止まった針は時の終わりに未来を見る   作:ドレットノータス

24 / 39
今回は、読者の方からいただいたリクエストをもとに執筆した短編です。

リクエストされた内容を一つの物語として成立させるため、独自設定・独自解釈・ご都合主義をかなり強めに含んでいます。原作設定をそのまま再現したものではないため、あらかじめご了承ください。

また、短編と銘打っていますが、内容をまとめた結果、全体で約六万字ほどあります。お時間のあるときにお読みいただければと思います。

本作には、『ハイスクールD×D』の設定や能力に関するネタバレが含まれます。

物語としては本編と地続きですが、本編を読んでいなくても、この短編だけで内容が分かるように構成しています。


短編2 もう一人の赤龍帝

カラン、と入口の鈴が鳴った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 作業台から顔を上げると、以前ここへ懐中時計を預けに来た中年の男性が店へ入ってきた。仕立てのよい上着を自然に着こなし、落ち着いた足取りでカウンターへ近づいてくる。前に訪れたときと変わらず物腰は穏やかで、こちらを急かすような様子もなかった。

 

「連絡をもらったのでね。時計を受け取りに来た」

 

「お待ちしていました。準備はできています」

 

 私は作業机の引き出しから、革張りの箱を取り出した。箱そのものも、預かったときと変わらない。使い込まれた表面の擦れも、角に残る小さな傷も、こちらの判断で手を入れてはいない。

 

 蓋を開ける。中には、分解清掃と調整を終えた懐中時計が収められていた。宝石や派手な彫刻を持たない、古く、上質で、静かな時計。百年以上前に、名を残すほどの時計師が、特定の誰か一人のためだけに作ったと思われる品。

 

 公開されている作品目録には存在せず、工房名も製造番号も刻まれていない。それでも、受け板の曲線や歯車の仕上げ、三番車を支える部分に施された小さな三日月形の切り込みを見れば、誰の手によるものかは分かった。そして何より、この時計には長い時間を日用品として使われ続けてきた痕跡があった。

 

 私は箱から時計を取り出し、柔らかな布の上へ置いた。

 

「まず、こちらで動作をご確認ください」

 

 竜頭を巻いてから、男性へ差し出す。男性は時計を受け取ると、蓋を開き、文字盤へ目を落とした。

 

 秒針は、規則正しく進んでいる。止まりかけていた以前の動きとは違う。振り角は十分に戻り、姿勢を変えても歩度の乱れは小さい。耳を近づければ、輪列の動きも軽く、一定の音を刻んでいた。

 

 男性は何も言わず、しばらくその音を聞いていた。単に正確に動いているか確認しているだけには見えなかった。けれど、私は尋ねなかった。

 

「内部はすべて分解し、古くなった油を除去しました。摩耗粉も残っていたので、各部品を洗浄したあと、必要な箇所だけ注油しています」

 

「部品の交換は?」

 

「行っていません」

 

 男性が、わずかに目を上げた。

 

「主ゼンマイも?」

 

「はい。力が弱く見えた原因は、ゼンマイそのものより、劣化した油と輪列側の抵抗にありました。清掃後に確認しましたが、主ゼンマイにはまだ十分な弾力があります。交換する必要はないと判断しました」

 

「そうか」

 

「歯車や軸にも摩耗はありますが、百年以上使われた時計としては驚くほど状態がよいです。過去に整備した方々が、かなり慎重に扱っていたのだと思います」

 

 この時計には、何度も分解された痕跡が残っていた。古い工具によるもの。より新しい時代の技法によるもの。手を入れた職人は一人ではない。それでも、元の部品と設計を尊重し、交換は必要最小限に留められてきた。目立たない場所でさえ、雑に削られたり、規格の違う部品を無理に押し込まれたりした形跡がない。何世代もの整備者が、この時計を次の時代へ残そうとしてきた。私が行ったことも、その一つにすぎない。

 

「歩度は調整しましたが、現代の時計と同じ精度へ無理に合わせてはいません。姿勢差はかなり小さくなっています。ただし、古い機械式時計なので、日々多少の進み遅れは出ます」

 

「それで構わない」

 

「外装にも触れていません。ケース表面の傷や、縁の摩耗、竜頭に残った使用痕はすべて預かったときのままです」

 

 男性は、指先でケースの縁をなぞった。長い使用によって、わずかに丸みを帯びた部分だった。

 

「それでいい」

 

「研磨すれば見た目だけは新しくできますが、この時計の場合、行うべきではないと思いました」

 

「前にも、同じことを言っていたな」

 

「判断は変わらなかったので」

 

 私は時計の状態記録をカウンターへ置いた。分解前の測定値。内部の状態。実施した作業。注油した箇所。分解清掃後の歩度と振り角。交換部品なし。外装処理なし。預かったときより書き込みは増えているが、持ち主のことについては何も記していない。

 

 この時計がどこから来たのか。なぜ公開目録にない品を、この男性が持っているのか。百年以上にわたって一貫している使用痕は、何を意味しているのか。疑問は今も残っていた。それでも、整備に必要のない質問であることは変わらない。

 

「数日は、実際に持ち歩きながら様子を見てください。大きく遅れる、止まる、異音がするなどの症状が出た場合は、すぐに持ってきてください」

 

「君が直したものなら、まず心配はいらないだろう」

 

「時計に絶対はありません」

 

「ずいぶん慎重だな」

 

「大切な時計なのでしょう?」

 

 男性は、手のひらの懐中時計へ視線を落とした。

 

「ああ。大切なものだ」

 

「でしたら、問題がないと決めつけるより、何かあったときにすぐ確認できる方がよいです」

 

「もっともだ」

 

 男性は小さく笑い、懐中時計を革張りの箱へ戻した。預かったときと同じ、自然な手つきだった。高価な骨董品を恐る恐る扱う動きではない。長年使い慣れた日用品を、いつもの場所へ戻す動き。やはり、どこか不思議だった。

 

「兵藤一誠くんにも、よい店を紹介してもらったと伝えておこう」

 

「一誠に会う予定があるのですか?」

 

「仕事柄、また顔を合わせることもあるだろうからね」

 

「そうですか」

 

 一誠が初めて結んだ契約の相手。それ以上のことを、この男性は話さなかった。私も尋ねなかった。契約の詳しい内容も、男性の仕事も、私が知るべきことではない。

 

「それでは、こちらが代金になります」

 

「確かにお預かりします」

 

 会計を済ませ、領収書を渡す。男性は革張りの箱を上着の内側へ大切に収めた。

 

「世話になったよ」

 

「ありがとうございました」

 

「また時計に何かあれば、頼ませてもらう」

 

「できれば、何もない方がよいですけどね」

 

「商売人らしくないことを言うんだね」

 

「壊れるのを待つようになったら、時計屋ではなくなります」

 

 男性は一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。

 

「なるほど。それもそうだ」

 

 店の扉が開く。カラン、と鈴が鳴り、男性は外へ出ていった。扉が閉じるまで、その姿を見送る。窓の向こうを歩く背中は、やがて通りの人影に紛れて見えなくなった。店内には、壁に並んだ時計たちの音だけが残った。

 

「……結局、何者だったのでしょう」

 

 答えはない。独り言を口にしただけで、男性を調べようとは思わなかった。正体が分からなくても、時計の持ち主であることに疑いはない。あれほど長く使われた時計を、あれほど自然に扱う者から、好奇心だけで過去を聞き出すつもりもなかった。

 

 私は修理記録を閉じ、引き出しへ収めた。カウンター脇の時計を見る。閉店まで、まだ少し時間がある。けれど、新しい客が来る気配はなかった。作業机には、電池交換を終えた腕時計と、明日引き渡す予定の目覚まし時計が置かれている。急ぎの仕事は残っていない。

 

 私は店の奥へ声をかけた。

 

「モモ。少し下へ行ってきます」

 

「おう」

 

 返事は聞こえた。ただし、姿は見えない。居間を覗くと、モモはソファへ横になり、片手に菓子の袋を持ったままテレビを見ていた。足元には、空になった飲み物の容器が転がっている。

 

「店にお客さんが来たら呼んでください」

 

「分かってるって」

 

「本当に?」

 

「鈴が鳴るんだろ? 聞こえたら呼ぶ」

 

「先ほどのお客さんが入ってきたとき、反応しませんでしたよね」

 

「あれはお前が対応してたから任せたんだよ」

 

「ソファで目を閉じていたように見えましたが」

 

「考え事してたんだ」

 

「口を開けて?」

 

「考え事の仕方に文句つけんな!」

 

 私は床の容器を拾い、モモの腹の上へ置いた。

 

「これも片づけてください」

 

「あとでやる」

 

「今」

 

「お前、最初の頃より絶対に遠慮なくなってるよな」

 

「モモに遠慮すると、部屋がゴミで埋まると学びました」

 

「埋まるほど散らかしてねえ!」

 

「その容器で三つ目です」

 

「数えてたのかよ!」

 

「視界に入りますから」

 

 モモは文句を言いながら身体を起こし、空の容器を持って台所へ向かった。捨てたことを確認してから、私は店の裏手にある扉へ向かう。

 

「下って、デンライナーか?」

 

「はい」

 

「まだ直ってねえのか?」

 

「まだです」

 

「昨日もずっとやってただろ」

 

「昨日は故障箇所の特定まで進みました。今日は修理を試します」

 

「本当に場所合ってんのか?」

 

「……合っています」

 

「今、ちょっと間があったぞ」

 

「合っているはずです」

 

「余計に怪しくなったじゃねえか」

 

「確認してきます」

 

 私は会話を切り上げ、地下へ続く階段を下りた。

 

 最初の地下室には、時計用の部品と工具が保管されている。その奥、普段は複数の鍵をかけている金属製の扉へ手を触れる。軽い電子音とともに、ロックが順番に解除された。厚い扉を開く。その先には、時計店の外観からは想像できないほど広い地下空間がある。

 

 線路の敷かれた地下ドック。天井には作業用の照明が並び、中央には赤と白を基調とした巨大な車両が停まっている。本来なら、時間の中を走る列車。けれど現在は、中枢機構の一部が故障し、自力で時間を越えることができない。通常の線路を走る機能まで完全に失われたわけではないらしい。しかし、デンライナーの本質である時間移動機能が壊れている以上、列車として正常な状態とは言えなかった。

 

 車体中央部の整備用ハッチは、昨日の作業を終えたときから開いたままにしてある。その内部には、通常の機械とは大きく異なる機構が幾重にも組み合わされていた。歯車に似た回転体。基板に見える板。一定の形を持たず、光の筋として内部を流れるエネルギー。金属部品同士が物理的に接続されている場所もあれば、触れていない装置同士が何らかの力で連動している場所もある。時計と同じように、動くための規則はある。だが、その規則が私の知る機械工学だけで説明できるものではなかった。

 

 作業台の上には、工具と外した部品、それから何枚もの紙が並んでいる。紙には、私が確認できた範囲の構造を手書きで記していた。どの回転体がどの機構と連動しているのか。どの経路を光が通り、どの順番で各部が動き始めるのか。起動させた際、どこで音が乱れ、どの部分が停止したのか。最初は白紙だった図には、何度も線が引き直され、余白へ新しい注意書きが増えていた。

 

 昨日までの調査では、時間軸上の現在位置を読み取り、それを目的となる時刻と照合する機構の近くで、回転のずれが発生していることまで突き止めていた。複数の薄い円盤を重ねたような装置。円盤同士は触れていない。それでも起動すれば、それぞれが異なる速度で回転し、周囲を流れる光の筋を一定の間隔で次の機構へ送り出す。

 

 昨日は、そのうち一枚だけが遅れていた。ほんのわずかな遅れだった。けれど、時間を越えるための機構にとっては、無視できないずれらしい。その円盤を支える軸受けに、わずかな摩耗があった。これが原因だと思った。少なくとも、昨日までは。

 

「では、始めます」

 

 誰に言うでもなく口にし、作業用の手袋を嵌める。固定具を外し、円盤を一枚ずつ取り出す。金属に似ているが、通常の金属とは違う材質だった。光にかざすと、表面の奥を細い線が流れている。触れれば冷たいのに、指先を長く置いていると、かすかな脈動が伝わってくる。

 

 傷をつけないよう、柔らかな布の上へ並べる。摩耗した軸受けを外す。昨日のうちに、予備部品を削り合わせておいた。元の部品とまったく同じではない。それでも、厚みと重さ、軸を受ける角度は可能な限り揃えてある。

 

 新しい軸受けを嵌める。円盤を元の順番へ戻す。固定具を締める。指で一枚ずつ回し、抵抗を確かめた。引っかかりはない。隣の円盤へ触れることもない。

 

「これなら……」

 

 工具を置き、開いたハッチから離れる。修理が正しかったかどうかは、実際に動かさなければ分からない。

 

 私はデンライナーへ乗り込み、先頭車両の運転席へ向かった。人のいない車内を歩く。普段は賑やかな声が響いていたであろう場所も、今は静まり返っている。

 

 運転席には、複数の計器と操作器が並んでいた。細かな機能のすべてを理解しているわけではない。けれど、時間移動機能を起動させるための手順は、これまでの試行で把握している。基準となる時刻を合わせる。進行方向を固定する。安全装置を解除する。最後に、起動用のレバーへ手をかけた。

 

「お願いします」

 

 誰に頼んでいるのか、自分でも分からなかった。

 

 レバーを倒す。車体の奥から、低い振動が伝わってきた。最初は、遠くで大きな時計が動き始めたような音だった。一つ。次にもう一つ。規則の異なる音が重なり、やがて車体全体へ広がっていく。

 

 床下を光が走った。窓の外にある地下ドックの景色が、わずかに揺らぐ。線路の先、何もなかった暗闇に、淡い光の筋が現れた。時間の中へ続く線路が、開こうとしている。

 

「動いています」

 

 昨日よりも先まで進んでいた。車体の振動も安定している。修理した円盤は正常に回っているらしい。光の筋が濃くなる。地下ドックの壁が、薄い幕の向こう側へ遠ざかっていく。あと少しで、デンライナーは現在の線路から時間の中へ踏み出す。

 

 そう思ったときだった。

 

 車体の奥から、甲高い音が響いた。

 

「――っ」

 

 規則正しく重なっていた駆動音が、一つだけ遅れる。次の音が、それへ追いつく。噛み合わない二つの音が衝突した。床が大きく揺れる。線路の先に現れていた光が乱れ、細かな破片のように散った。直後、複数の安全装置が作動する音とともに、時間移動機能が停止した。車体の照明が一度暗くなり、地下ドックの景色が窓の外へ戻ってくる。

 

「……どうしてですか」

 

 レバーを元へ戻す。その場にいても、どこで異常が起きたのかは分からない。

 

 私は運転席を離れ、再び中央部の整備用ハッチへ向かった。外から見える範囲では、壊れた部品はない。焦げた臭いもない。まず、先ほど交換した円盤へ触れる。一枚目。二枚目。三枚目。どれも滑らかに回った。軸受けにも異常な熱はない。

 

「ここではない……?」

 

 私は手袋を外した。素手で機構へ触れる。動作を止めた直後なら、力が流れた場所にはわずかな熱や振動が残っている。指先を使い、光の通り道を一つずつ辿った。円盤を抜けた力は、隣の変換機構まで届いている。その先、細い輪が幾重にも重なった箇所で、脈動が乱れていた。

 

 私は耳を近づけた。機構の奥から、まだ小さな音が続いている。カチ。カチ。カチ。その間に、一度だけ長い空白がある。

 

「こちらですか」

 

 薄い輪を一枚ずつ外す。重ねる順番を忘れないよう、作業台の上へ並べた。最も内側の輪に、目で見なければ気づかないほど小さな歪みがある。起動前には問題がなかった。けれど、実際に力が流れたことで、歪みのある箇所だけ抵抗になったらしい。

 

「では、ここを直せば」

 

 歪みを慎重に戻す。力を加えすぎれば折れる。何度も角度を確かめながら、少しずつ形を整える。輪を重ね直す。機構へ戻す。固定する。

 

 再び運転席へ向かった。基準時刻を合わせる。進行方向を固定する。安全装置を解除する。レバーを倒す。車体の奥で、いくつもの機構が動き始める。今度は先ほどの異音がしなかった。時間の中へ続く光の線路が現れる。地下ドックの景色が揺らぐ。最初の試行より、さらに先まで進んだ。

 

「今度こそ……」

 

 光の線路が、車体のすぐ前まで伸びる。その瞬間、足元から鈍い衝撃が突き上げた。低い音が一度だけ途切れる。時間の線路が消えた。車体全体が後ろへ引き戻されるように震え、安全装置が再び機能を停止させた。

 

「……違いましたか」

 

 また中央部へ戻る。先ほど直した輪は正常だった。その先の機構が動いていない。今まで異常のなかった箇所だった。そこを外す。確かめる。擦れた跡を見つける。調整する。再び組み直す。運転席へ戻る。起動する。失敗する。中央部へ戻る。止まった場所を探す。修正する。また運転席へ戻る。同じ手順で起動する。再び止まる。

 

 一時間後。時間軸から現在位置を読み取る機構まで、力は正常に流れるようになった。けれど、その先で二つの回転体が徐々にずれ、起動からしばらくすると安全装置が作動した。

 

「今度はこちらですか」

 

 回転体を外し、軸を確認する。摩耗はない。組み方にも問題はない。それでも起動すれば、片方だけが遅れる。力の流れ方に問題があると考え、周囲の接続を変更した。

 

 二時間後。回転体のずれは消えた。代わりに、これまで正常に動いていた補正機構が途中で停止した。

 

「……これでもない」

 

 力が流れ込む順番を変える。薄い円盤の重なりを調整する。接続箇所の抵抗を一つずつ確かめる。もう一度、起動する。失敗。

 

 三時間後。各機構を個別に動かせば、どれも正常だった。手で回せる部分に引っかかりはない。光を流せば、決められた経路を通る。歪みも、摩耗も、接続の緩みも見つからない。それなのに、すべてを繋ぎ、時間移動機能として起動させると、どこか一つが必ず遅れる。遅れる場所は一定しない。読み取り機構。変換機構。補正機構。一つを直して起動すると、今度は別の場所で止まる。そこを調整すれば、それまで正常だった機構の動きが乱れる。

 

「……何なのですか、これは」

 

 工具を作業台へ置く。答える者はいない。デンライナーは故障したまま、地下ドックの中央に停まっている。作業台の端に置いた腕時計を見ると、すでに閉店時刻を過ぎていた。

 

 私は一度、地上へ戻った。店内の照明は落とされ、入口には閉店の札が出ている。モモは居間のソファに座り、雑誌を読んでいた。

 

「おう。やっと戻ったか」

 

「店を閉めてくれたのですか?」

 

「時間になっても戻ってこねえからな。戸締まりも確認したぞ」

 

「ありがとうございます」

 

「直ったか?」

 

「まだです」

 

「昼から何時間やってんだよ」

 

「途中で、最初の前提が間違っていたことが分かりました」

 

「それ、つまり最初からやり直しってことか?」

 

「全部ではありません。周辺部分の状態は改善しました」

 

「肝心なところは?」

 

「まだです」

 

「それを最初からって言うんじゃねえのか?」

 

「言いません」

 

「意地張ってんじゃねえよ」

 

 モモは雑誌を閉じた。

 

「飯は?」

 

「食べていません」

 

「やっぱりな」

 

「作業に集中していたので」

 

「だからって何も食わなくていい理由にはならねえだろ。台所に置いてあるから食え」

 

「モモが作ったのですか?」

 

「悪いかよ」

 

「以前の焼きそばよりは薄味ですか?」

 

「あれはお前が味薄いって言うかと思って濃くしたんだよ!」

 

「私は濃いと言いました」

 

「食う前に水用意してただろ!」

 

「経験から学んだだけです」

 

「一言多いんだよ、お前は!」

 

 台所には、炒めた野菜と肉を卵で綴じたものが置かれていた。見た目は前回より整っている。味付けも、今回は水を何杯も必要とするほど濃くはなかった。

 

「どうだ?」

 

「食べられます」

 

「もっと他に言い方あるだろ!」

 

「前よりかなりよいです」

 

「最初からそれ言えよ!」

 

 全部食べ終えると、空腹で鈍っていた頭が少しだけ軽くなった。食器を流しへ運び、私は再び地下へ続く扉へ向かった。

 

「まだやるのか?」

 

「もう少し確認します」

 

「さっきもそれ言って下りてっただろ」

 

「今度こそ少しです」

 

「信用できねえ」

 

「眠くなったら戻ります」

 

「苛ついて力任せにぶっ壊すなよ」

 

 扉へ伸ばしていた手が止まった。

 

「壊しません」

 

「本当か?」

 

「私は時計屋です。直すための機械を、自分で壊すようなことはしません」

 

「ならいいけどよ」

 

「モモに心配されるほどではありません」

 

「心配してやってんのに、その言い方は何だ!」

 

 私は扉を閉めた。モモの声が、厚い金属越しにわずかに聞こえた。

 

 地下ドックへ戻る。開いたままの整備用ハッチも、作業台に並ぶ工具も、先ほどまでと何も変わっていなかった。私は紙へ記した構造図を見直した。読み取り機構も、変換機構も、補正機構も、個別に動かせば正常だった。すべてを繋ぎ、時間移動機能を起動した瞬間だけ、どこかにずれが生じる。異常が現れる箇所は一定しない。それなら、個々の機構ではなく、動き始める順番に問題があるのかもしれない。

 

 私は接続を一度外し、起動時に力が流れる順序を変えた。基準となる時刻を刻む中核から先に動かし、次に読み取り機構、最後に補正機構へ力が届くようにする。固定具を締め直す。紙の端へ、変更した箇所を書き加える。

 

 運転席へ向かった。時刻を合わせる。進行方向を固定する。安全装置を解除する。起動レバーを倒す。車体の奥から、低い駆動音が響いた。最初の機構が動く。次の音が重なる。さらにその次。先ほどまでより滑らかだった。光の線路が現れる。地下ドックの景色が揺らぐ。しかし、車体が時間の中へ入りかけたところで、今度は高い音が一度だけ裏返った。直後、すべての音が途切れる。

 

「……違いましたか」

 

 中央部へ戻る。手で触れる。耳を近づける。止まった機構を探す。接続の順序を元へ戻す。

 

 次は、起動時に流れ込む力を分散させた。再び運転席へ戻る。起動する。先ほどとは違う場所で止まる。

 

「これも違う」

 

 補正機構を一時的に外し、最小限の構成で動かす。起動する。失敗。読み取り機構の基準を、外部の時間ではなく、デンライナー内部だけに合わせる。起動する。失敗。すべての接続を一度解除し、最初から組み直す。起動する。失敗。

 

 異音の出た場所へ戻る。原因らしい抵抗を見つける。修正する。起動する。今度は別の場所で止まる。その場所を調べる。新しいずれを見つける。修正する。また別の場所で止まる。

 

 昼間と同じだった。一つずつ確かめ、ようやく正しい構造を理解したと思った瞬間、それ以前の考えが間違っていたと分かる。修正するほど、別の矛盾が浮かび上がる。まるで、こちらが辿り着くたびに故障箇所が逃げているようだった。

 

「次です」

 

 紙に新しい印をつける。同期する間隔を変える。起動する。失敗。

 

「もう一度」

 

 円盤同士の隙間を狭める。起動する。失敗。

 

「では、こちらを先に」

 

 補正機構を固定し、中核から流れる力だけを調整する。起動する。失敗。

 

 運転席へ行く。レバーを倒す。異常音が鳴る。停止する。中央部へ戻る。機構へ触れる。原因を探す。仮説を変える。修正する。また運転席へ行く。レバーを倒す。異常音が鳴る。停止する。中央部へ戻る。原因を探す。

 

 何度繰り返したのか、途中から数えていなかった。紙に書き込んだ線と印だけが増えていく。最初は、試した内容と結果を細かく記していた。十回を過ぎた頃には、変更した箇所だけになった。さらに繰り返したあとは、失敗した仮説へ乱雑に線を引くだけになった。運転席と中央部を何往復したのかも分からない。同じ異常音を、何度聞いたのかも分からなかった。

 

「……どうして」

 

 目に見える部品に、異常はない。接続にも問題はない。動き始める順番を変えても、流れ込む力を変えても、どこかで必ず止まる。一つのずれを取り除けば、今まで正常だった場所がずれる。

 

 私は中枢機構へ顔を近づけ、接続をもう一度確認した。見落としはない。それでも念のため、指で端から辿る。一つ目。二つ目。三つ目。問題はない。固定具を外す。接続箇所を清掃する。もう一度、嵌め直す。

 

「これで……」

 

 運転席へ戻る。同じ手順を繰り返す。レバーを倒す。車体の奥で、駆動音が一つずつ重なる。先ほど直した場所も正常に動いている。光の線路が開く。地下ドックの壁が揺らぐ。あとわずか。次こそ、時間の中へ進める。

 

 そう思った瞬間、中央部から聞き慣れた甲高い音が響いた。光の線路が消える。車体の振動が止まる。まただった。

 

「……っ」

 

 レバーを戻す手に力が入った。運転席の脇へ拳を振り下ろしそうになり、寸前で止める。私はゆっくり息を吸った。

 

「落ち着きましょう」

 

 誰もいない車内で、自分へ言い聞かせる。焦っても直らない。機械へ怒っても意味はない。直すには、原因を正確に見つけなければならない。それは分かっている。

 

 私は時計屋だ。動かないからといって、部品を叩いたり、無理やり歯車を回したりはしない。分解し、調べ、必要な部分だけを直す。それを、何度も行ってきた。けれど、目の前にあるものは時計ではない。時計に似た機構を持っていても、その中心で扱っているのは時間そのものだ。私の知識だけでは届かない場所に、故障の原因がある。その事実を、何時間もかけて突きつけられている。

 

 私はもう一度、中央部へ戻った。

 

「もう一度だけです」

 

 先ほど失敗した接続を外す。別の経路へ繋ぐ。運転席へ戻る。起動する。失敗した。

 

「……もう一度」

 

 流れ込む力を変える。起動する。失敗。

 

「もう一度」

 

 補正機構の位置を調整する。起動する。失敗。

 

「もう一度……!」

 

 耳に刺さる異常音が鳴った。光の線路が、また目の前で崩れ落ちた。私は起動レバーを強く元へ戻した。硬い音が運転席に響く。壊れてはいない。けれど、丁寧に扱ったとは言えない音だった。

 

「何なのですか、これは……!」

 

 返事はない。

 

 私は中央部へ戻り、開いたハッチの前に立った。デンライナーは沈黙したまま、私の前に停まっている。

 

「昼からずっと調べています。動かない場所を探して、そこを直して、また起動させました。別の場所で止まれば、そこも調べました。接続も、力の流れも、動く順番も、全部変えました」

 

 言葉を向ける相手ではない。分かっていても止まらなかった。

 

「原因が分かったと思えば、その前が間違っている。そこを直せば、今度は別の場所です。では、私はあと何回やり直せばよいのですか」

 

 中枢機構は何も答えない。規則正しい音すら返さない。壊れたまま、ただそこにある。

 

 胸の奥に溜まっていた苛立ちが、急に熱を持った。自分でも、よくない状態だと分かっていた。このまま続ければ、冷静な判断ができない。一度地上へ戻るべきだ。今日は諦めて、明日あらためて調べればよい。頭では、そう考えていた。けれど、身体は動かなかった。

 

 ここまで時間を使った。何度もやり直した。今やめれば、明日も同じところから始めなければならない。また運転席と中央部を往復することになる。また、あの異常音を聞くことになる。それが、たまらなく嫌だった。

 

「……直せる力があるのに」

 

 私は自分の両手を見た。時間の王に由来する力。名もなき神々の王女としての権能。どちらも、私の中に存在している。今は十分に扱えない。正しい使い方も分からない。だから、これまでは慎重に試してきた。力を使うより、構造を理解して直そうとしてきた。けれど、何をしても直らなかった。

 

 作業台の上にあった小さな留め具へ、右手を向ける。自分の手を使わず、それが持ち上がる姿を思い浮かべた。

 

「浮いてください」

 

 留め具は動かない。指先へ意識を集中する。

 

「……浮け」

 

 何も起こらなかった。私は留め具を指でつまみ、半回転だけ動かした。次に、動かす前の状態へ戻そうとする。今起きたことだけを巻き戻すように。

 

「戻ってください」

 

 留め具はその場に残ったままだった。浮かない。戻らない。止めることもできない。力があるという感覚だけはある。けれど、使おうとすれば何も掴めない。

 

「使えないから直せない。分からないから使わない。それでは、いつまで経っても同じではありませんか」

 

 昼間なら、こんな結論には至らなかったと思う。二つの異なる力を、理解もせず同時に機械へ流す。そんなことをすれば、何が起きるか分からない。最悪の場合、故障を悪化させる。デンライナーそのものを壊す可能性もある。考えるまでもなく、行うべきではない方法だった。それでも、そのときの私には、ほかの方法をもう一度最初から試す気力が残っていなかった。

 

「もう、よいです」

 

 中枢機構へ歩み寄る。右手を装置へ押し当てる。左手も、その隣へ置いた。手順を組み立てることもしなかった。どこへ、どの程度の力を流すかも決めなかった。ただ、直せばよい。足りないなら、足りるだけ入れればよい。オーマジオウの力で時間の異常を押さえ込み、王女の権能で壊れた部分を作り直す。それだけの、短絡的な考えだった。

 

「これで直りなさい」

 

 右手から、黒と金の力を流し込む。同時に左手から、青白い光を中枢へ叩き込んだ。慎重に触れさせるのではない。調整も、制限もない。苛立ちのまま、二つの力をまとめて押し込んだ。

 

 デンライナー全体が、大きく震えた。

 

「――え?」

 

 床が揺れる。開いたハッチの奥で、停止していた機構が一斉に回転を始めた。低い音。高い音。異なる間隔で動いていた機構が、一つの大きな動きとして繋がっていく。先ほどまで何度試しても噛み合わなかったものが、何の抵抗もなく動き始めた。

 

「……直った?」

 

 喜ぶより先に、違和感を覚えた。力を止めようとする。止まらない。私の手から中枢へ流していたはずの光が、いつの間にか逆流していた。デンライナーの奥から、黒と金の力が腕を伝い、私の身体へ流れ込んでくる。

 

「待ってください」

 

 両手を離そうとする。動かない。中枢へ貼りついたように、指一本動かすことができなかった。青白い光も私の意思を無視して膨らみ続け、装置の回転速度はさらに上がっていく。

 

「止まりなさい!」

 

 命じても反応はない。こちらが中枢へ力を流しているのではない。自分の中にあったものを、何かに無理やり引き出されている。黒と金。青白い光。性質の異なる二つの力が、中枢の奥で激しくぶつかり合う。どちらも私の力であるはずなのに、流れを制御できない。止めようと意識するほど出力は増し、中枢機構の回転も加速していった。

 

 突然、繋がりが切れた。

 

「っ……!」

 

 弾かれるように両手が外れ、私は数歩後ろへよろめいた。けれど、力の暴走は止まらない。私の手を離れた黒と金の光が中枢を覆い、青白い光がその輪郭を無理やり作り替えていく。

 

「……何をしているのですか、これは」

 

 私が直そうとした範囲を、すでに越えている。欠けた時間を補っているのではない。もっと別の何かが、二つの力によって引きずり出されようとしている。そう理解したときには、もう遅かった。

 

 何の前触れもなかった。光が強まることも、空間がゆっくり歪むこともない。気づいたときには、目の前に灰白色の幕が存在していた。

 

「――え?」

 

 半透明の表面に、幾つもの景色が重なっている。知らない街。荒野。崩れた建物。青空。夜の海。映し出される光景は一瞬ごとに切り替わり、どこへ繋がっているのか判別することすらできなかった。私は、それが何なのかだけは知っていた。

 

「オーロラカーテン……?」

 

 世界と世界を隔てる壁。異なる世界へ渡るための扉。けれど、私が開いたものではない。開こうと考えてすらいなかった。

 

「どうして――」

 

 問いを最後まで口にすることはできなかった。灰白色の幕が、一度だけ大きく揺らいだ。作業台も、工具も、外した部品も動かない。動いたのは、私だけだった。

 

「っ……!」

 

 身体が突然、前へ引かれた。足を踏ん張る暇もない。何かへ掴まることも、モモを呼ぶこともできなかった。先ほどまで触れていた中枢も、床も、地下ドックの景色も、一瞬で遠ざかる。灰白色の幕が視界を埋めた。冷たいとも、熱いとも感じなかった。ただ、身体の境界だけが曖昧になり、自分がどちら側に立っているのか分からなくなる。

 

 次の瞬間、私はオーロラカーテンの中へ飲み込まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水面に浮かべた目印が、小さく沈んだ。俺は竿を握ったまま、その動きを見守った。一度。少し間を置いて、もう一度。まだ引かない。水の下で魚が餌をつついているだけだ。ここで焦って竿を立てれば、針にはかからない。

 

『今度こそ逃がすなよ、相棒』

 

「前のは逃がしたんじゃない。向こうが運よく外れただけだ」

 

『それを逃がしたと言うのだ』

 

「うるさいな。今度は大丈夫だ」

 

 頭の中へ響くドライグの声へ答えながら、目印だけを見続ける。風は弱い。湖面には細かな波が広がっているが、目印の動きを見失うほどではなかった。

 

 今日は悪魔としての仕事も、部長からの訓練もない。鍛冶場へ籠もることも考えたが、作りかけの剣は少し時間を置いた方がよい段階まで進んでいた。無理に触れば、かえって形を崩しかねない。だから朝から道具を抱え、人里から離れた湖まで来ていた。森に囲まれた静かな場所だ。近くに民家はない。釣果はまだ二匹だったが、それでも十分だった。

 

 目印が横へ滑った。次の瞬間、水中へ勢いよく消える。

 

「よし!」

 

 竿を立てた。糸が張り、竿先が大きく曲がる。魚が沖へ走った。

 

 無理には引かない。竿のしなりを使い、相手の動きを受け止める。こちらへ寄ってくれば糸を巻き、再び走ろうとすれば少しだけ送り出す。力任せでは駄目だ。強く引きすぎれば糸が切れ、緩めすぎれば針を外される。戦うときとは違う駆け引きが必要になる。だからこそ、釣りは面白かった。

 

 水面の下に、魚の影が見える。岸まで、あと少し。

 

『相棒』

 

 ドライグの声が変わった。俺も、ほぼ同時に異変へ気づいていた。

 

 湖の上。針にかかった魚よりもさらに沖。そこに、灰白色の壁のようなものが立っていた。

 

「……何だ、あれ」

 

 現れた瞬間を見ていない。光ったわけでもない。空間が歪んだ音も、魔法陣が組み上がった気配もなかった。気づいたときには、すでにそこにあった。

 

 縦に長い灰白色の幕。その半透明な表面には、いくつもの景色が重なって映っている。見知らぬ街。荒れた大地。崩れた建物。青い空。夜の海。一瞬ごとに違う景色へ切り替わり、そのどれも目の前の湖とは繋がっていなかった。

 

 俺は竿を持ったまま立ち上がった。魚が逃げようと、糸を強く引く。

 

「悪い」

 

 竿を地面へ置き、糸を緩めた。手元から重みが消える。

 

『また逃がしたな』

 

「今は魚どころじゃないだろ」

 

『分かっている』

 

 ドライグも、声に警戒を滲ませていた。

 

 灰白色の幕からは、何の力も感じない。それが何より不気味だった。魔法なら、必ず魔力が動く。悪魔や天使が転移するなら、それぞれの術式が残る。神器を使えば、所有者の力が反応する。妖怪や神が境界を越える場合も、その存在に応じた気配が生じる。目の前のものには、そのどれもなかった。

 

「お前にも分からないのか?」

 

『分からん』

 

 ドライグが即答する。

 

『少なくとも、俺が知る魔法や神器ではない。何かが起きているはずなのに、その過程が捉えられん』

 

「嫌な言い方するなよ」

 

『事実だ』

 

 左腕へ意識を集中させる。まだ赤龍帝の籠手は出さない。だが、何が現れても動けるように腰を落とした。

 

 灰白色の幕が、一度だけ揺れた。そこから、人が落ちてきた。

 

「なっ――」

 

 少女だった。長く淡い銀髪。細い身体。駒王学園制服らしき服装。受け身を取ることもできず、まっすぐ湖へ落下していく。

 

「危ない!」

 

 大きな水音が響いた。水柱が立ち、波紋が湖面を広がっていく。少女を吐き出した灰白色の幕は、それだけで役目を終えたように消えた。最初から何もなかったように、痕跡一つ残していない。

 

「おい!」

 

 俺は湖岸へ駆け寄った。落ちた場所は、それほど遠くない。泳げるなら自力で戻れる距離だが、意識があるとは限らない。靴を脱ぐ暇も惜しく、そのまま浅瀬へ踏み込もうとする。

 

 水面が揺れた。少女の頭が浮かび上がる。

 

「大丈夫か!」

 

 意識はある。少女は咳き込むでもなく、顔へ張りついた濡れた髪を鬱陶しそうに払った。

 

「つっめたいですね、これ!」

 

 思っていたのとはまるで違う、明るい声が返ってきた。

 

「それだけ喋れるなら大丈夫そうだけど……こっちだ。手を掴め」

 

 岸へ膝をつき、手を伸ばす。少女はこちらを見た。緋色に輝く瞳が大きく見開かれる。

 

「一誠!」

 

「え?」

 

「ちょうどよかったです! 聞いてください! あれ、絶対に私を馬鹿にしています!」

 

「何の話だよ!」

 

 少女は俺の手を取らなかった。それどころか、湖の中にいることさえ気にしていない様子で、一気に話し始める。

 

「何時間やっても直らないんですよ! 一つ直したら別の場所が止まって、そこも直したらさっきまで動いていたところが壊れて! 昼からずっとですよ? 途中でご飯を食べて、もう一度やって、それでも駄目で!」

 

「分かった! 分かったから、まず上がれ!」

 

「それで最後に、もう全部まとめて直せばよいと思ったら、いきなり何かが出てきて――」

 

 少女の身体が、水面から持ち上がった。

 

「……は?」

 

 泳いだわけではない。水を蹴った様子もなかった。背中に翼もない。魔力を噴き出して飛んだわけでもない。少女は、椅子から立ち上がるのと変わらない自然さで湖から浮かび上がった。水面から完全に離れる。そのまま空中を横へ移動し、俺の差し出した手のすぐ横を通り過ぎた。岸へ下りる。濡れた靴が地面へ触れた瞬間も、衝撃らしい衝撃はなかった。

 

 俺は手を伸ばした姿勢のまま、少女を見上げていた。

 

「それで湖です! 私、地下にいたんですよ? 地下から湖に繋がると思いますか?」

 

「思わないけど……お前、今どうやって上がった?」

 

「上がった?」

 

「湖からだよ!」

 

 少女が後ろを振り返る。自分が今まで湖にいたことを、そこで初めて思い出したような顔だった。

 

「普通に?」

 

「普通じゃない!」

 

「一誠なら飛べるでしょう」

 

「翼を出してな!」

 

「細かいですね、今日は」

 

「細かくない!」

 

 少女は妙に楽しそうだった。夜更かしした人間が、眠気を越えておかしくなったときのような明るさがある。目は冴え、声も大きい。知らない場所の湖へ落ちたはずなのに、不安や恐怖よりも、修理に失敗し続けた愚痴を聞いてほしいという気持ちの方が強いらしい。

 

 制服からは水が滴っている。長い髪も完全に濡れ、頬と背中へ張りついていた。

 

「とにかく、タオルを――」

 

 荷物の方へ視線を向けた。直後、違和感に気づく。水滴の音が止まっていた。

 

 少女を見る。濡れていたはずの髪が乾いている。頬へ張りついていた前髪は整い、制服にも水を吸った跡がない。袖から落ちかけていた雫まで消えていた。

 

 風が吹いたわけでもない。熱が生じた様子もない。魔法を使った気配もなかった。ただ、瞬きをした間に、濡れていた少女が乾いた姿へ変わっていた。

 

「……今、何をした?」

 

「服を乾かしました」

 

「見れば分かる。どうやって乾かしたんだ?」

 

「どうやって?」

 

 少女は自分の袖を見た。次に髪へ触れる。それから俺へ顔を戻し、心底不思議そうに首を傾げた。

 

「服を乾かしただけですが」

 

「だから、その方法を聞いてるんだよ」

 

「乾かすのに方法なんて必要ですか?」

 

「必要だろ!」

 

「一誠、さっきから変ですよ?」

 

「俺が変なのか!?」

 

「はい。かなり」

 

 迷いなく頷かれた。本人は、何もおかしいことをしていないつもりらしい。

 

『相棒』

 

 ドライグが、低い声で俺を呼ぶ。

 

『距離を取れ』

 

「何か分かったのか?」

 

『何も分からん』

 

 強い警戒が伝わってくる。

 

『だからこそだ。飛んだときも、今も、力が動いた形跡を捉えられなかった』

 

「魔力を隠してるんじゃないのか?」

 

『隠蔽にも力の流れは生じる。だが、俺にはその流れすら感じられん』

 

 少女は、俺とドライグの内側の会話に気づく様子もなく、周囲を見回していた。

 

「それにしても明るいですね。もう朝ですか? いえ、この高さなら昼でしょうか」

 

「お前、さっきまで何時だったんだ?」

 

「深夜です」

 

「……深夜?」

 

「ずっと修理していたので。モモには眠くなったら戻ると言いましたが、全然眠くありません!」

 

 胸を張って言う。その明るさが、かえって危うく見えた。

 

「それ、眠気を通り越してるだけじゃないか?」

 

「そんなことありません。今ならあと十時間は作業できます」

 

「絶対に寝た方がいいやつだろ」

 

「私は元気です!」

 

「声が大きい!」

 

「一誠が変なことばかり聞くからです!」

 

 少女が頬を膨らませる。その反応は年相応だった。けれど、その身体から溢れているものは、年相応どころではない。

 

 黒と金の揺らぎ。煙のようにも、炎のようにも見える何かが、少女の身体から絶えず漏れ続けている。纏っているというより、内側に収まりきらない力が外へ溢れているようだった。それほど目立つものなのに、本人はまったく気にしていない。

 

 緋色に輝く瞳も同じだ。もともとの目の色とは思えない。地獄の底で燃える火のような赤い光が、絶えず瞳の奥で揺れていた。

 

「お前、それもいつもなのか?」

 

「それ?」

 

「身体から出てる黒と金のやつだよ」

 

 少女が自分の腕を見る。袖口を確認し、背中側まで振り返ろうとする。

 

「何も出ていませんよ?」

 

「俺には見えてる」

 

「一誠にだけ見えているのでは?」

 

「俺のせいにするな」

 

「今日は本当におかしいですね」

 

 少女は手を伸ばし、俺の額へ触れようとした。

 

「熱でもあります?」

 

 俺は反射的に半歩下がった。少女の手が空を切る。

 

「避けなくてもよいでしょう」

 

「会ったばかりの相手に額を触らせると思うか?」

 

 少女の動きが止まった。

 

「……会ったばかり?」

 

「ああ」

 

「一誠、何をすっとぼけているのですか?」

 

 今までとは少し違う。呆れたというより、本気で意味が分からないという顔だった。

 

「すっとぼけてない。俺はお前を知らない」

 

「そういう遊びですか?」

 

「違う」

 

「何かの罰ゲーム?」

 

「違うって」

 

「部長から命令されました?」

 

「何で部長がそんな命令をするんだよ」

 

「では、アーシアと喧嘩でもしたのですか?」

 

 自然に出てきた名前に、俺は目を細めた。

 

「アーシアを知ってるのか?」

 

 少女は黙った。数秒、俺の顔を見つめる。

 

「一誠」

 

「何だ」

 

「本当に大丈夫ですか?」

 

「それは俺の台詞だ」

 

「アーシアを知っているか、と聞きました?」

 

「ああ」

 

「知っているに決まっているでしょう。一誠と同棲してますよね」

 

 答えに迷いはなかった。名前だけを知っている者の反応ではない。同じ家に住んでいるということまで把握している。

 

「じゃあ、リアス・グレモリーは?」

 

「部長です」

 

「姫島朱乃」

 

「朱乃さん。部長の副部長で、スイッチが入ると怖い人です」

 

「木場祐斗」

 

「祐斗。最近、以前より表情が柔らかくなりました」

 

 木場ではなく、祐斗。呼び方も自然だった。

 

「塔城小猫」

 

「小猫さん。甘いものが好きで、小さいと言うと怒ります」

 

「そんなこと本人の前で言うなよ」

 

「言いませんよ」

 

「ゼノヴィア」

 

「今は部長の眷属です。たまに何の前触れもなく、とんでもないことを言います」

 

「それは否定できないけど……」

 

「一誠、何の確認をしているのですか?」

 

 少女の声には、少しずつ苛立ちが混ざり始めていた。

 

「知り合いの名前を順番に挙げて、私が答える遊びですか? でしたら次は誰です? 松田? 元浜? 先生? それとも、おじいさんですか?」

 

「最後の誰だよ」

 

「一誠も知っているでしょう!」

 

「知らない!」

 

「本当に何を言っているのですか!?」

 

 少女が両手を広げた。黒と金の揺らぎも、それに合わせて大きく広がる。俺は無意識に一歩下がった。敵意はない。怒ってはいるが、攻撃するつもりもない。それでも、身体が先に動いた。

 

 少女はその反応を見て、少しだけ目を細めた。

 

「……一誠、本当に私を知らないのですか?」

 

「だから、さっきからそう言ってる」

 

「冗談でもなく?」

 

「冗談でこんな確認するかよ」

 

 少女が黙り込む。ようやく、少しだけ明るさが弱まった。ただし、不安そうというより、頭の中で何かを無理やり組み直そうとしている顔だった。

 

「では、私が忘れているのですか?」

 

「何をだよ」

 

「一誠と初対面だったことを?」

 

「そんな忘れ方があるか」

 

「力を使えば可能かもしれません」

 

「さらっと怖いこと言うな!」

 

「ですが、アーシアたちのことは覚えています」

 

「俺もあいつらを知ってる」

 

「それなら、やはり一誠が忘れているのでは?」

 

「何で俺のせいになるんだよ!」

 

 少女は腕を組み、俺の顔をじっと見た。

 

「顔は一誠です」

 

「俺だからな」

 

「声も一誠です」

 

「俺だからな」

 

「背も同じくらいです」

 

「だから俺だって」

 

「ですが、反応が少し違いますね」

 

「どこが?」

 

 少女は何かを言いかけた。そのまま俺の顔から身体へ視線を移す。

 

「……今は言わない方がよいと思います」

 

「何でだよ」

 

「一誠のためです」

 

「絶対ろくな理由じゃないだろ!」

 

 少女は答えず、わずかに笑った。その反応さえ、俺をよく知っている者のものに見えた。

 

 名前を挙げられ、正しい答えを返しただけではない。部長を「部長」と呼ぶこと。アーシアが俺の家に住んでいること。木場の変化。小猫ちゃんの好み。ゼノヴィアの性格。どれも、俺たちの近くにいなければ出てこない情報だった。

 

 記憶を読まれた可能性はある。誰かが俺たちを監視していた可能性もある。それでも、少女の反応はあまりにも自然だった。質問されて答えを探しているのではない。知っていて当然のことを、なぜ確認されているのか分からず苛立っている。

 

 少なくとも少女の中では、俺たちは確かに友人なのだ。問題は、俺の中に少女の記憶が一つもないことだった。

 

『相棒、油断するな』

 

 ドライグが警告する。

 

「分かってる」

 

『あの娘が嘘をついていないことと、安全であることは別だ』

 

「ああ」

 

 むしろ、嘘ではないように見えるからこそ厄介だった。

 

「お前、俺の神器も知ってるのか?」

 

「もちろんです」

 

 少女は俺の左腕へ目を向けた。

 

「赤龍帝の籠手。中にドライグがいます」

 

 左腕が熱を帯びる。

 

『俺の名まで知っているか』

 

「ドライグ、いますよね?」

 

 少女は俺の腕へ向かって話しかけた。

 

「聞こえているなら返事をしてください。今日の一誠は変です」

 

『相棒。この娘は普段から俺へこの調子なのか?』

 

「俺に聞くな。知らないって言ってるだろ」

 

「返事はありました?」

 

「何で分かるんだよ」

 

「何となくです」

 

「何となくで龍の反応を察知するな」

 

 少女は楽しそうに笑った。

 

「やはり、ドライグは同じなのですね」

 

「同じ?」

 

「いえ、こちらの話です」

 

「お前こそ変なこと言ってるぞ」

 

「一誠ほどではありません」

 

 少女の調子が再び上がってきた。一度真面目に考えかけたはずなのに、何か答えが出ないと分かると、すぐ脇へ置いてしまったらしい。

 

「とりあえず、ここがどこか教えてください」

 

「今さらかよ」

 

「一誠が変なことを始めるから、聞く暇がなかったのです」

 

「俺のせいか?」

 

「一誠のせいです」

 

 俺は近くの町と、この湖の位置を簡単に説明した。少女は聞きながら何度か頷いた。地名を聞いても、特に驚いた様子はない。

 

「駒王町から少し離れているのですね」

 

「駒王町も知ってるのか」

 

「住んでいますから」

 

「どこに?」

 

「時計店です」

 

「駒王町に時計店なんて何軒もあるだろ」

 

「一誠が来る店です」

 

「俺は時計店に行かないぞ」

 

 少女が、また止まった。

 

「……一誠」

 

「何だよ」

 

「目覚まし時計を持ってきましたよね?」

 

「持っていってない」

 

「私が改造しました」

 

「されてない」

 

「一誠の起きたい時間に合わせて、複数の音を切り替えられるようにしました」

 

「そんな便利なもの持ってない!」

 

「では、私が何時間もかけて改造した時計は、誰のものだったのですか!?」

 

「俺が聞きたい!」

 

 少女は両手で頭を抱えた。

 

「おかしいです! 今日は何もかもおかしい! デンライナーは直らない、いきなり湖に落ちる、一誠は記憶喪失です!」

 

「だから何なんだよ!言ってること何一つわからないぞ!」

 

「では何ですか!」

 

「俺にも分からない!」

 

「使えませんね!」

 

「初対面の相手に言われたくない!」

 

 勢いだけで言い合ったあと、二人とも黙った。湖から風が吹く。置き去りにした竿の先が、風に揺れていた。

 

 少女は一度大きく息を吐くと、急に明るい顔へ戻った。

 

「まあ、分からないものは仕方ありません!」

 

「切り替え早すぎないか?」

 

「夜中に何時間も機械と戦ったあとです。細かいことを考える力は使い切りました!」

 

「自分で言うなよ!」

 

「今の私は、とても調子がよいです!」

 

「それ絶対、調子が悪いときの言い方だぞ」

 

「元気です!」

 

 少女がその場で軽く跳ねた。実際には足が地面から少し離れただけではなかった。跳んだ高さで一瞬止まり、それからゆっくり下りてくる。少女本人は気づいていない。俺は何も言えず、その動きを見つめた。

 

『相棒』

 

「分かってる」

 

『あの娘は、自分の異常を認識していない』

 

「ああ」

 

 飛んだことも。服を一瞬で乾かしたことも。今、空中で止まったことも。少女にとっては、歩くことや服の皺を払うことと変わらないらしい。黒と金の揺らぎも、少しも弱まっていない。力を出している自覚さえない。

 

「お前、今どれくらい力を使ってる?」

 

「何も使っていません」

 

「さっき飛んだだろ」

 

「跳ねただけです」

 

「途中で止まってたぞ」

 

「一誠が疲れて、変なものを見ているのでは?」

 

「俺は朝から釣りしてただけだ!」

 

「では、魚に逃げられたショックですね」

 

「それは関係ない!」

 

「釣れなかったのですか?」

 

「二匹は釣った!」

 

「よかったですね!」

 

「今その話じゃない!」

 

 少女は笑っている。自分の置かれた状況を楽しんでいるようにさえ見えた。恐怖がないのか。疲労で感覚がおかしくなっているのか。それとも、目の前の異常をすべてどうにかできるという確信があるのか。判断できない。

 

「一度、部長のところへ連れていく」

 

 俺は言った。

 

「このまま一人で町へ行かせるわけにはいかない」

 

「部長のところですか? それなら話が早いですね」

 

「ただし、その前に確認したい」

 

「何を?」

 

「お前が、どれくらい自分の力を扱えるのか」

 

 少女が瞬いた。緋色の瞳が、興味を持ったように細められる。

 

「何も使っていないと言ったでしょう」

 

「その何も使ってない状態で、もう十分におかしいんだよ」

 

「一誠は失礼ですね」

 

「自覚してくれ」

 

「では、どう確認するのですか?」

 

「軽く手合わせする」

 

 ドライグが、左腕の中で強く反応した。

 

『相棒』

 

「分かってる。軽くだ」

 

『あれを相手に、軽く済む保証はない』

 

「だから俺が最初に仕掛ける。反応を見るだけだ」

 

『俺は反対だ』

 

「何も分からないまま部長たちのところへ連れていく方が危険だろ」

 

『それはそうだが――』

 

「何かあったら、すぐ止める」

 

 内側の会話を終え、少女を見る。少女は、先ほどよりさらに明るい顔になっていた。

 

「手合わせ!」

 

「何でそんなに嬉しそうなんだ」

 

「ずっと細かい機械を触っていたので、身体を動かしたかったところです!」

 

「深夜まで作業して、湖に落ちた直後だぞ」

 

「だからこそです!」

 

「どういう理屈だよ」

 

「振り切れました!」

 

 堂々と言い切られた。何が、とは聞かない方がよい気がした。

 

「条件がある」

 

「はい!」

 

「本気で相手を傷つける攻撃は禁止」

 

「分かりました!」

 

「どちらかが止めると言ったら、その時点で終わりだ」

 

「はい!」

 

「周りに被害を出さない」

 

「善処します!」

 

「そこは約束しろ!」

 

 少女は少し考えた。

 

「一誠が出さなければ、私も出しません」

 

「何で俺基準なんだ」

 

「一誠に合わせますから」

 

 不安しかなかった。それでも、少女がこちらを傷つけようとしているようには見えない。むしろ、友人と遊ぶ機会を得たように楽しそうだった。

 

「場所を変えるぞ」

 

 湖岸の奥にある、広い岩場を指す。木々からは離れている。人が来る可能性も低い。少なくとも、狭い岸辺で始めるよりはましだった。

 

 俺たちは湖沿いを歩いた。少女は俺の隣を、妙に軽い足取りで進んでいる。

 

「一誠と手合わせするのは初めてですね!」

 

「俺にとっては何もかも初めてだよ」

 

「またそれですか」

 

「事実だ」

 

「では、終わったら思い出してください」

 

「そういう問題じゃないだろ」

 

「頭を強く打てば戻るかもしれません」

 

「俺の頭を殴るつもりか?」

 

「必要なら」

 

「禁止だからな!」

 

「冗談です!」

 

 笑いながら言う。冗談に聞こえない。

 

 岩場の中央で足を止めた。少女も数歩離れた場所へ移動する。構えは取らない。両腕を自然に下ろし、こちらを待っている。黒と金の揺らぎは、その間も絶えず身体から溢れ続けている。

 

「最後に聞く」

 

「何ですか?」

 

「本当に俺のことを知ってるんだな?」

 

 少女は少し呆れたように笑った。

 

「知っていますよ、一誠」

 

 何の迷いもない答えだった。

 

「ですから、さっきから何をすっとぼけているのですか」

 

「……そうか」

 

 少なくとも、この少女にとっては本当なのだ。俺を知っている。部長たちを知っている。ドライグを知っている。俺たちと過ごした記憶があり、それを疑ってもいない。俺には、その記憶が一つもない。

 

 答えはまだ分からなかった。今は、目の前の少女がどんな力を持ち、それをどこまで扱えるのか確かめるしかない。

 

 俺は左腕を前へ出した。赤い光が集まる。金属が組み上がる音とともに、赤龍帝の籠手が左腕を覆った。

 

BOOSTED GEAR!

 

 宝玉が緑色に輝く。少女の瞳が、さらに明るく輝いた。

 

「やはり、それですね!」

 

「知ってるんだろ?」

 

「知っていますが、今日は見せてくれないのかと思いました!」

 

「警戒してたんだよ」

 

「一誠が?」

 

「俺だって警戒くらいする!」

 

「成長しましたね!」

 

「何で上からなんだ!」

 

 少女が楽しそうに笑う。

 

「では、お願いします。一誠!」

 

 俺は足を開き、拳を構えた。最初から強く殴るつもりはない。籠手の力も、ほとんど使わない。寸前で確実に止められる速度。少女がどう反応するのかを見るためだけの一撃。

 

『相棒。決して油断するな』

 

「分かってる」

 

 答えながらも、俺はどこかで考えていた。どれだけ妙な力を使っていても、目の前にいるのは一人の少女だ。敵意もなく、構えてすらいない。軽く踏み込み、顔の前で拳を止める。まずは、それだけでよい。

 

 俺は岩を蹴り、少女へ向かって走り出した。

 

 

 

 

 最初の一撃に、《倍加》は使っていない。赤龍帝の籠手を出してはいるが、拳へ乗せたのは自分自身の力だけだ。速度も、少女の反応を確かめられる程度に抑えている。

 

 狙うのは顔の正面。殴るためではない。拳が届く寸前で止め、どのように反応するかを見るだけだ。

 

 少女は動かなかった。構えもしない。両腕を下ろしたまま、こちらを楽しそうに眺めている。

 

「まずは軽く――」

 

 間合いへ入る。右足を踏み込む。腰を回す。左の籠手を引いたまま、空いている右拳を少女の顔へ向けて伸ばした。距離は合っている。軌道にも狂いはない。拳が少女の鼻先へ届く直前で止める。そのはずだった。

 

「……え?」

 

 俺の拳は、少女の顔の横を通り過ぎていた。少女は動いていない。首を傾けてもいない。避けるために身体を逸らした様子もなかった。それなのに、拳は少女の左耳よりも外側の空間を突き抜けている。

 

 勢いを抑えていたため、体勢は崩れなかった。俺はそのまま少女の横を抜け、数歩先で足を止めた。

 

「一誠?」

 

 背後から、明るい声が飛んでくる。振り返ると、少女は同じ場所に立っていた。

 

「どうしたのですか?」

 

「……いや」

 

「もう始まっていますよね?」

 

「ああ」

 

「では、なぜ横を殴ったのですか?」

 

「俺が聞きたい」

 

 自分の拳を見る。殴る直前まで、確かに少女を狙っていた。無意識に手加減しすぎて、最初から外れる軌道へ変えたのかもしれない。正体の分からない少女とはいえ、見た目は普通の女子だ。殴ることを躊躇し、身体が勝手に拳を逸らした。そう考えれば、説明できなくはない。

 

『相棒』

 

 ドライグが呼びかけてくる。

 

『今のは、お前が外したのか?』

 

「……たぶん」

 

『そうは見えなかった』

 

「俺にも分からない」

 

 少女が振り返った俺へ手招きする。

 

「もう一度どうぞ!」

 

「ずいぶん楽しそうだな」

 

「手合わせをするのでしょう? まだ一度も攻撃されていません」

 

「今したところだよ」

 

「横の空気を殴っただけではありませんか」

 

「分かってる!」

 

 今度は正面から歩いて距離を詰めた。急がない。少女との位置を目で確認する。足元の岩。湖の方向。互いの距離。見間違える要素はない。

 

「次はちゃんといくぞ」

 

「はい!」

 

 少女は相変わらず構えない。俺は左足を前に出し、軽く腰を落とした。次に狙うのは、顔ではなく胴体。胸や腹を直接殴るつもりはない。拳を開き、手のひらを腹の前へ突き出す。これなら、万が一触れても大きな怪我にはならない。

 

 手を伸ばす。少女の制服へ、あと数センチ。今度こそ外れない。そう確信した瞬間だった。

 

 俺の手は、少女の身体の右側へ出ていた。

 

「……は?」

 

 少女はそこにいる。俺の目の前に立っている。位置は変わっていない。なのに、腹へ向けたはずの手のひらは、少女の腰よりも外側の空間へ伸びていた。直前まで正しかった軌道が、結果だけを見れば最初から外れていたようになっている。

 

「一誠」

 

「ちょっと待て」

 

「まだ何もしていませんよ?」

 

「分かってるから、少し待ってくれ」

 

 俺は手を引き、少女から一度離れた。

 

『今度も、あの娘は動いていない』

 

「ああ」

 

『お前が途中で軌道を変えた様子もなかった』

 

「それも分かってる」

 

 拳がすり抜けたわけではない。少女の身体が幻だったわけでもない。最初から触れることのできない距離だったように、こちらの攻撃だけが外れた。

 

『何らかの防御か?』

 

「何も感じなかっただろ」

 

『ああ。魔力も、結界も、空間の歪みもない』

 

 少女は不思議そうに俺を見ている。少なくとも、自分で攻撃を逸らした者の反応には見えない。

 

「何かしたか?」

 

「何もしていません」

 

「俺の拳を逸らしたとか」

 

「逸らしていませんよ」

 

「身体の周りに、何か張ってるのか?」

 

「何も張っていません」

 

「じゃあ、どうして当たらないんだ」

 

「一誠が外しているからでは?」

 

「そう見えるよな!」

 

「違うのですか?」

 

「違うと思うんだけど、俺にも分からなくなってきた!」

 

 少女が首を傾げる。

 

「疲れているのでは?」

 

「それはさっき俺がお前に言ったことだ!」

 

「魚に逃げられたのが、やはり効いているのですね」

 

「まだ魚を引っ張るのかよ!」

 

「元気を出してください。二匹は釣れたのでしょう?」

 

「慰めるな!」

 

 少女は笑っていた。俺がわざと外していると思っているらしい。それなら、少しだけ速度を上げる。今度は攻撃の直前まで狙いを決めない。動きながら相手の位置を捉え、最後に拳の方向を変える。

 

「もう一度いくぞ」

 

「何度でもどうぞ!」

 

 地面を蹴る。少女の正面から入り、途中で左へ回る。視線だけは少女から外さない。背後へ抜ける直前に右足を止め、身体を反転させる。背中へ軽く触れる軌道で、左の籠手を伸ばした。少女はこちらを見ていない。今度こそ外れるはずがない。

 

 だが、籠手は少女の背中ではなく、その左側を通過した。

 

「何でだよ!」

 

 思わず叫ぶ。少女が振り返った。

 

「まだ始めないのですか?」

 

「始めてる!」

 

「では、なぜ当てないのですか?」

 

「当てようとしてるんだよ!」

 

「寸止めするという話では?」

 

「止める以前に当たらないんだ!」

 

「一誠、手合わせが苦手になりました?」

 

「そんな急に下手になるか!」

 

 距離を取り直す。額へ汗が浮かんでいた。激しく動いたからではない。理解できない現象を前にして、身体が緊張している。

 

 これまで、俺は数えきれないほどの敵と戦ってきた。速すぎて捉えられない相手もいた。幻術で位置を誤認させる相手もいた。攻撃が届く前に空間を曲げる相手もいた。だが、そのどれにも兆候があった。動いたなら風が生じる。幻なら感覚に違和感が残る。空間を変えれば、魔力や術式が働く。

 

 目の前の少女には、何もない。少女が回避したのではなく、俺の攻撃が最初から当たらなかったことにされている。そう考えるのが、最も近かった。

 

『相棒。これ以上は危険だ』

 

「まだ軽く触れようとしただけだぞ」

 

『それすら許されていない』

 

「誰にだよ」

 

『分からん』

 

 ドライグにも答えはない。それでも、このまま終わるわけにはいかなかった。少女が故意にやっているのか、無意識なのか。どこまで強く踏み込めば反応するのか。何も分からないまま部長たちのところへ連れていく方が危険だ。

 

「少し力を上げる」

 

「はい!」

 

「お前も、必要なら避けろよ」

 

「分かりました!」

 

 少女の返事は明るい。危険を感じている様子はない。俺は赤龍帝の籠手を胸の前へ構えた。

 

BOOST!

 

 宝玉から声が響く。身体の内側で、力が膨らんだ。一度だけ。まだ大きな負担にはならない。

 

「いくぞ!」

 

 踏み込む。先ほどより速く間合いへ入る。右拳。外れる。続けて左の籠手。少女の肩を狙う。外れる。足を止めず、そのまま身体を回す。右脚を振り上げ、少女の脇腹の前で止めるつもりだった。

 

 蹴りは、少女の身体より数センチ手前で空を切った。俺が止めたのではない。脚は最後まで振り抜いている。少女は一歩も動いていない。

 

「一誠、何をしているのですか?」

 

「今、三回攻撃した!」

 

「全部外れていましたよ?」

 

「知ってる!」

 

 少女が、困ったように笑う。

 

「もしかして、私に当てたくないのですか?」

 

「そんなことは――」

 

 言いかけて止まる。最初は確かに、傷つけないようにという意識があった。それが原因なのかもしれない。少女へ攻撃を当てること自体を、俺の身体が拒んでいる。ならば、攻撃ではなく押す。殴るのではない。力比べとして、両手で肩へ触れる。

 

「動くなよ」

 

「ずっと動いていません」

 

「それもそうだな」

 

 ゆっくり近づく。少女の正面へ立つ。右手を上げる。今度は勢いもつけない。目の前にある肩へ、ただ手を置くだけだ。指先が制服へ触れる。そのはずだった。

 

 俺の手は、少女の肩の横へ伸びていた。距離も、角度も合っていた。途中で視線も外していない。それでも、触れられない。

 

「……」

 

「一誠?」

 

「少し黙っててくれ」

 

「傷つきました」

 

「今は本当に余裕がないんだよ!」

 

 少女が口を閉じる。ただし、頬を少し膨らませている。

 

 俺は自分の手と少女の肩を交互に見た。触れられない。攻撃だからではない。単に手を置くことさえできない。ならば、少女の周囲にある何かが、接触そのものを拒んでいる。だが、先ほど少女から額へ触れようとした手を、俺は自分で避けた。少女の側から触れることはできるらしい。

 

「お前から俺に触れることはできるか?」

 

「急に何ですか?」

 

「いいから。手を出してくれ」

 

「こうですか?」

 

 少女が右手を伸ばす。俺は動かなかった。指先が、俺の頬へ触れた。温度も、感触もある。幻ではない。

 

「触れましたよ?」

 

「ああ」

 

「何を確認したかったのですか?」

 

「俺からお前には触れない」

 

 少女が瞬く。

 

「そんなことあります?」

 

「あるから困ってるんだ」

 

 少女は自分の手を引き、俺へ近づいた。今度は左手で籠手をつつく。硬い音が鳴った。

 

「普通に触れますね」

 

「俺の方からは無理なんだよ」

 

「では、もう一度どうぞ」

 

 少女が両腕を広げた。

 

「何でそんなに無防備なんだ!」

 

「確認するのでしょう?」

 

「そうだけど!」

 

「遠慮はいりません!」

 

 妙に堂々としている。俺は距離を取った。これ以上、通常の状態で同じことを繰り返しても結果は変わらない。もっと速く。もっと多く。一つの攻撃を外すなら、別方向から次を重ねる。触れられない原因が、俺の動きや意識にあるのなら、考える暇もないほど身体を動かすしかない。

 

「ドライグ」

 

『本当に続けるのか、相棒』

 

「ここまできたら、確かめる」

 

『あの娘が何をしているのか、俺にもまるで見えん』

 

「だからだ」

 

 左腕を持ち上げる。

 

「禁手でいく」

 

『最初から軽い手合わせではなかったのか?』

 

「軽く触れることすらできないんだ。鎧を出して、速度を上げる」

 

『それで済めばよいがな』

 

 ドライグの声には、納得していない響きが残っている。それでも、俺の意思に応じて籠手の宝玉が強く輝いた。

 

「禁手化!」

 

BALANCE BREAKER!

 

 赤い光が全身を包む。金属が重なり、身体の各部を鎧が覆っていく。腕。脚。胸。背中。最後に兜が形成され、視界へ緑色の光が走った。

 

 赤龍帝の鎧。背部の翼を広げる。押し出された空気が岩場を走り、少女の長い銀髪を揺らした。

 

「おおっ!」

 

 少女が歓声を上げる。

 

「やはり一誠ですね!」

 

「何がだよ」

 

「すぐに強い姿になります!」

 

「お前に触れられないからだ!」

 

「私、何もしていませんよ?」

 

「それが一番怖いんだよ!」

 

 鎧の内部へ力を巡らせる。

 

BOOST!

 

 倍加。増えた力を脚へ送る。

 

BOOST!

 

 二度目。背中の翼へ。

 

BOOST!

 

 三度目。全身へ均等に流す。身体の各部が一つの機械のように噛み合う。拳だけを強くするのではない。足裏から腰、背中、肩、腕へ、加速の流れを通す。力の大きさよりも、動きの速さを優先する。

 

「次は、本当に速いぞ!」

 

「はい!」

 

「避けろよ!」

 

「避ける必要があれば!」

 

「その答え方やめろ!」

 

 翼を開く。一瞬で距離を詰めた。右から拳を出す。外れる。予想していた。そのまま左の籠手を下から振り上げる。外れる。身体を回し、背後へ回る。右脚。左拳。肩からの体当たり。すべて外れた。

 

 少女の銀髪が、攻撃によって生じた風に揺れている。それでも本人は動かない。俺は止まらなかった。

 

BOOST!

 

 速度を上げる。正面。側面。背後。上空。異なる角度から、一度に攻撃を重ねる。拳が当たらないなら蹴る。蹴りが外れるなら、翼で押す。肩から触れようとする。手を開いて掴もうとする。すべて、少女の身体からわずかに逸れた。

 

「何なんだよ、これ!」

 

 叫びながら、岩場を蹴る。少女の正面へ戻る。少女は楽しそうに俺を目で追っていた。

 

「一誠、前よりずっと速いですね!」

 

「前の俺を知らない!」

 

「またそれですか!」

 

「こっちの台詞だ!」

 

 少女の言葉が気にかかった。前より速い。俺がどれほど速く動いても、少女は見失っていない。その上で、俺の動きが自分の知っている一誠より速いと判断している。少女の知る俺は、どんな戦い方をしていたのか。少なくとも、目の前の少女にとって、この鎧は見慣れたものらしい。

 

「お前の知ってる俺も、この姿になるのか?」

 

 攻撃を続けながら問う。

 

「なりません!」

 

 少女は軽い調子で答えた。

 

「それに、こんなにずっと真面目に殴ってきたことはありません!」

 

「手合わせしてないって言ってただろ!」

 

「そうでした!」

 

「じゃあ、何と比べてるんだよ!」

 

「普段です!」

 

「普段の俺は何してるんだ!」

 

 答えを聞く前に、少女の正面へ踏み込む。右拳を出す。また外れる。

 

「攻撃を始めたら、もっと大声で叫ぶと思っていました!」

 

「何をだよ!」

 

「いろいろです!」

 

「具体的に言え!」

 

「言わない方が一誠のためです!」

 

「またそれか!」

 

 少女の返答はふざけているように聞こえる。だが、嘘をついている様子はなかった。俺を知っている。同じ顔。同じ声。同じ神器。同じ仲間。それでも、少女の中にいる俺は、目の前で戦う俺と何かが違う。

 

 少女も、その違いに気づき始めている。俺の攻撃を目で追いながら、緋色の瞳が少しずつ細くなっていく。笑顔は残っていた。だが、その奥に疑問が生まれている。

 

「一誠」

 

「何だ!」

 

「本当に、今日はどうしたのですか?」

 

「だから俺は――」

 

 翼を強く動かす。少女の頭上へ回る。

 

「お前を知らないって言ってるだろ!」

 

 上から拳を振り下ろす。外れた。地面へ着地し、その反動で横へ移動する。少女の側頭部を狙い、左拳を振る。外れる。そのまま背後へ抜ける。

 

「顔も、声も、籠手も同じです」

 

 少女の声が追ってくる。

 

「部長たちのことも知っています。ドライグもいます」

 

「そうだよ!」

 

「ですが、やはり少し違います」

 

 俺は足を止めなかった。少女の周囲を高速で回りながら、攻撃を重ねる。

 

「今さら気づいたのか!」

 

「先ほどまでは、一誠が妙なことを始めただけだと思っていました!」

 

「今もそう思ってたのかよ!」

 

「半分くらいは!」

 

「残り半分は何だ!」

 

「考えています!」

 

 少女の表情から、少しずつ笑みが消える。初めて、俺を本気で観察している。俺の構え。踏み込み。拳の出し方。力の流れ。何かを確かめるように、一つずつ見ている。

 

「私の知っている一誠は――」

 

 少女の言葉が途中で止まった。緋色の瞳が、俺ではない何かを見るように揺れる。思考が、戦いから外れた。それまで常に俺を追っていた視線が、ほんの一瞬だけ止まる。

 

『相棒、今だ!』

 

 ドライグの声が響く。考えるより先に、身体が動いた。

 

BOOST!

 

 増幅した力を一気に全身へ流す。右足で岩場を踏み砕く。翼を最大まで開く。身体が弾かれたように前へ出た。少女の正面へ入る。右拳を囮として腹へ向ける。少女は動かない。拳は、予想通り横へ外れた。その外れた拳をそのまま引き、身体を半回転させる。

 

 本命は左。赤龍帝の籠手を纏った拳を、少女の側頭部へ向けて振った。今までと同じなら外れる。そう思っていた。

 

 鈍い音が響いた。

 

「――っ」

 

 拳に、確かな感触があった。少女の頭部へ、籠手が当たっている。髪が揺れた。少女の顔が、わずかに横を向く。

 

 ようやく当たった。だが、喜ぶ余裕はなかった。

 

「ぐっ……!」

 

 籠手の中で、拳が悲鳴を上げた。硬い。岩を殴ったどころではない。巨大な城壁へ、全速力で拳を叩きつけたような衝撃が腕を逆流する。赤龍帝の鎧が衝撃を分散しているにもかかわらず、指の骨が軋み、肘と肩まで痺れた。

 

 少女は吹き飛ばない。一歩も動かなかった。頭がわずかに傾いただけだ。

 

「……嘘だろ」

 

 俺は反射的に後ろへ跳んだ。距離を取る。少女は、その場に立ったままだった。頭へ手を当てることもしない。痛がる様子もない。ゆっくり、こちらへ顔を戻す。

 

 その表情を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。怒っている。ただし、最初から激しく怒鳴るような顔ではなかった。まず、信じられないという顔をした。何かの間違いではないかと確認するように、俺を見た。次に、自分が殴られた側頭部へ手を当てる。指先で髪を整えながら、眉を寄せた。そして、どう考えても納得できないという顔になった。

 

「……今」

 

 声が低い。

 

「今、頭を殴りました?」

 

「いや、手合わせだから――」

 

「頭を?」

 

「狙ったのは悪かったけど、そこしか隙が――」

 

「なぜですか?」

 

「なぜって」

 

「他にもありますよね?」

 

 少女が両腕を広げる。

 

「腕とか、肩とか、足とか! それなのに、どうして頭なんですか!?」

 

「さっきまでどこを狙っても当たらなかったんだよ!」

 

「だから頭を殴るのですか!?」

 

「当たると思ってなかった!」

 

「それはもっと失礼です!」

 

 少女の声が、一気に高くなった。緋色の瞳が強く輝く。身体から溢れていた黒と金の揺らぎが、炎のように膨れ上がった。

 

『相棒、離れろ!』

 

 ドライグが叫ぶ。俺は翼を開いた。

 

 少女が、殴られた側頭部を押さえたまま、もう片方の手をこちらへ向ける。構えではない。大きく振りかぶってもいない。何かを撃とうと力を溜めた様子もない。ただ、不満をぶつけるように手のひらを向けた。

 

「頭を殴る必要はなかったと思います!」

 

 次の瞬間。世界が、正面からぶつかってきた。

 

「――っ!?」

 

 音よりも先に、身体が押し潰された。風ではない。魔力の塊でもない。正面に存在する空間すべてが、一斉にこちらへ倒れ込んできたような圧力。赤龍帝の鎧が軋む。俺は咄嗟に両腕を交差させ、顔と胸を守った。

 

BOOST!

 

 反射的に力を防御へ回す。それでも足元の岩が耐えられなかった。岩盤が砕ける。身体が地面から引き剥がされた。

 

「ぐあっ!」

 

 背中から吹き飛ばされる。視界の中で、岩場が崩壊した。少女の前方にあった岩がまとめて砕け、細かな破片へ変わる。湖岸の一部が抉れた。地面を覆っていた土も石も押し流され、そこにあったはずの形が消えていく。衝撃は湖面へも届いた。水が左右へ割れ、底の一部が露出する。押し出された大量の水が巨大な壁となり、さらに沖へ倒れ込んだ。

 

 俺は砕けた岩と一緒に宙を飛んでいた。翼を広げても止まれない。空気そのものが後方へ押し流され、姿勢を整えることすらできなかった。背中から地面へ叩きつけられる。

 

「がっ――!」

 

 息が抜ける。そのまま岩場を跳ねた。一度。二度。三度。鎧が地面を削り、長い溝を刻む。最後に大きな岩へ背中から衝突した。岩が砕ける。破片の中へ身体が埋まった。

 

「……っ、ぐ……」

 

 視界が明滅する。耳鳴りがひどい。呼吸をしようとすると、胸の奥に鋭い痛みが走った。両腕が痺れている。赤龍帝の鎧が守っていなければ、今の一撃だけで全身の骨が砕けていた。

 

『相棒!』

 

「生きてる……」

 

『すぐに立て!』

 

「分かってる……!」

 

 砕けた岩を押し退ける。右腕へ力を入れた瞬間、肘から肩にかけて痛みが走った。骨が折れてはいない。だが、まともな状態でもない。肋骨も何本か傷めている。内臓へ伝わった衝撃も無視できない。防御へ回した魔力が、一度に大きく削られていた。

 

 あれは、ただ手を向けただけだった。力を溜めていない。大技を使う宣言もない。少女自身は、頭を殴られたことへ腹を立てて手を上げただけだ。それだけで、この有様だった。

 

「軽く手合わせ……だったよな」

 

『お前が持ちかけたのだろう』

 

「そうだけどさ……!」

 

 立ち上がる。脚が震えた。赤龍帝の鎧の補助がなければ、その場に膝をついていたかもしれない。

 

 視線を前へ向ける。舞い上がった土煙の向こう。少女は、先ほどとほとんど同じ場所に立っていた。少女の後ろ側は無傷に近い。衝撃は、俺がいた前方だけへ放たれていたらしい。少なくとも、怒りに任せて周囲すべてを吹き飛ばしたわけではない。だからといって、安心できる要素ではなかった。少女はまだ、側頭部を片手で押さえている。

 

「一誠!」

 

 遠くから声が飛んでくる。

 

「無事ですか!?」

 

「お前がやったんだろ!」

 

「ですが、あれくらいなら大丈夫かと思って!」

 

「あれくらい!?」

 

「一誠は丈夫ですから!」

 

「お前の知ってる俺を基準にするな!」

 

 少女が少し考える。

 

「ですが、今の一誠も立ちましたよ?」

 

「立ったけど!」

 

「なら大丈夫ですね!」

 

「全然大丈夫じゃない!」

 

 言葉は相変わらず明るい。だが、少女の顔には、俺が立ったことへの安堵が確かに浮かんでいた。殺すつもりはない。本気で傷つけるつもりもなかったのだろう。つまり、今のは少女にとって、本当に軽い反撃だった。

 

『相棒』

 

 ドライグの声が重い。

 

『もう通常の禁手で続けられる相手ではない』

 

「ああ」

 

『次に同じものを受ければ、今度こそ立てん』

 

「分かってる」

 

 赤龍帝の鎧へ残る力を確かめる。損傷は大きい。だが、まだ動ける。このまま終わるという選択肢もある。止めると言えば、少女は約束通り止まるかもしれない。俺が確認したかったことは、すでに十分すぎるほど分かった。目の前の少女は、危険だ。本人に敵意はない。だが、本人が考えているよりも遥かに強い。力の尺度が違いすぎる。そのまま部長たちのところへ連れていける状態ではない。だからこそ、ここで終えるだけでは足りなかった。少女がどこまで制御できるのか。こちらが本気で攻めたとき、どう反応するのか。少なくとも、それだけは確かめる必要がある。

 

 それに。頭を殴ったことは悪かった。悪かったが、あれだけ吹き飛ばされて、そのまま引き下がるのは性に合わない。

 

「ドライグ」

 

『何だ、相棒』

 

「覇龍でいく」

 

 ドライグが一瞬、沈黙した。

 

『本気か?』

 

「今のままじゃ、次の一発を受けられない」

 

『制御できる時間は長くない』

 

「分かってる。すぐに決める」

 

『あの娘に、決められると思うのか?』

 

「やってみなきゃ分からない」

 

 息を整える。胸が痛む。それでも、脚へ力を入れる。少女が遠くからこちらを見ていた。

 

「一誠、まだ続けるのですか?」

 

「ああ」

 

「休んだ方がよいのでは?」

 

「お前が言うな!」

 

「私は心配しているのですよ!」

 

「なら、次は頭を殴られても吹き飛ばすな!」

 

「頭を殴らなければよいでしょう!」

 

「それもそうだな!」

 

 反論できなかった。だが、今さら止まれない。

 

「次は、さっきまでとは違う」

 

「もっと強くなるのですか?」

 

 少女の顔が、再び明るくなる。緋色の瞳が期待に輝いた。

 

「楽しそうにするなよ」

 

「だって、見たことがない一誠ですから!」

 

 その言葉に、わずかに引っかかった。見たことがない一誠。少女もようやく、俺が自分の知る男とは違うかもしれないと感じ始めている。答えへ辿り着くのは、まだ先だ。今は戦う。

 

 左腕を胸の前へ構える。ドライグの力を、鎧の奥から引き上げる。赤龍帝の力を限界まで解放する。心の奥で、龍の声が重なった。鎧の隙間から、赤黒い光が溢れ出す。大地が震えた。湖面に細かな波が広がる。損傷していた赤い鎧が一度砕け、その内側から別の形が押し出される。硬い装甲ではない。生きた龍の鱗と筋肉を思わせる、異形の赤い外殻。腕は太く変わり、指先には鋭い爪が伸びる。背中からは、巨大な龍翼が開いた。肩と胸を覆う装甲も形を変え、全身が人と龍の境界にある姿へ近づいていく。

 

 力が膨れ上がる。同時に、身体の奥から体力を根こそぎ持っていかれる。長くは保たない。だから、最初から全力でいく。

 

RED DRAGON EMPEROR――JUGGERNAUT DRIVE!

 

 咆哮のような音声が、破壊された湖岸へ響き渡る。俺は赤い覇龍の姿で、少女を見据えた。

 

 少女は逃げなかった。恐怖するどころか、目を輝かせている。

 

「すごいです、一誠!」

 

 黒と金の揺らぎを纏ったまま、少女が笑った。

 

「それは、本当に初めて見ました!」

 

 俺は異形へ変わった拳を握りしめる。次で終わらせる。そう決め、赤い翼を大きく開いた。

 

 

 

 

 

 

 俺は異形へ変わった拳を握りしめる。次で終わらせる。そう決め、赤い翼を大きく開いた。

 

 翼が湖岸の空気を叩き、砕けた岩や土を巻き上げる。先ほどまでとは比べものにならない力が全身を満たしていた。同時に、身体の内側から体力が削られていく。この姿は長く保たない。五分。万全の状態でも、それが限界だ。すでに俺は少女の衝撃をまともに受け、全身へ傷を負っている。今の状態では、実際に動ける時間はさらに短い。

 

『相棒』

 

 ドライグの声が響く。

 

『短期決戦だ。出し惜しみはするな』

 

「ああ。最初から全部使う」

 

 少女は黒と金の揺らぎを纏ったまま、期待に満ちた目でこちらを見ている。

 

「準備はよいですか、一誠!」

 

「その余裕、すぐになくしてやる!」

 

「楽しみにしています!」

 

「本当に楽しそうだな!」

 

 赤い翼を一度だけ羽ばたかせる。視界から湖岸の景色が消えた。次の瞬間には、少女の目の前へ到達している。

 

 右腕を振り下ろす。人の拳とは違う。太く変貌した龍の腕。岩盤をまとめて砕ける爪が、少女の肩へ迫る。

 

 少女は初めて、自分の意思で動いた。

 

「おっ」

 

 楽しげな声を漏らしながら、身体をわずかに横へ傾ける。爪が銀髪のすぐ横を通過した。先ほどまでのように、不自然に軌道が外れたのではない。少女が俺の攻撃を見て、自分で避けた。

 

「今度は避けたな!」

 

「速くなりましたから!」

 

 振り下ろした腕を止めず、地面へ叩きつける。岩場が爆発したように砕けた。破片が舞い上がる。その中から左腕を突き出す。龍の爪が少女の胴体を狙う。

 

 少女は後ろへ下がらない。片手を上げ、爪の側面へ軽く触れた。

 

「なっ――」

 

 軌道が逸れた。真正面から押し返されたわけではない。俺の力の向きを読み、最も小さな動きで外側へ流された。少女の指先に、力を込めた様子はなかった。それでも、俺の腕は少女の身体を外れ、そのまま地面を深く抉った。

 

「よい攻撃です!」

 

「評価してる場合か!」

 

 翼を開き、至近距離から加速する。少女の周囲を半周し、背後へ回った。右脚を振り上げる。少女が振り返るより先に、踵を背中へ叩き込む。当たる直前、少女の身体が上へ浮いた。蹴りが足元を通過する。

 

「飛ぶのは反則じゃないのか!」

 

「一誠も飛んでいるでしょう!」

 

「俺は翼を出してる!」

 

「やはり細かいですね!」

 

 少女は空中で身体を反転させる。足場はない。それなのに、地上へ立っているときと変わらない動きで姿勢を整えた。俺へ右手を向ける。嫌な予感がした。翼を畳み、横へ飛ぶ。先ほどまでいた場所を、黄色い光弾が通り過ぎた。

 

「今度は何だ!」

 

「撃ってみました!」

 

「見れば分かる!」

 

 光弾は俺を外れ、そのまま湖へ落ちた。水柱が上がる。小さな弾だったにもかかわらず、湖面が大きく盛り上がり、周囲へ波が広がった。

 

「避けられましたね!」

 

「当たり前だ!」

 

「では、もう少し増やします!」

 

「待て!」

 

 少女の周囲に、光が生まれた。一つではない。赤。青。黄色。緑。白。紫。橙色。大きさも揃っていない。指先ほどの小さなものから、少女の身体を覆い隠せるほど大きなものまで、色とりどりの光弾が空中へ次々と現れる。

 

「多すぎるだろ!」

 

「一誠なら大丈夫です!」

 

「その判断をやめろ!」

 

 少女が楽しそうに腕を振った。光弾が一斉に動き出す。すべてが同じ軌道ではない。小さな赤い光弾が正面から連続で飛来する。青い光弾は湖面すれすれを滑り、下から浮かび上がる。大きな黄色い光弾が上空から落ちてくる。緑色の光弾は途中で二つに分かれ、左右から挟み込んだ。

 

「何だよ、この撃ち方!」

 

『避けろ、相棒!』

 

「分かってる!」

 

 翼を広げ、上空へ逃れる。正面から来た赤い光弾を爪で弾く。一つ。二つ。三つ。触れた瞬間、光弾が爆発した。腕が外側へ押される。威力は先ほどの衝撃波には及ばない。それでも、通常の禁手で受ければ無視できない力があった。

 

 俺は爆発の中を抜ける。上から迫る黄色い光弾へ、右腕を向けた。

 

「ドラゴンショット!」

 

 赤い魔力弾を撃ち出す。二つの光が空中で衝突した。爆発。湖の上に熱と風が広がり、押し出された水が激しく波打つ。

 

「おおっ!」

 

 少女が声を上げる。

 

「撃てるのですね!」

 

「お前の知ってる俺も使うんじゃないのか!」

 

「使いますが、もっと近くで見たいです!」

 

「近づいたら撃つな!」

 

「それでは見えません!」

 

「どっちなんだよ!」

 

 少女が両手を広げる。今度は、左右の空間へ無数の小さな光が現れた。一直線には並ばない。不規則に浮かび、それぞれが異なる色へ輝いている。

 

「まだ増やすのか!」

 

「せっかくですから!」

 

 両手が打ち合わされる。乾いた音が一度響いた。少女の左右に浮かんでいた光弾が、俺を囲むように大きく広がる。正面。背後。左右。頭上。逃げ道を塞ぐように配置された光弾が、一斉にこちらへ向きを変えた。

 

「一誠、全部避けてください!」

 

「無茶言うな!」

 

 光弾が飛ぶ。翼を最大まで開いた。正面から迫る大きな青い光弾の下へ潜る。右から来た紫の弾を爪で切り裂く。背後から追ってきた小さな白い光弾を、翼で叩き落とす。

 

 爆発。爆発。爆発。俺の周囲で次々と光が弾ける。衝撃を受けながら、湖上を高速で飛び続ける。色とりどりの光弾が、まるで意思を持っているように軌道を変えた。

 

「曲がるのかよ!」

 

「その方が面白いでしょう!」

 

「俺は面白くない!」

 

 急上昇する。追ってきた光弾も空へ向きを変える。翼を畳み、今度は真下へ落ちた。光弾同士が空中で衝突し、大きな爆発を起こす。その光を背にして、少女へ向かって突進した。

 

「今度はこっちの番だ!」

 

 右腕を引く。少女は逃げない。正面から俺を待っている。拳を振り抜く直前、少女の前に大きな赤い光弾が現れた。

 

「近い!」

 

 拳を光弾へ叩き込む。爆発が至近距離で起きた。腕と顔へ熱が走る。視界が赤く染まる。それでも前進を止めない。爆炎の向こうへ爪を伸ばした。少女の姿を捉える。

 

 右から爪。少女が身体を沈める。左から薙ぐ。後ろへ浮いて避けられる。翼を使い、さらに加速する。少女へ追いつき、太い龍の腕を振り下ろした。

 

 少女は両手を頭上へ上げる。俺の爪と少女の手のひらが、初めて正面からぶつかった。

 

「――っ!」

 

 衝撃が周囲へ広がった。湖面が大きく窪む。足元の水が円形に押し下げられ、俺たちを中心として巨大な波が外側へ走った。

 

 少女は片手で俺の腕を受け止めている。身体は浮いたまま。足場すらない。それでも、俺の全力を込めた腕は一センチも動かなかった。

 

「重いですね!」

 

「その顔で言うな!」

 

 少女は笑っている。苦しそうではない。力を比べること自体を楽しんでいる。

 

「ですが、よいです!」

 

「何がだ!」

 

「先ほどまでは、私ばかり一誠のことを知っていました!」

 

 少女が俺の腕を横へ押す。身体ごと大きく流された。翼を広げ、湖面へ落ちる寸前で姿勢を戻す。

 

「ですが、この一誠は私の知らないことばかりします!」

 

 少女が追ってくる。飛ぶというより、空中を走っているような動きだった。右手を振る。小さな光弾が雨のように降り注ぐ。

 

「それがどうした!」

 

 爪で撃ち落とす。すべては防げない。肩。胸。翼。複数の光弾が赤い外殻へ命中する。爆発のたびに身体が揺れる。覇龍の外殻が衝撃を受け止めているが、体力は確実に削られていく。

 

「最初から言ってるだろ! 俺はお前を知らない!」

 

「はい!」

 

「やっと分かったのか!」

 

「やっと分かりました!」

 

 少女が空中で止まった。俺も少し離れた場所で翼を広げ、少女を見る。周囲に浮かんでいた光弾も、一度動きを止めている。

 

「あなたは、私の知っている一誠ではありません!」

 

「だから最初からそう言ってる!」

 

「顔も声も同じで、部長たちもドライグも知っていて、それでも違う!」

 

 少女は胸へ片手を当てた。黒と金の揺らぎが背後へ大きく広がる。緋色の瞳を輝かせ、妙に堂々と胸を張った。

 

「ならば、改めて名乗りましょう!」

 

「今ここでか!?」

 

「今だからです!」

 

 少女の周囲に浮かんでいた色とりどりの光弾が、夜空の星のように配置を変える。本人は演出しているつもりなのだろう。俺からすれば、いつでも撃てる弾に囲まれた自己紹介だった。

 

「我が名は天童ミライ!」

 

 少女――ミライが、声高らかに名乗る。

 

「時の王の力を継ぎ、名もなき神々の王女の権能を持つ者! 駒王町の時計店を預かり、止まった時計を再び動かし、いつか本物の勇者となる少女です!」

 

「長い!」

 

「大切な自己紹介です!」

 

「聞きたいことが一気に増えたぞ!」

 

「質問はあとで受け付けます!」

 

「今答えろ!」

 

「そして!」

 

 ミライが俺を指さす。

 

「あなたは一誠ではありません!」

 

「俺は兵藤一誠だ!」

 

「ですから、区別するために、これからはイッセイと呼びます!」

 

「何が違う‼」

 

「私の中では違います!」

 

「俺には分からねえよ!」

 

「私に分かれば問題ありません!」

 

「勝手すぎるだろ!」

 

 ミライが満足そうに頷いた。

 

「では、改めて続きを始めましょう、イッセイ!」

 

 周囲に浮かんでいた光弾が、一斉に輝きを増した。

 

「結局撃つのか!」

 

「名乗ったので、先ほどより本気でいきます!」

 

「今まで本気じゃなかったのかよ!」

 

 光の雨が降り注ぐ。俺は翼を開き、その中へ突っ込んだ。

 

『相棒。残り時間は長くない』

 

「分かってる!」

 

『このまま撃ち合っても、こちらが先に尽きる』

 

「ああ。だから準備する」

 

 正面から飛んできた大きな緑色の光弾を、両腕で叩き割る。爆発に紛れ、胸部へ力を集める。すぐには撃たない。今のミライへ半端な攻撃を放っても意味はない。覇龍で扱える力を可能な限り圧縮し、一撃へまとめる。

 

「ドライグ。奥で溜めろ」

 

『了解した』

 

 胸の奥で、赤黒い力が収束し始める。ミライに悟られないよう、外側では攻撃を続けた。

 

「ドラゴンショット!」

 

 赤い弾を連続で放つ。ミライの周囲にある光弾へ命中する。赤。青。白。異なる色の爆発が空を埋める。爆炎の中から飛び出し、ミライへ爪を振り下ろす。

 

 ミライは片手で受け流す。反対の手をこちらへ向ける。手のひらの前に、紫色の光が集まった。

 

「近すぎるだろ!」

 

「避けてください!」

 

 紫の光弾が弾ける。胸へ直撃した。

 

「ぐっ!」

 

 身体が湖面へ叩き落とされる。水中へ沈む直前、翼を広げて踏みとどまる。翼の先が湖面を削り、大量の水が舞い上がった。その水の向こうから、複数の黄色い光弾が飛来する。爪で水ごと切り裂く。光弾が爆発し、水蒸気が周囲を覆った。視界が白く染まる。その中で気配を探る。何も感じない。最初から、ミライの力は感知できなかった。

 

『右だ!』

 

 ドライグの声に従い、腕を上げる。右側から飛んできた青い光弾を受け止めた。爆発。その反動を利用して左へ飛ぶ。直後、先ほどまで俺がいた場所を、巨大な橙色の光弾が通過した。

 

「危なっ!」

 

「避けましたね!」

 

「嬉しそうに言うな!」

 

 ミライは完全に楽しんでいる。次はどんな弾なら避けるのか。どの方向から撃てば、どのように動くのか。俺の反応を確かめながら、弾の大きさと速度を変えていた。戦いというより、何かの遊びを始めたようだった。だが、一発一発の威力は遊びで済むものではない。

 

 俺も止まれない。胸の奥へ力を溜めながら、湖上を高速で飛び続ける。光弾を避ける。撃ち落とす。爪で切り裂く。隙を見つけ、ミライへ接近する。拳。蹴り。爪。体当たり。ミライは受け止め、逸らし、ときには自分から後ろへ飛んで避けた。今までのように、攻撃そのものが勝手に外れることはない。ミライは自分の意思で俺と戦っている。それでも、傷一つつけられなかった。

 

『相棒、限界が近い』

 

「あと少しだ!」

 

 胸部へ溜めている力が、外殻の内側で暴れ始めていた。これ以上圧縮すれば、俺自身の身体が耐えられない。十分だ。いや、これで足りなければ、もう赤い覇龍で打てる手はない。

 

「ミライ!」

 

「はい!」

 

「次で終わらせる!」

 

 ミライが笑う。

 

「望むところです、イッセイ!」

 

 俺は翼を大きく広げ、一気に後退した。湖の中央付近まで距離を取る。ミライは追ってこない。空中へ立ったまま、こちらが何をするのか見守っている。

 

『相棒。全力でいくぞ』

 

「ああ!」

 

 胸部の外殻が開く。内部に集めていた赤黒い光が露出した。湖面が震える。周囲の水が俺から逃げるように波打ち、空気が熱を帯びる。

 

 ミライの顔から笑みが消えた。恐怖したわけではない。初めて見る力を、真剣に観察している。

 

「それは……」

 

「避けるなら今だ!」

 

「避けません!」

 

「そう言うと思ったよ!」

 

 胸部の奥で、圧縮した力が臨界を越える。

 

LONGINUS――

 

 赤黒い光が一つに収束した。

 

SMASHER!

 

 覇龍の咆哮とともに、巨大な光線が放たれた。反動で身体が後ろへ押される。翼を最大まで開き、空中へ踏みとどまる。

 

 光線は湖面を呑み込みながら、一直線にミライへ向かった。水が割れる。光線へ触れた部分が瞬時に蒸発し、白い蒸気となって空へ噴き上がった。湖底が露出する。さらに赤黒い光が地面を削り、長い傷を刻んでいく。

 

 ミライが両手を前へ出した。黒と金の揺らぎが集まり、巨大な奔流へ変わる。赤黒い光線と、黒金の力が正面から激突した。

 

 世界を引き裂くような音が響いた。二つの力の間で、空間が白く染まる。湖水が左右へ吹き上がり、巨大な壁となって対岸へ押し寄せる。

 

「ぐ……おおおおっ!」

 

 さらに力を込める。胸部から放たれる光線が太さを増した。ミライの黒金の奔流を押し返す。ほんの少し。ミライの身体が後ろへ動いた。

 

「押した!」

 

『気を抜くな、相棒!』

 

 ミライが一度、足元のない空中を踏んだ。後退が止まる。次に、前へ一歩進んだ。

 

「何で歩けるんだよ!」

 

 声が届く距離ではない。それでも叫ばずにはいられなかった。

 

 ミライは黒金の力を両手から放ちながら、こちらへ向かって歩き始めた。一歩。さらに一歩。赤黒い光線の中心へ、正面から入り込んでくる。制服も銀髪も、光に呑まれて見えなくなる。それでも、緋色の瞳だけは消えなかった。黒と金の揺らぎが身体を覆い、俺の最大攻撃を左右へ押し分けている。

 

「まだだ!」

 

 残っている力をすべて胸部へ送る。光線の熱量がさらに上がる。湖底が深く抉れた。対岸へ届いた余波が森と岩壁を吹き飛ばす。大地が裂け、赤黒い光が遠くの空まで伸びていく。

 

 それでもミライは止まらない。黒金の奔流を前方へ押し出しながら、光線の中を進んでくる。

 

「すごいです、イッセイ!」

 

 光と轟音の中から、楽しそうな声が聞こえた。

 

「これほどの攻撃は初めてです!」

 

「感想を言ってる場合か!」

 

「ですが!」

 

 ミライがさらに前へ出る。

 

「これなら、私も遠慮しなくてよさそうです!」

 

「十分遠慮してなかっただろ!」

 

 赤黒い光線の中心が割れた。ミライが黒金の力を纏い、その内側から飛び出してくる。

 

「嘘だろ……!」

 

 胸部から放っていた光が途切れた。ロングギヌス・スマッシャーを撃ち切った。身体から力が抜ける。覇龍を維持できる時間も、ほとんど残っていない。それでも、ミライは目前まで迫っている。

 

『相棒、退け!』

 

「無理だ!」

 

 ここで退けば、もう次はない。俺は胸部を閉じ、赤い翼を限界まで広げた。残った力を腕と脚へ集める。光線で駄目なら、直接叩き込む。最大の速度。最大の重量。この姿で出せるすべてを乗せて、正面からぶつかる。

 

「うおおおおおおおっ!」

 

 翼が空気を打ち砕く。身体が赤い砲弾となって前へ飛び出した。両腕を前へ構える。ミライも、こちらへ向かって進んでいる。互いの距離が一瞬で消えた。

 

 ミライが俺を見る。緋色の瞳が細くなる。逃げない。止めようともせず、ぎりぎりまでこちらを引きつけている。

 

 右脚へ、紫色の光が集まった。光は炎ではない。細かな電撃となって脚の周囲を走り、激しく弾けている。

 

「な――」

 

 ミライは助走しなかった。大きく跳び上がることもしない。俺の突進が届く直前、身体をわずかに横へ向けた。右脚を上げる。腰を回す。ただ、それだけだった。

 

 紫の電撃を纏った踵が、俺の胸部へ正確に重なった。俺が前へ進む力。翼による加速。覇龍の重量。すべてが、その一点へ集中する。

 

 蹴りが突き刺さった。

 

「――がっ!」

 

 紫の電撃が胸部から全身へ走った。赤い外殻へ細かな亀裂が広がる。胸。肩。腕。脚。翼。一瞬で全身へ届いた。

 

『相棒!』

 

 赤い外殻が砕けた。無数の破片となり、空中へ散っていく。覇龍の力が身体から強制的に引き剥がされた。翼が消える。腕が人の形へ戻る。全身を覆っていた力が途切れ、俺は空中へ投げ出された。

 

「ぐあああああっ!」

 

 湖岸へ向かって落下する。地面へ激突する直前、身体を捻った。肩から岩場へ落ちる。何度も転がり、砕けた土と石の中を滑った。ようやく止まったときには、赤龍帝の鎧も消えていた。

 

「……っ」

 

 身体を起こそうとする。腕へ力が入らない。呼吸するだけで胸が痛む。全身が焼けたように熱く、その奥では冷たいものが広がっていた。

 

『相棒、動くな』

 

 ドライグの声も弱い。

 

『赤の力は強制的に解除された。しばらくは呼び出せん』

 

「そうか……」

 

 左腕を見る。赤龍帝の籠手はない。呼びかけても、形を作るだけの力が戻ってこなかった。赤い覇龍を使い切った。ロングギヌス・スマッシャーも撃った。それでも、ミライには傷一つない。

 

 顔を上げる。荒れ果てた湖の上から、ミライがこちらへ下りてくる。紫色の電撃は、すでに右脚から消えていた。制服にも乱れはない。銀髪が風に揺れている。

 

 ミライは地面へ下りると、倒れている俺へ近づいてきた。

 

「……イッセイ?」

 

 先ほどまでの高い声とは違う。少し心配そうだった。

 

「今のは、少し強すぎましたか?」

 

「少しじゃ……ない……」

 

「ですが、イッセイもすごかったです!」

 

「慰めに……なってないぞ……」

 

「本心です!」

 

 ミライは俺の前へしゃがもうとする。俺は震える腕を地面へついた。

 

「まだだ」

 

「え?」

 

「まだ、終わってない」

 

 腕へ力を込める。肘が震える。脚もまともに動かない。それでも地面を押し、片膝を立てた。

 

「もう休んだ方がよいですよ」

 

「お前に……まだ見せてないものがある」

 

 ミライが目を瞬く。俺は息を吐き、どうにか立ち上がった。赤龍帝の力は使えない。ならば、別の力を使う。左腕ではない。右腕を前へ出す。

 

『相棒、本当に使うのか』

 

「ああ」

 

『赤の力は戻っていない。今、切り替えれば――』

 

「分かってる」

 

 ミライの緋色の瞳が、俺の右腕へ向けられる。

 

「何をするのですか?」

 

「お前が知らない……もう一つだ」

 

 右腕へ、白い光が集まり始めた。

 

 

 

 

 

 

右腕へ集まった白い光が、手首から肘までを包み込んだ。赤龍帝の籠手とは違う、白銀の装甲が組み上がっていく。鋭く伸びた輪郭の中央には、青い宝玉が埋め込まれていた。

 

 左腕に赤い籠手はない。赤の力は、先ほどの蹴りで完全に沈黙している。代わりに右腕へ現れた白い籠手が、低い駆動音を響かせた。

 

「白……?」

 

 ミライが立ち上がり、俺の右腕を興味深そうに覗き込む。

 

「それは、先ほどの赤いものとは違うのですか?」

 

「ああ」

 

「色を変えただけではなく?」

 

「そんな簡単な話じゃない」

 

「では、今度は何ができるのですか?」

 

「見てろ」

 

 白い籠手をミライへ向ける。青い宝玉が輝いた。

 

『DIVIDE!』

 

 音声とともに、白い力がミライへ伸びる。本来なら、相手の力を半分へ削り、その一部をこちらへ吸い上げる。赤龍帝の《倍加》とは正反対の力だ。相手が強ければ強いほど、奪えるものも大きくなる。今の俺にとっては、傷ついた身体を立て直す最後の手段でもあった。

 

 だが。

 

「……何も来ない」

 

 ミライの身体から力が抜けた様子はない。黒と金の揺らぎも、少しも弱まらなかった。白い籠手へ流れ込むものもない。

 

『相棒。もう一度だ』

 

「ああ」

 

 青い宝玉へ意識を集中させる。

 

DIVIDE!

 

 二度目。白い力がミライを捉える。しかし、結果は同じだった。減らない。吸えない。触れたという感覚さえない。

 

「今度は何をしているのですか、イッセイ?」

 

「お前の力を半分にして、こっちへ吸い取ろうとしてる」

 

「半分?」

 

 ミライは両手を広げ、自分の身体を見下ろした。次に、背後で揺れる黒と金の力へ目を向けようとする。

 

「何も変わっていませんよ?」

 

「分かってる」

 

「失敗ですか?」

 

「たぶんな」

 

「先ほどから失敗が多いですね」

 

「誰のせいだと思ってる!」

 

「私ですか?」

 

「他に誰がいる!」

 

 ミライは納得できないように首を傾げた。

 

「私は何もしていませんよ」

 

「それが一番困るんだよ……」

 

 白い籠手を下ろさない。何かが阻んでいる。いや、阻むという表現さえ正しくないのかもしれない。こちらの力は、確かにミライへ向かっている。それなのに、減らす対象へ到達した感覚がない。ミライの力が大きすぎるからではない。どれほど大きな力でも、《減半》が成立すれば変化は起きる。だが、目の前の少女には、半分にするという仕組みそのものが通じていなかった。

 

『相棒。減らすことはできん』

 

「吸収もか?」

 

『同時に行っている。だが、どちらも成立していない』

 

「なら、白も駄目か……」

 

 籠手を握る。赤の力は戻らない。白の力も通じない。覇龍まで使い、最大の砲撃を放った。それでも傷一つつけられなかった。身体はすでに限界へ近づいている。ここで倒れれば、俺にできることはなくなる。

 

「イッセイ」

 

 ミライが、俺の白い籠手を見ながら呼びかけてきた。

 

「今、何かがこちらを引っ張っていました」

 

「分かるのか?」

 

「少しだけです。服の裾を摘ままれたような……いえ、もっと弱いですね」

 

「こっちは全力なんだけどな」

 

「私の力が欲しいのですか?」

 

 答えるべきか迷った。正直に言えば、そうだ。このままでは、もうまともに戦えない。だが、目の前にいる相手から力を借りて、その力で相手を倒そうとすることになる。無茶苦茶にもほどがある。

 

「……吸えるなら、少しだけ貸してくれ」

 

「分かりました」

 

 ミライはあっさり頷いた。

 

「どうぞ!」

 

「そんな簡単にいいのか?」

 

「必要なのでしょう?」

 

「お前を倒すために使うんだぞ」

 

「知っています!」

 

「何で笑顔なんだよ!」

 

「イッセイがまだ何かできるのなら、見てみたいですから!」

 

 ミライが右手を胸の前へ置いた。黒と金の揺らぎが、わずかに静まる。消えたわけではない。こちらを拒む何かが、一瞬だけ道を開けた。

 

『相棒、今だ!』

 

 白い籠手を向ける。

 

DIVIDE!

 

 三度目の音声が響いた。ミライを半分にしようとする力は、やはり何も捉えない。本人にも、溢れる力にも変化はなかった。だが同時に働いていた吸収だけが、今度は何かを掴んだ。黒と金の光が、細い流れとなってミライから白い籠手へ伸びる。

 

「来た……!」

 

 青い宝玉が強く輝いた。流れ込んだ力が、右腕から全身へ広がっていく。枯れかけていた魔力が満たされる。呼吸するだけで痛んでいた胸が、少しずつ楽になる。完全に傷が治ったわけではない。折れかけた骨や傷んだ筋肉は、そのままだ。それでも、立っているだけで精一杯だった身体へ、もう一度動くための力が戻ってきた。

 

「すごいな、これ……」

 

 吸収した量は、決して少なくない。赤龍帝の鎧をもう一度動かせるのではないかと思うほどの力が、身体へ流れ込んでいる。なのに。ミライは何も変わっていなかった。

 

「もう少し必要ですか?」

 

「……お前、平気なのか?」

 

「何がです?」

 

「今、かなり吸ったぞ」

 

「そうなのですか?」

 

 ミライは自分の手を握ったり開いたりする。

 

「特に変わりません」

 

 白い籠手へ流れ込む力が止まった。俺が止めたのではない。ミライが手を下ろした瞬間、道そのものが閉じた。

 

『相棒』

 

「ああ」

 

 奪ったのではない。吸収したのでもない。ミライが許した分だけ、こちらへ渡された。白い力は、ミライの力を半分にできなかった。無理やり取り込むこともできなかった。あいつが「どうぞ」と言ったから、ようやく受け取れただけだ。身体へ力が戻ったというのに、背筋には冷たいものが走っていた。

 

「足りましたか?」

 

「ああ。十分だ」

 

「では、次ですね!」

 

「お前、本当に楽しそうだな」

 

「だって、まだ白い籠手しか見ていません!」

 

 ミライが期待に満ちた目で俺を見る。

 

「鎧にもなるのでしょう?」

 

「……何で分かるんだよ」

 

「赤い方がなったので!」

 

「単純な予想か!」

 

「当たりましたね!」

 

「当たったけど!」

 

 息を整える。吸収した力を全身へ巡らせる。赤い力は使えない。《倍加》もない。だが、白には白の戦い方がある。

 

「ドライグ」

 

『制御はこちらで補助する』

 

「頼む」

 

 右腕の白い籠手を胸の前へ構える。

 

「禁手化!」

 

BALANCE BREAKER!

 

 白い光が全身を包み込んだ。右腕の籠手から伸びた装甲が、肩、胸、腰、脚へ広がっていく。赤龍帝の鎧よりも細身の輪郭。白銀の装甲。各部へ埋め込まれた青い宝玉。背中には、金属の翼ではなく、白く輝く光の翼が展開された。

 

 赤い鎧とは何もかもが違う。重さも。力の流れも。身体を押し出す感覚も。だが、この鎧を動かしているのは俺だ。

 

「おお……!」

 

 ミライが目を輝かせる。

 

「白くなりました!」

 

「見れば分かる!」

 

「赤い姿より細いですね!」

 

「速さを優先してるんだよ!」

 

「では、もっと速いのですか?」

 

「試してみろ!」

 

 光の翼を開く。身体が前へ引かれた。赤い覇龍のような、力任せに空気を押し潰す加速ではない。周囲の抵抗を切り裂き、一直線に滑るような速さ。一瞬でミライの間合いへ入る。

 

「速――」

 

 ミライが言い終える前に、右拳を振り抜いた。顔は狙わない。今度は肩だ。

 

 ミライは手のひらで拳を受け止める。衝撃が空気を震わせた。すぐに左拳を腹へ向ける。ミライが肘で外側へ逸らす。右膝。左肘。手刀。白い鎧の速度へ任せ、途切れることなく攻撃を重ねる。ミライはその場からほとんど動かない。両手と腕だけで、すべてを受け流していく。

 

「先ほどより速いです!」

 

「余裕そうに言うな!」

 

「ですが、重さは赤い方が上でした!」

 

「比べるな!」

 

 光の翼を一度閉じる。ミライの右側へ身体を滑らせる。振り返るより先に、背後から肩へ拳を叩き込む。ミライの身体がわずかに前へ動いた。

 

「当たった!」

 

「当てましたね!」

 

「何で嬉しそうなんだよ!」

 

 続けて背中へ掌底を打ち込む。白い力を一点へ集中させる。ミライの身体が、初めて自分の意思とは関係なく前へ押し出された。ほんの数メートル。それでも、これまでの攻撃より明確な手応えがあった。

 

「いける!」

 

『調子に乗るな、相棒!』

 

 ドライグの警告と同時に、ミライが空中で振り返った。楽しそうな笑顔は変わっていない。

 

「今度はこちらです!」

 

「来い!」

 

 ミライが踏み込む。足場のない空中を蹴り、真正面から距離を詰めてくる。右拳。構えも何もない、まっすぐな一撃だった。

 

 俺は両腕を交差させる。白い鎧の全身へ、吸収した力を流した。拳が腕へ触れる。次の瞬間、視界が反転した。

 

「――っ!」

 

 防いだはずだった。だが、衝撃を受け止めることなどできなかった。身体が湖岸へ向かって吹き飛ばされる。光の翼を開き、空中で止まろうとする。それでも勢いが殺せない。湖面を何度も跳ね、最後に崩れた岸へ背中から突っ込んだ。岩と土が巻き上がる。

 

「ぐっ……!」

 

 白い鎧が衝撃を分散する。赤の覇龍を解除されたときほどではない。まだ動ける。腕を地面へつき、すぐに立ち上がった。

 

「イッセイ!」

 

 湖の上から、ミライが声をかけてくる。

 

「続けますか?」

 

「当然だ!」

 

「よかったです!」

 

「心配したのか喜んでるのか、どっちだ!」

 

「両方です!」

 

 光の翼を広げる。再び空へ飛び上がった。

 

『相棒。吸収した力が減っている』

 

「分かってる」

 

『白い鎧そのものにも、お前の魔力が必要だ』

 

「なら、使い切る前に当てる」

 

 ミライが許した力は、無限ではない。追加で吸わせてもらうことはできるかもしれない。だが、頼んでばかりでは何のために戦っているのか分からない。残っている分で攻める。

 

 白い光を右拳へ集中させる。翼を最大まで広げた。

 

「今度は正面からいく!」

 

「先ほども正面でしたよ!」

 

「もっと正面だ!」

 

「どう違うのですか!」

 

「見れば分かる!」

 

 一直線に加速する。小細工はしない。ミライの反応を超える速度と、吸収した力を一つにまとめ、正面から叩き込む。ミライも逃げなかった。空中へ立ち、両足を揃える。俺の拳を見ている。

 

「うおおおおっ!」

 

 白い拳を振り抜く。ミライは身体を半歩だけ横へ動かした。拳が頬のすぐ横を通過する。避けられた。だが、まだ終わらない。翼の片方だけを強く動かす。前進しながら身体を回転させ、反対の拳を横から叩き込む。

 

 ミライが左腕を上げた。拳が腕へ当たる。白い力が爆発した。空気が弾け、湖面へ円形の波が広がる。

 

「今度こそ――」

 

 押し切ろうと力を込める。ミライの腕が、こちらの拳を下へ滑らせた。力の方向を外される。体勢が崩れた。

 

「しまっ――」

 

 ミライの手が白い鎧の肩を掴む。次の瞬間、空と湖が入れ替わった。身体を回される。そのまま真下へ投げ落とされた。

 

「ぐあっ!」

 

 湖面へ背中から激突する。水が爆発したように吹き上がった。白い鎧ごと湖底へ叩き込まれる。背中が地面へめり込んだ。水中で息が漏れる。湖底に亀裂が走る。身体が動かない。

 

『相棒!』

 

 ドライグの声に意識を引き戻される。右拳を湖底へ押しつける。腕を伸ばす。光の翼を水中で開いた。水を押し退け、湖面へ向かって上昇する。

 

 水上へ飛び出した。

 

「はぁ……っ、はぁ……!」

 

 息を吸う。白い鎧の隙間から水が流れ落ちる。ミライは少し離れた場所で待っていた。

 

「もう終わりますか?」

 

「まだだ」

 

「ですが、二回も吹き飛びましたよ」

 

「二回くらいで終われるか」

 

「そうですか」

 

 ミライは笑った。先ほどまでの、光弾を撃ち合っていたときとは少し違う。面白がっているだけではない。俺が立ち上がるのを、確かめるように見ていた。

 

「では、もう一度ですね」

 

「ああ」

 

 白い鎧へ残った力を集める。装甲の一部には亀裂が入っている。光の翼も、最初より薄くなっていた。吸収した力は残り少ない。魔力も再び底へ近づいている。

 

『相棒。これ以上は鎧が保たん』

 

「あと一回だ」

 

『何をする気だ』

 

「全部まとめてぶつける」

 

『先ほども同じことをしただろう』

 

「今度は止まらない」

 

 拳だけではない。腕。肩。脚。翼。白い鎧へ残るすべてを前進へ使う。受け流されようとしても、身体全体で押し切る。

 

「ミライ!」

 

「はい!」

 

「今度こそ倒す!」

 

「どうぞ!」

 

 光の翼を広げる。空気が白く弾けた。加速する。ミライへ向かって飛ぶ。途中で拳を引く。白い力を右腕へ集める。ミライが腕を上げる。正面から受け流すつもりだ。

 

「同じでは駄目ですよ、イッセイ!」

 

「同じじゃない!」

 

 拳が触れる直前、右腕だけではなく、全身の力を解放した。翼がさらに加速する。肩からミライへぶつかる。拳を逸らされても、身体そのものは止めない。

 

「おおおおおっ!」

 

 ミライの身体が後ろへ押された。数メートル。十メートル。湖上を滑るように後退していく。

 

「押せてる!」

 

 さらに力を込める。白い鎧が軋む。翼の光が弱まる。それでも前へ出る。

 

 ミライの足が、空中を踏んだ。後退が止まった。

 

「なっ――」

 

 ミライが俺の肩へ手を置く。

 

「今のは、少しよかったです」

 

「少しかよ!」

 

「ですが――」

 

 ミライの手に力が入った。

 

「ここまでです!」

 

 身体が下へ引かれる。抗う暇もなかった。ミライが俺を掴んだまま急降下する。湖岸へ向かって落ちる。

 

「待っ――」

 

 地面が目前へ迫る。次の瞬間、背中から岩場へ叩きつけられた。衝撃が全身を貫く。岩盤が砕け、巨大な窪みができた。白い鎧に亀裂が走る。

 

「がっ……!」

 

 さらにミライの掌底が胸部へ当たった。大きく振りかぶってはいない。軽く押したようにしか見えなかった。だが、身体は窪みの底から弾き出された。地面を何度も跳ねる。白い装甲が一つずつ砕けていく。肩。胸。脚。光の翼が消えた。最後に岩壁へ背中から衝突する。亀裂が広がる。白い鎧が完全に砕け散った。

 

 生身へ戻った身体が地面へ落ちる。

 

「……っ」

 

 指を動かす。動いた。次に腕を上げようとする。肘が震え、途中で落ちた。

 

『相棒』

 

 ドライグの声が聞こえる。

 

『もうよい』

 

「まだ……」

 

『白の鎧も解除された。吸収した力も、ほとんど残っていない』

 

「立てる……」

 

『身体が保たん』

 

「それでも……」

 

 右手を地面へつく。力が入らない。一度、肘から崩れた。土が顔へつく。

 

「イッセイ」

 

 足音が近づいてくる。ミライが、少し離れたところで立ち止まった。

 

「もう立てないと思ったのですが……」

 

「勝手に……決めるな……」

 

 もう一度、腕へ力を入れる。今度は片膝を立てた。胸が痛い。呼吸するたび、全身の傷が一斉に主張してくる。それでも、身体を起こす。

 

「本当にしつこいですね」

 

 ミライの声は、呆れているようでいて、どこか柔らかかった。

 

「何度吹き飛ばされたら諦めるんですか?」

 

「諦めたら……そこで終わりだろ」

 

「終わってもよいのでは?」

 

「俺が始めたんだ」

 

 脚を震わせながら立ち上がる。

 

「お前が危険かどうか確かめるって言った。部長のところへ連れていくって決めた。それなのに、俺が先に倒れて終わりなんて……格好つかないだろ」

 

「格好の問題なのですか?」

 

「それだけじゃない」

 

 ミライを見る。敵意のない少女。力の大きさを自覚していない少女。俺の知る者たちを、本当の友人のように語る少女。

 

「お前は悪い奴じゃないと思う」

 

 ミライが瞬く。

 

「でも、何が起きてるのか分かってない。自分がどれだけ強いのかも分かってない」

 

「それは……」

 

「その状態で町へ行かせるわけにはいかない」

 

「私は何もしませんよ」

 

「するつもりがなくても、湖岸がこうなった」

 

 周囲へ目を向ける。岩場は砕けている。湖岸は抉れ、湖底には長い傷が残っている。対岸の一部も、赤い覇龍の砲撃で消し飛んでいた。

 

「これは半分以上イッセイのせいでは?」

 

「それは否定しない!」

 

「大半では?」

 

「細かい割合は今いいだろ!」

 

「重要だと思います!」

 

「とにかく!」

 

 叫んだせいで胸が痛む。咳き込みながら、それでもミライを見る。

 

「俺が動けるうちは、まだ終わってない」

 

 ミライは答えなかった。黒と金の揺らぎを纏ったまま、俺を見つめている。緋色の瞳から、先ほどまでの浮ついた楽しさが少しずつ消えていく。

 

「……どうして、そこまで立てるのですか?」

 

「立てるからだ」

 

「答えになっていません」

 

「俺も分からない」

 

 息を吐く。

 

「でも、まだやれることが残ってる」

 

 ミライの視線が、俺の両腕へ向く。赤い籠手もない。白い籠手も消えている。

 

「もう赤も白もありませんよ?」

 

「ああ」

 

「鎧も壊れました」

 

「分かってる」

 

「それでも、まだ続けるのですか?」

 

「次が最後だ」

 

 俺はゆっくりと右手を上げた。

 

「ドライグ」

 

『……何だ、相棒』

 

「白の覇龍でいく」

 

 ドライグが沈黙する。

 

『保って一分だ』

 

「ああ」

 

『今のお前なら、それより短い』

 

「それでいい」

 

『赤の覇龍よりも身体への負担は大きい。解除されたあとに意識が残る保証もない』

 

「分かってる」

 

『それでもか』

 

「それでもだ」

 

 ミライは口を挟まず、俺とドライグのやり取りが終わるのを待っていた。

 

 俺は収納の術式へ意識を向ける。残った魔力が、足元へ小さな魔法陣を描いた。白い光が地面から立ち上がる。その中へ右手を入れる。

 

「それと――」

 

 指先が、布の巻かれた長い柄へ触れた。何度も打ち直した。何度も折った。俺の力が増えるたび、それまで使っていた武器は耐えられなくなった。それでも、今度こそ最後まで俺の力を運べるようにと作り続けた。これまで一度も、本当の全力で振るったことのない刀。

 

「あいつを使う」

 

 柄を握る。術式の光の中から、鞘へ収められた一本の刀が、ゆっくりと姿を現し始めた。

 

 

 

 

柄を握る。術式の光の中から、鞘へ収められた一本の刀が、ゆっくりと姿を現し始めた。

 

 俺は鞘ごと刀を引き抜いた。日本刀に近い形をしているが、一般的な打刀よりもわずかに長い。反りは浅く、刀身の重ねは厚い。斬ることより、俺の力を正面から受け止め、最後まで前へ運ぶことを優先して打った形だ。柄には黒い布を巻いている。鍔は、互いに向き合う二頭の龍を簡略化した意匠。鞘も装飾の少ない黒一色だった。

 

「刀……」

 

 ミライの視線が、俺の手元へ向けられる。

 

「イッセイは刀も使うのですか?」

 

「使うというより、作る方が多いけどな」

 

「自分で作ったのですか?」

 

「ああ」

 

 左手で鞘を持ち、右手を柄へ添える。

 

「何本も作った。何本も折れた。強くなるたびに、それまでの刀じゃ俺の力に耐えられなくなった」

 

「では、それは?」

 

「今の俺が作れる、最高の一本だ」

 

 柄を引く。鞘の中から、鈍い暗銀色の刀身が現れた。磨き上げられた鏡のような輝きはない。光を鈍く返す、重い色だ。刀身の中央には、切っ先まで続く細い溝が刻まれている。その両側を沿うように、赤と白の線が一本ずつ走っていた。まだ、どちらも光っていない。

 

「名前はあるのですか?」

 

「双天穿牙」

 

「そうてん……?」

 

「双天穿牙だ。赤と白、二つの龍の力を通すために作った」

 

 ミライが目を輝かせる。

 

「格好よい名前ですね!」

 

「だろ?」

 

「自分で付けたのですか?」

 

「悪いか!」

 

「いえ、とてもよいと思います!」

 

 予想外に素直な反応を返された。少しだけ胸を張りたくなったが、今はそんな場合ではない。

 

 双天穿牙を完全に鞘から抜く。地面へ鞘を落とし、柄を両手で握った。腕が震える。刀の重さが原因ではない。白の禁手を砕かれた身体は、ただ立っているだけでも限界に近かった。

 

『相棒』

 

 ドライグの声が、左腕の奥から響く。

 

『本当に、一撃しか保たんぞ』

 

「それでいい」

 

『変化した直後から、身体は崩れ始める。構え直す余裕もない』

 

「分かってる」

 

『外せば終わりだ』

 

「外さない」

 

 視線を上げる。ミライは逃げずに、こちらを見ている。黒と金の揺らぎは変わらず身体から溢れ続けていた。緋色の瞳も強く輝いている。それでも、その表情には先ほどまでの浮ついた笑みがなかった。俺が最後に何をしようとしているのか、静かに待っている。

 

「ミライ」

 

「はい」

 

「これで最後だ」

 

「分かりました」

 

「避けてもいいぞ」

 

「避けません」

 

 即答だった。

 

「お前な……」

 

「最後なのでしょう?」

 

「ああ」

 

「でしたら、正面から受けます」

 

 ミライは構えなかった。腕を下ろしたまま、まっすぐ俺へ身体を向ける。黒と金の力を前へ集める様子もない。

 

「防がないのか?」

 

「防いでほしいのですか?」

 

「いや」

 

「では、受けます」

 

「簡単に言うなよ」

 

「イッセイが何度倒れても立ち上がったのです。最後くらい、私も逃げずに受けるべきでしょう」

 

 その言葉を聞いて、双天穿牙を握る手へ力を込めた。

 

「後悔するなよ」

 

「しません」

 

「絶対だな」

 

「はい」

 

 息を吸う。胸の奥が痛んだ。肺へ空気を入れるだけで、折れかけた肋骨が軋む。それでも身体を真っすぐ起こした。

 

「ドライグ」

 

『ああ』

 

 右腕へ、白い光が戻ってくる。籠手だけではない。白龍皇の鎧を構成していた力、そのさらに奥にある龍の力を引き上げる。足元の岩が震えた。身体の周囲を白い光が渦巻く。傷ついた皮膚。軋む骨。限界を越えた筋肉。そのすべてを無視して、残された力を一気に解放する。

 

「覇龍!」

 

 白い光が全身を呑み込んだ。

 

WHITE DRAGON EMPEROR――JUGGERNAUT DRIVE!

 

 咆哮のような音声が、壊れた湖岸へ響き渡る。白銀の外殻が、身体の内側から押し出された。金属の鎧とは違う。生きた龍の鱗と筋肉を思わせる、有機的な装甲。両腕は細長く変貌し、指先には白い爪が伸びる。脚も人の形を残しながら、龍の強靱さを帯びていく。胸と肩には青い宝玉。背中からは、巨大な白い光翼が左右へ開いた。赤の覇龍よりも細身。だが、その内側へ押し込められた力は、全身を引き裂こうとするほど濃い。

 

「ぐっ……!」

 

 変わった瞬間から、体力が削られる。呼吸するだけで意識が遠のく。

 

『相棒!』

 

「分かってる!」

 

 時間はない。この姿で戦い続けるつもりは、最初からなかった。白の覇龍。ミライから許されて受け取った力。残っている魔力。今も身体を動かしている体力。すべてを、双天穿牙へ流し込む。

 

 刀身に刻んだ二本の線のうち、白い線だけが輝き始めた。赤い線は暗いままだ。赤龍帝の力は、まだ沈黙している。それでも白い光は、刀身の中央を切っ先まで駆け抜けた。双天穿牙が低く震える。今まで作ってきた刀なら、この時点で砕けていた。だが、折れない。軋みながらも、俺の力を受け止めている。

 

「よし……!」

 

 柄を握り直す。右足を後ろへ引く。刀の切っ先を、ミライの胸の中心へ向けた。

 

 斬らない。振り回さない。俺に残されたすべてを、最も短い距離で一点へ運ぶ。ただ一度の突き。それだけだ。

 

 ミライも理解したらしい。笑わず、こちらを見つめている。

 

「来てください、イッセイ」

 

「ああ」

 

 白い光翼を広げる。地面を蹴った。岩盤が砕ける。同時に翼が空気を押し退け、身体が一直線に加速した。視界の端から景色が消える。湖。崩れた岸。舞い上がる土。すべてが後方へ流れた。見えているのは、ミライだけだ。

 

「うおおおおおおおっ!」

 

 双天穿牙を両手で突き出す。白い光が刀身を包む。力は横へ逃がさない。一滴も残さない。足から腰へ。腰から背中へ。背中から肩へ。肩から腕へ。白の覇龍が持つすべてを、柄から刀身へ送り込む。

 

 ミライは動かなかった。避けない。手も上げない。黒と金の力も、俺との間へ割り込ませない。

 

 胸の中心へ、双天穿牙の切っ先が届いた。金属音ではない。硬い何かへぶつかった、鈍く重い音が響く。

 

「――っ!」

 

 切っ先が止まった。ミライの制服へ触れている。布を押し込み、その下にある身体を貫こうとしている。だが、それ以上進まない。皮膚へ届いているはずなのに、傷一つつかない。俺の全力を乗せた突きが、完全に止められていた。

 

「まだだ!」

 

 翼をさらに開く。残っている力を絞り出す。腕へ力を込める。足が地面を削る。白い覇龍の外殻が軋み、青い宝玉へ亀裂が入った。それでも刀を押し込む。

 

「進め……!」

 

 双天穿牙が激しく震える。刀身の白い線が限界まで輝いた。ミライは何もしていない。切っ先を掴んでもいない。押し返してもいない。ただ、そこに立っている。それだけで、俺のすべてが止まっている。

 

「おおおおおおおおっ!」

 

 身体へ残った最後の力を押し込む。刀身から、甲高い音が聞こえた。小さな亀裂が入る。白く輝く線を横切り、刀身の中央へ亀裂が広がった。

 

「双天穿牙……!」

 

 まだ折れない。俺の力を切っ先まで運び続けている。今までの刀なら、とっくに柄元から砕けていた。この刀は、最後まで役目を果たそうとしている。だから俺も、手を離さなかった。

 

「届けええええええっ!」

 

 最後に翼が一度だけ光った。白の覇龍の力が、完全に刀へ流れ込む。切っ先が、ほんのわずかに前へ動いた。制服の布が強く押し込まれる。だが、ミライの身体には届かない。

 

 直後。双天穿牙が折れた。刀身の中央から白い亀裂が弾け、先端側が宙へ舞う。白い光が途切れる。折れた刀身が回転しながら地面へ落ち、岩へ突き刺さった。

 

「……あ」

 

 身体から力が抜けた。白の覇龍が崩れる。光翼が砕けるように消え、白銀の外殻が全身から剥がれ落ちていく。人の姿へ戻った俺は、折れた双天穿牙の柄を握ったまま、その場へ膝をついた。

 

「……駄目、だったか」

 

 腕が下がる。折れた刀の先端を、地面の上で見つめた。刃こぼれはほとんどない。途中までは、俺の力に耐えていた。すべてを切っ先まで運んだあと、行き場を失った反動で折れた。ミライが壊したわけではない。双天穿牙は、自分の役目を最後まで果たした。

 

「悪いな……」

 

 残った柄を握る。

 

「次は、もっと強く打つから」

 

『相棒』

 

 ドライグの声が遠い。

 

『もう立つな』

 

「でも……」

 

『終わりだ』

 

 身体が前へ倒れそうになる。折れた刀を杖代わりに地面へ押しつけ、どうにか支えた。足へ力を入れる。まだ、立ち上がろうとする。

 

「イッセイ」

 

 ミライの声が聞こえた。顔を上げる。ミライは、胸元へ手を添えていた。制服に穴はない。肌にも傷はない。それでも、双天穿牙が触れた場所を確かめるように、指先で押さえている。先ほどまでの笑顔はなかった。真剣な表情で、俺を見つめている。

 

「……すごかったです、イッセイ」

 

「刀が……折れたのにか」

 

「はい」

 

「傷一つ……つけられなかった」

 

「それでもです」

 

 ミライが俺の前まで歩いてくる。

 

「赤い力も、白い力も、最後の刀も、すべて使い切りました。それでも、最後まで止まりませんでした」

 

「止まったぞ」

 

「刀は止まりました」

 

 ミライは静かに首を振る。

 

「ですが、イッセイは止まりませんでした」

 

「……よく分からないな」

 

「私も、まだ上手く説明できません」

 

 ミライの口元へ、少しだけ笑みが戻る。

 

「ですが、すごかったです」

 

「そうか」

 

「はい」

 

 立ち上がろうとした腕から力が抜ける。もう無理だった。膝をついたまま、折れた双天穿牙へ身体を預ける。それでも、不思議と悔しさだけではなかった。俺にできることは全部やった。刀も最後まで保った。目の前の少女が敵ではないことも、戦いの中で分かった。

 

「ミライ」

 

「何ですか?」

 

「今度会ったら……もっと強い刀を見せる」

 

「今度?」

 

「ああ」

 

「また戦うのですか?」

 

「さあな」

 

 息を吐く。

 

「でも、今度は折れない」

 

 ミライが少しだけ目を丸くした。

 

 その直後だった。

 

ATTACK RIDE――CLOCK UP!

 

 聞き覚えのない音声が、破壊された湖岸へ響いた。

 

「何だ……?」

 

 音は、ミライの右前方から聞こえた。ミライも反応する。緋色の瞳が音のした方向へ向く。黒と金の揺らぎが大きく広がった。だが、そこには誰もいない。

 

 次の瞬間。ミライの背後で、何かが動いた。

 

「――っ!」

 

 見えなかった。人影も、光もない。それなのに、ミライの身体から溢れていた黒と金の揺らぎが、背後へ強く引かれた。ミライが振り返ろうとする。その直前、何もなかった空間から男の腕が現れた。指先が、黒金の揺らぎの奥へ沈み込んでいる。そして、何かを掴んだ。

 

「今、私から何を――」

 

 男が腕を引く。黒と金の力の中から、時計に似た小さな物体が引きずり出された。金属の輪郭。正面に刻まれた、仮面のような意匠。それは、引き抜かれた瞬間に初めて形を得たように見えた。それまでミライの身体にも、周囲にも、そんなものは存在していなかった。

 

 男の全身が、空気の中から浮かび上がる。黒い髪。黒いストライプの入ったスーツ。その内側には、鮮やかな赤紫色のシャツが覗いている。胸元からは、同じ色の二眼カメラが下がっていた。 腰には白い帯と、中央に箱型の装置が取りつけられていた。男はミライの背後から離れ、手にした時計を見下ろした。

 

「間に合ったか」

 

「誰ですか、あなたは!」

 

 ミライが男へ身体を向ける。黒と金の揺らぎは消えていない。緋色の瞳も、強く輝いたままだ。だが、先ほどまでとは様子が違う。揺らぎが一定ではない。男に引き抜かれた何かと、ミライの力との間にずれが生じたように、何度も形を崩している。

 

 ミライが右手を上げる。男は慌てなかった。手にした時計の側面を操作する。

 

ディケイド!

 

 低い音声が響いた。時計がマゼンタ色の光へ変わる。その光が男の腕を伝い、腰の白い装置へ流れ込んだ。白かった装置の輪郭が崩れる。黒とマゼンタの部品が次々と組み上がり、中央にカードを読み込むための機構が形成された。失われていた形を取り戻すように、腰の装置が別の姿へ再構築されていく。

 

「戻ったか」

 

 男が短く呟く。

 

「何をしたのですか!」

 

「お前から奪ったわけじゃない」

 

「では、返してください!」

 

「それは元から俺の力だ」

 

「意味が分かりません!」

 

「今は分からなくていい」

 

 男が一枚のカードを取り出した。腰の装置へ差し込む。

 

KAMEN RIDE――DECADE!

 

 装置の両側を閉じる。複数の像が男の周囲へ現れ、一斉に重なった。黒を基調とした装甲。マゼンタ色の線。緑色の複眼。人の姿を覆うように、異形の鎧が完成する。

 

 だが、そこで終わらなかった。男はさらに、別の装置を取り出した。いくつもの紋章が並ぶ板状の機械。指先で表面を走らせる。次々と異なる音が重なった。男の胸部を中心に、無数の札のようなものが展開される。それぞれに、異なる仮面の顔が描かれていた。肩。胸。腕。全身へ、歴代の戦士を思わせる意匠が重なっていく。

 

COMPLETE――21!

 

 最後の音声とともに、男の姿が完成した。俺には、何が起きたのかほとんど理解できない。ただ分かることが一つだけあった。あの男は、ミライと同じく、俺たちが知る魔法や神器とは異なる力を使っている。

 

「あなたも、私と同じ――」

 

「同じにするな」

 

 男が言い切る。

 

「お前のそれは、今のまま扱っていい力じゃない」

 

「勝手に決めないでください!」

 

 ミライの黒と金の揺らぎが膨れ上がる。湖岸の残った岩が浮き上がった。空気が重く沈む。男の装甲に取りつけられた無数の札が、風もないのに揺れた。

 

「悪いが、加減できる相手じゃないんでな」

 

 男が腰の装置へ手を伸ばす。一枚のカードを差し込んだ。

 

FINAL ATTACK RIDE――

 

 ミライが両手を前へ出す。黒と金の力が、その前方へ集まり始める。先ほど俺へ放ったものとは比べものにならない。湖岸全体が震える。空が暗くなったように感じた。

 

DE-DE-DE-DECADE!

 

 音声が響いた瞬間、男の周囲へ無数の光が現れた。人影。異なる形の鎧を纏った戦士たち。剣を構える者。拳へ炎を集める者。銃口を向ける者。空中で脚へ光を纏う者。巨大な機械のような影まで、その奥へ重なっている。

 

「何だよ……これ……」

 

 一つ一つが、別の必殺技を放とうとしている。男が腕を前へ向けた。すべてが同時に動く。剣から放たれた斬撃。燃え上がる拳。色の異なる光線。無数の銃撃。空を裂く蹴り。数え切れない力が、ミライ一人へ集中した。

 

「――っ!」

 

 ミライが黒金の力を前へ押し出す。二つの力が衝突した。湖岸が白く染まった。音が消える。一瞬遅れて、すべてを押し潰す轟音が届いた。

 

「ぐっ……!」

 

 俺は地面へ伏せ、折れた双天穿牙を握りしめた。衝撃が背中を通り過ぎる。残っていた岩が砕け、湖の水が再び空へ舞い上がる。目を開けていられない。それでも、腕の隙間から前を見る。

 

 黒と金の光の中へ、無数の攻撃が突き刺さっていた。ミライは押されている。足元の地面が削れ、身体が少しずつ後ろへ下がる。だが、倒れない。緋色の瞳を輝かせたまま、正面からすべてを受け止めている。

 

 男が走り出した。前方へ、何枚もの巨大なカード状の光が一直線に並ぶ。男は地面を蹴り、空中へ跳んだ。身体を回転させる。右脚を前へ突き出す。並んだ光の札を一枚ずつ突き抜けながら、加速していく。最後の札を抜けた瞬間、男の蹴りがミライへ直撃した。

 

 世界が爆発した。光。熱。衝撃。何も見えなくなる。俺は地面へ爪を立てるようにして、吹き飛ばされるのを耐えた。耳鳴りの中で、何かが崩れる音だけが聞こえた。

 

 どれほど時間が経ったのか分からない。数秒だったのかもしれない。もっと長かったようにも感じた。

 

 やがて光が薄れる。風が土煙を運んでいく。破壊された湖岸の中央。巨大な窪みの中に、人影が立っていた。

 

「……嘘だろ」

 

 ミライだった。銀髪が煙の中で揺れている。制服姿のまま。緋色の瞳も、まだ消えていない。黒と金の揺らぎも、弱まりながら身体の周囲へ残っている。男の最大攻撃を受けても、立っていた。

 

 男も着地した姿勢のまま、ミライを見ている。

 

「やはり、これでも足りないか」

 

 ミライが顔を上げた。男へ向かって、一歩踏み出す。黒と金の揺らぎが、その動きに合わせて広がろうとした。

 

 だが。

 

 緋色の瞳が、一度だけ揺れた。赤い光が急速に薄くなる。黒と金の揺らぎも、糸を切られたように途切れた。

 

「……あ」

 

 ミライの膝から力が抜ける。身体が前へ傾いた。銀髪が宙へ流れる。そのまま、ミライは意識を失い、地面へ倒れ始めた。

 

 

 そのまま、ミライは意識を失い、地面へ倒れ始めた。

 

 男が動いた。全身を覆っていた異形の装甲が光の粒となって消える。胸や肩へ並んでいた無数の札も、マゼンタ色の残光を引きながら霧散した。

 

 変身を解いた男は、前へ倒れるミライの身体を片腕で受け止めた。力任せに掴んだわけではない。頭が地面へぶつからないよう、肩と背中を支えている。ついさっきまで、あれほど容赦のない攻撃を叩き込んでいた男とは思えない動きだった。

 

「……落とさないんだな」

 

「落とす必要がない」

 

 男は短く答え、ミライを地面へ寝かせた。銀色の髪が、砕けた岩の上へ広がる。目は閉じている。あれほど強く輝いていた緋色の光は、もうどこにもなかった。瞼の下から赤い光が漏れることもない。黒と金の揺らぎも完全に消えている。湖へ落ちてきたときよりも、ずっと静かだった。

 

「生きてるのか?」

 

「気を失っているだけだ」

 

 男がミライの首元へ指を当てる。呼吸と脈を確かめているらしい。

 

「俺の攻撃で死ぬようなら、そもそも立っていない」

 

「最大出力じゃなかったのかよ」

 

「最大出力だ」

 

「それで気絶だけか……」

 

 改めて聞かされると、ミライの異常さがよく分かる。俺の白の覇龍と双天穿牙でも傷一つつけられなかった。あの男が放った、数えきれない攻撃と最後の蹴りを受けても、ミライは立ち上がった。力が消えたあとも、身体そのものに目立った傷はない。倒れた原因は、攻撃で壊されたからではない。何かが限界へ達し、ようやく意識だけが切れたように見えた。

 

「……俺は、もう無理だけどな」

 

 折れた双天穿牙を杖にして身体を支える。腕へ力を入れるたび、全身へ痛みが走った。赤の覇龍。白龍皇の鎧。白の覇龍。身体へ残っていたものは、何もかも使い切った。

 

『だから動くなと言っただろう、相棒』

 

「分かってる……」

 

『分かっている者の行動ではない』

 

「今度こそ、本当に終わったんだ。少しくらい――」

 

 立ち上がろうとした瞬間、足元の地面が揺れた。

 

「何だ?」

 

 砕けた岩の隙間から、半透明の塊が飛び出してくる。丸みを帯びた身体。水より少し濁った透明な色。両腕で抱えられる程度の大きさしかない。

 

「お前……!」

 

 俺の使い魔だった。戦いの間は近くへ来ないよう命じていた。俺とミライの力へ巻き込まれれば、守ることもできない。遠くへ避難していたはずだ。

 

 使い魔は俺の姿を見るなり、身体全体を大きく震わせた。次の瞬間、何本もの触手が伸びてくる。

 

「待て、俺は――うおっ!」

 

 触手が肩と胸へ絡みついた。立ち上がりかけていた身体を、半ば強引に地面へ引き戻される。

 

「分かった! 寝る! 寝るから押すな!」

 

 それでも使い魔は止めなかった。太い触手が胸を押さえ、別の触手が腕と脚へ伸びる。白の覇龍で傷んだ筋肉へ、冷たい身体が密着した。

 

「つめたっ……!」

 

 熱を持っていた部分が、一気に冷やされる。裂けた皮膚や出血している場所には、薄く広がった半透明の身体が張りついた。傷口を覆い、血が流れるのを止めている。別の触手は、傷めた肋骨と右腕を外側から固定した。

 

『大人しくしていろ、相棒』

 

「してるだろ……」

 

 上半身を起こそうとすると、胸へ乗った触手へさらに力が込められた。

 

「してる! 今度こそしてる!」

 

 使い魔の身体が小さく震える。怒っているのか、呆れているのかは分からない。ただ、俺を立たせるつもりがないことだけはよく伝わってきた。

 

 身体へ張りついた部分から、わずかな力が流れ込んでくる。大きな傷を治せるほどではない。それでも乱れていた魔力の流れが少しずつ整えられ、呼吸が先ほどより楽になる。

 

「助かった」

 

 空いている左手で、使い魔の身体を軽く叩く。半透明の表面が柔らかく揺れた。

 

 男はその様子を一度だけ見たあと、腰へ手を伸ばした。変身は解除されている。だが、腰には先ほど再構築された装置が残っていた。白いものではない。黒とマゼンタを基調とした、カードを読み込む装置。男はそこから手を離し、地面へ横たわるミライへ視線を戻した。

 

「それ、あの子から取った力で直したのか?」

 

「正確には、取り戻した」

 

「同じじゃないのか?」

 

「違う」

 

「本人も同じこと言ってたな……」

 

 ミライも、自分の中では違うと言い張っていた。こいつといい、ミライといい、俺には分からない区別が多すぎる。

 

 男の手には、先ほどミライの中から引き抜いた時計のようなものが握られている。あれを取り出した直後から、ミライの力は不安定になった。男は、それを利用して最大の攻撃を叩き込んだ。必要だったのかもしれない。それでも。

 

「あんた」

 

「何だ」

 

「……あの子に恨みでもあるのか?」

 

 男の手が止まった。こちらを向く。

 

「本人に恨みはない」

 

「本人には、って言い方する時点で何かあるだろ」

 

 男はすぐには答えなかった。眠っているミライを見る。その目には、警戒だけでは説明できない冷たさが残っていた。

 

「以前、あいつと同じ力を持つ魔王に殺された」

 

「……殺された?」

 

「ああ」

 

「でも、あんた生きてるじゃないか」

 

「そういうこともある」

 

「説明する気ないだろ」

 

「説明したところで、お前には関係ない」

 

「それはそうだけどさ……」

 

 使い魔の触手を少し持ち上げ、上半身を起こそうとする。すぐに胸を押し戻された。

 

「分かったから、少しだけ顔を見せろって!」

 

 触手の隙間から男を見る。

 

「その魔王と、ミライは同じなのか?」

 

「違う」

 

「だったら――」

 

「目と力と、あの気配が似ている」

 

 男の声は静かだった。

 

「あの力を見れば、嫌でも思い出す」

 

「だから、あんなに容赦なかったのか」

 

「手加減して倒せる相手ではなかった」

 

「それは分かる」

 

 俺自身、出せるものをすべて出しても届かなかった。半端な攻撃では、ミライを止めることなどできなかっただろう。

 

「でも、それだけじゃないだろ」

 

 男が俺を見る。

 

「何が言いたい」

 

「同じ全力でも、やり方はもっとある。あんた、あの子への当たりが妙に強い」

 

「必要な処置をしただけだ」

 

「本当にそれだけか?」

 

「……」

 

「本人に恨みはないんだろ?」

 

「ああ」

 

「あの子は別人なんだろ?」

 

「ああ」

 

「だったら、あの子へ昔のことをぶつけるのは違うんじゃないか」

 

 男の表情はほとんど変わらなかった。それでも、すぐに言い返してこなかった。もう一度、眠っているミライを見る。

 

「頭では分かっている」

 

「頭では、だろ」

 

「そうだ」

 

「認めるのかよ」

 

「否定するほど子供じゃない」

 

「じゃあ、やっぱり当たり強いじゃねえか!」

 

「だが、同じ状況でも処置は変えない」

 

「そこは変えないのかよ!」

 

「あの力を制御できない者が、世界を越えて暴走した。止める方法があるなら実行する。それだけだ」

 

「言い方と態度は変えられるだろ!」

 

「必要を感じない」

 

「絶対根に持ってるだろ、あんた!」

 

 男は答えなかった。否定もしない。無言でミライのそばへしゃがみ込む。

 

「おい」

 

「処置をする。黙っていろ」

 

「何する気だ?」

 

「元へ戻す」

 

 男は手にした時計を、ミライの胸元へ持っていった。丁寧に置くのかと思った。違った。

 

「よっと」

 

 短い掛け声とともに、時計をミライの胸部へ押し込んだ。かなり乱雑に。物を引き出しへ戻すような動きだった。

 

「雑!」

 

 時計がマゼンタ色の光へ変わり、ミライの身体の中へ沈んでいく。服が破れたわけではない。傷がついた様子もない。それでも、見ている側としては思わず声を上げる扱いだった。

 

「もう少し丁寧に戻せないのか!」

 

「戻れば同じだ」

 

「同じじゃないだろ!」

 

「本人は寝ている」

 

「起きてたら絶対怒るぞ!」

 

「覚えていない」

 

「何?」

 

 時計の光が完全にミライの中へ消えた。男は胸元から手を離さない。指先へマゼンタ色の光が残っている。その光が、ミライの身体の内側へ細く広がっていく。

 

「元の接続は戻した」

 

「じゃあ、またあの力が使えるのか?」

 

「力そのものはな」

 

「それ、大丈夫なのか?」

 

「世界を越える部分だけは塞ぐ」

 

 男がミライの胸元へ押し当てた指を、わずかに捻った。何かへ鍵をかけるような動きだった。マゼンタ色の光が一度強くなり、その後、ミライの中へ静かに沈む。

 

「自分で扱えるようになるまでは、お預けだ」

 

「本人に断らなくていいのか?」

 

「今の状態で許可を取れると思うか?」

 

「起きてから説明するとか」

 

「起きれば忘れている」

 

「さっきも言ったな。どういう意味だ?」

 

 男はミライの胸元から手を離した。次に額へ指を置く。

 

「今回のことを覚えたまま戻せば、余計な混乱を招く」

 

「だから記憶を消すのか?」

 

「切り離す」

 

「同じじゃないか?」

 

「消滅させるわけじゃない」

 

「本人が思い出せないなら、似たようなものだろ」

 

「お前にとってはな」

 

 男の指先から、薄い光が広がる。ミライの額を中心として、いくつもの小さな像が浮かび上がった。機械の部品。赤と白の巨大な列車。何度も同じ場所を往復するミライ。工具。紙へ描かれた図。苛立った顔。それらが、切れ切れに現れては消えていく。

 

 その先に。二つの異なる光を手の中へ集めようとするミライの姿が浮かんだ。男の指が止まる。

 

「ここからだ」

 

 光の中へ一本の線が走った。二つの力を重ねようとする直前。そこを境に、それより後ろの像がまとめて切り離される。灰白色の幕。湖。俺。赤い鎧。白い鎧。双天穿牙。男。数えきれない光。それらが重なり合い、小さな光の欠片となった。

 

 男はその欠片を指先で掴む。

 

「本当に全部忘れるのか?」

 

「ああ」

 

「俺と戦ったことも?」

 

「ああ」

 

「自分があれだけ強かったことも?」

 

「覚えていない」

 

「世界を越えたことも?」

 

「当然だ」

 

 光の欠片が男の手の中で消えた。燃えたわけではない。どこか別の場所へ移されたように、音もなく見えなくなる。ミライの額から指が離れた。眠っている表情に変化はない。苦しんでいる様子もなかった。

 

「残っているのは?」

 

「長時間修理を続け、失敗を繰り返した記憶。苛立っていたことも覚えている」

 

「最後は?」

 

「修理に失敗したあと、気を失ったと思うだろう」

 

「ずいぶん都合がいいな」

 

「その方が戻したあとの話が早い」

 

「戻したあと?」

 

 男は答えなかった。ミライの身体に異常がないか、もう一度確認している。俺には見えない何かまで調べているらしい。やがて、男は短く息を吐いた。

 

「これでいい」

 

「本当に大丈夫なのか?」

 

「少なくとも、すぐに同じことは起きない」

 

「すぐには、か」

 

「本人が成長すれば、いずれ封じた部分へも手が届く」

 

「また世界を越えるってことか?」

 

「そのとき自分で扱えるなら、俺が止める理由はない」

 

 男は立ち上がった。俺も、もう一度身体を起こそうとする。胸へ乗っていた使い魔の触手が、すぐに押し返してきた。

 

「分かった! 見送りたいだけだ!」

 

 使い魔は俺の言葉を信じていないらしい。さらに二本の触手を伸ばし、腰と脚まで地面へ固定した。

 

「お前、さっきより厳しくなってないか?」

 

『当然だろう』

 

「ドライグまで……」

 

 男の視線が、俺のすぐそばへ向いた。折れた双天穿牙。柄側は俺が握っている。先端側は、少し離れた岩へ突き刺さったままだった。

 

 使い魔もそれに気づいたらしい。俺を押さえているものとは別の細い触手が伸びる。岩へ刺さった刀身の先端を慎重に巻き取り、引き抜いた。欠けた部分で身体を傷つけないよう、触手の先を厚く変形させている。回収した先端を、俺の持つ柄側の隣へ置いた。

 

「ありがとう」

 

 使い魔の身体が小さく揺れる。

 

 男が折れた刀へ近づいた。地面へしゃがみ、柄側と先端側を見比べる。

 

「何だよ」

 

「悪くない刀だ」

 

「当然だ。俺の最高傑作だからな」

 

「折れているが?」

 

「次は折れないように打つ」

 

 男は刀身へ触れず、破断面を目で確認する。

 

「ミライが折ったわけじゃない」

 

「分かっている」

 

「俺の力を最後まで通した。その反動に耐えきれなかっただけだ」

 

「ああ」

 

 男が立ち上がる。

 

「持ち主の力は最後まで運んだ。武器としての役目は果たしている」

 

「だろ?」

 

「自慢するほど余裕があるなら、もう少し静かにしていろ」

 

「褒めた直後にそれ言うのかよ」

 

「褒めてはいない。事実を言っただけだ」

 

「そういうところ、ミライと少し似てるぞ」

 

 男の眉がわずかに動いた。

 

「取り消せ」

 

「嫌がるのかよ!」

 

「一緒にするな」

 

 やはり、根に持っている。本人に恨みはないと言っていたが、態度へ出すぎていた。

 

「それで、あんたはいつから見てたんだ?」

 

「途中からだ」

 

「もっと早く助けてくれてもよかっただろ」

 

「戦うと決めたのはお前だ」

 

「そうだけど!」

 

「それに、観察する必要があった」

 

「俺がボロボロになるところをか?」

 

「お前ではない」

 

 男がミライを見る。

 

「無意識の防御。感情で変化する出力。別系統の力への反応。あの時計との接続。どこまでなら意識を保ち、何をきっかけに均衡が崩れるか」

 

「それを確かめるために、俺との戦いを見てたのか」

 

「ああ」

 

「利用された気分だ」

 

「実際に利用した」

 

「否定しないのかよ!」

 

 男は何でも正直に言えばよいと思っているらしい。腹が立つが、隠されるよりはましかもしれない。

 

「それで、分かったのか?」

 

「だいたい分かった」

 

「曖昧だな」

 

「分からない部分まで分かったふりをするよりましだ」

 

「それはそうだけど……」

 

 男がミライを見下ろす。

 

「少なくとも、こいつは自分が何をしたのか理解していない。今のまま放置すれば、また同じことを起こす可能性がある」

 

「だから封じたのか」

 

「ああ」

 

「力まで全部奪わなかったのは?」

 

「それはこいつのものだ」

 

 男の答えに迷いはなかった。態度は冷たい。処置も雑だった。だが、ミライの力そのものを取り上げようとはしていない。

 

「恨みがある相手の力に似ててもか?」

 

「似ているだけだ」

 

「そこは分けて考えられるんだな」

 

「当たり前だ」

 

「態度も分けろよ」

 

「しつこいぞ」

 

「さっきミライにも言われた」

 

「だろうな」

 

 男が片手を上げた。空間へ縦の線が走る。灰白色の幕が現れた。湖へミライを落としたものと同じだ。半透明の表面には、ここではない景色が重なっている。

 

「やっぱり、あんたの力だったのか?」

 

「正確には違う」

 

「またそれかよ」

 

「説明している時間はない」

 

「あるだろ。戦いは終わったぞ」

 

「お前の治療を優先しろ」

 

「話を逸らすな!」

 

 使い魔が胸を押す。

 

「痛っ! お前までこいつの味方をするな!」

 

 男は灰白色の幕が安定したことを確認すると、ミライを抱き上げた。片腕を膝の下へ。もう片方を背中へ回す。先ほど時計を胸へ突っ込んだときとは違い、今度は落とさないようにしっかり支えている。

 

「その抱き方は丁寧なんだな」

 

「運ぶ途中で落とせば面倒だ」

 

「絶対それだけじゃないだろ」

 

「それだけだ」

 

 男が幕へ向かって歩き出す。

 

「待て」

 

 足が止まった。男だけがこちらを振り返る。眠っているミライの顔は、銀髪へ半分隠れていた。

 

「あの子が敵じゃなかったことも、俺が負けたことも、こいつが折れたこともだ」

 

 俺は地面に置かれた双天穿牙を見る。

 

「全部、俺は忘れない」

 

「そうか」

 

「次に会ったら、もっと強い刀を見せる」

 

 男は少しだけ目を細めた。

 

「そいつは、お前のことを覚えていない」

 

「ああ」

 

「戦ったことも、刀を受けたこともだ」

 

「それでもいい」

 

「次に会っても、初対面として扱われるぞ」

 

「関係ない」

 

 柄の残った双天穿牙を握る。

 

「俺が覚えてる」

 

 男は何も言わなかった。しばらく俺を見たあと、灰白色の幕へ向き直る。

 

「好きにしろ」

 

「あんた、名前は?」

 

「通りすがりだ」

 

「それで分かるか!」

 

 男は答えず、ミライを抱いたまま灰白色の幕へ入った。表面が一度揺れる。向こう側に重なっていた景色が切り替わる。男の背中も、眠るミライの銀髪も、幕の奥へ消えた。直後、灰白色の幕が閉じる。空間には何も残らなかった。

 

「……行ったな」

 

『ああ』

 

 静けさが戻ってくる。戦いの前と同じではない。湖面には蒸発した部分から立ち上る白い湯気が残っている。水位も大きく下がっていた。湖底にはロングギヌス・スマッシャーが刻んだ長い傷。湖岸にはミライの衝撃波で抉られた地面。俺が叩きつけられてできた窪み。白の鎧で落とされた場所には、大きな亀裂が残っている。対岸の森と岩壁も、一部が完全に消えていた。

 

 釣り道具は、奇跡的に最初の場所へ残っている。竿は倒れたまま。餌箱はひっくり返っている。釣った二匹を入れていた容器は、湖から押し寄せた水に流されたのか、どこにも見当たらなかった。

 

「魚……」

 

『二匹釣ったという証拠もなくなったな』

 

「今それ言うか?」

 

『事実だ』

 

 使い魔が俺の胸を押さえたまま、触手の一本を湖の方へ伸ばす。荒れ果てた岸。割れた湖底。消えた対岸。周囲に人家はない。それでも、これほどの音と光が出たのだ。誰かが確認へ来る可能性は高い。この土地の管理者へも説明が必要になる。何より、部長へ連絡しなければならない。

 

 朝から一人で釣りへ出かけた。そこで正体不明の少女と出会った。軽く手合わせをするつもりだった。結果、湖が半分壊れた。俺は全身を負傷。赤と白、二つの覇龍を使用。最高傑作の刀も折れた。最後に、通りすがりを名乗るマゼンタ色の男が現れ、少女を連れて消えた。

 

「……信じてもらえると思うか?」

 

『事実を話すしかない』

 

「部長、絶対怒るよな」

 

『当然だろう』

 

「朱乃さんも笑いながら怒るよな」

 

『そうだろうな』

 

「小猫ちゃんには呆れられる」

 

『間違いない』

 

「アーシアは心配するだろうな……」

 

『まず治療を受けろ』

 

 使い魔が同意するように身体を震わせた。

 

「分かってるよ」

 

 もう一度、荒れ果てた湖を見回す。どこから説明すればよいのか。どう言えば、余計に怒られずに済むのか。考えても、まともな言い訳は一つも浮かばなかった。

 

「……部長になんて説明しよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰かに肩を揺さぶられている。

 

「おい」

 

 声は聞こえていた。けれど、瞼が重い。

 

「おい、起きろ」

 

 もう一度、少し強く揺さぶられる。

 

「こんなところで寝てんじゃねえ!」

 

「……起きています」

 

「目ぇ開いてねえだろうが」

 

 言われて、どうにか瞼を持ち上げた。最初に見えたのは、私の顔を覗き込んでいるモモだった。心配しているようにも見える。けれど、それ以上に呆れているようだった。

 

「……おはようございます」

 

「おはようじゃねえ。何時だと思ってんだ」

 

「深夜です」

 

「分かってんなら寝床で寝ろ!」

 

 身体を起こそうとして、背中に硬い感触があることに気づいた。私は中央整備ハッチの近くで、作業台の脚へ背中を預けるように座り込んでいた。床には工具が並んでいる。外した部品。書き直しを重ねた図。注油用の細い容器。どれも、作業をしていたときのままだ。大きく荒らされた様子はない。

 

「……私、寝ていました?」

 

「寝るっつうか、ぶっ倒れてたぞ」

 

「倒れた?」

 

 額へ手を当てる。頭痛はない。身体にも、怪我をしたような痛みはなかった。ただ、全身に長時間起きていたあとの重い疲労が残っている。

 

「どこまで覚えてる?」

 

「どこまで?」

 

「ここで何してたかだよ」

 

「修理です」

 

「それは見りゃ分かる」

 

「何度直しても、別の場所で不具合が起きていました。最初は現在位置と目的時刻を照合する機構、その次は細輪の多重機構、そのあとも――」

 

「もういい。覚えてるならいい」

 

 モモが片手を振って話を止めた。

 

「最後に覚えてんのは?」

 

「最後……」

 

 作業の流れを思い返す。何度も中央整備ハッチと運転席を往復した。一か所を直す。運転席へ移動して、時間移動機能を起動する。異音がする。安全装置が働く。停止する。戻って調べると、今度は別の場所に故障が見つかる。それを何時間も繰り返していた。途中でモモと食事を取り、少し休んだ。その後も作業を続けた。小さな留め具を作業台の上へ置き、手を触れずに持ち上げようとして、失敗した。指で回した留め具を、力で元の状態へ戻そうとして、それも失敗した。

 

 それから。

 

「……腹が立っていました」

 

「だろうな」

 

「修理しても修理しても終わらなくて、もう全部まとめて直せればよいのにと思って……」

 

 そこから先が曖昧だった。何かをしようとした気はする。けれど、具体的に何をしようとしたのか思い出せない。

 

「そのあとがありません」

 

「気ぃ失ったんだろ」

 

「作業中に?」

 

「他に何があるんだよ」

 

「私はそれほど疲れていなかったと思います」

 

「昼からずっと地下に籠もってた奴が言うな」

 

「あと十時間は作業できました」

 

「できてねえから倒れたんだよ!」

 

 モモの声が地下ドックに響いた。反響した声が、停車しているデンライナーの車体へ当たって戻ってくる。その音を聞きながら、私は改めて周囲を見回した。

 

「ところで、モモ」

 

「あ?」

 

「私は最初から、ここに倒れていたのですか?」

 

 モモが少しだけ黙った。

 

「何ですか、その間は」

 

「面倒くせえなと思ってよ」

 

「何がです?」

 

「俺が降りてきたときには、ここにいた」

 

「では、なぜ答えるのを迷ったのですか?」

 

「お前一人じゃなかったからだ」

 

「誰かいたのですか?」

 

「ああ」

 

 モモは地下ドックの入口へ目を向けた。もちろん、そこには誰もいない。鍵のかかった扉も、今は閉じている。

 

「ピンク色の感じの悪い男だ」

 

「……ピンク色?」

 

「そいつがお前を運んできたらしい。俺が来たときには、勝手にデンライナーを弄ってやがった」

 

「勝手に?」

 

 反射的に作業台へ手をつき、立ち上がった。少しだけ身体がふらつく。モモが腕を伸ばしたが、それより先に足へ力を入れて踏みとどまった。

 

「おい、急に立つな」

 

「誰かがデンライナーを弄ったのですよね?」

 

「ああ」

 

「何をされたのですか?」

 

「知るか。俺が聞いても、必要なことをしてるとか何とか言うだけで、まともに説明しやがらねえ」

 

「止めなかったのですか?」

 

「止めようとはした」

 

「しただけですか?」

 

「何か知らねえけど、気づいたら作業が終わってやがったんだよ!」

 

 モモが苛立ったように頭を掻いた。

 

「それで、お前を任せたとか勝手なこと言って、そのまま消えやがった」

 

「消えた?」

 

「文字どおりな」

 

 意味が分からない。私を地下ドックへ運び、勝手にデンライナーを修理し、説明もせずに消えた。知らない人間にしては、行動が理解できなさすぎる。

 

「どの部分を触っていました?」

 

「真ん中の開いてるところだ」

 

 中央整備ハッチ。私が何時間も調べていた、時間移動機能の中心部分だ。開いたままのハッチへ近づく。中を覗き込んだ。薄い円盤が何層にも重なっている。その奥には、細い輪を何重にも組み合わせた機構。現在位置と目的時刻を照合し、デンライナーが通るべき時間の軌道を定める部分。

 

 見える範囲に、乱暴に触れた痕跡はない。部品が不自然に入れ替えられた様子もなかった。私が描いた印も残っている。締めたねじの向きも変わっていない。

 

「……何をしたのでしょう」

 

「俺に聞くな」

 

 近くへ置いていた細い工具を手に取る。円盤の隙間へ差し込み、遊びを確かめる。問題はない。次に、細輪の組み合わせを見る。私が直した場所だ。歪みは矯正されている。その先。最後に確認したとき、わずかに噛み合いが遅れていた部分へ目を向ける。

 

「直っています」

 

「そう言ってたぞ」

 

「本人が?」

 

「ああ。もう同じ壊れ方はしない、とか何とか」

 

「なぜ、その人に直せたのですか?」

 

「知らねえよ」

 

「名前は?」

 

「さあな」

 

「聞かなかったのですか?」

 

「聞いたところで、まともに答える奴じゃねえ」

 

 モモはその男を、まったく知らないわけではないようだった。少なくとも、初対面の人間について話す調子ではない。

 

「以前から知っているのですか?」

 

「まあな」

 

「誰なのです?」

 

「通りすがりの面倒な奴だ」

 

「名前を聞いています」

 

「本人がそういう奴なんだよ」

 

「説明になっていません」

 

「俺だって説明する気はねえ!」

 

 モモはそれ以上答えるつもりがないらしい。今ここで問い続けても、まともな情報は得られそうになかった。それより先に確認しなければならないことがある。

 

「動かしてみます」

 

「今からか!?」

 

「直っているかは、動かさなければ分かりません」

 

「お前、さっき倒れてたんだぞ!」

 

「起きました」

 

「そういう問題じゃねえ!」

 

「起動するだけです。異常があれば、すぐに止めます」

 

「さっきまで何時間もそれを繰り返して倒れたんだろうが!」

 

「今度は直っているかもしれません」

 

「かもしれないで動くな!」

 

 モモの制止を聞きながら、デンライナーの運転席へ向かう。

 

「おい、ミライ!」

 

「確認するだけです!」

 

「倒れたら今度こそ上まで運ぶからな!」

 

「それは困ります」

 

「なら休め!」

 

 車内へ入り、運転席まで移動する。見慣れた操作部へ手を伸ばす。通常の走行ではなく、時間移動機能だけを試すための起動手順。一つずつ確認しながら操作する。内部で動力が目を覚ました。低い振動が車体を伝う。私はすぐに運転席を離れ、中央整備ハッチへ戻った。

 

「走るな!」

 

「時間がありません!」

 

「何の時間だよ!」

 

「機構が止まるまでです!」

 

 ハッチの前へ膝をつく。中の機構が動き始めていた。薄い円盤群が回転する。一枚目。二枚目。三枚目。以前は遅れていた円盤も、他のものと正確に連動している。回転は途切れない。異音もなかった。

 

 奥の細輪が次々と噛み合う。小さな輪から大きな輪へ。動きが伝わり、目的時刻を照合する機構へ届く。引っかからない。震えない。無理に押し込まれるような動きもない。機構の奥へ、細い光の筋が走った。一度。二度。複数の光が重なり、デンライナーの現在位置と、仮に設定した目的時刻を繋いでいく。前は途中で揺らぎ、消えていた。今は違う。光は最後まで伸びた。機構全体を一周し、定められた位置へ収まる。

 

 回転体の速度が上がる。車体全体へ一定の振動が広がる。安全装置は作動しない。警告音も鳴らない。光の筋が安定したまま維持される。

 

「……動いています」

 

「直ったのか?」

 

「まだです」

 

「まだ何があるんだよ」

 

「最後まで見なければ分かりません」

 

 起動試験は続いている。私は音へ集中した。回転する円盤。噛み合う細輪。内部を巡る駆動。どれも一定の間隔を保っている。耳障りな擦過音はない。軸がぶれて生じる低い唸りもない。作業台へ置いた工具も、異常振動で動いてはいなかった。

 

 やがて、試験用に設定された動作が終了する。光の筋が順序どおりに消えていく。回転体の速度が落ちる。最後の円盤が定位置へ戻り、中央機構が静かに停止した。急停止ではない。安全装置による強制停止でもない。正常な終了だった。

 

「……直っています」

 

「今度こそか?」

 

「はい」

 

 もう一度、内部を確認する。部品のずれはない。熱を持ちすぎている場所もない。潤滑の状態にも問題はなかった。何時間かけても直せなかった機構が、一度の試験で最後まで動いた。

 

 嬉しい。はずだった。

 

「何ですか、これは」

 

「直ってたんだろ?」

 

「直っています」

 

「ならいいじゃねえか」

 

「よくありません」

 

「何でだよ!」

 

「私が直していません!」

 

 ハッチの中を指さす。

 

「ここも、ここも、最後に確認したときとは微妙に調整が違います。ですが、部品を入れ替えた様子はない。削った痕もありません。私が見落としていた噛み合わせだけを直してあります」

 

「だから、あのピンク野郎が直したんだろ」

 

「そこです!」

 

「何がだよ!」

 

「なぜ、その人は直せたのですか!」

 

「知らねえって言ってるだろ!」

 

「何時間も作業した私より先に?」

 

「お前が倒れてる間にな」

 

「勝手に?」

 

「勝手に」

 

「説明もなく?」

 

「説明もなく」

 

 腹が立つ。きれいに直っていることにも腹が立つ。私が見落としていた場所を正確に直し、余計なところには一切触れていない。腕がよい。それも腹が立つ。

 

「その人は、どのような姿をしていました?」

 

「黒いスーツだ。中に派手な赤っぽいシャツを着て、首から変なカメラを下げてた」

 

「カメラ?」

 

「ああ。ピンクっぽい、でかい二眼のやつだ」

 

「……そうですか」

 

 黒いスーツに、鮮やかなシャツ。首から下げた、派手な色のカメラ。顔も、声も、名前も知らない。けれど、その姿を頭の中で組み立てようとすると、胸の奥に妙なざわつきが生まれた。

 

 その男は、意識を失った私をここまで運んだ。勝手に地下ドックへ入り、私が何時間かけても直せなかったデンライナーを修理した。何をしたのか説明もせず、名前さえ名乗らず、そのまま消えた。

 

 助けられた、と考えるべきなのだろう。少なくとも、デンライナーは正常に動いている。私にも怪我はない。悪意を持って何かをしたようには見えなかった。

 

 それなのに。

 

 考えれば考えるほど、腹が立ってきた。人の作業場へ勝手に入り。人が苦労していた修理を、勝手に終わらせ。説明もせず。礼を言う機会さえ与えず。何より、なぜか分からないが、その男からひどく乱雑に扱われたような気がする。記憶にはない。根拠もない。けれど、胸の奥には、はっきりと不満だけが残っていた。

 

 黒いスーツ。鮮やかなシャツ。派手な二眼カメラ。頭の中に浮かんだその色は、ピンクではなかった。マゼンタ。なぜそう思うのかは分からない。それでも私の中で、正体不明の人物はいつの間にか、ただの「知らない男」ではなくなっていた。勝手に現れ、勝手に人とデンライナーを弄り、勝手に消えたマゼンタ男。

 

「……腹が立ってきました」

 

「あ?」

 

「そのマゼンタ男です」

 

「さっきまで知らねえって言ってただろ」

 

「今も知りません」

 

「なら何で怒ってんだよ」

 

「考えていたら、どんどん腹が立ってきました」

 

「助けてもらったんじゃねえのか?」

 

「それとこれは別です」

 

「何が別なんだよ!」

 

「分かりません。ですが、一発殴りたいです」

 

「分かんねえのに殴るな!」

 

 モモが額へ手を当てた。私はもう一度、正常に停止した中央機構を見た。直っている。何の問題もない。その事実を確認するほど、名前も知らない誰かへの苛立ちが増していく。

 

「マゼンタ色の男を殴りたい」

 

「マゼンタ? ピンク男なら知ってるけどよ」

 

「ピンクじゃない。マゼンタ」

 

「同じようなもんだろ」

 

「違う」

 

「何が違うんだよ」

 

「私の中では違います」

 

「また分かんねえこと言い始めやがった……」

 

 モモが大きく溜息を吐く。

 

「とにかく、修理が終わったなら上に戻るぞ」

 

「もう一度だけ起動試験を」

 

「駄目だ」

 

「確認のためです」

 

「一回動いたんだろ」

 

「一度だけでは偶然の可能性があります」

 

「お前を一人にしたら、朝まで十回は試すだろうが!」

 

「十回まではしません」

 

「何回だ」

 

「五回ほど」

 

「同じだ!」

 

 モモが私の腕を掴む。抵抗しようとしたが、今度は本当に身体が重かった。仕方なく工具を置く。

 

「分かりました。今日は終わります」

 

「最初からそうしろ」

 

「ですが、明日もう一度確認します」

 

「明日な。今じゃなくて明日だぞ」

 

「分かっています」

 

 地下ドックの照明を必要な部分だけ残し、作業台を簡単に片づける。外した部品を箱へ戻す。工具を並べ直す。図面を重ねる。中央整備ハッチは、念のため開いたままにしておく。

 

 モモに引かれるように、地下ドックの出口へ向かった。扉の前で、一度だけ振り返る。赤と白の車体。静かに停止している中央機構。私には直せなかった場所を、勝手に直した誰か。姿さえ知らない。けれど、いつか会う気がした。

 

「……いつか会ったら、絶対に一発殴る」

 

「だから誰なんだよ、そいつは」

 

「知らない」

 

「知らねえ奴を殴ろうとすんな!」

 




ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

今回は、読者の方からいただいたリクエストをもとにした短編でした。自由に扱ってよいとのことでしたので、別世界のイッセイの設定や能力、ミライとの戦闘、その後の士による後始末まで、かなり好きに広げさせていただいています。

最初は普通の短編にする予定だったのですが、リクエストされた内容を一つの物語として成立させようとした結果、約六万字になりました。

六万字を短編と呼んでよいのかは分かりません。
ですが、作者としては短編のつもりです。

本編と地続きの出来事ではありますが、今回の話だけでも分かるように書いたつもりです。本編を知らない方にも楽しんでいただけていれば幸いです。

リクエストをくださった方、本当にありがとうございました。

今後の更新について、最も近い希望を教えてください

  • このまま続けてほしい
  • 短く休んでから再開してほしい
  • 不定期でも続けてほしい
  • 今回で一区切りでもよい
  • 作者の判断に任せたい
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。