止まった針は時の終わりに未来を見る   作:ドレットノータス

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第13刻 赤髪の姫を迎えに

一誠が目を開けた。

 

 二日ぶりだった。

 

 私は椅子から立ち上がりかけて、やめて、もう一度座り直した。何から言えばいいのか、分からなかった。二日分の言葉が、喉の奥で渋滞していた。

 

 この二日間、私はずっとこの部屋にいた。店は臨時休業にした。伝票にそう書いた自分の字を、何度も見返した。時計の音だけが、規則正しく部屋を満たしていた。

 

 一誠の呼吸を数えていた。浅い、速い、時々止まりそうになる、その全部を数えていた。数えたところで何もできないのに、数えることしかできなかった。

 

 自分の中には、時を戻す力があるかもしれない。合宿の山で、それを一度使おうとして、失敗した。

 

 この二日間、私は何度もその力に手を伸ばしかけて、そのたびに止めた。

 

 使えば、何かが変わるかもしれない。使えば、また何かが壊れるかもしれない。

 

 どちらの可能性も、確かめる勇気がなかった。だから私は、ただ隣に座って、呼吸を数えることしかしなかった。

 

 それが情けなくて、腹立たしくて、それでも他に選べることがなかった。

 

「……ミライ?」

 

 掠れた声だった。

 

「目が覚めましたか」

 

 自分の声が、思ったより低く出た。

 

「ここ、俺の部屋……あれ、試合は……」

 

「あなたは、どれだけ心配をかければ気が済むのですか」

 

 一誠が固まった。

 

「二日です。あなたは二日間、目を覚ましませんでした」

 

 声が、震えた。抑えようとした。抑えられなかった。怒りたいのか泣きたいのか、自分でも分からないまま、言葉だけが出ていった。

 

 二日間、抑え込んでいたものが、堰を切ったように出てくる。

 

 怖かった。

 

 この人が、目を覚まさなかったらどうしようと、ずっと思っていた。

 

 それを、今まで一度も口に出せなかった。出せば、本当になる気がして。

 

「心配、しました」

 

 一誠は、何も言わなかった。ただ、ゆっくりと体を起こして、私の顔を見た。こんな声を聞いたことがない、という顔をしていた。

 

 私も、こんな声を出したことがなかった。

 

 自分の感情が、自分の理屈より先に出てくることが、こんなにも制御できないものだとは思わなかった。

 

「……悪い」

 

「謝罪は受け取ります。ですが、次はありません」

 

「おう」

 

「返事が軽いです」

 

「……肝に銘じます」

 

 少しだけ、いつもの調子が戻った。

 

 戻ったことに、少しだけ安堵した。安堵している自分に、また少し腹が立った。

 

 戻ったところで、部屋の空気が変わった。

 

 

 銀髪のメイドが、音もなく転移してきた。

 

 グレイフィアさんだった。

 

 彼女は一誠が目覚めているのを確認すると、淡々と状況を説明した。一誠は二日間眠っていたこと。アーシアさんは看病のため残っていること。リアス先輩、朱乃さん、木場くん、小猫さんは、婚約パーティーの付き添いとして冥界にいること。そして、婚約パーティーは、すでに始まろうとしていること。

 

 一誠の顔色が変わった。

 

「サーゼクス様から、伝言をお預かりしています」

 

 グレイフィアさんは、静かに続けた。

 

「妹を取り戻したいのなら、殴り込んで来なさい、と」

 

 沈黙が、一拍。

 

 グレイフィアさんは一枚の魔法陣を差し出した。婚約パーティー会場へ転移できるものだという。

 

「行くかどうかは、兵藤一誠様がお決めください」

 

 それだけ言って、彼女は消えた。

 

 二日間眠っていた体で、これから戦いに行く。

 

 止めるべきかもしれない、と一瞬思った。思ったが、口には出さなかった。止めたところで、この男は行く。行かない選択をする一誠を、私は見たことがない。

 

 

 入れ替わるように、扉が開いた。

 

 アーシアさんが、水差しを持って入ってきた。

 

 一誠が起きているのを見た瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなって、そのまま飛びついた。

 

「一誠さん!」

 

「うわっ、アーシア……!」

 

「よかった……よかったです……!」

 

「アーシアさん。水差しを先に置いてください。危険です」

 

 アーシアさんは慌てて水差しをテーブルに置いて、それからもう一度、一誠に抱きついた。泣きそうになりながら、笑っていた。

 

 その泣き方を見て、少しだけ、自分の二日間が報われた気がした。私だけがずっと隣にいたわけではない。アーシアさんも、この二日間、同じ不安を抱えていたのだ。

 

 一誠はしばらくされるがままになっていた。

 

 それから、静かに言った。

 

「俺、行くよ。部長を取り戻しに」

 

 誰も驚かなかった。この男がそう言うことは、目を覚ました瞬間から分かっていた。

 

「俺が行く」

 

「一人で?」

 

「危ねえだろ。お前らまで巻き込むわけには――」

 

「却下です」

 

「早いな!?」

 

「理由が最低です。あなたは二日間眠っていました。起きた直後に、また一人で無茶をするつもりですか」

 

 また一人で背負うつもりなのか、と思うと、二日間堪えていた震えが、また少し戻ってきた。

 

 この男は、いつもそうだ。誰かを助けるためなら、自分を勘定に入れない。それを美徳だと思っているなら、今ここで訂正させる。

 

「でも……」

 

「私も行きます」

 

 アーシアさんが言った。いつになく、はっきりした声だった。

 

「私は、一誠さんを治すためにいます。だから、置いていかないでください」

 

 一誠が、言葉に詰まった。

 

 私は続けた。

 

「私は、この勝負には手を出しません。ですが、見届けることはできます。あなたがまた一人で全部背負うのを、黙って見ているつもりはありません」

 

 言いながら、自分の言葉の軽さを感じた。

 

 見届ける、というのは、結局のところ、何もできないという意味だ。廃教会の時と同じだ。私はまた、隣に立って、何もできないまま見ている側に回る。

 

 それでも、行かない、という選択肢だけはなかった。

 

 一誠は私とアーシアさんを交互に見た。それから、観念したように息を吐いた。

 

「……分かった。三人で行く」

 

 

 一誠は少しだけ迷ってから、アーシアさんを見た。

 

「アーシア。頼みがある」

 

「はい。何ですか?」

 

「十字架と、聖水を用意してくれ」

 

 アーシアさんの表情が固まった。

 

 悪魔になった一誠にとって、それは本来なら触れるだけで危険なものだ。頼まれた意味を、アーシアさんもすぐに理解したのだろう。

 

「一誠さん、それは……」

 

「分かってる。でも、ライザーを倒すには必要なんだ」

 

 一誠はまっすぐに言った。

 

「頼む」

 

 アーシアさんは、胸の前で手を握りしめた。止めたい。けれど、止めても一誠が行くことは分かっている。そんな顔だった。

 

 私はその横で、何も言わなかった。言う権利がない気がした。危険を承知で頼む一誠と、危険を承知で応える相手の間に、割り込む言葉を持っていなかった。

 

 やがて、アーシアさんは小さく頷いた。

 

「……分かりました」

 

 彼女が一誠に手渡したのは、十字架と、聖水の小瓶だった。

 

「一誠さんには、本当は触れられないものです。でも……きっと、必要になります」

 

「ありがとう、アーシア」

 

「必ず、帰ってきてください」

 

「ああ。約束する」

 

 一誠は目を閉じた。

 

 左腕の奥で、赤い何かが脈打った。誰かと話しているように見えた。声は聞こえない。けれど、一誠の表情が、少しずつ変わっていくのが分かった。

 

 目を開けた時、彼は覚悟を決めた顔をしていた。左腕に、赤い気配が宿っていた。

 

 私はそれについて、何も聞かなかった。聞くべき時が来たら、聞く。今は、その顔だけで十分だった。

 

 その顔を見ながら、私は自分の中の力のことを考えていた。

 

 この人は、自分の中にあるものと向き合って、対話までしている。私はどうだろう。時の魔王も、名もなき神々の王女も、私の中では未だに、扱い方の分からない異物のままだ。

 

「行こうぜ」

 

 魔法陣が、光った。

 

 

 転移した先は、冥界の宴の場――その入口前だった。

 

 扉の向こうから、ざわめきと音楽が聞こえる。豪奢な会場の気配。着飾った悪魔の貴族たちの声。何もかもが、扉一枚の向こうにあった。

 

 一誠は、その扉を睨んだ。

 

「行くぞ」

 

 止める間もなく、一誠が踏み込んだ。

 

 次の瞬間、扉が吹き飛んだ。

 

「その婚約、ちょっと待ったぁぁぁ!」

 

 一誠が、会場に踏み込んだ。背後には、アーシアさんと私。

 

 豪奢な会場。着飾った悪魔の貴族たち。天井の高さも、装飾の質も、人の数も、何もかもが桁違いだった。

 

 その中央付近に、リアス先輩がいた。純白のドレスを着せられて、ライザーの隣に立たされていた。表情は硬かった。あれは、諦めた顔ではない。耐えている顔だ。

 

 その顔を見た瞬間、胸の奥が絞られるように痛んだ。この人も、誰かに決められた場所で、耐えている。

 

 会場が騒然となった。警備の悪魔たちが一斉に動く。

 

 その警備の前に、三つの影が立ちはだかった。

 

 木場くん。小猫さん。朱乃さん。

 

 三人とも、最初からそのつもりだったように動いていた。会場の警備を食い止めている。

 

「……全員、待っていたのですか」

 

 近くまで来た木場くんに、思わず聞いた。

 

「彼なら来ると思っていたからね」

 

 木場くんは、爽やかに笑った。小猫さんは無言で頷いた。朱乃さんは「ふふ」と楽しそうに笑っていた。

 

 誰も、疑っていなかったのだ。一誠が来ることを。信じる、というのは、こういう顔をすることなのかもしれない。

 

 会場の一角で、支取会長が呆れたような、それでいて少し安心したような顔をしているのが見えた。

 

 

「これは私が用意した余興だ」

 

 よく通る声が、会場の騒ぎを一瞬で収めた。

 

 赤い髪の男性だった。リアス先輩と同じ、鮮やかな赤。

 

 魔王サーゼクス・ルシファー。

 

 その人は、穏やかに微笑みながら、一誠の前に立った。

 

「赤龍帝の少年。私が願い出たからには、君には対価が必要だよ。君は何を望む?」

 

「リアス部長を、返してほしい」

 

 一誠は、まっすぐに言った。

 

 サーゼクス様は微笑んだまま、ライザーを見た。

 

「ライザーくん。余興だ。受けてくれるね?」

 

 ライザーの顔には、屈辱と苛立ちが浮かんでいた。それでも、フェニックスの誇りが引き下がることを許さなかったのだろう。

 

「いいだろう。そこまで言うのなら、もう一度だけ相手をしてやる。今度こそ、自分の立場を理解させてやろう」

 

 一騎打ちが、決まった。

 

 

 会場の中央が、決闘の場になった。

 

 私とアーシアさんは、その外側に立った。手は出さない。出せない。これは一誠の戦いだ。

 

 分かっているのに、足がその場から動きたがっている。何もできないのに、動きたいと思ってしまう自分が、少し嫌だった。

 

 一誠は、戦いの前に、リアス先輩を見た。

 

「部長。あなたは、どうしたい」

 

 リアス先輩は、一瞬だけ目を見開いた。それから、はっきりと言った。

 

「私は、ライザーとは結婚したくない」

 

「分かりました」

 

 一誠は頷いた。

 

「プロモーション、クイーン」

 

 力が膨れ上がる。それでも、ライザーとの差は歴然としていた。誰の目にも分かる差だった。

 

 一誠は、構えたまま、言った。

 

「俺には、木場みたいな剣の才能がありません」

 

 一歩、踏み込む。

 

「朱乃さんみたいな魔力の天才でもない」

 

「小猫ちゃんみたいな馬鹿力もない」

 

「アーシアが持っているような、誰かを救える力もない」

 

 左腕の籠手が、赤く輝き始めた。

 

「それでも、俺は最強のポーンになります」

 

「部長のためなら、神様だってぶっ倒してみせます」

 

 輝きが、爆発した。

 

「輝きやがれ――オーバーブースト!」

 

 赤い光が、一誠を包んだ。

 

 現れたのは、赤い鎧を纏った姿だった。全身を覆う、龍を思わせる鎧。左腕だけが、鎧ではなく、龍そのものの腕に見えた。

 

 それが何を意味するのか、この時の私は、まだ知らなかった。

 

 

 激突した。

 

 一誠の拳が、ライザーを捉える。ライザーが吹き飛ぶ。壁に叩きつけられる。

 

 だが、燃える。炎が傷を包み、ライザーが立ち上がる。不死鳥。何度でも、蘇る。

 

 一誠は止まらなかった。殴る。蹴る。ライザーが再生する。また殴る。

 

 見ているだけの時間が、こんなに長く感じるとは思わなかった。一秒ごとに、一誠の体力が削られていくのが分かった。分かっても、私にできることは何もなかった。

 

 合宿の山で確かめた通りだ。私の力は、まだ何の役にも立たない。

 

 時間がない、と直感で分かった。あの赤い鎧は、長くは保たない。一誠の消耗が、鎧越しにも見えた。

 

 ライザーが再生を終えて、嗤った。

 

「無駄だと分からないのか! 私は不死鳥だ!」

 

 その瞬間、一誠が懐から何かを取り出した。十字架だった。

 

 悪魔が触れれば、ただでは済まないもの。それを、一誠は龍の左腕で握り込んでいた。悪魔の腕ではなく、龍の腕だから握れている。そう理解するしかなかった。

 

 十字架を握った拳が、ライザーの腹に突き刺さった。

 

 ライザーの絶叫が、会場に響いた。炎が、乱れた。再生が、目に見えて遅くなった。会場の貴族たちが、ざわめいた。

 

 それでも、ライザーは倒れなかった。

 

 そして、赤い鎧が、光の粒になって崩れ始めた。時間切れ。

 

 ライザーが、一誠の胸ぐらを掴み上げた。

 

「小僧がァ……!」

 

 一誠は、掴まれたまま、笑った。

 

[トランスファー]

 

 左腕が光った。

 

 次の瞬間、一誠の懐から、水が弾けた。隠し持っていた聖水。そこへ力を転送して、破裂させた。増幅された聖水が、ライザーの全身に浴びせられた。

 

 炎が、消えた。再生が、止まった。

 

 ライザーが、初めて、恐怖の顔をした。

 

 一誠は、最後の力で、十字架を握り込んだ。

 

 踏み込みは、木場くんの型だった。力の乗せ方は、小猫さんのそれだった。拳に流れる魔力の筋は、朱乃さんの教えだった。握られた十字架と、弾けた聖水は、アーシアさんのものだった。

 

 そして、その全部を束ねているのは、リアス先輩との約束だった。

 

 この人は、誰か一人の力で立っているのではない。積み上げてきたもの全部を、今この一撃に乗せている。

 

「うおおおおおおおっ!」

 

 拳が、ライザーの顔面を撃ち抜いた。

 

 ライザーの身体が大きく揺れた。炎が散り、膝が床につく。立ち上がろうとして、立ち上がれない。

 

 不死鳥が、初めて膝をついた。

 

 

 静寂の後、会場がどよめいた。

 

 一誠は、ふらつきながらも立っていた。

 

 リアス先輩が、ドレスの裾を翻して、一誠へ駆け寄った。アーシアさんが、泣きそうな顔で笑っていた。木場くんと小猫さんと朱乃さんが、それぞれの顔で安堵していた。

 

 私も、ようやく、息を吐いた。いつから止めていたのか分からない息だった。

 

 二日間の不安も、この数分間の無力さも、全部が今の一息に押し流されていくようだった。それでも、消えたわけではない。ただ、少しだけ、軽くなった。

 

 サーゼクス様が手を挙げると、会場の外から巨大な影が舞い降りた。グリフォンだった。

 

「若い二人には、積もる話もあるだろう」

 

 一誠とリアス先輩がグリフォンに乗せられ、冥界の夜空へと飛び立っていった。

 

 二人が何を話すのかは、私には分からない。分からなくて、いい話だ。

 

 私は夜空に消えていく影を、ただ見送った。

 

 勝った。取り戻した。それだけで、今夜は十分なはずだった。

 

 

  ふと、会場の方へ目をやった。

 

 会場はまだ騒がしかった。余興の後始末は、サーゼクス様の一言でどうにか収まりつつある ようだった。

 

その少し離れた場所で、サーゼクス様と向かい合うように立っている女性がいた。言葉を交わしているように見える。

 

けれど、その声までは聞こえない。

 

赤みを帯びた髪。眼鏡。整った、制服のような装い。

 

見覚えのない人だった。見覚えが、ないはずだった。

 

なのに、私の目は、その人の頭上に釘付けになった。

 

 赤い、光の輪。

 

 ヘイロー。

 

 この世界で、一度も見たことのないもの。なのに、知っている。

 

 私の中だけにあるはずだった知識。体温のない記憶の棚。石造りの学び舎。光る輪を頭上に頂いた少女たち。

 

その棚の奥から、名前が、勝手に浮かび上がってきた。

 

心臓が、嫌な音を立てた。

 

あり得ない。あってはいけない。

 

あの記憶は、私のものではない別の誰かの物語のはずだった。祈った覚えもない、生きた覚えもない、ただ流し込まれただけの知識のはずだった。

 

それが今、目の前で、人の形をして、息をして、そこにいる。

 

体温のない棚だと思っていたものに、急に体温が宿った気がした。

 

なら、あの棚にある他の全部も。

 

アリスも。ケイも。あの学び舎も。

 

私が「知っている」と思っていた全部が、本当にどこかで、今この瞬間も、実在しているのだとしたら。

 

 膝の裏が、冷えていくのが分かった。

 

なぜ。

 

なぜ、火宮チナツがこの場所にいるのですか。

 




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