その日の夜、私たちは旧校舎の体育館へ集まっていた。リアス先輩と朱乃さんは首脳会談の準備、祐斗は聖魔剣の訓練を続けている。そのため、ここにいるのは一誠、アーシアさん、小猫さん、ゼノヴィアさん、私。そして、体育用具の入った箱の陰に隠れているギャスパーさんだった。
体育館の中央には、一つのボールが置かれている。行うことは単純だった。転がってくるボールだけを見て、《停止世界の邪眼》で止める。
「ギャスパー。難しいことをやるわけじゃねえよ」
一誠が、箱の陰へ向かって呼びかける。
「俺がボールをゆっくり転がすから、それだけ見てくれればいいんだ」
「それが難しいんですぅ……」
「失敗しても怒らねえから。まずは一回やってみようぜ」
「失敗するって分かってるのに、やりたくないですぅ……」
ギャスパーさんは、箱の後ろから顔だけを出した。体育館の中央を見たあと、すぐに引っ込んでしまう。
「出てこないなら、私が運ぼう」
ゼノヴィアさんが歩き出す。
「ゼノヴィアさんが近づくほど、奥へ下がっています」
「なぜだ?」
「昨日のことを忘れたのですか?」
「走ることには成功した」
「あれを成功例に含めないでください」
箱の向こうから、さらに何かが擦れる音がした。ギャスパーさんは、限界まで奥へ下がったらしい。
「ゼノヴィアさん。少し待っていただけますか?」
アーシアさんが、箱の近くへ座り込む。
「怖いですよね。ですが、私たちはギャスパーさんが失敗しても怒りません」
「でも……」
「一回だけ、一緒にやってみませんか?」
しばらく返事はなかった。やがて、箱の陰からギャスパーさんが恐る恐る出てくる。体育館の中央までは進めず、少し離れた場所で足を止めた。
「そこでもいいぞ」
一誠は、これ以上近づくようには言わなかった。ボールを持ち、ギャスパーさんから十分に距離を取る。私たちも壁際へ下がった。
「いいか? ボールだけ見るんだ」
「ぼ、ボールだけ……」
「ゆっくり転がすからな」
一誠が床へボールを置いた。軽く手を押し出す。ボールが、ゆっくりとギャスパーさんへ向かって転がり始めた。
ギャスパーさんの赤い目が、その動きを追う。肩が強張っている。指先が震えていた。
「ボールだけだ。俺たちのことは気にしなくていい」
「は、はい……」
ボールが近づく。ギャスパーさんの目が赤く光った。
◇
転がっていたボールが、床の上で静止した。一誠も、アーシアさんも、小猫さんも、ゼノヴィアさんも動いていない。衣服の裾も、髪も、その瞬間の形を保ったまま止まっていた。
また、私だけが動けている。指先をわずかに曲げる。身体に異常はない。今回も、《停止世界の邪眼》は私に効かなかった。私は指を元の位置へ戻し、そのまま動きを止めた。
「またですぅ……」
ギャスパーさんが、止まったボールを見下ろしている。
「また、皆さんまで止めてしまいました……」
こちらへ顔を向ける。私は動かなかった。今、声をかければ、ギャスパーさんを安心させられるかもしれない。けれど、止めたはずの世界で私だけが動けば、別の恐怖を与える可能性もある。自分の力が私にだけ通じないと知って、安心できるとは限らなかった。
やがて、止まっていたボールが再び転がり始める。
「――からな。って、止まったのか?」
一誠が周囲を見回した。ボールはすぐに勢いを失い、ギャスパーさんの足元で止まった。
「全部、止めました……」
ギャスパーさんが俯く。
「また、失敗ですぅ……」
「でも、ボールも止めただろ」
一誠はすぐに答えた。
「何もできなかったわけじゃねえよ」
「そういう問題じゃないですぅ……」
「なら、もう一回だけやってみよう。今度は、もっと近くから転がす」
一誠がボールを拾う。しかし、ギャスパーさんは首を振った。
「できません……」
「まだ一回だぞ?」
「また皆さんを止めます……」
「そのときは、またやり直せばいい」
「嫌です……」
「ギャスパー?」
「ボクには無理ですぅ!」
赤い光が、再び体育館を包んだ。周囲が止まる。ボールを抱えた一誠も、ギャスパーさんへ近づこうとしていたアーシアさんも、その場で動かなくなった。
ギャスパーさんは、私たちから逃げるように体育館の出口へ走った。扉を開き、外へ飛び出す。私は追わなかった。すぐに時間が動き出す。体育館の扉が閉まる音が、大きく響いた。
「――ギャスパー!」
一誠が振り返る。そこに、ギャスパーさんの姿はなかった。
◇
ギャスパーさんは、元の部屋へ戻っていた。扉は内側から閉ざされ、呼びかけても開かない。
「ギャスパー。中にいるんだろ?」
一誠が扉を叩く。
「……帰ってください」
しばらくして、小さな声が返ってきた。
「帰らねえよ」
「もう訓練は嫌です……」
「分かった。今日はもうやらない」
「だったら、帰ってください……」
一誠は扉の前へ座り込んだ。
「それとこれとは別だ」
「どうしてですか……?」
「このまま放って帰れるわけねえだろ」
扉の向こうから返事はなかった。小猫さんとゼノヴィアさんは、ほかに出入口がないか確認するため、部屋の周囲を見てくることになった。アーシアさんは何か思いついたらしく、少し待っていてほしいと言って廊下の先へ走っていった。
扉の前に残ったのは、一誠と私だった。私は一誠から少し離れ、反対側の壁へ背を預けて座った。
「ギャスパー」
一誠がもう一度呼びかける。
「出てこなくてもいい」
「……え?」
「今すぐ出てこいとは言わねえよ。でも、俺はここにいる」
「どうして……」
「部長に頼まれたからってのもある。でも、それだけじゃねえ」
「ボクがいると、迷惑をかけます……」
「誰もそんなこと言ってねえだろ」
「言わなくても分かります」
ギャスパーさんの声が震えていた。
「ボクがいなければ、皆さんはあんな訓練をしなくて済みます……。今日だって、また皆さんを止めました」
「怪我した奴はいねえよ」
「今は、です……」
扉の向こうで、何かが擦れる音がする。ギャスパーさんも、扉の近くに座ったのかもしれない。
「前も、最初はみんな優しかったです……」
一誠は口を挟まなかった。
「でも、ボクの目を見た人が動かなくなって……。何度も、何度も止めてしまって……」
声が少しずつ小さくなっていく。
「気持ち悪いって言われました。化け物だって……。人間にも、吸血鬼にも、ボクの居場所なんてありませんでした」
「……」
「最初は優しくしてくれても、ボクの力を見たら変わるんです。みんな、いつかボクを怖がるようになるんですぅ……」
「だから、部屋から出たくないのか?」
「ここにいれば、誰にも会わなくて済みます。誰も止めなくて済みます……」
「ずっと一人でもいいのか?」
「その方が、迷惑をかけません」
一誠が膝の上で拳を握った。
「お前が迷惑かどうかを、お前一人で決めるなよ」
「でも……」
「俺だって、自分の力を全部分かってるわけじゃねえよ」
「一誠先輩は、強いじゃないですか……」
「強くねえよ」
一誠は即座に否定した。
「何度も負けたし、無茶して倒れたし、部長たちに迷惑もかけた。今だって、赤龍帝の力を全部使いこなせてるわけじゃねえ」
「それでも、一誠先輩は皆さんと一緒にいられるじゃないですか……」
「一人じゃないからだよ」
一誠が扉を見る。
「俺一人じゃ何もできなかった。部長やみんながいたから、今もここにいる」
「ボクとは違います……」
「違わねえよ」
「違います!」
扉の向こうから、強い声が返ってきた。
「一誠先輩は、皆さんに必要とされています。でも、ボクは……」
「俺たちがここにいるだろ」
「部長に言われたからです……」
「それだけなら、とっくに帰ってる」
一誠は扉から離れようとしなかった。
「また皆を止めるかもしれないんです……」
「そのときは、また練習する」
「また失敗したら……?」
「もう一回やる」
「何度やっても駄目だったら……?」
「できるまで付き合う」
「どうして、そこまで……」
「お前が俺の後輩だからだよ」
一誠は迷わず答えた。
「それに、お前が閉じこもったままだったら、部長はずっと心配する。俺はもう、部長が仲間のことで悲しむところを見たくねえ」
「……」
「出てくるかどうかは、すぐに決めなくていい。でも、迷惑だから一人でいなくちゃいけないなんて、勝手に決めるな」
扉の向こうが静かになった。しばらくして、ギャスパーさんの声が聞こえる。
「ミライさんも……まだ、そこにいるんですか?」
「はい。います」
「ボクが、怖くないんですか……?」
すぐには答えられなかった。危険ではないと言い切ることはできない。《停止世界の邪眼》は、本人の意思に関係なく周囲を止める。使い方によっては、誰かを傷つけることもあるだろう。
「ギャスパーさんの力が、危険ではないとは言えません」
「やっぱり……」
「ですが、力が危険であることと、ギャスパーさんを嫌うことは別です」
扉へ向かって話しかける。
「私は、ギャスパーさんのお話を聞くことを迷惑だとは思いません」
「でも、ミライさんは怖くないんですか……?」
「怖くないとは言えません」
一誠が、少し驚いたように私を見た。
「自分でも分からない力を持っていることは、怖いです」
「ミライさんも……?」
「はい。私も、自分の力をよく分かっていません」
「ちょっと待て」
一誠がこちらへ顔を向けた。
「それ、俺も初耳なんだけど」
「話していませんでしたから」
「さらっと言うなよ……」
「申し訳ありません。会談の場で、皆さんに説明するつもりでした」
「それは聞いてる。でも、お前自身も分かってないってところまでは聞いてねえぞ」
「はい」
一誠は何かを尋ねようとして、口を閉じた。今はギャスパーさんの話が先だと判断したらしい。
「……分かった。その話は会談でちゃんと聞く」
「ありがとうございます」
「ただし、誤魔化すなよ」
「誤魔化しません」
一誠はまだ納得していないようだったが、それ以上は追及しなかった。
「ミライさんは、自分の力で何ができるのかも分からないんですか……?」
ギャスパーさんが尋ねる。
「一部は分かっています」
できることのすべてを、ここで話すつもりはなかった。それでも、嘘は言わない。
「ですが、なぜ私がこの力を持っているのか、自分が何者なのかは分かりません」
「それなのに、どうして外にいられるんですか……?」
「一人で閉じこもっているだけでは、答えは見つからないと思っているからです」
「怖くないんですか……?」
「怖いです」
自分の口から出た言葉が、静かな廊下へ落ちた。
「使い方を間違えれば、誰かを傷つけるかもしれません。自分でも気づかないうちに、何かを起こしてしまうかもしれません」
一誠は黙って聞いている。
「私とギャスパーさんが、まったく同じだとは言えません」
私は扉へ目を向けた。
「ですが、分からないものを怖いと思う気持ちは、少し分かります」
「……」
「だから、怖がらないでくださいとは言いません」
そんな言葉で消える恐怖ではない。
「怖いままでも、誰かの近くにいることはできます」
「失敗しても……?」
「はい」
「力を制御できなくても……?」
「そのままでよいとは言えません。ですが、できないから練習しているのでしょう?」
「……はい」
「練習に失敗したからといって、ギャスパーさん自身が駄目だということにはなりません」
一誠が頷く。
「ほら。ミライだって、全部分かってるわけじゃない。俺だってそうだ」
扉に向かって、力強く続ける。
「だから、お前だけが駄目なわけじゃねえよ」
長い沈黙が続いた。やがて、扉の向こうから小さな金属音がした。内側の鍵が外れる。扉が、わずかに開いた。隙間から、ギャスパーさんの赤い目がこちらを覗く。
「……本当に、怒っていませんか?」
「怒ってねえよ」
「また、止めるかもしれません……」
「そのときは、またやり直す」
「一誠先輩は、そればかりですね……」
「他に思いつかねえからな」
一誠が笑う。立ち上がろうとはしなかった。手を伸ばすこともない。ギャスパーさんが、自分から扉を開くのを待っている。
扉の隙間が、少しずつ広がった。やがて、ギャスパーさんが扉の陰から顔と肩を覗かせる。まだ身体の大半は、部屋の中に残っていた。
私は立ち上がったが、すぐには近づかなかった。
「ミライさん……」
「はい」
「さっきのお話、本当ですか……?」
「自分の力をよく分かっていない、という話ですか?」
ギャスパーさんが頷く。
「本当です」
「怖いのも……?」
「はい」
私はポケットへ手を入れた。中から取り出したのは、何も刻まれていないブランクウォッチだった。
「ギャスパーさん。これを」
「これは……?」
差し出したブランクウォッチを、一誠が覗き込む。
「それ、あのとき祐斗に渡したものと同じか?」
「形は同じです」
「じゃあ、あのときみたいに、何か力が入ってるのか?」
「いいえ」
私は首を振った。
「これは空っぽです」
「空っぽ……?」
ギャスパーさんが、不安そうにブランクウォッチを見る。
「中に何の力も入っていない、という意味です。ギャスパーさんのことではありません」
「じゃあ、何のために……?」
「ただのお守りです」
「お守り……」
「怖くなったときに、今日、扉の外に私たちがいたことを思い出してください」
私自身にも、そのようなものが必要だったのかもしれない。けれど、その考えは口にしなかった。
「そのためだけのものです」
「本当に、何も起きないのか?」
一誠が尋ねる。
「何も起きません」
「祐斗のときとは違うんだな」
「はい。あのときとは違います」
ギャスパーさんは、恐る恐る手を伸ばした。私の手からブランクウォッチを受け取る。
「ボクが持っていても、いいんですか……?」
「はい。そのために渡しました」
ギャスパーさんは表面を少し眺めたあと、落とさないように制服のポケットへしまった。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」
廊下の向こうから、足音が近づいてくる。
「ギャスパーさん!」
戻ってきたアーシアさんが、扉を開いて顔を見せているギャスパーさんを見て、表情を明るくした。その手には、一枚の紙袋がある。小猫さんとゼノヴィアさんも一緒だった。
「人と目を合わせるのが怖いのでしたら、こちらを使ってみませんか?」
「紙袋……ですか?」
アーシアさんが持っている紙袋には、二つの小さな穴が開けられていた。
「こちらを被れば、皆さんと目を合わせずに済むと思ったんです」
「なるほど」
ゼノヴィアさんが紙袋を受け取る。そのままギャスパーさんの頭へ被せた。
「こうか?」
「ひゃっ!」
「ゼノヴィアさん。自分で被る時間を与えてください」
「結果は同じだ」
「その過程が大切なのです」
紙袋を被ったギャスパーさんは、しばらく動かなかった。一誠たちが、再び神器が発動するのではないかと身構える。私も、ギャスパーさんの様子を注意深く見守った。けれど、《停止世界の邪眼》は発動しなかった。
「……どうですか?」
アーシアさんが尋ねる。
「少し、落ち着きますぅ……」
「本当にそれでいいのか?」
一誠が、紙袋姿のギャスパーさんを見つめる。
「皆さんの顔が、あまり見えませんから……」
「前は見えてるのか?」
「少しだけですぅ」
小猫さんが、紙袋姿を静かに観察する。
「不審者です」
「小猫ちゃん、せっかく出てきたんだから言うなよ!」
ギャスパーさんの肩が小さく揺れた。泣いているわけではない。紙袋の奥から、かすかな笑い声が聞こえた気がした。
ギャスパーさんは、部屋と廊下の境目へ目を向ける。片足を、ゆっくり外へ出した。もう片方の足も続く。不安そうに伸ばされた手が、一誠の制服の裾を掴んだ。
「一誠先輩……」
「何だ?」
「少しだけなら、外にいてもいいです……」
「おう。少しずつでいい」
「では、このまま体育館まで走るか」
ゼノヴィアさんが提案する。
「嫌ですぅ!」
「ゼノヴィア、何も学んでねえだろ!」
ギャスパーさんは驚いたように一誠の服を強く掴んだ。それでも、部屋の中へは逃げ戻らなかった。
怖くなくなったわけではない。《停止世界の邪眼》を制御できるようになったわけでもなかった。それでも、紙袋の奥で震えながら、自分の足で部屋の外へ立っている。
自分の力が分からないと、私は初めて一誠へ話した。会談では、その先まで説明しなければならない。けれど今は、ギャスパーさんが部屋へ戻らず、私たちの隣に立っていることを、少しだけ喜んでいた。
今後の更新について、最も近い希望を教えてください
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このまま続けてほしい
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短く休んでから再開してほしい
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不定期でも続けてほしい
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今回で一区切りでもよい
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作者の判断に任せたい