……あぁ、どうしましょう。
先ほどまで、あれほど胸を焦がしていた怒りが、嘘のように消えてしまいました。代わりに胸を満たしているのは、甘くて、どうしようもなく幸せな気持ち。目の前の御方が微笑まれるたびに、心臓が跳ねてしまいそうです。
「……そんなに見つめられると、さすがの俺も照れるな」
「ま、まあ……! 申し訳ありません、あなた様!」
慌てて目を伏せましたが、すぐにまたお顔を見たくなってしまいます。お稲荷様と名乗られた御方は、そんな私の様子を楽しむように、少しだけ目を細められました。
「それで、どうする?」
「……はい?」
「お前には、叶えたい願いがあるんじゃないのか?」
願い。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが揺れました。あなた様は私から視線を外し、少し離れた場所へ目を向けられます。その先では、翡翠色の龍が、巨大な九尾の狐を抑えていました。
「……あ」
お母様。
そうでした。私は、お母様をお助けするためにここまで来たのです。あの者たちに連れ去られ、ようやく見つけたと思ったのに、お母様は私のことさえお分かりにならなくて。
それでも、ミライたちは私を助けてくださいました。皆様、あんなにも傷ついて。
……なのに、私は。
途中から、あの者たちを逃がしてはならないと、そればかり考えていました。一人残らず撃ち抜いてしまえば、すべて終わるのだと。けれど、本当に望んでいたのは、そんなことではなかったはずです。
「……お母様を」
気づけば、声がこぼれていました。
「お母様を、お助けしたいのです。それから……ミライさんたちも。私を助けてくださった皆様が、これ以上傷つかずに済むように……」
途中で、言葉が詰まってしまいました。あなた様の前で、こんな情けない姿をお見せしてしまうなんて。けれど、どうしても止められません。
「もう、誰にも傷ついてほしくありません。お母様にも、皆様にも……」
「……そうか」
返ってきたのは、とても穏やかな声でした。
「母親を助けたい。それから、自分を助けてくれた連中も守りたい。……それがお前の願いなんだな?」
「……はい」
頷くと、あなた様は柔らかく微笑まれました。
「だったら、叶えてやろう」
「…………え?」
思わず、お顔を見上げてしまいます。今、何と仰いました?
「ほ、本当に……?」
「ああ」
あまりにも自然なお返事でした。まるで、少しそこまで出かけてくるとでも仰るように。
「ただし、お前にも少し協力してもらう必要がある」
「私に、ですか?」
胸が、どきんと跳ねました。あなた様が、この私を必要としてくださる。それだけで、また頬が熱くなってしまいます。
「そういえば、まだ名前を教えてなかったな」
あなた様は軽く胸元へ手を添えると、楽しそうに笑われました。
「俺は浮世英寿。覚えておいてくれ」
「……浮世、英寿様」
なんて素敵なお名前なのでしょう。心の中で、何度もそのお名前を繰り返してしまいます。浮世英寿様。英寿様。お名前を知っただけで、こんなにも嬉しいだなんて。
「それで、頼みなんだが」
「は、はいっ!」
「悪いが、少しだけ身体を貸してくれないか?」
「わ、私の身体を……ですか?」
思わず、自分の手を見下ろしてしまいました。身体を貸すだなんて、いったいどういうことなのでしょう。
「少しの間、俺がお前の身体を動かす。意識は残るし、見たり聞いたりもできるから安心してくれ」
「……私の身体を、あなた様が……」
「ああ。お前の母親を助けるには、その方が早い。それに、ここにいる連中を、これ以上危険な目に遭わせるわけにもいかないからな」
私は、もう一度お母様を見ました。翡翠色の龍に抑えられ、なおも苦しそうに暴れていらっしゃるお姿。その近くでは、ミライたちも傷ついた身体で立っています。
英寿様は、あの皆様をお救いくださると仰っているのです。しかも、そのために私がお役に立てる。
……でしたら、迷う理由など、どこにもありません。
「もちろんです! あなた様のお役に立てるのでしたら、喜んで! この私でよろしければ、どうぞお使いくださいませ!」
「ありがとな」
英寿様が、ふっと目元を和らげられました。そのお顔を拝見できただけでも、お返事をした甲斐があったというものです。
「じゃあ、少し借りるぞ」
「はい。どうぞ、お任せくださいませ……♡」
その瞬間でした。身体の奥へ、何か温かなものがそっと広がっていきます。
お母様のお姿も見えますし、周りの音も聞こえます。ただ、指先だけが、私の意思とは違う動きを始めていました。
……あぁ。英寿様が、私の身体を動かしていらっしゃるのですね。
怖くはありませんでした。もう、無理をして引き金を引かなくてもよいのです。お母様も、ミライたちも、きっとこの御方が助けてくださる。
そう信じて、私は静かに身を委ねました。
◇
……何が、起きているのだろう。
あれほど激しく撃ち続けていた九重さんが、突然動きを止めたかと思うと、何もない場所へ向かって話し始めたのだ。顔を真っ赤にして、嬉しそうに微笑んだり、恥ずかしそうに俯いたりしながら。
何度名前を呼んでも、振り向く気配はない。頭上の赤いヘイローは静かに浮かび、《真紅の災厄》の銃口も地面へ下がっていた。
……いったい、誰と話しているんだろう。
九重さんが、ふっと口を閉じた。嬉しそうだった表情が落ち着いていき、すっと背筋が伸びる。
……あれ? 何かが、違う。
最初に目についたのは、立ち方だった。さっきまでの九重さんは、全身に力を込めて銃を握りしめていた。けれど今は、肩から余計な力が抜け、重心も少し下がっている。
両手で抱えていた長銃を、片手で軽く持ち直す。そのまま銃身を傾け、周りを見渡した。
たったそれだけの仕草だった。それなのに。
……違う。九重さんじゃない。そんな感覚が、唐突に湧き上がった。
姿は何も変わっていない。長い黒髪も、赤黒い衣装も、頭の横に留まった狐面も、そのままだ。けれど、そこに立っている人の雰囲気が、まるで違っていた。
怒りも、焦りも、熱っぽい笑みもない。あるのは、戦場全体を見渡すような落ち着いた眼差しと、これから何が起きても驚かないという、妙な余裕だった。
……誰?
そう思った時、九重さんがこちらへ顔を向けた。
ほんの数秒、その視線が私の上で止まる。何かを見定めるような眼差しだった。
やがて、確かめ終えたように視線を外し、今度は自分の腕を見下ろす。そこには、ジークフリートにつけられた傷が残っていた。その傷を、わずかに目を細めて見つめる。
空いた手が傷口へ添えられ、淡い白い光が灯る。
傷が、消えていく。腕の切り傷も、爆風で焦げた肌も、白い光の下でみるみる元に戻っていった。
「借りたものは、傷つけずに返す主義なんでな」
小さく、そんな言葉が聞こえた。
……借りたもの?
声は、九重さんのものだった。神話外装で変わった、大人の女性の声。けれど、話し方がまるで違う。どこか芝居がかった、余裕のある口調。九重さんとも、私の知っている狐坂ワカモとも違う。
……もしかして。
そう考えた瞬間、九重さんが長銃を持ち上げた。《真紅の災厄》が、赤い光の粒子となってほどけていく。空いた手を軽く握り、その人は曹操たちへ顔を向けた。
「さあ、ここからがハイライトだ」
心臓が跳ねた。知っている。私は、その言葉を知っている。
九重さんの手が、何もない空間へ伸びた。そこへ、黒と白の装置が現れる。中央には、赤い狐の横顔。
……嘘。
見間違えるはずがない。デザイアドライバー。どうして、それがここに。
九重さんは当然のようにベルトを腰へ当てた。軽い電子音とともに帯が伸び、細い腰へ固定される。続いて、その手の中に赤と白の大型バックルが現れた。
……ブーストマークⅨ。
声を失った私の前で、九重さんはバックルへ手をかける。機構が開き、左右へ分かれた装置がドライバーに収まった。
MARK Ⅸ
SET IGNITION
低く響く電子音声とともに、九重さんの背後へ光の輪が現れた。
最初は、細い円が一つ。それが回転しながら、内側へもう一つ、さらにもう一つと輪を重ねていく。線と線の間を、蒼い光が走った。巨大な円環が夜の闇に浮かび上がり、複雑な紋様を描きながら回り始める。
「……何だ、あれ」
一誠の声が聞こえた。けれど、答えられなかった。九重さんの動きから、目を離せなかったのだ。
細い指が、すっと持ち上がる。狐を思わせる、見覚えのある仕草。九重さんの姿なのに、その動きには少しの迷いもなかった。
「変身」
REVOLVE ON
かちり、と音が鳴り、腰のドライバーが回転する。同時に、背後の円環が激しく動き出した。幾重にも重なった光の輪が、それぞれ異なる速さで回っていく。散った火花が、円環の中心へ吸い込まれるように集まった。
空気が震え、足元の小石がかすかに跳ねる。それでも、九重さんは少しも動じない。ただ、まっすぐ前を見つめていた。
DYNAMITE BOOST!!
轟音とともに、円環から青白い炎が一斉に噴き上がった。
「――っ!」
思わず腕を上げる。目を細めても、光が視界の奥まで入り込んでくる。その中心で、九重さんの姿が見えなくなった。
炎が大きく渦を巻き、輪の内側から伸びた光が夜空へ広がっていく。一本、さらに一本。巨大な光が弧を描き、その先端がゆらりと揺れた。
……尾?
そう思った時には、九本の光が空へ広がっていた。まるで、巨大な白い九尾の狐。
その姿に、少し離れた場所で暴れ続ける八坂様が重なった。けれど、濁った妖力をまとったあちらの九尾とは、まるで違う。
光の中心で、金属音が連続して響いた。炎の隙間から、純白の装甲が現れる。足が、腕が、胸元が。光に包まれるたびに、九重さんの輪郭が別の形へ変わっていく。赤黒い衣装も、長い黒髪も、炎の中へ消えていった。
頭の横に留まっていた狐面が、一瞬だけ白く浮かび上がる。その上から、もう一つの狐の仮面が重なったように見えた。
……狐の面に、狐の仮面。
そんな言葉が頭をよぎった直後、最後の光が弾けた。
GEATS Ⅸ
白い狐の仮面。鋭く輝く、赤い複眼。九本の光の尾が、一斉に空へ広がる。
炎が夜の闇を押しのけるように燃え上がり、周りの瓦礫を白く照らした。けれど、炎は何も焼かなかった。あれほどの光と熱を感じるのに、誰一人として吹き飛ばされていない。
READY FIGHT
音声が途切れると、円環が消え、九本の光も細かな粒子となって夜空へ溶けていった。
そこには、一人の仮面ライダーが立っていた。
純白の装甲に包まれた身体。狐を象った仮面と、赤い複眼。九重さんの面影は、どこにもない。赤いヘイローも、狐面も残っていなかった。
「……ギーツ」
気づけば、その名前を呟いていた。仮面ライダーギーツⅨ。私の記憶にある、白い狐のライダーだった。
「ギーツ? ミライ、あいつを知ってるのか?」
一誠が、こちらを向く。
「……はい。知識は、あります」
「じゃあ、九重はどうなったんだ?」
「……それが、私にも分からないんです」
本当に、分からなかった。目の前にいるのは、私の知っているギーツⅨそのものだ。けれど、変身したのは九重さんで、その身体を誰が動かしているのかも分からない。
ギーツⅨが首を回し、肩の力を抜いて曹操たちを見渡した。その仕草には、少しの気負いもない。
近くで、孫悟空が目を細めていた。
「……ほう。今日は狐ばかりじゃのう」
小さく笑い、如意棒を担ぎ直す。
ギーツⅨが、片手を軽く持ち上げた。
「さて……始めようか」
聞こえてきたのは、九重さんの声だった。けれど、その落ち着いた話し方は。
……まさか。
胸の奥で、一つの名前が浮かびかけた。確かめる間もなく、ヘラクレスが動いた。
○
「……おいおい、何だよ、そりゃあ」
ヘラクレスが、顔を引きつらせていた。ジャンヌも、ジークフリートも、突然現れた白い仮面ライダーを警戒して身構えている。曹操だけは聖槍を握ったまま黙り、その視線でギーツⅨの姿を隅々まで確かめていた。
「さっきまでの女とは、また別物じゃねえか!」
ヘラクレスが拳を握り直す。九重さんの銃撃で受けた傷はまだ残っているのに、戦意は失っていないらしい。
「だったら、まとめて吹き飛ばしてやる!」
大きく踏み込み、拳を振り抜く。空気が破裂した。凄まじい爆発がギーツⅨへ迫り、ほとんど同時に、ジークフリートが側面から飛び込んでくる。六本の剣が、別々の角度から振り下ろされた。
……危ない!
けれど、ギーツⅨは慌てなかった。爆発が届く直前、半歩だけ身体をずらす。炎が白い装甲の脇を抜けていき、続いて迫った六本の剣も、受け流し、身を傾け、刃と刃の間へ滑り込むようにしてかわしていく。
……速い。いや、速いだけじゃない。相手がどこへ剣を振るのか、最初から分かっているような動きだった。
攻撃が途切れた一瞬、ギーツⅨが懐へ踏み込み、掌底を叩き込んだ。
「ぐっ……!」
ジークフリートの身体が後方へ弾かれる。体勢を立て直した彼が剣を構えたところへ、ヘラクレスが再び踏み込んだ。
「調子に乗るなよ!」
振りかぶった拳に、爆発の気配が膨れ上がる。ギーツⅨは、そちらへ目を向けただけだった。
その手元へ、白い光が集まる。光の中から、長い銃身を備えた武器が現れた。
……ギーツバスターQB9。
片手で持ち上げられた銃口から、乾いた銃声が響いた。
「なっ!?」
ヘラクレスの腕が跳ね上がる。爆発が起きる寸前、拳の動きを撃って妨げたのだ。行き場を失った爆炎が頭上で弾け、ヘラクレスは思わず足を止めた。
もう一発。今度は、横から踏み込もうとしていたジークフリートの足元へ。地面が小さく抉れ、彼の動きが止まる。続けて、ヘラクレスがもう一度拳を構えた瞬間、その胸元へ銃口が向けられた。
ただ、それだけ。ヘラクレスは舌打ちし、踏み込むのをやめた。
……同じ銃なのに。
少し前まで、九重さんは相手のいる場所をまとめて吹き飛ばしていた。敵が逃げれば、その先にある建物まで壊した。けれど、ギーツⅨは違う。撃つたびに、狙った場所へだけ弾丸を送り込んでいる。敵を止めるために、必要な分だけ。
「だったら、お姉さんのとっておきはどうかな!」
ジャンヌが叫んだ。地面から無数の剣が伸び、ギーツⅨの前に壁を作る。左右からも刃が迫り、逃げ道を塞いでいく。
それでも、ギーツⅨは足を止めなかった。剣の壁が閉じきる寸前、わずかな隙間へ身体を滑り込ませ、次の瞬間にはもう壁の向こう側へ抜けていた。
「……えっ!?」
驚くジャンヌを振り返りもせず、ギーツⅨはギーツバスターQB9を構え直し、ヘラクレスの方へ歩いていく。
その時だった。
「あぁ……あなた様、なんて素敵なのでしょう……♡」
聞こえてきた声に、目を瞬かせた。今のは、九重さん?
「……少し静かにしててくれ」
すぐに、別の口調で返事があった。
どちらも、同じ声だった。ワカモの姿になった九重さんの、大人の女性の声。けれど一つ目は甘く熱っぽく、二つ目は呆れたようでいて、どこか楽しそうだった。
……二人、いる?
目の前の白い装甲を見つめる。九重さんの意識は、あの中に残っている。そして、別の誰かが身体を動かしている。そう考えれば、さっきからの違和感にも説明がついた。
では、その別の誰かは――。
そこまで考えた時、曹操が動いた。
「……ほう。面白い」
聖槍を構え、前へ進み出る。
「ヘラクレス、ジーク。少し下がれ」
「おい、曹操!」
「いいから、下がっていろ」
短く告げると、曹操はギーツⅨへ向き直った。ギーツⅨも、銃口を下ろす。二人の間に、一瞬だけ静寂が生まれた。
曹操が踏み込んだ。聖槍の穂先が白い装甲へ迫り、ギーツⅨが身体を傾けて紙一重でかわす。曹操は槍を引き戻し、すぐに二撃目、さらに三撃目。攻撃の間隔が、次第に短くなっていく。
……凄い。神器の力だけではない。曹操自身の技量が、やはり桁違いだった。
けれど、ギーツⅨは一歩も慌てなかった。振り下ろされた穂先を避け、横薙ぎの一撃を腕で逸らし、そのまま間合いの内側へ踏み込もうとする。即座に距離を取った曹操へ、ギーツⅨが追いついた。
槍の柄と白い腕がぶつかり、硬い音が響く。互いの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
曹操の眉が、わずかに動く。次の瞬間、彼は大きく後退した。
ギーツⅨは追いかけなかった。ただ、何かを待つように立っている。
ふと見ると、聖槍を握り直す曹操の手元で、穂先がかすかに震えているように見えた。衝突の余韻にしては、妙に長い。曹操自身も不思議に思ったのだろう。聖槍を見下ろし、それからギーツⅨへ視線を戻した。
「……そういうことか」
小さな声だった。曹操の表情から、さっきまでの余裕が少し消えていた。
「ゲオルク!」
「了解」
「空間を閉じろ。正面から相手をするな!」
ゲオルクが杖を掲げた。白い霧が、ギーツⅨの周りへ一斉に広がっていく。
……《絶霧》。九重さんを何度も翻弄した、あの力だ。
霧が濃くなり、地面が不自然に歪み始めた。近くにあった建物が遠ざかり、離れていたはずの壁が目の前へ迫ってくる。ギーツⅨの周りだけが、別の場所へ切り取られていく。
思わず一歩踏み出した、その時。
白い霧の中に、蒼い光が灯った。
最初は、細い一筋だけだった。それが霧の中を伸びていき、不自然に曲がっていた壁の輪郭に触れた途端、形を変える。引き延ばされていた地面も、元の位置へ戻るように動いていった。
「……何?」
ゲオルクが、息を呑んだ。
霧の中で、光がさらに広がる。まるで、見えない手が景色を描き直しているようだった。切り離されたはずの空間に、こちらへ続く道が生まれ、その上を白い仮面ライダーが歩いてくる。一歩、また一歩。何事もなかったかのように。
「……馬鹿な。我が霧に、直接……ッ!?」
ゲオルクの言葉は、そこで途切れた。
無理もない。霧を吹き飛ばしたわけでも、出口を探したわけでも、壁を壊したわけでもない。閉じ込められていたはずの場所に、ただ、自分が歩くための道を作ったのだ。
……空間を、変えた?
あの霧は、ゲオルクが支配しているはずだった。それなのに、今はその内側へ別の力が入り込み、形を変えている。
……そんなことが。けれど、私の知っているギーツⅨなら、そんなことさえできてしまうのかもしれない。
ギーツⅨが銃口を下ろした。曹操たちを見つめる赤い複眼が、静かに輝く。
曹操は、しばらく何も言わなかった。やがて手元の聖槍を一度見下ろし、小さく息を吐く。
「……神が、人の願いのために戦うか」
独り言のような声だった。
ギーツⅨは答えない。ただ、曹操を見つめている。しばらくして、曹操の口元に笑みが浮かんだ。
「……世界は、まだまだ広いらしい」
そして、仲間たちへ向き直る。
「ここが退き時だな。撤退する」
「……はぁ!? おい、まだ終わってねえだろ!」
声を上げたヘラクレスに、曹操は落ち着いたまま答えた。
「これ以上戦っても、得るものはない。ゲオルク、できるな?」
「……転移に要る分なら、まだ制御できる」
ゲオルクが杖を握り直すと、霧が今度は英雄派の足元へ集まり始めた。ジャンヌとジークフリートも、互いの負傷を確かめながら、ゲオルクの側へ下がっていく。
「……ちっ!」
ヘラクレスが大きく舌打ちし、ギーツⅨへ指を突きつけた。
「次は負けねえからな!」
ギーツⅨは、わずかに肩をすくめただけだった。その反応が気に入らなかったのか、ヘラクレスはもう一度何か言いかけたけれど、その前に霧が彼を包み込む。
続いて、ジャンヌとジークフリート。最後に、曹操とゲオルクの姿が、白い霧の中へ消えていった。
ギーツⅨは、追わなかった。追う必要などないと、最初から分かっているかのように、ただ静かに見送っていた。
……終わった。
小さく息を吐く。曹操たちは、もういない。けれど、周りを覆う《絶霧》の疑似空間は、まだ残っている。
そして何より、八坂様が、まだ玉龍に抑えられていた。
○
ギーツⅨが、巨大な九尾の狐へ顔を向けた。
八坂様は、英雄派が撤退したことにも気づいていないようだった。九本の尾を振り乱し、玉龍の身体へ何度も叩きつけている。そのたびに翡翠色の鱗が揺れ、地面が震えた。
……まだ、洗脳が解けていない。
痛む左肩を押さえながら見つめていると、ギーツⅨが八坂様へ向かって歩き始めた。
その姿に、孫悟空が目を細める。
「……ほう。こいつぁ、神の気配じゃねーの」
……神?
思わず孫悟空へ目を向けた。けれど、彼はそれ以上説明しようとはせず、玉龍へ合図を送る。
「玉龍、ちぃと任せてみな」
翡翠色の龍が、首を巡らせた。ただし、すぐに八坂様を放したわけではない。九本の尾を抑えたまま、ギーツⅨが近づくのを待っている。
ギーツⅨは、そんな二人の様子を一度見ただけで、再び八坂様へ顔を向けた。
巨大な狐が、低く唸る。九本の尾から、濁った妖力が溢れ出した。八坂様本来の力とは、明らかに違う。何か異質なものが、身体の奥へ絡みついている。そんな印象を受けた。
ギーツⅨが腰のバックルへ手を伸ばし、レバーを二度操作する。
DYNAMITE BOOST TIME
直後、蒼い炎が背後へ噴き上がった。白い光が空へ伸び、九本の巨大な尾を形作っていく。一本一本が、大きく揺れた。
八坂様も、それに応えるように九本の尾を広げる。濁った妖力に覆われた九尾と、その前に立つ純白の九尾。まるで、二匹の狐が向かい合っているようだった。
ギーツⅨが、もう一度バックルへ手をかけた。
BOOST Ⅸ VICTORY
光が、一斉に広がった。
「――っ!」
身体が強張る。これほどの力を、八坂様へ向けるつもりなのだろうか。あの方を傷つけるわけには――。
けれど、白い光は八坂様へ叩きつけられなかった。
ギーツⅨの背後から伸びた一本の尾が、そっと八坂様へ近づいていく。そして、濁った妖力をまとった尾の一本を、優しく包み込んだ。
白い光が、八坂様の尾へ広がっていく。最初は、その一本だけ。けれど、すぐに二本目が伸びる。三本目、四本目。次々と白い尾が伸び、八坂様の九本の尾を一本ずつ包んでいった。
八坂様が苦しそうに身体を捩り、玉龍が逃がさないように身体を支え直す。けれど、その抵抗は長く続かなかった。
白い光に包まれた尾から、黒く淀んでいた妖力が、ほどけるように薄れていく。一本、また一本と、八坂様の尾が本来の色を取り戻していき、それにつれて、暴れていた身体からも力が抜けていった。
……洗脳を、解いている?
息を詰めて見守る。ギーツⅨは、八坂様に攻撃を加えていない。ただ、白い九本の尾で包み込み、身体へ入り込んだ異質な力だけを取り除いている。
八坂様が、もう一度低く唸った。その声には、もうさっきまでの激しさがなかった。
最後の一本へ、白い尾が伸びる。九本すべてが包み込まれた瞬間、八坂様の身体から濁った妖力が一斉に溢れ出した。黒い煙のように宙へ舞い上がったそれは、光に触れた途端、跡形もなく消えていく。
やがて、八坂様の動きが止まった。玉龍が拘束を緩めると、巨大な狐の身体が白い光に包まれる。九本の尾が小さくなり、輪郭が変わっていく。
光が収まった時、そこには一人の女性が立っていた。
……八坂様。
間違いない。私たちが探していた、京都の妖怪を統べる九尾の狐だった。
玉龍が、ようやく身体を離す。八坂様は足元をふらつかせながら、周りを見回した。その瞳には、もう濁った光がない。
「……九重……?」
かすれた声が、夜の中へ落ちた。
……よかった。戻ってきたんだ。八坂様が、本当に。
膝から力が抜けそうになった。けれど、すべてが終わったわけではなかった。
ギーツⅨの背後に広がっていた白い九尾が、再び大きく揺れたのだ。その光が足元へ降り、地面へ広がっていく。
周りを満たしていた異様な気配が、少しずつ薄れていった。地面の下を流れているはずの力。乱され、濁っていた龍脈の流れが、光に触れるたびに整っていく。目には見えないはずのものが、今だけは何となく分かる気がした。
蒼い光は、白い霧の奥へと伸びていく。《絶霧》で作られた景色の中だけに留まらず、その向こう側まで届いているようだった。
力が、元の場所へ戻っていく。無理やり曲げられていた流れが、自然な方向へほどけていく。
そして、私たちの周りで、白い霧が揺らぎ始めた。
ゲオルクの《絶霧》。英雄派が撤退した後も残っていた、あの疑似空間だ。九重さんの銃撃で抉られた地面も、崩れ落ちた建物も、赤黒い炎に包まれていた街並みも。そのすべてが、光の中で輪郭を失い始めた。
瓦礫が元の位置へ戻るわけではない。崩れた壁が組み上がるわけでもない。ただ、景色そのものが薄れていく。ここは、ゲオルクが作り出した疑似空間だったのだ。
霧がほどけ、その向こうから別の景色が現れ始めた。崩れた建物の向こうに、見覚えのある屋根が見える。炎に包まれていた壁が薄れ、その先から庭園が姿を現した。
……二条城。本物の、二条城だ。
建物は壊れていない。地面も抉れていない。九重さんが撃ち抜いた瓦礫さえ、どこにも残っていなかった。昨日、ミチルさんたちと見学した、あの二条城だった。
最後の霧が空へ溶け、夜風が頬を撫でた。
……世界が、書き換わっている。
その光景を見つめているうちに、私は一つの力を思い出していた。
……《オーマジオウ》
――私が、一番なりたくない私。
以前、曹操へそう答えた言葉が、胸の奥に蘇る。
けれど、目の前では。それと似た力が、たった一人の女の子の願いを叶えるために使われていた。
お母さんを助けたい。もう誰にも、傷ついてほしくない。……そんな願いのために。
「…………」
胸の奥が、少しだけざわついた。答えは、何も出なかった。ただ、その光景から目を離せずにいた。
○
いつの間にか、周りは静かになっていた。爆発の音も、建物の崩れる音も、もう聞こえない。残っているのは、夜風が木々を揺らす音だけだった。
少し離れたところでは、孫悟空が玉龍と何か話している。八坂様は、まだ自分の身に何が起きたのか分かっていない様子だったけれど、少なくとも、苦しそうな気配はなくなっていた。
張り詰めていたものが切れたのか、急に足から力が抜けた。すぐそばにあった御殿の廊下の縁へ、そっと腰を下ろす。板に体重がかかった、その瞬間。
――きゅっ。
「……あ」
小さな音が、腰の下の板から響いた。
……鶯張り。
昨日、ミチルさんが大はしゃぎしていた床だ。イズナさんは「忍者たるもの」と、音を立てずに歩く方法を真剣に考えていた。
ほんの昨日のことなのに、ずいぶん昔のことのように感じる。
そっと体重を移すと、床がもう一度、きゅっと鳴いた。
……戻ってきたんだ。本当の京都に。
小さく息を吐き、庭へ目を向ける。そこには、白い仮面ライダーが立っていた。八坂様も、孫悟空も、みんながその姿を見つめている。
不意に、ギーツⅨがこちらへ顔を向けた。赤い複眼が、私を捉える。周りには、ほかにも大勢いる。それなのに、なぜか私だけを見ているような気がした。
その視線には、敵意も警戒も感じられない。ただ、何かを確かめているような、不思議な眼差しだった。
「……なるほどな」
小さな声が、聞こえた。
……なるほど? 何が?
そう尋ねるより早く、ギーツⅨは視線を外し、何事もなかったかのように腰のドライバーへ手を伸ばした。
白い光が、全身を包む。装甲が消えていき、その中から九重さんの姿が現れた。長い黒髪。赤と黒の衣装。頭の横に留まった狐面。そして、頭上に浮かぶ赤いヘイロー。
……九重さん。
駆け寄ろうとして、足が止まった。九重さんは、また何もない場所へ顔を向けていた。
「……あ、あなた様……」
甘く、少しだけ震えた声。話し方も、ワカモのようなものに戻っている。九重さんは何度か頷きながら、誰もいない場所を見つめていた。
「……はい」
少しして、また頷く。
「……はい、あなた様」
そして、胸元へ両手を添えた。
「……本当に、ありがとうございました」
深く、頭を下げる。けれど、その先には誰もいない。
私は、何も言えなかった。九重さんが誰と話しているのかも、何を言われたのかも、私には分からない。
ただ、その表情はとても穏やかだった。怒りに任せて暴れていた時とも、突然誰かに恋をしたように赤面していた時とも違う。心の底から、安心しているような顔だった。
やがて、九重さんがふと顔を上げた。
「……?」
不思議そうに、空を見上げる。何かが聞こえたのだろうか。私には、何も聞こえなかった。
それでも、九重さんはしばらくそのまま立っていた。そして、頭の上へそっと両手を持ち上げる。まるで、誰かに頭を撫でられたかのように。
「……あなた様……」
かすかな呟きが届いた。九重さんは嬉しそうに微笑んだ。その視線の先には、やはり誰もいない。下ろされた両手は、何かを大切そうに、胸元で握りしめていた。
けれど、今度は不思議と怖くなかった。九重さんが、あんなにも安心した顔をしているのだから。
やがて九重さんは、握りしめた手を胸元に当てたまま、八坂様の方へ向き直った。
「……お母様……」
八坂様が、こちらを見る。けれど、その瞳には戸惑いが浮かんでいた。
無理もない。今、八坂様の目の前にいるのは、長い黒髪の、見知らぬ大人の女性なのだから。
「……九重、なのか……?」
その声を聞いた瞬間、九重さんの表情が、くしゃりと歪んだ。
長銃はもうない。英雄派もいない。守りたかった人は、ちゃんと目の前にいる。
そのことを確かめたかのように、九重さんの頭上で、赤いヘイローが淡く輝いた。
……あ。
ヘイローの輪郭が、少しずつ薄れていく。黒い長髪に金色の光が混じり始め、衣装の端が、細かな光の粒子となってほどけていった。
九重さんの身体が、小さくなっていく。長かった髪が元の姿へ戻り、赤黒い衣装も消えていく。そして最後に、頭の横にあった狐面が、光へ変わった。
……神話外装が、解けている。
八坂様は助かり、英雄派もいなくなった。もう、九重さんが銃を握って戦う必要はない。
……だから、なのだろうか。九重さんが守りたかったものは、ちゃんとここにあるのだから。
光が収まると、そこには元の小さな九重さんが立っていた。八坂様が、小さく息を呑む。
「……母上!」
駆け出した小さな身体が、庭を横切っていく。八坂様も、娘へ向かって歩き出していた。
「九重……!」
その声は、震えていた。九重さんが八坂様の胸へ飛び込み、八坂様はその小さな身体をしっかりと抱き締める。
「母上……母上……っ!」
「……よしよし。泣き虫なところは、少しも変わっておらぬな」
そう言う八坂様の目元にも、光るものがあった。九重さんは何度も母を呼び、そのたびに声が涙で震えていく。八坂様は娘の背中を何度も撫でながら、離そうとしなかった。
私は少し離れた場所から、その光景を見つめていた。
いつの間にか、隣には一誠が立っていた。アーシアたちも、こちらへ向かってきている。みんな、傷だらけだった。疲れ果てているし、まだ治療が必要な人もいる。私の左肩だって、相変わらず痛い。
それでも。
……よかった。九重さんの願いが、叶って。
そっと、空を見上げる。いつの間にか、雲が途切れていた。《絶霧》に覆われていた空は、もうどこにもない。
京都の夜空には、静かな月が浮かんでいた。