一誠が目を開けた。
二日ぶりだった。
私は椅子から立ち上がりかけて、やめて、もう一度座り直した。何から言えばいいのか、分からなかった。二日分の言葉が、喉の奥で渋滞していた。
この二日間、私はずっとこの部屋にいた。店は臨時休業にした。伝票にそう書いた自分の字を、何度も見返した。時計の音だけが、規則正しく部屋を満たしていた。
一誠の呼吸を数えていた。浅い、速い、時々止まりそうになる、その全部を数えていた。数えたところで何もできないのに、数えることしかできなかった。
自分の中には、時を戻す力があるかもしれない。合宿の山で、それを一度使おうとして、失敗した。
この二日間、私は何度もその力に手を伸ばしかけて、そのたびに止めた。
使えば、何かが変わるかもしれない。使えば、また何かが壊れるかもしれない。
どちらの可能性も、確かめる勇気がなかった。だから私は、ただ隣に座って、呼吸を数えることしかしなかった。
それが情けなくて、腹立たしくて、それでも他に選べることがなかった。
「……ミライ?」
掠れた声だった。
「目が覚めましたか」
自分の声が、思ったより低く出た。
「ここ、俺の部屋……あれ、試合は……」
「あなたは、どれだけ心配をかければ気が済むのですか」
一誠が固まった。
「二日です。あなたは二日間、目を覚ましませんでした」
声が、震えた。抑えようとした。抑えられなかった。怒りたいのか泣きたいのか、自分でも分からないまま、言葉だけが出ていった。
二日間、抑え込んでいたものが、堰を切ったように出てくる。
怖かった。
この人が、目を覚まさなかったらどうしようと、ずっと思っていた。
それを、今まで一度も口に出せなかった。出せば、本当になる気がして。
「心配、しました」
一誠は、何も言わなかった。ただ、ゆっくりと体を起こして、私の顔を見た。こんな声を聞いたことがない、という顔をしていた。
私も、こんな声を出したことがなかった。
自分の感情が、自分の理屈より先に出てくることが、こんなにも制御できないものだとは思わなかった。
「……悪い」
「謝罪は受け取ります。ですが、次はありません」
「おう」
「返事が軽いです」
「……肝に銘じます」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
戻ったことに、少しだけ安堵した。安堵している自分に、また少し腹が立った。
戻ったところで、部屋の空気が変わった。
銀髪のメイドが、音もなく転移してきた。
グレイフィアさんだった。
彼女は一誠が目覚めているのを確認すると、淡々と状況を説明した。一誠は二日間眠っていたこと。アーシアさんは看病のため残っていること。リアス先輩、朱乃さん、木場くん、小猫さんは、婚約パーティーの付き添いとして冥界にいること。そして、婚約パーティーは、すでに始まろうとしていること。
一誠の顔色が変わった。
「サーゼクス様から、伝言をお預かりしています」
グレイフィアさんは、静かに続けた。
「妹を取り戻したいのなら、殴り込んで来なさい、と」
沈黙が、一拍。
グレイフィアさんは一枚の魔法陣を差し出した。婚約パーティー会場へ転移できるものだという。
「行くかどうかは、兵藤一誠様がお決めください」
それだけ言って、彼女は消えた。
二日間眠っていた体で、これから戦いに行く。
止めるべきかもしれない、と一瞬思った。思ったが、口には出さなかった。止めたところで、この男は行く。行かない選択をする一誠を、私は見たことがない。
入れ替わるように、扉が開いた。
アーシアさんが、水差しを持って入ってきた。
一誠が起きているのを見た瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなって、そのまま飛びついた。
「一誠さん!」
「うわっ、アーシア……!」
「よかった……よかったです……!」
「アーシアさん。水差しを先に置いてください。危険です」
アーシアさんは慌てて水差しをテーブルに置いて、それからもう一度、一誠に抱きついた。泣きそうになりながら、笑っていた。
その泣き方を見て、少しだけ、自分の二日間が報われた気がした。私だけがずっと隣にいたわけではない。アーシアさんも、この二日間、同じ不安を抱えていたのだ。
一誠はしばらくされるがままになっていた。
それから、静かに言った。
「俺、行くよ。部長を取り戻しに」
誰も驚かなかった。この男がそう言うことは、目を覚ました瞬間から分かっていた。
「俺が行く」
「一人で?」
「危ねえだろ。お前らまで巻き込むわけには――」
「却下です」
「早いな!?」
「理由が最低です。あなたは二日間眠っていました。起きた直後に、また一人で無茶をするつもりですか」
また一人で背負うつもりなのか、と思うと、二日間堪えていた震えが、また少し戻ってきた。
この男は、いつもそうだ。誰かを助けるためなら、自分を勘定に入れない。それを美徳だと思っているなら、今ここで訂正させる。
「でも……」
「私も行きます」
アーシアさんが言った。いつになく、はっきりした声だった。
「私は、一誠さんを治すためにいます。だから、置いていかないでください」
一誠が、言葉に詰まった。
私は続けた。
「私は、この勝負には手を出しません。ですが、見届けることはできます。あなたがまた一人で全部背負うのを、黙って見ているつもりはありません」
言いながら、自分の言葉の軽さを感じた。
見届ける、というのは、結局のところ、何もできないという意味だ。廃教会の時と同じだ。私はまた、隣に立って、何もできないまま見ている側に回る。
それでも、行かない、という選択肢だけはなかった。
一誠は私とアーシアさんを交互に見た。それから、観念したように息を吐いた。
「……分かった。三人で行く」
一誠は少しだけ迷ってから、アーシアさんを見た。
「アーシア。頼みがある」
「はい。何ですか?」
「十字架と、聖水を用意してくれ」
アーシアさんの表情が固まった。
悪魔になった一誠にとって、それは本来なら触れるだけで危険なものだ。頼まれた意味を、アーシアさんもすぐに理解したのだろう。
「一誠さん、それは……」
「分かってる。でも、ライザーを倒すには必要なんだ」
一誠はまっすぐに言った。
「頼む」
アーシアさんは、胸の前で手を握りしめた。止めたい。けれど、止めても一誠が行くことは分かっている。そんな顔だった。
私はその横で、何も言わなかった。言う権利がない気がした。危険を承知で頼む一誠と、危険を承知で応える相手の間に、割り込む言葉を持っていなかった。
やがて、アーシアさんは小さく頷いた。
「……分かりました」
彼女が一誠に手渡したのは、十字架と、聖水の小瓶だった。
「一誠さんには、本当は触れられないものです。でも……きっと、必要になります」
「ありがとう、アーシア」
「必ず、帰ってきてください」
「ああ。約束する」
一誠は目を閉じた。
左腕の奥で、赤い何かが脈打った。誰かと話しているように見えた。声は聞こえない。けれど、一誠の表情が、少しずつ変わっていくのが分かった。
目を開けた時、彼は覚悟を決めた顔をしていた。左腕に、赤い気配が宿っていた。
私はそれについて、何も聞かなかった。聞くべき時が来たら、聞く。今は、その顔だけで十分だった。
その顔を見ながら、私は自分の中の力のことを考えていた。
この人は、自分の中にあるものと向き合って、対話までしている。私はどうだろう。時の魔王も、名もなき神々の王女も、私の中では未だに、扱い方の分からない異物のままだ。
「行こうぜ」
魔法陣が、光った。
転移した先は、冥界の宴の場――その入口前だった。
扉の向こうから、ざわめきと音楽が聞こえる。豪奢な会場の気配。着飾った悪魔の貴族たちの声。何もかもが、扉一枚の向こうにあった。
一誠は、その扉を睨んだ。
「行くぞ」
止める間もなく、一誠が踏み込んだ。
次の瞬間、扉が吹き飛んだ。
「その婚約、ちょっと待ったぁぁぁ!」
一誠が、会場に踏み込んだ。背後には、アーシアさんと私。
豪奢な会場。着飾った悪魔の貴族たち。天井の高さも、装飾の質も、人の数も、何もかもが桁違いだった。
その中央付近に、リアス先輩がいた。純白のドレスを着せられて、ライザーの隣に立たされていた。表情は硬かった。あれは、諦めた顔ではない。耐えている顔だ。
その顔を見た瞬間、胸の奥が絞られるように痛んだ。この人も、誰かに決められた場所で、耐えている。
会場が騒然となった。警備の悪魔たちが一斉に動く。
その警備の前に、三つの影が立ちはだかった。
木場くん。小猫さん。朱乃さん。
三人とも、最初からそのつもりだったように動いていた。会場の警備を食い止めている。
「……全員、待っていたのですか」
近くまで来た木場くんに、思わず聞いた。
「彼なら来ると思っていたからね」
木場くんは、爽やかに笑った。小猫さんは無言で頷いた。朱乃さんは「ふふ」と楽しそうに笑っていた。
誰も、疑っていなかったのだ。一誠が来ることを。信じる、というのは、こういう顔をすることなのかもしれない。
会場の一角で、支取会長が呆れたような、それでいて少し安心したような顔をしているのが見えた。
「これは私が用意した余興だ」
よく通る声が、会場の騒ぎを一瞬で収めた。
赤い髪の男性だった。リアス先輩と同じ、鮮やかな赤。
魔王サーゼクス・ルシファー。
その人は、穏やかに微笑みながら、一誠の前に立った。
「赤龍帝の少年。私が願い出たからには、君には対価が必要だよ。君は何を望む?」
「リアス部長を、返してほしい」
一誠は、まっすぐに言った。
サーゼクス様は微笑んだまま、ライザーを見た。
「ライザーくん。余興だ。受けてくれるね?」
ライザーの顔には、屈辱と苛立ちが浮かんでいた。それでも、フェニックスの誇りが引き下がることを許さなかったのだろう。
「いいだろう。そこまで言うのなら、もう一度だけ相手をしてやる。今度こそ、自分の立場を理解させてやろう」
一騎打ちが、決まった。
会場の中央が、決闘の場になった。
私とアーシアさんは、その外側に立った。手は出さない。出せない。これは一誠の戦いだ。
分かっているのに、足がその場から動きたがっている。何もできないのに、動きたいと思ってしまう自分が、少し嫌だった。
一誠は、戦いの前に、リアス先輩を見た。
「部長。あなたは、どうしたい」
リアス先輩は、一瞬だけ目を見開いた。それから、はっきりと言った。
「私は、ライザーとは結婚したくない」
「分かりました」
一誠は頷いた。
「プロモーション、クイーン」
力が膨れ上がる。それでも、ライザーとの差は歴然としていた。誰の目にも分かる差だった。
一誠は、構えたまま、言った。
「俺には、木場みたいな剣の才能がありません」
一歩、踏み込む。
「朱乃さんみたいな魔力の天才でもない」
「小猫ちゃんみたいな馬鹿力もない」
「アーシアが持っているような、誰かを救える力もない」
左腕の籠手が、赤く輝き始めた。
「それでも、俺は最強のポーンになります」
「部長のためなら、神様だってぶっ倒してみせます」
輝きが、爆発した。
「輝きやがれ――オーバーブースト!」
赤い光が、一誠を包んだ。
現れたのは、赤い鎧を纏った姿だった。全身を覆う、龍を思わせる鎧。左腕だけが、鎧ではなく、龍そのものの腕に見えた。
それが何を意味するのか、この時の私は、まだ知らなかった。
激突した。
一誠の拳が、ライザーを捉える。ライザーが吹き飛ぶ。壁に叩きつけられる。
だが、燃える。炎が傷を包み、ライザーが立ち上がる。不死鳥。何度でも、蘇る。
一誠は止まらなかった。殴る。蹴る。ライザーが再生する。また殴る。
見ているだけの時間が、こんなに長く感じるとは思わなかった。一秒ごとに、一誠の体力が削られていくのが分かった。分かっても、私にできることは何もなかった。
合宿の山で確かめた通りだ。私の力は、まだ何の役にも立たない。
時間がない、と直感で分かった。あの赤い鎧は、長くは保たない。一誠の消耗が、鎧越しにも見えた。
ライザーが再生を終えて、嗤った。
「無駄だと分からないのか! 私は不死鳥だ!」
その瞬間、一誠が懐から何かを取り出した。十字架だった。
悪魔が触れれば、ただでは済まないもの。それを、一誠は龍の左腕で握り込んでいた。悪魔の腕ではなく、龍の腕だから握れている。そう理解するしかなかった。
十字架を握った拳が、ライザーの腹に突き刺さった。
ライザーの絶叫が、会場に響いた。炎が、乱れた。再生が、目に見えて遅くなった。会場の貴族たちが、ざわめいた。
それでも、ライザーは倒れなかった。
そして、赤い鎧が、光の粒になって崩れ始めた。時間切れ。
ライザーが、一誠の胸ぐらを掴み上げた。
「小僧がァ……!」
一誠は、掴まれたまま、笑った。
[トランスファー]
左腕が光った。
次の瞬間、一誠の懐から、水が弾けた。隠し持っていた聖水。そこへ力を転送して、破裂させた。増幅された聖水が、ライザーの全身に浴びせられた。
炎が、消えた。再生が、止まった。
ライザーが、初めて、恐怖の顔をした。
一誠は、最後の力で、十字架を握り込んだ。
踏み込みは、木場くんの型だった。力の乗せ方は、小猫さんのそれだった。拳に流れる魔力の筋は、朱乃さんの教えだった。握られた十字架と、弾けた聖水は、アーシアさんのものだった。
そして、その全部を束ねているのは、リアス先輩との約束だった。
この人は、誰か一人の力で立っているのではない。積み上げてきたもの全部を、今この一撃に乗せている。
「うおおおおおおおっ!」
拳が、ライザーの顔面を撃ち抜いた。
ライザーの身体が大きく揺れた。炎が散り、膝が床につく。立ち上がろうとして、立ち上がれない。
不死鳥が、初めて膝をついた。
静寂の後、会場がどよめいた。
一誠は、ふらつきながらも立っていた。
リアス先輩が、ドレスの裾を翻して、一誠へ駆け寄った。アーシアさんが、泣きそうな顔で笑っていた。木場くんと小猫さんと朱乃さんが、それぞれの顔で安堵していた。
私も、ようやく、息を吐いた。いつから止めていたのか分からない息だった。
二日間の不安も、この数分間の無力さも、全部が今の一息に押し流されていくようだった。それでも、消えたわけではない。ただ、少しだけ、軽くなった。
サーゼクス様が手を挙げると、会場の外から巨大な影が舞い降りた。グリフォンだった。
「若い二人には、積もる話もあるだろう」
一誠とリアス先輩がグリフォンに乗せられ、冥界の夜空へと飛び立っていった。
二人が何を話すのかは、私には分からない。分からなくて、いい話だ。
私は夜空に消えていく影を、ただ見送った。
勝った。取り戻した。それだけで、今夜は十分なはずだった。
ふと、会場の方へ目をやった。
会場はまだ騒がしかった。余興の後始末は、サーゼクス様の一言でどうにか収まりつつある ようだった。
その少し離れた場所で、サーゼクス様と向かい合うように立っている女性がいた。言葉を交わしているように見える。
けれど、その声までは聞こえない。
赤みを帯びた髪。眼鏡。整った、制服のような装い。
見覚えのない人だった。見覚えが、ないはずだった。
なのに、私の目は、その人の頭上に釘付けになった。
赤い、光の輪。
ヘイロー。
この世界で、一度も見たことのないもの。なのに、知っている。
私の中だけにあるはずだった知識。体温のない記憶の棚。石造りの学び舎。光る輪を頭上に頂いた少女たち。
その棚の奥から、名前が、勝手に浮かび上がってきた。
心臓が、嫌な音を立てた。
あり得ない。あってはいけない。
あの記憶は、私のものではない別の誰かの物語のはずだった。祈った覚えもない、生きた覚えもない、ただ流し込まれただけの知識のはずだった。
それが今、目の前で、人の形をして、息をして、そこにいる。
体温のない棚だと思っていたものに、急に体温が宿った気がした。
なら、あの棚にある他の全部も。
アリスも。ケイも。あの学び舎も。
私が「知っている」と思っていた全部が、本当にどこかで、今この瞬間も、実在しているのだとしたら。
膝の裏が、冷えていくのが分かった。
なぜ。
なぜ、火宮チナツがこの場所にいるのですか。
やっとブルーアーカイブ要素出せました
この物語に求めている成分は?その他を選んだ方は是非感想欄で教えて下さい
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