カラン、と入口の鈴が鳴った。
男性が店を出ていく。
扉が閉まると、店内には、また時計の音だけが残った。
私はカウンターの上に置かれた預かり証の控えを確認し、作業記録へ返却済みの印を入れた。
品名、懐中時計。 作業内容、分解清掃、注油、歩度調整。 外装研磨なし。 交換部品なし。
名前の欄は、最後まで空白のままだった。
けれど、それで問題はない。預かり番号と品物、返却時に持ち込まれた控えは一致していた。時計は持ち主のもとへ戻った。それ以上、時計店が記録する必要はなかった。
私は控えを棚へ戻し、革張りの箱が置かれていた場所を見る。
預かり棚の一角が、少しだけ広くなっていた。
大きな仕事が一つ終わった。
それは良いことのはずだった。けれど、次に手を伸ばすものがなくなると、店の静けさが急に濃くなったように感じた。
急ぎの修理はない。今日中に引き渡す時計もない。部品待ちの品は、こちらから手を出せない。見積もりの返事待ちも、急かすようなものではない。
私は棚の扉を閉め、店内を見回した。
壁時計が、規則正しく針を進めている。柱時計の振り子が、左右へ静かに揺れている。ショーケースの中には、修理済みの腕時計が何本か並んでいる。どれも手入れは終わっていた。
入口の鈴は鳴らない。通りを歩く人影も少なかった。窓越しに見える商店街は、昼と夕方の間にできる、少し気の抜けた時間の中に沈んでいた。
私はカウンターへ戻り、学校の課題を広げた。
こういう時に終わらせておくべきだ。それは分かっている。分かっているので、私はシャープペンを手に取り、ノートへ日付を書いた。
一問目。解く。二問目。解く。三問目。
途中で、柱時計の音が少しだけ気になった。異常ではない。むしろ正常だ。正常だからこそ、耳に残る。
私は視線をノートへ戻した。
四問目。五問目。答え合わせ。間違いが一つ。消しゴムで消して書き直す。
それが終わると、また静かになった。
私は椅子から立ち上がり、店の奥から布巾を持ってきた。カウンターを拭く。すでに汚れてはいなかったが、もう一度拭いた。次にショーケースのガラスを拭いた。これも、特に汚れてはいなかった。
工具の並びを確認する。精密ドライバー。ピンセット。油差し。ルーペ。部品皿。どれもあるべき場所にある。
小さなネジの入ったケースを開け、種類ごとに分かれているか確認した。分かれていた。蓋を閉める。
部品棚の在庫表を見る。今すぐ注文が必要なものはない。
湯を沸かそうかと思ったが、さっき淹れた茶がまだ少し残っていた。飲むと、ぬるかった。
私は椅子に座り直した。課題へ戻る。けれど、さっきより文字が頭に入ってこない。
店が忙しい時は、静かな時間が欲しくなる。だが、いざ静かになると、余計なことを考え始める。
暇だった。
そう言い切るのは、少しだけ抵抗があった。課題は残っている。棚の整理も、やろうと思えばできる。修理待ちの時計もあるにはある。けれど、今日中に触らなければならないものはない。
つまり、暇だった。だから、余計なことを考えた。
聖剣の一件の後、私は無意識にライドウォッチを握っていた。
ファイズ。
あれは、最初から用意していたものではない。使おうと決めていたわけでもない。けれど、祐斗と、乾巧という名前と、ファイズという力が、どこかで重なった。その結果、私はあれを手にしていた。
なら、縁のあるものなら、出せるのではないか。
ライダーそのものの力は、まだ分からない。変身できるわけでもない。扱えるとも思わない。けれど、ライドウォッチを起点にすれば――私の中にある記憶と、今ここにある状況が噛み合ったものを、形にできるのではないか。
私は店内を見回した。壁時計。柱時計。作業台。工具。部品棚。
ここは時計店だ。
私が一番落ち着いて、ものを考えられる場所。 私が唯一、自分の力で何かを直せる場所。
なら、試すなら今だと思った。
時計店に縁があるもの。修理に縁があるもの。爺さんに縁があるもの。
その三つを満たすものを、私は一つだけ知っている。
「……デンライナー」
時を走る列車。普通の時計ではない。普通の電車でもない。そもそも、この店に収まるはずもない。
それは分かっている。分かっているから、今まで試そうとは思わなかった。
忙しい時にやることではない。客が来る可能性のある時にやることでもない。修理の納期が迫っている時なら、考えるだけで終わらせるべきだった。
けれど、今は違う。
入口の鈴は鳴らない。修理の予定も空いている。課題は、急げば夜までには終わる。
店内は、少し困るくらい静かだった。
私はカウンターの下から、一つのライドウォッチを取り出した。
電王。
指先で表面をなぞる。
この力を、使いこなせるとは思っていない。出せるかどうかも分からない。出していいのかも分からない。
けれど、仮説を確かめるなら、今ほど都合のいい時間はなかった。
「……構造を確認するだけなら」
声に出してから、自分でも無理があると思った。構造を確認するだけで済む相手ではない。
私は店の窓を確認した。外に人影はない。入口の札は、まだ営業中のままだった。少し迷ってから、札を裏返す。
修理中
それから、内鍵も掛けた。
これで、少なくともすぐに客が入ってくることはない。
私は電王ライドウォッチを作業台の上に置いた。
すぐには押さなかった。勢いで試すには、相手が大きすぎる。時計やラジオなら、失敗しても机の上で済む。けれど、相手は列車だ。しかも、普通の線路を走る列車ではない。
出すなら、店内ではない。道路でもない。誰かを巻き込む場所でもない。修理できる場所へ。
そう考えた瞬間、ライドウォッチの感触が変わった。
硬いはずの表面が、ほんのわずかに熱を持つ。
私は息を止めた。指に力を入れる。
軽い音がした。
その音は、作業台の上だけで終わらなかった。
店内の時計が、一斉に一拍遅れた。壁時計も、柱時計も、ショーケースの中に並ぶ腕時計も、すべてが同じ瞬間だけ針を止めた。
そして次の瞬間、何事もなかったように動き出す。
「……今のは」
言いかけた時、床の下から低い鐘の音が響いた。
ごん、と。
古い寺の鐘にも似た、深い音だった。店の時計ではない。
二度目の音が鳴る。床板の下で、何か巨大なものが動いている。歯車が噛み合い、鎖が巻き上げられ、長い間眠っていた機械が目を覚ますような音。
地下だ。
私は電王ライドウォッチを手に取り、店の奥へ向かった。
地下作業場へ続く階段を降りる。
地下はいつもより暗く感じた。照明は点いている。棚も、工具も、部品箱も、いつも通りの場所にある。けれど、奥の壁だけが違っていた。
そこには、昔から開かない大時計があった。
数字のない文字盤。複数の針。歯車だけで作られたような盤面。
爺さんが残したものだと思っていた。壊れているわけではないが、動かない。使い道も分からない。だから私は、触らずにいた。
その針が、動いていた。
一本目の針が真上を指す。二本目の針が、それを追う。三本目、四本目、さらに細い針が、次々と同じ場所へ集まっていく。
すべての針が重なった瞬間、文字盤の奥で鍵の外れる音がした。
巨大な時計が、左右へ開いた。
その向こうは、地下室ではなかった。
ホームだった。
線路がある。一本ではない。いくつもの線路が、暗い空間の奥へ伸びている。その左右には整備用の足場が組まれ、天井からは巨大なクレーンの腕が降りていた。壁面には工具棚と部品庫。奥には駅の待合室のような区画まで見える。
だが、ただの駅ではない。壁そのものが車体の内側のように湾曲していた。天井には歯車と振り子が並び、どこかで汽笛にも時計の鐘にも聞こえる音が反響している。
巨大な列車の中に、整備工場と駅を丸ごと収めたような場所だった。
「……この店の地下に、入る大きさではありませんね」
当然の確認を口にする。誰も答えない。
私は一歩、ホームへ踏み入れた。
空気が違う。地下の湿った空気ではない。油と金属と、古い木材と、時計の中に溜まった埃のような匂いが混じっている。
足元の線路が、かすかに光った。
次の瞬間、遠くから轟音が聞こえた。
列車の走行音。それは急速に近づいてくる。
「……まさか」
私は反射的に足場の柱へ手をかけた。
暗い線路の奥に、赤い光が見えた。光は大きくなり、音はさらに大きくなる。
ブレーキの悲鳴。火花。警告音。
赤い列車が、線路の奥から飛び込んできた。
速度は落ちている。けれど、止まるには速すぎる。車体の側面が足場すれすれをかすめ、積まれていた部品箱が風圧で倒れた。
私は動けなかった。
列車はホーム中央の整備線へ滑り込み、最後に大きく車体を揺らして停止した。
金属が軋む。煙が上がる。照明が点滅する。
赤い車体の一部には、明らかな損傷があった。外装が裂け、接続部が歪み、ところどころに焦げた跡がある。窓の向こうの灯りも安定していない。
私は、手の中の電王ライドウォッチを見た。次に、目の前の列車を見た。
「……呼び出しには、成功したようです」
成功と呼んでいいのかは、まだ分からない。
その時、列車の扉が勢いよく開いた。
「どわああああああっ!」
赤い何かが飛び出してきた。飛び出したというより、転がり落ちた。
それはホームの床を滑り、積まれていた工具箱に頭から突っ込んだ。工具が派手に散らばる。部品皿が跳ね、ネジが床に転がった。
私は少しだけ眉を寄せた。
「工具箱は、衝撃を受ける前提では置いていません」
「第一声がそれか!」
赤い怪人が、工具箱から顔を上げた。
尖った角。赤い体。荒っぽい声。
知っている。記憶の中にいる。
だが、目の前にいるのは、記憶ではなかった。
「おい、お前! ここどこだ! 何しやがった!」
「時計店の地下です」
「地下に電車が来る時計店があるか!」
「私も初めて知りました」
「お前ん家だろうが!」
「正確には店舗兼住居です」
「そういう話じゃねえ!」
赤い怪人は立ち上がり、こちらへ詰め寄ってきた。
怒っている。かなり怒っている。
ただし、怒りの向きは私だけではない。何度も背後の列車を振り返っている。壊れたデンライナーの方を、明らかに心配している。
私はその様子を見て、名前を口にした。
「モモタロス」
「あ?」
「あなたは、モモタロスですね」
彼は動きを止めた。目つきが変わる。
「なんで俺の名前を知ってんだ」
「知識として知っています」
「誰から聞いた」
「分かりません」
「分かんねえのに知ってんのかよ!」
「はい」
「堂々と言うな!」
モモタロスは苛立ったように頭をかいた。けれど、すぐに背後のデンライナーへ視線を戻した。
「それより、デンライナーだ。なんでこんな所に出たんだよ。つーか、なんで壊れてんだよ」
「おそらく、私が呼び出したからだと思います」
「お前か!」
「はい」
「じゃあ直せ!」
あまりに早い要求だった。
私は壊れたデンライナーを見る。
外装の損傷。足回りの異常。動力の乱れ。時の線路へ接続するための機構らしき部分にも、何か歪みがある。
分からない部品は多い。けれど、どこを見るべきかは分かった。
私は作業台へ向かい、手袋を取った。
「まず状態を確認します」
「確認じゃねえ、直せ!」
「確認しなければ直せません」
「そんなの見れば分かるだろ!」
「見て分かるのは、壊れているということだけです」
私は工具棚を見た。見覚えのない工具が並んでいる。だが、不思議と手が迷わない。用途ごとではなく、作業の順番に沿って置かれている。爺さんの棚と同じ癖だった。
点検灯。大型のレンチ。精密測定器。通常の時計修理では使わない規模の工具。
私は必要なものを取り、足場へ上がった。
モモタロスが下から見上げる。
「本当に直せんのかよ」
「時間はかかります」
「できるかできねえかを聞いてんだ」
私はデンライナーの車体に手を添えた。
金属の奥で、まだ熱が残っている。
変な話だが、時計を触っている時と同じ感覚がした。
止まっている。けれど、壊れきってはいない。進み方を忘れているだけだ。
「直せます」
モモタロスが黙った。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ、彼の表情から怒りが消えた。
私は工具を構える。
「ただし、修理中は勝手に触らないでください」
「俺のデンライナーだぞ!」
「修理中は私の仕事場です」
「なんでお前まで、あの時計屋のおっちゃんみたいなこと言うんだよ!」
手が止まった。
私は振り返る。
「時計屋の、おっちゃん?」
「あ? なんだよ」
「その人を知っているのですか」
「そりゃ知ってるよ。前にデンライナーを直した変なおっちゃんだろ。時計屋の。壊れたもんは直すもんだ、とか言ってた」
胸の奥で、針が一つ動いた気がした。
爺さん。
名前を聞かなくても、分かった。
分からないことが、また増えた。
けれど、今は後回しだった。
私は視線をデンライナーへ戻す。
「話は後で聞きます」
「後かよ!」
「はい。今は修理が先です」
「お前、本当にあのおっちゃんの身内か何かじゃねえのか……」
「血縁かどうかは分かりません」
「そこも分かんねえのかよ!」
「ですが」
私は工具をデンライナーの外装部へ当てた。
「直し方は、分かります」
ホームに、時計の音が響いていた。
どこにあるのか分からない無数の時計が、ばらばらの時刻を刻んでいる。
その音の中で、私は最初のネジを外した。
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