだ早いですよ」
再び銃声が響く。今度はゲオルク本人だけでなく、その周囲の地面へ次々と弾丸が撃ち込まれていった。
爆発のたびに足場が崩れ、転移のために集められた霧が乱れる。ゲオルクが少し離れた場所で術を組み直そうとすれば、今度はそちらへ攻撃が飛ぶ。
ジャンヌが剣の壁を作り、ジークフリートが側面から迫り、ヘラクレスも拳から爆発を放つ。それでも、九重さんの射撃は止まらなかった。
……このままでは、英雄派より先に戦場そのものが崩れてしまう。
振り返ると、アーシアはまだ、倒れたイリナと匙さんのそばで回復の光を当て続けていた。
その頭上には、最初の爆発で大きく傷ついた石壁が残っている。今はまだ持ちこたえているけれど、このまま衝撃が続けば、いつ崩れてもおかしくない。
……移動させないと。
「一誠君!」
「おう、分かってる! イリナと匙を運べばいいんだな!」
駆け寄ってきた一誠の鎧は、あちこちが欠けていた。三つの形態を立て続けに使った消耗は、まだ抜けていないはずだ。それでも、私の視線の先を見ただけで、状況を理解してくれたらしい。
「はい! でも、まず安全な場所を探さないと……」
背中のアストラノヴァへ意識を向ける。
Radar ON
周囲の地形と、動くものの反応が伝わってくる。《絶霧》の仕組みや、ゲオルクの次の手まで分かるわけではない。それでも、土煙の向こうにどれほど瓦礫が積もっているのか、どこに人影があるのかは確かめられた。
背後の石壁は危険だ。右手は先ほどの爆発で大きく崩れ、左側は倒れた柱に道を塞がれている。
ただ、その柱の奥には、まだ大きな損傷を受けていない一角が残っていた。あそこなら、少なくとも今いる場所よりは安全なはずだ。
「左です! あの柱の向こうへ!」
「分かった!」
一誠が柱へ駆け寄ったけれど、簡単に動かせる大きさではなかった。今の一誠に、これ以上無理をさせたくもない。
柱の脇には、崩れずに残った石段がある。まだ十分に厚い。あそこを支点にすれば、柱を少しずらすくらいはできるかもしれない。
Winch ON
射出したワイヤーを倒れた柱へ絡ませ、巻き取る角度を調整する。背中のアストラノヴァを石段の側面へ押し当て、固定具を介して身体を支えた。
巻き取りを始めると、重い石材が軋みながら動き出す。
「……っ!」
固定具越しに伝わる振動が、左肩にまで響いた。盾を構えたまま身体を支える姿勢も、正直かなり苦しい。それでも柱は少しずつ横へずれ、人が通れるだけの隙間ができた。
「今です!」
一誠が匙さんを抱え上げ、アーシアがイリナの身体を支えて立ち上がる。私はワイヤーを解除し、三人の背後を守るように盾を構え直した。
その直後、すぐ近くで新たな爆発が起きた。地面が揺れ、瓦礫の破片が飛んでくる。
「――くっ!」
反射的に盾を持ち上げる。衝撃が腕の奥まで伝わり、左肩に焼けるような痛みが走った。思わず膝が折れかける。
「ミライ!」
「大丈夫です! 止まらないでください!」
振り返った一誠にそう叫ぶと、一誠は歯を食いしばり、そのまま進んでいった。アーシアも、イリナを支えながら後に続く。
三人が崩れていない一角へたどり着くのを確かめて、私は大きく息を吐いた。これで少なくとも、崩れかけた石壁の下からは離れられた。
けれど、背後ではまだ銃声が続いていた。
○
「……あはははははっ!」
九重さんの笑い声が、戦場に響いた。
振り返ると、赤黒い炎の向こうで長い黒髪が揺れていた。霧に紛れて移動するジークフリートを、今度はその周囲ごと撃つ。ジャンヌの剣が現れれば、それも砕く。ヘラクレスが爆発を放っても、避けるより先に撃ち返す。
もう、敵を退けようとしているだけには見えなかった。壊れていくものを見て、笑っている。九重さんがあんなふうに笑うところを、私は一度も見たことがない。
その笑い方も、敵を追い詰めることへの高揚も、記憶にある狐坂ワカモそのものだった。
……やっぱり。九重さんは、姿だけでなく、あの生徒の性質まで引き継いでしまっている。それが八坂様を奪われた怒りと結びつき、本人にも抑えられないほど強くなっているのだとしたら。
「九重さん!」
呼びかけても、九重さんは振り返らない。
「九重さん! もうやめてください!」
もう一度声を張り上げると、銃口がわずかに下がった。
「これ以上撃ったら、みんなまで巻き込まれてしまいます! もう十分です!」
九重さんが、ゆっくりとこちらを向く。赤いヘイローは、まだ激しく明滅していた。
「……ミライさん?」
大人の女性の声。穏やかな話し方。けれど、その顔には、まだどこか楽しそうな笑みが残っている。
「私たちは大丈夫です! 一誠君も、アーシアもいます! だから、もう――」
言葉の途中で、左肩に痛みが走った。思わず顔をしかめる。
それを見た九重さんの表情が、変わった。
「……ミライ……?」
短い呼びかけだった。けれど、さっきの「ミライさん」とは違う。九重さんが、私を呼ぶ時の声だ。声そのものは変わってしまっても、今の呼び方には、確かにあの子がいた。
「……はい。私です」
どうにか、笑ってみせる。
「大丈夫ですよ、九重さん。ですから、もう無理をしないでください」
九重さんの視線が、私の左肩へ落ちる。長銃を握る指から、少しだけ力が抜けた。
……届いた。そう思いかけた、その瞬間。
背後で、瓦礫が砕ける音がした。
ジークフリートだ。攻撃が止まった隙に、ジャンヌの作り出した剣の陰へ移動している。ゲオルクも、再び転移の準備を始めていた。
それを見た九重さんの顔が、強張った。
「……まだ……」
再び、銃口が持ち上がる。
「……まだ、終わっておりませんわ」
「九重さん!」
「あの方たちがいる限り、また皆様が傷ついてしまいますもの……」
目の前で、九重さんの表情が変わっていく。さっきまで私の傷を見つめていた目が、もう英雄派へ向けられていた。赤いヘイローが、激しく瞬く。
「……ですから、もう少しだけ」
九重さんが、小さく笑った。
「もう少しだけ、壊してしまいましょう」
銃声が響いた。反射的に盾を構えた私の前で、また赤黒い爆発が起きる。
……駄目だ。声は届いている。九重さんは、私のことを分かっている。それなのに、あの子はもう止まれなくなっている。
少し離れた場所では、初代孫悟空が飛来する瓦礫を棒で打ち払い、裕斗たちを守り続けていた。誰もが目の前の状況に手一杯で、九重さんの攻撃は止まらなかった。
○
最初に異変へ気づいたのは、玉龍だった。
九本の尾を受け止めていた翡翠色の龍が、突然、大きく首を持ち上げる。その視線の先には、九重さんがいた。いや、正確には、九重さんが狙っている場所だった。
英雄派の幹部たちは、ゲオルクの空間操作を利用しながら少しずつ後退している。そのうちの二人、ジャンヌとジークフリートが、玉龍と八坂様の交戦地点に近づいていた。
彼らも、好き好んで九尾の狐へ近づいたわけではないだろう。九重さんの銃撃を避けて移動を繰り返すうちに、そこまで追い込まれたのだ。
けれど、九重さんは二人を見失っていなかった。長銃が持ち上がり、その銃口が二人へ向けられる。
そして、その奥には。
「……っ!」
八坂様がいた。九本の尾を大きく広げ、玉龍へ噛みつこうとしている巨大な狐。
ジャンヌたちとの間には、まだ距離がある。それでも、九重さんの銃撃が引き起こす爆発を考えれば、安全とは言い切れない。まして、二人が直前で攻撃を避ければ、弾はそのまま奥へ抜けてしまう。
「九重さん! 駄目、そっちは――!」
私が叫ぶのと同時に、玉龍が動いた。九尾の狐へ巻きつくように長い身体を捻り、そのまま八坂様を横へ押し出す。
直後、銃声が響いた。
ジャンヌたちが身をかわす。赤黒い光がその背後へ抜け、八坂様がほんの少し前までいた場所で、大爆発が起きた。
「――っ!」
炎と土煙が、辺りを覆い尽くした。息を呑み、必死にその向こうを探す。
……八坂様は、無事なのか。
少しして、土煙の向こうに翡翠色の巨体が見えた。玉龍だ。九尾の狐を押さえたまま、爆発の中心から大きく距離を取っている。八坂様も、まだ暴れていた。
……よかった。間に合った。もし玉龍が動かなければ、今の爆発は八坂様を呑み込んでいたかもしれない。
安堵で膝をつきそうになるのを、どうにか堪える。けれど、安心したのも束の間だった。
九重さんは、今の出来事に気づいていなかった。爆発の跡を見ることもなく、次の標的を探して銃口を巡らせている。自分の銃撃が母親を巻き込みかけたことなど、まるで知らない様子だった。
……嘘でしょう。
背筋が冷たくなる。
九重さんは、母親を助けるためにここまで来た。八坂様を取り戻したくて、私たちに助けを求め、自分が傷つくことも恐れずに戦っている。それなのに、今の九重さんは、その母親さえ傷つけかねないほど、周りが見えなくなっている。
「……九重さん」
名前を呼んでも、彼女は振り返らなかった。代わりに、また銃声が響く。
私は左肩を押さえた。この痛みは、九重さんを庇った時に負ったものだ。
あの子はその傷を見て、苦しそうな顔をしていた。誰かが傷つくことを、あれほど嫌がっていた。その気持ちがなくなったとは思わない。
けれど、今の九重さんを、どうすれば止められるのだろう。傷つけずに、怖がらせずに。もう誰にも傷ついてほしくないと願っている、あの子を。
「ミライ!」
一誠の声がした。振り返ると、崩れた石壁の陰からこちらを見ている。アーシアたちは、無事に安全な場所へ移れたらしい。
「九重は……!」
「……分かりません」
それしか答えられなかった。
「分からないんです。どうすれば、九重さんを……」
言いかけて、言葉を呑み込む。今、そんなことを言っている場合ではない。九重さんは、まだ銃を構えている。
私は何とか身体を起こし、盾を支え直した。ここで諦めるわけにはいかない。
「……逃げるのですか?」
九重さんの声が響いた。
視線を戻すと、英雄派が再び一か所へ集まり始めていた。ゲオルクの周囲には白い霧が渦巻き、先ほどよりも大きな空間の歪みが生まれている。今度こそ、撤退するつもりなのだろう。
曹操が聖槍を構えて周囲を警戒し、ジークフリートもジャンヌも、負傷したヘラクレスも、少しずつゲオルクの方へ下がっていく。
それを見た九重さんが、ゆっくりと長銃を持ち上げた。
「……あらあら」
口元が、弧を描く。
「お母様を、あんな目に遭わせておいて……」
その指が、引き金に触れた。
「皆様を傷つけておいて……」
赤いヘイローが、激しく明滅する。
「そのまま、お帰りになるおつもりですの?」
「九重さん! もうやめてください!」
声を張り上げても、九重さんは反応しなかった。
長銃の先が、ゲオルクの方へ向けられる。
その周囲では、ジャンヌが剣の壁を作り始めていた。ヘラクレスも拳を構え、ジークフリートは剣を交差させている。曹操は聖槍を握り直し、その前へ立った。何としてでも、九重さんの攻撃を防ぐつもりらしい。
それでも、九重さんは笑っていた。
「……逃がしませんわ」
銃口が、わずかに動く。今度は、ゲオルク本人だけを狙っていない。彼らが立っている場所も、その周囲の地面も、転移のために集められた霧の一帯も。全部まとめて、吹き飛ばそうとしている。
……駄目だ。あのまま撃たせたら。
「九重さん!!」
叫んだ私の前で、彼女の指に力が込められた。
◇
――ごぉん。
鐘の音が、しました。
「……え?」
思わず、声が漏れます。何でしょう、今の音は。
周りでは、まだ爆発が続いています。誰かが何かを叫んでいるのも分かりますし、目の前には、お母様を奪ってミライたちを傷つけた、憎らしい者たちがいます。
逃がしてはいけません。あの者たちがいる限り、また誰かが傷つけられてしまうのですから。
だから、もっと。もっと、もっと――。
……あら?
どうして、私(わたくし)は撃っていないのでしょう。
引き金には、まだ指がかかっています。銃口も、あの者たちへ向けたままです。ほんの少し指に力を込めるだけで、またあの赤黒い炎が生まれるはずなのに。
それなのに、どうしても、あの音が気になって仕方がないのです。
――ごぉん。
もう一度、鐘が鳴りました。
澄んだ、とても綺麗な音。不思議なことに、あれほど耳障りだった銃声も、爆発の轟音も、急に遠くなってしまったように感じられます。胸の中で燃え盛っていた怒りも、ほんの少しだけ静かになっていました。
……いったい、どこから聞こえてくるのでしょう。
何かに呼ばれたような気がして、私はゆっくりと顔を向けました。
そこに、一人の殿方が立っていました。
黒いスーツに、金色の蝶ネクタイ。肩からは紅白の長い布を垂らした、端正なお顔立ちの御方です。
激しい戦いの真っ最中だというのに、少しも慌てた様子がありません。まるで、私がこちらを向くことを初めから知っていらっしゃったかのように、穏やかに微笑んでいらっしゃいました。
「…………」
――どきん。
胸が、大きく跳ねました。
「……え?」
な、何でしょう、今のは。思わず、もう一度その御方のお顔を見つめてしまいます。
――どきん、どきん。
……あら? あら、あらあら……!?
お、おかしいですわ。何なのでしょう、この胸の高鳴りは。
急に頬が熱くなって、心臓がうるさいくらいに鳴り始めました。つい先ほどまでとはまるで違う感覚に、どうしたらよいのか分からなくなってしまいます。
あの御方が、こちらを見ていらっしゃる。それも、微笑んでくださっているのです。ただ、それだけのことなのに。どうして、こんなにも嬉しくなってしまうのでしょう。
「……あ、あぁ……」
小さな声が、こぼれました。
初めてお会いする御方です。お名前も存じ上げませんし、どちらからいらっしゃったのかも分かりません。
それなのに、どうしてでしょう。あの御方を見つめていると、胸の奥が温かくなってくるのです。まるで、お稲荷様が目の前にお姿を現してくださったかのような、何とも言えない気持ちになってしまいます。
……い、いえ。それよりも。
あの御方は、どうしてあんなにも素敵な笑顔を浮かべていらっしゃるのでしょう。あんなふうに微笑まれては、こちらまで頬が緩んでしまうではありませんか。
……あぁ、困りました。本当に、困ってしまいましたわ。
今すぐお顔を隠してしまいたいくらい恥ずかしいのに、それ以上に、あの御方から目を離したくありません。
気づけば、引き金にかけていた指からも、すっかり力が抜けていました。あの憎らしい者たちがどうしているのかも、今は気になりません。それどころではないのです。
だって、あの御方が、私を見ていらっしゃるのですから。
……あぁ、どうしましょう。
お名前を知りたい。どんなお声でお話しなさるのか、聞いてみたい。できることなら、もっと近くへ。すぐお傍まで行って、直接お話ししてみたい。
そんな思いが、次から次へと胸の中から溢れてきます。
もしお声をかけていただけたら、私はどうなってしまうのでしょう。きちんとお返事できるでしょうか。それとも、恥ずかしくて何も言えなくなってしまうのでしょうか。
……あぁ、もう。そんなことを考えているだけで、ますます胸が高鳴ってしまいます。
いったい、どうしてしまったのでしょう、私。こんな気持ち、生まれて初めてです。お顔を見ているだけで嬉しくなって、もっとお傍にいたいと思ってしまうだなんて。
……あら。あらあら、あらあら……。まさか、これは……!
自分の胸元へそっと手を当てると、そこでは今も、心臓が信じられないほど速く脈打っていました。その理由に思い至った途端、頬がさらに熱くなってしまいます。
気づけば、唇が勝手に動いていました。
「あ、あの……貴方は、いったい……?」
声が、震えてしまいました。こんな場所で、何をお尋ねしているのでしょう、私は。
その御方は、ふっと口元を緩められました。
「スター・オブ・ザ・スター・オブ・ザ・スターの……お稲荷さんだ」
……お稲荷、様。
やはり、そうでしたのね。初めてお顔を見た時に感じたものは、間違いではなかったのです。
「お、お稲荷様……! いえ、あなた様……!」
――うふふふっ♡
私、あなた様に……一目惚れしてしまいましたわ……♡