止まった針は時の終わりに未来を見る   作:ドレットノータス

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第26刻 からっぽのお守り、明日をゼロから

 その日の夜、私たちは旧校舎の体育館へ集まっていた。リアス先輩と朱乃さんは首脳会談の準備、祐斗は聖魔剣の訓練を続けている。そのため、ここにいるのは一誠、アーシアさん、小猫さん、ゼノヴィアさん、私。そして、体育用具の入った箱の陰に隠れているギャスパーさんだった。

 

 体育館の中央には、一つのボールが置かれている。行うことは単純だった。転がってくるボールだけを見て、《停止世界の邪眼》で止める。

 

「ギャスパー。難しいことをやるわけじゃねえよ」

 

 一誠が、箱の陰へ向かって呼びかける。

 

「俺がボールをゆっくり転がすから、それだけ見てくれればいいんだ」

 

「それが難しいんですぅ……」

 

「失敗しても怒らねえから。まずは一回やってみようぜ」

 

「失敗するって分かってるのに、やりたくないですぅ……」

 

 ギャスパーさんは、箱の後ろから顔だけを出した。体育館の中央を見たあと、すぐに引っ込んでしまう。

 

「出てこないなら、私が運ぼう」

 

 ゼノヴィアさんが歩き出す。

 

「ゼノヴィアさんが近づくほど、奥へ下がっています」

 

「なぜだ?」

 

「昨日のことを忘れたのですか?」

 

「走ることには成功した」

 

「あれを成功例に含めないでください」

 

 箱の向こうから、さらに何かが擦れる音がした。ギャスパーさんは、限界まで奥へ下がったらしい。

 

「ゼノヴィアさん。少し待っていただけますか?」

 

 アーシアさんが、箱の近くへ座り込む。

 

「怖いですよね。ですが、私たちはギャスパーさんが失敗しても怒りません」

 

「でも……」

 

「一回だけ、一緒にやってみませんか?」

 

 しばらく返事はなかった。やがて、箱の陰からギャスパーさんが恐る恐る出てくる。体育館の中央までは進めず、少し離れた場所で足を止めた。

 

「そこでもいいぞ」

 

 一誠は、これ以上近づくようには言わなかった。ボールを持ち、ギャスパーさんから十分に距離を取る。私たちも壁際へ下がった。

 

「いいか? ボールだけ見るんだ」

 

「ぼ、ボールだけ……」

 

「ゆっくり転がすからな」

 

 一誠が床へボールを置いた。軽く手を押し出す。ボールが、ゆっくりとギャスパーさんへ向かって転がり始めた。

 

 ギャスパーさんの赤い目が、その動きを追う。肩が強張っている。指先が震えていた。

 

「ボールだけだ。俺たちのことは気にしなくていい」

 

「は、はい……」

 

 ボールが近づく。ギャスパーさんの目が赤く光った。

 

     ◇

 

 転がっていたボールが、床の上で静止した。一誠も、アーシアさんも、小猫さんも、ゼノヴィアさんも動いていない。衣服の裾も、髪も、その瞬間の形を保ったまま止まっていた。

 

 また、私だけが動けている。指先をわずかに曲げる。身体に異常はない。今回も、《停止世界の邪眼》は私に効かなかった。私は指を元の位置へ戻し、そのまま動きを止めた。

 

「またですぅ……」

 

 ギャスパーさんが、止まったボールを見下ろしている。

 

「また、皆さんまで止めてしまいました……」

 

 こちらへ顔を向ける。私は動かなかった。今、声をかければ、ギャスパーさんを安心させられるかもしれない。けれど、止めたはずの世界で私だけが動けば、別の恐怖を与える可能性もある。自分の力が私にだけ通じないと知って、安心できるとは限らなかった。

 

 やがて、止まっていたボールが再び転がり始める。

 

「――からな。って、止まったのか?」

 

 一誠が周囲を見回した。ボールはすぐに勢いを失い、ギャスパーさんの足元で止まった。

 

「全部、止めました……」

 

 ギャスパーさんが俯く。

 

「また、失敗ですぅ……」

 

「でも、ボールも止めただろ」

 

 一誠はすぐに答えた。

 

「何もできなかったわけじゃねえよ」

 

「そういう問題じゃないですぅ……」

 

「なら、もう一回だけやってみよう。今度は、もっと近くから転がす」

 

 一誠がボールを拾う。しかし、ギャスパーさんは首を振った。

 

「できません……」

 

「まだ一回だぞ?」

 

「また皆さんを止めます……」

 

「そのときは、またやり直せばいい」

 

「嫌です……」

 

「ギャスパー?」

 

「ボクには無理ですぅ!」

 

 赤い光が、再び体育館を包んだ。周囲が止まる。ボールを抱えた一誠も、ギャスパーさんへ近づこうとしていたアーシアさんも、その場で動かなくなった。

 

 ギャスパーさんは、私たちから逃げるように体育館の出口へ走った。扉を開き、外へ飛び出す。私は追わなかった。すぐに時間が動き出す。体育館の扉が閉まる音が、大きく響いた。

 

「――ギャスパー!」

 

 一誠が振り返る。そこに、ギャスパーさんの姿はなかった。

 

     ◇

 

 ギャスパーさんは、元の部屋へ戻っていた。扉は内側から閉ざされ、呼びかけても開かない。

 

「ギャスパー。中にいるんだろ?」

 

 一誠が扉を叩く。

 

「……帰ってください」

 

 しばらくして、小さな声が返ってきた。

 

「帰らねえよ」

 

「もう訓練は嫌です……」

 

「分かった。今日はもうやらない」

 

「だったら、帰ってください……」

 

 一誠は扉の前へ座り込んだ。

 

「それとこれとは別だ」

 

「どうしてですか……?」

 

「このまま放って帰れるわけねえだろ」

 

 扉の向こうから返事はなかった。小猫さんとゼノヴィアさんは、ほかに出入口がないか確認するため、部屋の周囲を見てくることになった。アーシアさんは何か思いついたらしく、少し待っていてほしいと言って廊下の先へ走っていった。

 

 扉の前に残ったのは、一誠と私だった。私は一誠から少し離れ、反対側の壁へ背を預けて座った。

 

「ギャスパー」

 

 一誠がもう一度呼びかける。

 

「出てこなくてもいい」

 

「……え?」

 

「今すぐ出てこいとは言わねえよ。でも、俺はここにいる」

 

「どうして……」

 

「部長に頼まれたからってのもある。でも、それだけじゃねえ」

 

「ボクがいると、迷惑をかけます……」

 

「誰もそんなこと言ってねえだろ」

 

「言わなくても分かります」

 

 ギャスパーさんの声が震えていた。

 

「ボクがいなければ、皆さんはあんな訓練をしなくて済みます……。今日だって、また皆さんを止めました」

 

「怪我した奴はいねえよ」

 

「今は、です……」

 

 扉の向こうで、何かが擦れる音がする。ギャスパーさんも、扉の近くに座ったのかもしれない。

 

「前も、最初はみんな優しかったです……」

 

 一誠は口を挟まなかった。

 

「でも、ボクの目を見た人が動かなくなって……。何度も、何度も止めてしまって……」

 

 声が少しずつ小さくなっていく。

 

「気持ち悪いって言われました。化け物だって……。人間にも、吸血鬼にも、ボクの居場所なんてありませんでした」

 

「……」

 

「最初は優しくしてくれても、ボクの力を見たら変わるんです。みんな、いつかボクを怖がるようになるんですぅ……」

 

「だから、部屋から出たくないのか?」

 

「ここにいれば、誰にも会わなくて済みます。誰も止めなくて済みます……」

 

「ずっと一人でもいいのか?」

 

「その方が、迷惑をかけません」

 

 一誠が膝の上で拳を握った。

 

「お前が迷惑かどうかを、お前一人で決めるなよ」

 

「でも……」

 

「俺だって、自分の力を全部分かってるわけじゃねえよ」

 

「一誠先輩は、強いじゃないですか……」

 

「強くねえよ」

 

 一誠は即座に否定した。

 

「何度も負けたし、無茶して倒れたし、部長たちに迷惑もかけた。今だって、赤龍帝の力を全部使いこなせてるわけじゃねえ」

 

「それでも、一誠先輩は皆さんと一緒にいられるじゃないですか……」

 

「一人じゃないからだよ」

 

 一誠が扉を見る。

 

「俺一人じゃ何もできなかった。部長やみんながいたから、今もここにいる」

 

「ボクとは違います……」

 

「違わねえよ」

 

「違います!」

 

 扉の向こうから、強い声が返ってきた。

 

「一誠先輩は、皆さんに必要とされています。でも、ボクは……」

 

「俺たちがここにいるだろ」

 

「部長に言われたからです……」

 

「それだけなら、とっくに帰ってる」

 

 一誠は扉から離れようとしなかった。

 

「また皆を止めるかもしれないんです……」

 

「そのときは、また練習する」

 

「また失敗したら……?」

 

「もう一回やる」

 

「何度やっても駄目だったら……?」

 

「できるまで付き合う」

 

「どうして、そこまで……」

 

「お前が俺の後輩だからだよ」

 

 一誠は迷わず答えた。

 

「それに、お前が閉じこもったままだったら、部長はずっと心配する。俺はもう、部長が仲間のことで悲しむところを見たくねえ」

 

「……」

 

「出てくるかどうかは、すぐに決めなくていい。でも、迷惑だから一人でいなくちゃいけないなんて、勝手に決めるな」

 

 扉の向こうが静かになった。しばらくして、ギャスパーさんの声が聞こえる。

 

「ミライさんも……まだ、そこにいるんですか?」

 

「はい。います」

 

「ボクが、怖くないんですか……?」

 

 すぐには答えられなかった。危険ではないと言い切ることはできない。《停止世界の邪眼》は、本人の意思に関係なく周囲を止める。使い方によっては、誰かを傷つけることもあるだろう。

 

「ギャスパーさんの力が、危険ではないとは言えません」

 

「やっぱり……」

 

「ですが、力が危険であることと、ギャスパーさんを嫌うことは別です」

 

 扉へ向かって話しかける。

 

「私は、ギャスパーさんのお話を聞くことを迷惑だとは思いません」

 

「でも、ミライさんは怖くないんですか……?」

 

「怖くないとは言えません」

 

 一誠が、少し驚いたように私を見た。

 

「自分でも分からない力を持っていることは、怖いです」

 

「ミライさんも……?」

 

「はい。私も、自分の力をよく分かっていません」

 

「ちょっと待て」

 

 一誠がこちらへ顔を向けた。

 

「それ、俺も初耳なんだけど」

 

「話していませんでしたから」

 

「さらっと言うなよ……」

 

「申し訳ありません。会談の場で、皆さんに説明するつもりでした」

 

「それは聞いてる。でも、お前自身も分かってないってところまでは聞いてねえぞ」

 

「はい」

 

 一誠は何かを尋ねようとして、口を閉じた。今はギャスパーさんの話が先だと判断したらしい。

 

「……分かった。その話は会談でちゃんと聞く」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、誤魔化すなよ」

 

「誤魔化しません」

 

 一誠はまだ納得していないようだったが、それ以上は追及しなかった。

 

「ミライさんは、自分の力で何ができるのかも分からないんですか……?」

 

 ギャスパーさんが尋ねる。

 

「一部は分かっています」

 

 できることのすべてを、ここで話すつもりはなかった。それでも、嘘は言わない。

 

「ですが、なぜ私がこの力を持っているのか、自分が何者なのかは分かりません」

 

「それなのに、どうして外にいられるんですか……?」

 

「一人で閉じこもっているだけでは、答えは見つからないと思っているからです」

 

「怖くないんですか……?」

 

「怖いです」

 

 自分の口から出た言葉が、静かな廊下へ落ちた。

 

「使い方を間違えれば、誰かを傷つけるかもしれません。自分でも気づかないうちに、何かを起こしてしまうかもしれません」

 

 一誠は黙って聞いている。

 

「私とギャスパーさんが、まったく同じだとは言えません」

 

 私は扉へ目を向けた。

 

「ですが、分からないものを怖いと思う気持ちは、少し分かります」

 

「……」

 

「だから、怖がらないでくださいとは言いません」

 

 そんな言葉で消える恐怖ではない。

 

「怖いままでも、誰かの近くにいることはできます」

 

「失敗しても……?」

 

「はい」

 

「力を制御できなくても……?」

 

「そのままでよいとは言えません。ですが、できないから練習しているのでしょう?」

 

「……はい」

 

「練習に失敗したからといって、ギャスパーさん自身が駄目だということにはなりません」

 

 一誠が頷く。

 

「ほら。ミライだって、全部分かってるわけじゃない。俺だってそうだ」

 

 扉に向かって、力強く続ける。

 

「だから、お前だけが駄目なわけじゃねえよ」

 

 長い沈黙が続いた。やがて、扉の向こうから小さな金属音がした。内側の鍵が外れる。扉が、わずかに開いた。隙間から、ギャスパーさんの赤い目がこちらを覗く。

 

「……本当に、怒っていませんか?」

 

「怒ってねえよ」

 

「また、止めるかもしれません……」

 

「そのときは、またやり直す」

 

「一誠先輩は、そればかりですね……」

 

「他に思いつかねえからな」

 

 一誠が笑う。立ち上がろうとはしなかった。手を伸ばすこともない。ギャスパーさんが、自分から扉を開くのを待っている。

 

 扉の隙間が、少しずつ広がった。やがて、ギャスパーさんが扉の陰から顔と肩を覗かせる。まだ身体の大半は、部屋の中に残っていた。

 

 私は立ち上がったが、すぐには近づかなかった。

 

「ミライさん……」

 

「はい」

 

「さっきのお話、本当ですか……?」

 

「自分の力をよく分かっていない、という話ですか?」

 

 ギャスパーさんが頷く。

 

「本当です」

 

「怖いのも……?」

 

「はい」

 

 私はポケットへ手を入れた。中から取り出したのは、何も刻まれていないブランクウォッチだった。

 

「ギャスパーさん。これを」

 

「これは……?」

 

 差し出したブランクウォッチを、一誠が覗き込む。

 

「それ、あのとき祐斗に渡したものと同じか?」

 

「形は同じです」

 

「じゃあ、あのときみたいに、何か力が入ってるのか?」

 

「いいえ」

 

 私は首を振った。

 

「これは空っぽです」

 

「空っぽ……?」

 

 ギャスパーさんが、不安そうにブランクウォッチを見る。

 

「中に何の力も入っていない、という意味です。ギャスパーさんのことではありません」

 

「じゃあ、何のために……?」

 

「ただのお守りです」

 

「お守り……」

 

「怖くなったときに、今日、扉の外に私たちがいたことを思い出してください」

 

 私自身にも、そのようなものが必要だったのかもしれない。けれど、その考えは口にしなかった。

 

「そのためだけのものです」

 

「本当に、何も起きないのか?」

 

 一誠が尋ねる。

 

「何も起きません」

 

「祐斗のときとは違うんだな」

 

「はい。あのときとは違います」

 

 ギャスパーさんは、恐る恐る手を伸ばした。私の手からブランクウォッチを受け取る。

 

「ボクが持っていても、いいんですか……?」

 

「はい。そのために渡しました」

 

 ギャスパーさんは表面を少し眺めたあと、落とさないように制服のポケットへしまった。

 

「ありがとうございます……」

 

「どういたしまして」

 

 廊下の向こうから、足音が近づいてくる。

 

「ギャスパーさん!」

 

 戻ってきたアーシアさんが、扉を開いて顔を見せているギャスパーさんを見て、表情を明るくした。その手には、一枚の紙袋がある。小猫さんとゼノヴィアさんも一緒だった。

 

「人と目を合わせるのが怖いのでしたら、こちらを使ってみませんか?」

 

「紙袋……ですか?」

 

 アーシアさんが持っている紙袋には、二つの小さな穴が開けられていた。

 

「こちらを被れば、皆さんと目を合わせずに済むと思ったんです」

 

「なるほど」

 

 ゼノヴィアさんが紙袋を受け取る。そのままギャスパーさんの頭へ被せた。

 

「こうか?」

 

「ひゃっ!」

 

「ゼノヴィアさん。自分で被る時間を与えてください」

 

「結果は同じだ」

 

「その過程が大切なのです」

 

 紙袋を被ったギャスパーさんは、しばらく動かなかった。一誠たちが、再び神器が発動するのではないかと身構える。私も、ギャスパーさんの様子を注意深く見守った。けれど、《停止世界の邪眼》は発動しなかった。

 

「……どうですか?」

 

 アーシアさんが尋ねる。

 

「少し、落ち着きますぅ……」

 

「本当にそれでいいのか?」

 

 一誠が、紙袋姿のギャスパーさんを見つめる。

 

「皆さんの顔が、あまり見えませんから……」

 

「前は見えてるのか?」

 

「少しだけですぅ」

 

 小猫さんが、紙袋姿を静かに観察する。

 

「不審者です」

 

「小猫ちゃん、せっかく出てきたんだから言うなよ!」

 

 ギャスパーさんの肩が小さく揺れた。泣いているわけではない。紙袋の奥から、かすかな笑い声が聞こえた気がした。

 

 ギャスパーさんは、部屋と廊下の境目へ目を向ける。片足を、ゆっくり外へ出した。もう片方の足も続く。不安そうに伸ばされた手が、一誠の制服の裾を掴んだ。

 

「一誠先輩……」

 

「何だ?」

 

「少しだけなら、外にいてもいいです……」

 

「おう。少しずつでいい」

 

「では、このまま体育館まで走るか」

 

 ゼノヴィアさんが提案する。

 

「嫌ですぅ!」

 

「ゼノヴィア、何も学んでねえだろ!」

 

 ギャスパーさんは驚いたように一誠の服を強く掴んだ。それでも、部屋の中へは逃げ戻らなかった。

 

 怖くなくなったわけではない。《停止世界の邪眼》を制御できるようになったわけでもなかった。それでも、紙袋の奥で震えながら、自分の足で部屋の外へ立っている。

 

 自分の力が分からないと、私は初めて一誠へ話した。会談では、その先まで説明しなければならない。けれど今は、ギャスパーさんが部屋へ戻らず、私たちの隣に立っていることを、少しだけ喜んでいた。

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