止まった針は時の終わりに未来を見る   作:ドレットノータス

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第2刻 音が変わる

夕方の四時を回ると、店の光は西側の窓に移る。

 

 壁の時計たちの雨音に、下校中の学生たちの声が薄く混ざり始める時間帯。私が持ち込まれた老眼鏡の蝶番を締め直していると、カラン、と鈴が鳴った。

 

「ミライ! 聞いてくれ、大事件だ!」

 

「いらっしゃいませ。大事件、ですか。先に言っておきますが、あなたの言う大事件は八割方、私の業務に関係ありません」

 

「今日はマジだって! いや、いつもマジだけど!」

 

 兵藤一誠は、カウンターに両手をついて身を乗り出した。近い。この男は昔から、嬉しいことがあると距離が縮まる。そして今は、顔全体で浮かれていた。

 

「俺に……彼女が、できました」

 

「……」

 

「おい、なんか言えよ」

 

「……失礼。あまりに予想外の単語が来たので、頭が受け取りを拒否しました。もう一度どうぞ」

 

「彼女! できた! 俺に!」

 

「…………本当に?」

 

「その念の押し方、傷つくからな!?」

 

 彼の説明を要約すると、こうだった。

 

 放課後、一人でいたところを、見知らぬ他校の女子生徒に声をかけられた。名前は天野夕麻。「兵藤一誠くん、ですよね」から始まり、少し会話をした後、「私と、付き合ってくれませんか」に至った。

 

 聞きながら、私は胸の内側がすっと冷えていくのを感じていた。

 

 嫌な話ではない。むしろ、喜ばしい話のはずだ。それなのに、目の前の話と、そこから立ち上る気配が、どうにも噛み合っていなかった。

 

 面識のない相手が、フルネームを知っていた。一人でいるところを狙ったように声をかけてきた。出会いから告白まで、あまりに早い。

 

 できすぎている。

 

「一誠。その方は、あなたのどこを好きになったと言っていましたか」

 

「え? ……優しそう、だから?」

 

「初対面で」

 

「そ、そうだけど……なんだよ、疑ってんのか?」

 

 疑っている。正直に言えば、全部。

 

 だが、そこで私の中の別の声が言う。

 

 根拠は。

 

 あるのは、怪しい気がする、だけだ。相手の顔も見ていない。声も聞いていない。それで水を差して、もし本物の幸運だったら。彼のこの、馬鹿みたいに嬉しそうな顔を、私の勘一つで曇らせるのか。

 

 だいたい、確率の外の幸運なら、私にだって覚えがある。あの晩、この店の前で拾われたことを、確率で説明しろと言われたら今でも困る。世界にはそういうことが、たまにある。あってほしい。

 

 あってほしい、と思ってしまった時点で、私はもう判定者として失格だった。

 

「……いえ。おめでとうございます」

 

「なんだよその、しぶしぶ感まるだしの祝福は」

 

「初めて言うんです、この台詞。噛まなかっただけ褒めてください」

 

「褒めるとこそこ!?」

 

「それで、相手の方の連絡先は」

 

「交換した! ちゃんと!」

 

「では、浮かれすぎて転ばないように。あと、相手の都合を考えずに連絡を連投するのはやめなさい。嫌われます」

 

「初彼女できた友人への第一声がそれかよ!」

 

「第二声です。一応、祝いました」

 

 彼はしばらく、夕麻という少女がどれだけ可愛かったかを語った。声が柔らかかったとか、笑った顔がすごかったとか、自分の名前を呼ばれた瞬間に心臓が止まりかけたとか。情報として有用なものはほとんどなく、感想ばかりだった。

 

 私は相槌を打ちながら、カウンターの下で自分の指が、いつの間にか固く握られていることに気づいた。話の裏側を確かめたくなる。けれど、人の恋路を勝手に検査台へ乗せるものではない。

 

「ミライ? 聞いてる?」

 

「聞いています。相手の方が天使のようだった、という表現は三回目です。語彙を増やしてください」

 

「そこ数えなくていいだろ!?」

 

「把握していただけです」

 

 彼が店を出ていった後、鈴の音が消えても、私はしばらくカウンターの前に立っていた。

 

 祝う気持ちは、本物だったはずなのだ。半分くらいは。

 

 その後の数日間、一誠は分かりやすく浮かれていた。

 

 学校でも店でも、顔を見れば夕麻の話をした。翌日の、まだ空が明るい放課後には、松田と元浜に直接紹介したらしい。わざわざ私の店まで来て、「二人とも羨ましがってたぜ」と報告するあたり、よほど嬉しかったのだろう。

 

 私に紹介する気はないのですか、と聞こうとして、やめた。

 

 会えば、私はきっと観察する。表情、声、目線、距離の取り方。そういうものを一つずつ拾って、頭の中で勝手に並べる。恋人を紹介された友人としては、かなり失格に近い振る舞いだ。

 

 だから、会わなかった。会わないまま、一誠の話だけを聞いた。

 

 数日後、彼はまた店に来て、日曜にデートをするのだと言った。夕麻の方から提案されたらしい。駅前で待ち合わせ、映画を見て、クレープを食べる。いかにも高校生らしい予定だった。

 

 ただ、私の中ではずっと、ひとつの違和感が転がっていた。

 

 近づくだけなら、もっと自然な手順がある。距離を縮めるなら、もっと時間をかける方法がある。なのに、始まりは雑で、その後の段取りだけは妙に整っている。

 

 そこが、どうにも噛み合わなかった。

 

「……一誠」

 

「ん?」

 

「変だと思ったら、帰ってきてください。デートの途中でも」

 

 言ってから、しまった、と思った。理屈が一枚も巻いていない、剥き出しの言葉が出た。

 

 彼はきょとんとして、それから笑った。

 

「なんだよそれ。心配性かよ、おまえは」

 

「……悪かったですね、心配性で」

 

「大丈夫だって。普通のデートだよ、普通の」

 

 普通。その言葉を、彼は疑いなく口にした。私はそれ以上、何も言えなかった。

 

 日曜の店は、平日より客が多い。

 

 その日も朝から途切れなく仕事をした。ベルトの交換が二件、電池の交換が四件、オーバーホールの相談が一件。手は動いた。

 

 ただ、十一時を回った頃から、壁の時計を見る回数が増えた。

 

 十一時。駅前。今頃、待ち合わせだ。

 

 だから何だ、というのだ。友人の初デートを、営業中の店主が気に掛けてどうする。相手は高校生で、行き先は駅前で、真っ昼間だ。何も起こりようがない。

 

 何も起こりようがないと、午後までに十回は結論を出した。十回結論が出るということは、十回問い直しているということで、つまり私は全然納得していなかった。我ながら往生際が悪い。

 

 夕方、西日が店に差し込む頃。

 

 修理を終えて棚に並べておいた置時計が、一つ、止まっていた。

 

 今朝、確かに動作確認をした個体だった。手に取り、振り、裏蓋を開ける。異常はない。ゼンマイも切れていない。それなのに、テンプが止まっている。

 

 リューズを軽く回すと、時計は何事もなかったように動き出した。

 

 原因不明の停止。機械物には稀にある。稀に、ある。それだけのことだ。

 

 それだけのことなのに、手が勝手に、針の指していた時刻を伝票の裏に書き留めていた。

 

 午後五時、十六分。

 

 書いてから、我に返った。何をしているんだ、私は。時計が一つ止まったくらいで。

 

 メモを丸めようとして、丸められずに、伝票の下に挟んだ。

 

 日が落ちて、閉店の時間になった。

 

 鈴は、鳴らなかった。

 

 変だと思ったら帰ってこい、とは言った。鳴らないということは、変なことは何もなかったということだ。きっと映画を観て、クレープを食べて、送っていって、今頃は浮かれて帰宅している。それでいい。それがいい。

 

 私はシャッターを下ろし、鍵をかけた。かけたはずの鍵を、なぜかもう一度、確かめに戻った。

 

 彼が店に現れたのは、翌日の放課後だった。

 

 鈴の音が、いつもより弱かった。

 

「ういーっす……」

 

「いらっしゃいませ。……ひどい顔ですね。寝不足を隠す努力が足りません」

 

「最近マジで眠くてさぁ……いや、眠いっていうか、なんか変なんだよな」

 

 一誠はカウンター前の丸椅子に、崩れるように座った。それ自体はいつものことだ。彼は昔からここを喫茶店か何かと勘違いしている節があり、私も訂正を数年前に諦めている。

 

 だから、手が止まった理由は、態度ではなかった。

 

 音が、違う。

 

 時計職人の耳は、機構の音で状態を聞き分ける。健康なテンプの音、油の切れた音、歯が一枚欠けた音。人間相手にそれが通用するなんて言うつもりはない。ないのだけれど、彼が鈴を鳴らした瞬間から、うなじの辺りがずっとざわざわしていた。

 

 足音の重心が違う。呼吸の間隔が違う。夕方の薄暗さの中で、彼の目だけが妙に迷っていない。

 

 そして何より。

 

 頭の中の、あの体温のない知識の棚。普段は開けないと決めている棚が、さっきから内側で、コツコツと音を立てている。

 

 知っているだろう、と。

 

 人の形のまま、人と違う時間を生き始めたものを。おまえは物語として、嫌になるほど知っているはずだろう、と。

 

 黙りなさい。あれはただの、誰のものかも分からない記憶だ。

 

「……なあ、ミライ」

 

「はい」

 

「昨日のこと、聞かないの?」

 

「聞いてほしそうな顔をしていなかったので」

 

「…………」

 

 彼は少し笑って、それから、笑いを畳んだ。

 

「それがさ。……変なんだよ」

 

「変、とは」

 

「デートは、した。覚えてるんだ。駅前で待ち合わせして、映画見て、クレープ食って……夕麻ちゃんと一緒にいた。そこまでは、ちゃんと覚えてる」

 

「はい」

 

「でも、最後の方が変なんだ。公園にいて、なんか……刺されて、死ぬ夢を見た気がする」

 

 私の指が、机の下で止まった。

 

「夢、ですか」

 

「たぶん。だって俺、こうして生きてるし。けど、今朝、松田と元浜に夕麻ちゃんの話したら、二人とも知らないって言うんだ。俺、紹介したはずなのに。ちゃんと、放課後に会わせたのに」

 

「……」

 

「それで携帯を見たら、電話番号もアドレスも消えてた。メールもない。告白された日から昨日までのことが、全部なかったみたいになってる」

 

 彼は笑おうとした。うまく笑えていなかった。

 

「なあ、俺、何日分も夢見てたのかな」

 

 夢。

 

 そう言ってしまえば、形は整う。初対面の告白も、数日間の浮かれた記憶も、友人に紹介したことも、日曜のデートも、最後に見た死の感覚も。全部、夢という箱に押し込めれば、説明はつく。

 

 けれど、それは見なかったことにするための名前だ。

 

 死んだことを夢にされる。誰かと過ごした時間を、なかったことにされる。

 

 それは修理ではない。記録の改竄だ。

 

 そう思った瞬間、腹の底に熱が落ちた。私は怒っているのだと、遅れて気づいた。

 

 誰に対してかは分からない。夕麻という少女にか。彼の記録を消した何かにか。それとも、証拠もないまま何もできずにいる自分にか。

 

 分からない。けれど、夢だったんでしょう、と言って、この塞ぎ方に加担するのだけは嫌だった。理屈ではなく、嫌だった。

 

「……一誠」

 

「ん」

 

「夢だった、で片付けるのは楽です」

 

「……」

 

「ですが、あなたが覚えていることまで、勝手になかったことにしていい理由にはなりません」

 

 一誠は、少しだけ目を見開いた。

 

「でも、証拠なんか……」

 

「証拠がないことと、あなたが傷ついたことを笑っていいことは別です」

 

 声が思ったより強くなった。私は一度、息を吸う。

 

「……何か食べていきなさい」

 

「え?」

 

「顔色がひどい。眠れていない。わけの分からないことが起きた。そういう日に空腹のまま歩き回るのは、感心しません」

 

「いや、でも」

 

「おにぎりと味噌汁ならすぐ出せます。反論は食後に聞きます」

 

 彼は数秒、間の抜けた顔で私を見た。それから、ふ、と力の抜けた息を吐いた。

 

「……おまえさ、そういうとこ、じいちゃんに似てきたよな」

 

「っ……どこがですか」

 

「困ってる客に、理由聞かないで茶出すとこ」

 

「…………あの人は客に出していました。あなたは客ではありません。ただの、その……」

 

「ただの?」

 

「……味噌汁を飲む要員です。ほら、手を洗う」

 

「へいへい」

 

 店の奥で、簡単な食事を出した。一誠はよく食べた。驚くほど食べた。下らない話をいくつかして、途中で一度だけ黙り込んで、それから小さく「……サンキューな」と言った。

 

 何がです、と聞き返したら、「味噌汁が」と返ってきた。嘘の下手な男だ。

 

 日が傾き、店の奥が暗くなり始めた頃、私は照明をつけるために立ち上がった。その前に、一誠が床に落ちていた小銭を拾った。

 

「これ、落ちてたぞ」

 

「……見えたのですか」

 

「え? 普通に」

 

 普通に。

 

 店の奥は、もうかなり暗かった。照明なしで床の小銭を見つけるのは、少し難しいはずだった。

 

 彼は気にしていない。気にしていないまま、外を通った自転車のブレーキ音に、私より先に顔を向けた。

 

 視覚。聴覚。夜が近づくにつれて、何かが少しずつ起き上がっている。

 

 そう感じた瞬間、胸の奥が冷えた。

 

「どうした?」

 

「……何でもありません。食べ終わったなら、早く帰りなさい。遅くなります」

 

「あー、松田たちにも呼ばれてるし、ちょっと寄ってくわ」

 

「寄り道ですか」

 

「ちょっとだけだって」

 

「変だと思ったら、帰ってきてください」

 

 同じことを、また言っていた。一誠は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。

 

「分かったよ。心配性」

 

「……悪かったですね」

 

 戸口で見送るとき、街灯の下を歩いていく背中は、見慣れた友人のものだった。ただ、薄暗い道に入った瞬間、彼の足取りが昼間より少しだけ軽く、なめらかに見えた。

 

 私はそれを、見なかったことにできなかった。

 

 店に戻り、伝票の下に挟んだメモを引き出した。

 

 午後五時、十六分。

 

 原因不明で止まった時計と、存在しないことになった数日間と、死ぬ夢を見たという彼の言葉。結ぶ線なんて、どこにもない。どこにもない、と何度でも言える。言えるのに、胸の奥のざわめきだけが、朝からずっと止んでくれなかった。

 

 彼の中で、何かが入れ替わっている。

 

 音で分かってしまう自分が、少しだけ恨めしかった。

 

 分かるくせに、裏蓋の開け方ひとつ知らないのだから。

 

 その夜、店の鈴はもう鳴らなかった。




主人公の名前はミライですが某CV雨宮天(空耳)とは関係ありません
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