夕方の四時を回る頃になると、店へ差し込む光は西側の窓へ移り、壁一面に掛けられた時計たちが刻む細かな音へ、下校途中の学生たちの声が薄く混ざり始める。
持ち込まれた老眼鏡の蝶番を締め直していると、入口からカラン、と聞き慣れた鈴の音が響いた。
「ミライ! 聞いてくれ、大事件だ!」
「いらっしゃいませ。大事件、ですか。先に言っておきますが、あなたの言う大事件は八割方、私の業務に関係ありません」
「今日はマジだって! いや、いつもマジだけど!」
兵藤一誠は勢いよくカウンターへ両手をつき、そのままこちらへ身を乗り出してくる。昔からこの男は、嬉しいことがあると無意識に人との距離まで縮めるところがあり、今も何があったのか聞くまでもないほど顔全体で浮かれていた。
「俺に……彼女が、できました」
「……」
「おい、なんか言えよ」
「……失礼。あまりに予想外の単語が来たので、頭が受け取りを拒否しました。もう一度どうぞ」
「彼女! できた! 俺に!」
「…………本当に?」
「その念の押し方、傷つくからな!?」
その後の説明を要約すると、放課後に一人でいたところを見知らぬ他校の女子生徒から声をかけられたらしい。名前は天野夕麻。「兵藤一誠くん、ですよね」と始まり、少し会話をした後には「私と、付き合ってくれませんか」と告白されたという。
普通なら喜ばしい話のはずだった。一誠に初めて彼女ができたこと自体を嫌だと思っているわけでもなく、友人として祝ってやるべきだとも思う。
それなのに話を聞けば聞くほど、胸の内側へ冷たいものが広がっていった。
面識のない相手が一誠のフルネームを知っており、しかも一人になったところを狙ったように声をかけ、ほとんど初対面のまま告白まで進んでいる。偶然だと言ってしまえばそれまでだが、どうにも出来すぎているように感じられた。
「一誠。その方は、あなたのどこを好きになったと言っていましたか」
「え? ……優しそう、だから?」
「初対面で」
「そ、そうだけど……なんだよ、疑ってんのか?」
疑っている、と正直に答えるなら、ほとんど全部だった。
けれど、そう考えたところで頭の中から別の声が返ってくる。
――では、その根拠は何ですか。
結局のところ、私が持っているのは怪しい気がするという感覚だけだ。相手の顔も見ていなければ、声を聞いたことすらない。一誠から話を聞いただけで、その少女には何か裏があると決めつけようとしている。
もし、これが本当にただの幸運だったらどうする。
目の前で馬鹿みたいに嬉しそうな顔をしている友人へ、自分の勘だけを理由に水を差すのか。
そもそも、確率だけでは説明しづらい幸運なら、私にだって覚えがある。あの晩、この店の前でお爺さんに拾われたことを確率で説明しろと言われても、今の私には答えられない。
世界には、そういうことがたまにある。
あってほしい、とも思う。
そこまで考えてしまった時点で、私はもう公平な判定者にはなれそうになかった。
「……いえ。おめでとうございます」
「なんだよ、そのしぶしぶ感まるだしの祝福は」
「初めて言うんです、この台詞。噛まなかっただけ褒めてください」
「褒めるとこそこ!?」
「それで、相手の方の連絡先は?」
「交換した! ちゃんと!」
「では、浮かれすぎて転ばないように。それと、相手の都合を考えず連絡を連投するのはやめなさい。嫌われます」
「初彼女できた友人への第一声がそれかよ!」
「第二声です。一応、祝いました」
それからしばらく、一誠は夕麻という少女がどれほど可愛かったのかを延々と語り続けた。声が柔らかかったとか、笑った顔がすごかったとか、自分の名前を呼ばれた瞬間に心臓が止まりかけたとか、聞いていて分かったのは情報として役に立つものがほとんどなく、九割方が一誠自身の感想だということくらいだった。
適当に相槌を打ちながら聞いていると、いつの間にかカウンターの下に置いた自分の手が固く握られていることに気づいた。
もっと詳しく聞けば、何か分かるかもしれない。話の裏側に何があるのか確かめたいという気持ちは確かにある。
けれど、人の恋路を本人の許可もなく検査台へ乗せるような真似は、さすがにするべきではなかった。
「ミライ? 聞いてる?」
「聞いています。相手の方が天使のようだった、という表現は三回目です。語彙を増やしてください」
「そこ数えなくていいだろ!?」
「把握していただけです」
一誠が店を出ていき、入口の鈴が鳴り止んだ後も、私はしばらくカウンターの前から動けなかった。
祝う気持ちは、本物だったはずだ。少なくとも、半分くらいは。
◇
その後の数日間、一誠は誰が見ても分かるほど浮かれていた。
学校でも店でも、顔を合わせれば夕麻の話をする。翌日のまだ空が明るい放課後には松田と元浜にも直接紹介したらしく、わざわざ店までやってきて「二人とも羨ましがってたぜ」と報告していったあたりを見るに、よほど嬉しかったのだろう。
私には紹介しないのですか、と一度だけ聞きかけたが、結局その言葉は飲み込んだ。
実際に会えば、私はきっと観察してしまう。表情や声、目線、一誠との距離の取り方、彼を見る時の反応まで一つずつ拾い上げ、頭の中で勝手に並べて何かおかしなところがないか探し始めるに決まっている。
恋人を紹介された友人としては、かなり失格に近い振る舞いだった。
だから私は彼女には会わず、一誠から話だけを聞き続けた。
数日後、また店へやってきた一誠は、日曜日に初めてのデートをするのだと言った。誘ったのは夕麻の方で、駅前で待ち合わせをして映画を観た後にクレープを食べるという、いかにも高校生らしい予定だった。
それでも、最初から抱えていた違和感は消えてくれない。
近づくだけなら、もっと自然な手順がある。距離を縮めたいのなら、時間をかける方法だっていくらでもあるはずなのに、最初の接触だけは不自然なくらい唐突で、その後の段取りだけが妙に整いすぎている。
そこが、どうにも噛み合わなかった。
「……一誠」
「ん?」
「変だと思ったら、帰ってきてください。デートの途中でも」
口にしてから、しまったと思った。
何がどう変なのか、自分でもうまく説明できない。その言葉には理屈が一枚も巻かれておらず、ただ心配だけが剥き出しのまま飛び出してしまっていた。
一誠はきょとんと私を見た後、すぐに笑った。
「なんだよそれ。心配性かよ、おまえは」
「……悪かったですね、心配性で」
「大丈夫だって。普通のデートだよ、普通の」
普通、という言葉を、一誠は何の疑いもなく口にした。
その顔を見ていると、それ以上何かを言うことはできなかった。
◇
日曜日の店は、平日よりも客が多い。
その日も朝からベルトの交換が二件、電池交換が四件、オーバーホールの相談が一件と仕事は途切れず、忙しさのおかげで手だけはいつも通り動いていた。
ただ、十一時を回った頃から、壁の時計へ目を向ける回数だけが少しずつ増えていった。
十一時なら、今頃は駅前で待ち合わせをしている頃だろう。
だから何だというのだ。
友人の初デートを営業中の店主が気に掛けてどうする。相手は高校生で、行き先は人通りの多い駅前、しかも真っ昼間なのだから、何か起こるような場所でも時間でもない。
何も起こるはずがない。
午後になるまでに同じ結論を十回ほど出したが、十回も結論を出しているということは、それだけ何度も同じことを問い直しているということでもある。つまり私は、少しも自分の結論に納得できていないらしい。
我ながら、ずいぶん往生際が悪かった。
そして夕方、西日が店の奥まで差し込み始めた頃、修理を終えて棚へ戻しておいた置時計の一つが止まっていることに気づいた。
「……?」
今朝、確かに動作確認をした時計だった。
手に取って軽く振り、裏蓋を開けて中を確認してみるが、目につく異常はない。ゼンマイも切れておらず、それ以外の機構にも故障らしいものは見当たらないのに、肝心のテンプだけがぴたりと止まっている。
試しにリューズを軽く回してみると、時計は今までの停止が嘘だったかのように、再び何事もなく時を刻み始めた。
原因不明の停止。
機械物なら、稀に起こることはある。
それだけのことだと考えながら時計を棚へ戻したはずなのに、気づけば私は、針が止まっていた時刻を伝票の裏へ書き留めていた。
午後五時、十六分。
書き終えたところで我に返り、時計が一つ止まったくらいで何をしているんだと思ったものの、丸めて捨てようとしたその紙を、なぜか捨てることができなかった。
結局、そのまま伝票の下へ挟み込む。
やがて日が落ちて閉店の時間になったが、その日、店の鈴が再び鳴ることはなかった。
変だと思ったら帰ってきてください。
そう言ったのだから、一誠が来なかったということは何も変なことなど起きなかったのだろう。映画を観て、クレープを食べて、彼女を送っていき、今頃は浮かれながら家へ帰っているに違いない。
それでいい。
それがいい。
そう自分へ言い聞かせながらシャッターを下ろして鍵をかけたものの、ちゃんとかけたはずの鍵を、私はなぜか一度戻って確かめていた。
◇
一誠が再び店へ現れたのは、翌日の放課後だった。
入口の鈴が、いつもより弱く鳴った。
「ういーっす……」
「いらっしゃいませ。……ひどい顔ですね。寝不足を隠す努力が足りません」
「最近マジで眠くてさぁ……いや、眠いっていうか、なんか変なんだよな」
一誠はカウンター前に置かれた丸椅子へ、身体を投げ出すように腰を下ろした。それ自体は珍しいことではなく、昔からこの男はここを時計店ではなく喫茶店か何かと勘違いしている節があり、それについて訂正することを私は数年前に諦めている。
だから、手が止まった理由は一誠の態度ではなかった。
――音が、違う。
時計職人の耳は、機構が立てる音から状態を聞き分ける。
健康なテンプの規則正しい音も、油が切れかけた時の僅かな乱れも、歯車の歯が一枚欠けた時に混じる不自然な音も、聞き慣れていればある程度は分かる。
もちろん、人間相手にも同じことができるなどと言うつもりはない。
それでも、一誠が入口の鈴を鳴らした瞬間から、うなじの辺りにまとわりついたざわつきが消えてくれなかった。
いつもとは足音の重心が違う。呼吸の間隔も少し違っていて、夕方の薄暗さの中にいるというのに、彼の目だけが妙にはっきりと周囲を捉えている。
そして何より、頭の中にある、あの体温のない知識の棚が反応していた。
普段は開かないと決めているその場所が、先ほどから内側でコツコツと音を立てながら、知っているだろう、と訴えてくる。
――一度、終わったはずの命を。
止まったはずの針を別の理で動かし、人の姿を残したまま、人ではないものとして再び時を刻み始めた存在を。
私は、それを知っている。
実際に見た覚えなどないのに、どういうものなのかも、その後に何が起こるのかも、まるでずっと以前から知っていたことのように答えが浮かんでくる。
物語として、嫌になるほど知っている。
――黙りなさい。
胸の内でそう言い聞かせ、無理やり意識を遠ざける。
これは私が経験した記憶ではない。誰が見たのかも、誰が覚えたのかも分からないまま、目を覚ました時から私の中に紛れ込んでいた、名前のない知識にすぎない。
そういうことにしておけばいい。
少なくとも今は、まだ。
「……なあ、ミライ」
「はい」
「昨日のこと、聞かないの?」
「聞いてほしそうな顔をしていなかったので」
「…………」
一誠は少しだけ笑ったものの、その笑みは長く続かず、すぐに表情から消えていった。
「それがさ。……変なんだよ」
「変、とは」
「デートは、した。覚えてるんだ。駅前で待ち合わせして、映画見て、クレープ食って……夕麻ちゃんと一緒にいた。そこまでは、ちゃんと覚えてる」
「はい」
「でも、最後の方が変なんだ。公園にいて、なんか……刺されて、死ぬ夢を見た気がする」
机の下に置いていた指が、ぴたりと止まった。
「夢、ですか」
「たぶん。だって俺、こうして生きてるし。けど、今朝、松田と元浜に夕麻ちゃんの話したら、二人とも知らないって言うんだ。俺、紹介したはずなのに。ちゃんと、放課後に会わせたのに」
「……」
「それで携帯を見たら、電話番号もアドレスも消えてた。メールもない。告白された日から昨日までのことが、全部なかったみたいになってる」
一誠はそこで笑おうとしたが、口元に浮かんだものは笑みと呼ぶにはあまりに弱々しかった。
「なあ。俺、何日も夢見てたのかな」
――夢。
そういうことにしてしまえば、形だけは整う。
初対面の少女から突然告白されたことも、その後何日も浮かれていたことも、友人たちへ彼女を紹介したことも、日曜日にデートをしたことも、最後に自分が刺されて死んだという感覚さえも、すべてを『夢』という箱の中へ押し込んでしまえば一応の説明にはなる。
けれど、それは説明ではない。
見なかったことにするための名前だ。
自分が死んだことを夢にされ、誰かと過ごした時間までなかったことにされる。
そんなものは修理ではない。記録の改竄だ。
そう考えた瞬間、腹の底へ熱いものが落ち、自分が怒っているのだと遅れて気づいた。
誰に対してなのかは分からない。夕麻という少女なのか、一誠の周囲から記録を消した何かなのか、それとも、これほど違和感が転がっているのに証拠一つ掴めない自分自身なのか。
それでも、「夢だったんでしょう」と一言で済ませ、この不自然な塞ぎ方に加担することだけは嫌だった。
理屈ではなく、ただ嫌だった。
「……一誠」
「ん」
「夢だった、で片付けるのは楽です」
「……」
「ですが、あなたが覚えていることまで、勝手になかったことにしていい理由にはなりません」
一誠の目が、僅かに見開かれた。
「でも、証拠なんか……」
「証拠がないことと、あなたが傷ついたことを笑っていいことは別です」
思っていたよりも強い声が出たため、私はそこで一度小さく息を吸った。
「……何か食べていきなさい」
「え?」
「顔色がひどいですし、眠れてもいない。そのうえ、わけの分からないことまで起きた。そういう日に空腹のまま歩き回るのは感心しません」
「いや、でも」
「おにぎりと味噌汁なら、すぐに出せます。反論は食後に聞きます」
一誠は数秒の間、間の抜けた顔でこちらを見つめた後、ようやく肩の力を抜くように息を吐いた。
「……おまえさ、そういうとこ、じいちゃんに似てきたよな」
「っ……どこがですか」
「困ってる客に、理由聞かないで茶出すとこ」
「…………あの人は客に出していました。あなたは客ではありません。ただの、その……」
「ただの?」
「……味噌汁を飲む要員です。ほら、手を洗う」
「へいへい」
店の奥で簡単な食事を用意すると、一誠は驚くほどよく食べた。
食事をしながら下らない話をいくつかして、その途中で一度だけ黙り込み、それから小さな声で「……サンキューな」と言ったので、何がです、と聞き返すと、「味噌汁が」と返ってきた。
相変わらず、嘘の下手な男だった。
日がさらに傾き、店の奥まで暗くなり始めた頃、私は照明をつけようと立ち上がった。
その直前、一誠がふと足元へ手を伸ばす。
「これ、落ちてたぞ」
差し出されたのは、小さな硬貨だった。
「……見えたのですか」
「え? 普通に」
普通に、と彼は言った。
けれど店の奥はすでにかなり暗くなっており、照明もつけていない状態で床に落ちた小銭をすぐに見つけるのは、少し難しいはずだった。
一誠自身は何も気にしていないらしく、その直後には店の外を通った自転車がブレーキをかける音に、私よりも先に顔を向けた。
視覚と聴覚。
夜が近づくにつれ、彼の中で何かが少しずつ起き上がっている。
そう感じた瞬間、胸の奥が冷えた。
「どうした?」
「……何でもありません。食べ終わったなら、早く帰りなさい。遅くなります」
「あー、松田たちにも呼ばれてるし、ちょっと寄ってくわ」
「寄り道ですか」
「ちょっとだけだって」
「変だと思ったら、帰ってきてください」
気づけば、また同じ言葉を口にしていた。
一誠は一瞬だけ目を丸くした後、今度はいつものように笑った。
「分かったよ。心配性」
「……悪かったですね」
戸口まで出て見送ると、街灯の下を歩いていく背中は何度も見てきた友人のものだった。
それでも、街灯の明かりから外れて少し薄暗い道へ入った瞬間、彼の足取りが昼間よりも僅かに軽く、滑らかになったように見えた。
私は、それを見なかったことにはできなかった。
店へ戻ると、伝票の下に挟んでいた紙片を引き出す。
そこには自分の字で、一つの時刻が残されていた。
午後五時、十六分。
原因もなく止まった時計と、存在しなかったことになった数日間。そして、死ぬ夢を見たという一誠の言葉。
その三つを結ぶ線など、どこにもない。
どこにもないと、何度だって言える。
それなのに、胸の奥に居座ったざわめきだけは、朝から一度も消えてくれなかった。
彼の中で、何かが入れ替わっている。
それを音で分かってしまう自分が、少しだけ恨めしかった。
分かるくせに、その裏蓋の開け方ひとつ知らないのだから。
その夜、店の鈴はもう鳴らなかった。
主人公の名前はミライですが某CV雨宮天(空耳)とは関係ありません