翌朝の駒王学園は、いつもより明らかに騒がしかった。
校門から昇降口へ続く生徒たちの流れが妙に滞り、先へ進んでいた者まで足を止めて後ろを振り返っている。何があったのだろうと思いながら歩いていると、あちこちから聞こえてくる声の中に、よく知った名前が混じっていることに気づいた。
「イッセー! お前、何があったぁぁぁ!」
「グレモリー先輩と登校とか、裏切りだぞこの野郎!」
「いや、違う! 違うから! これはそういうのじゃなくてだな!」
人垣の向こうに見えたのは、松田君と元浜君を相手に必死で弁解している一誠だった。ただ、それだけなら普段とそれほど変わらない。問題なのは、その隣に立っている女子生徒の方だった。
最初に目へ入ったのは、朝の光を受けて鮮やかに輝く赤い髪だった。
派手という言葉だけでは少し足りないほど目を引く色で、こちらから意識して見ようとしなくても自然と視線が向いてしまう。周囲の生徒たちまで無意識に距離を取っているように見えるのは、単純に彼女が有名人だからなのかもしれない。
リアス・グレモリー
直接話したことはなくても、名前くらいは知っている。駒王学園に通っていれば嫌でも耳へ入るほどの有名人で、容姿端麗、成績優秀、そのうえ実家もかなりの良家らしい。旧校舎を使っているオカルト研究部の部長だという噂も、何度か聞いたことがあった。
そんな人が、なぜ一誠と一緒に登校しているのだろう。
一誠本人は全力で「違う」と叫び続けていたが、慌てれば慌てるほど周囲の誤解を深めているようにしか見えない。こういうところは昔から変わらないので、特に驚くことでもなかった。
一方のリアス先輩は、騒ぎの中心にいるにもかかわらず、少し困ったような、それでいてどこか面白がっているような表情を浮かべている。少なくとも、一誠が嫌がっているのを無理やり連れてきたようには見えなかった。
それでも、昨日まで一誠とリアス先輩にこれほど近い接点があったという話を、私は一度も聞いたことがない。
昨日、一誠には本人にも説明できないようなことが起きた。数日分の記憶が周囲から消え、その中では自分が一度死んだような感覚さえ残っている。そして今日になって、彼は昨日までとは少し違う顔をして、これまでほとんど関わりのなかったはずのリアス先輩と並んでいる。
もちろん、それぞれ別の出来事だと言われれば、それまでなのかもしれない。
ただ、今の私には完全に切り離して考えることができなかった。
そんなことを考えていると、不意にリアス先輩がこちらへ顔を向けた。
視線が重なる。
値踏みされているような嫌な感じも、威圧するようなものもなかった。ただ、そこにいる私の存在を一度きちんと確認したという程度の視線で、次の瞬間には彼女は何事もなかったように柔らかく微笑んだ。
私は少し迷った後、軽く会釈を返した。
◇
教室へ入ってからも、朝の騒ぎはなかなか収まらなかった。
一時間目の現代文でも、二時間目の数学でも、授業の合間になるたびに「グレモリー先輩」「兵藤」「オカ研」という言葉があちこちから聞こえてくる。
授業中に関係のない話をするのは感心しないが、聞こうとしなくても耳へ入ってくるものは仕方がない。
オカルト研究部 旧校舎 リアス・グレモリー
昨日までなら、一誠とはほとんど関係のなかった言葉ばかりだったのに、それが今朝を境に急に彼の周囲へ集まり始めている。
一度だけノートの端へ書き留めかけたが、途中でペンを止めた。
まだ何も分かっていないのだから、分からないものを無理に並べても、自分に都合のいい形を作るだけだ。
私は書きかけた文字を消し、そのまま授業へ意識を戻した。
◇
昼休みになっても、一誠はなかなか屋上へ姿を見せなかった。
普段なら四時間目が終わって五分もしないうちにやってきて、勝手に隣へ座り、「今日の弁当うまそうだな」などと言いながら中身を覗き込んでくる。こちらが許可する前に箸を伸ばすことも珍しくなく、最近では奪われることを前提に、だし巻き卵などを一切れ余分に作ることまで増えていた。
今日は、その隣だけが空いている。
ベンチへ腰を下ろして弁当箱を開けると、いつも通り、だし巻き卵が三切れ、ほうれん草の胡麻和え、鮭、白米が綺麗に収まっていた。朝、特に何も考えずに詰めたものだ。
箸を手に取り、最初の一切れへ伸ばしかけたところで、なぜかだし巻き卵を一つだけ弁当箱の端へ寄せる。
別に一誠のために残したわけではなく、ただ、なんとなく箸がそこを避けただけだ。
「……何をしているんですか、私は」
思わず漏れた声は、屋上を抜ける風に流されて消えた。
結局、一誠が姿を見せたのは、昼休みも半分ほど過ぎてからだった。
「悪い、ミライ。ちょっと遅れた」
「見れば分かります」
「怒ってる?」
「怒る理由がありません」
「それ、怒ってる時の言い方じゃん……」
一誠は困ったように頭を掻きながら、いつもの場所へ腰を下ろした。
顔色は悪くなく、昨日よりはずっとましで、目も落ち着いている。
だからこそ、昨日との違いがよく分かった。
昨日の一誠は、自分の身に何が起きたのか分からず、それをどう受け止めればいいのかさえ見失っていた。けれど今日の彼は、少なくとも何かを知っている。まだ完全には理解できていなくても、それをどうにか自分の中へ押し込もうとしているような顔だった。
そして、その何かを私へ話すつもりはない。
正確には、話したくないのではなく、今は話せないのだろう。
「……今朝は大変そうでしたね」
「あー……見てた?」
「学校中が見ていました」
「だよなぁ……」
「グレモリー先輩の件ですか」
「えっ」
分かりやすいくらい、一誠の身体が固まった。
「違うなら、違うと言えばいいでしょう」
「いや、違うっていうか、違わないっていうか……その、いろいろあって」
「いろいろ」
「いろいろ」
「便利な言葉ですね」
「便利なんだよ、今の俺には」
その言い方には、いつもの軽さに混じって僅かな疲れが滲んでいた。
昨日、店を出た後に何があったのか。今朝はなぜリアス先輩と一緒だったのか。そして、昨日までとは明らかに違うその顔で、いったい何を抱えているのか。
聞きたいことなら、いくらでもある。
けれど、一誠の表情には、言いたくないのではなく今は言えないのだということがはっきりと表れていた。そんな相手を無理に問い詰めても、返ってくるのは嘘か沈黙だけだろう。
「言えないなら、今は聞きません」
「……助かる」
「ただし」
「ただし?」
「また『夢だった』で片付けようとしたら、その時は止めます」
一誠は一瞬きょとんとした後、困ったように苦笑した。
「おまえ、怖いこと言うなぁ」
「あなたの整理能力が信用できないので」
「ひでえ」
「事実です」
それだけ言い合うと、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
一誠は買ってきたパンを開け、いつものような勢いで食べ始める。ただ、時折何かを思い出したように手が止まるのが気になった。
私は何も言わず、弁当箱の端へ寄せていた卵焼きを箸で取り、一誠の方へ差し出した。
「え、いいの?」
「余りました」
「絶対嘘だろ」
「余りました」
「……いただきます」
珍しくそれ以上追及せず、素直に口へ運ぶ姿を見ていると、その程度のことで少しだけ安心できた。
やがて食事も終わりかけた頃、一誠がふと思い出したように口を開いた。
「そういやさ、今朝も目覚ましがうるさくてさ」
「あなたの部屋にある、あの目覚まし時計ですか」
「そうそう。今日は幼馴染パターンだったかな。『起きないと遅刻だぞ、ばか』みたいなやつ」
「以前、液晶とスピーカーを修理したものですね」
「知ってる。おまえが直してくれたやつだし」
「私は液晶とスピーカーを直しただけです。妹、幼馴染、委員長、謎の転校生をランダム再生する機能までは直せませんでした」
「そこは故障じゃなくて仕様だからな!」
「仕様の時点で故障しています」
「ひでえ!」
「ですが、今朝の騒ぎは目覚まし時計の責任ではなさそうですね」
「ぶっ……な、なんのことだよ」
「何のことでしょう」
「目が怖いんだよ、おまえ!」
「安心してください。聞かないと言いました」
「その言い方が一番安心できねえ……」
そこで昼休み終了の予鈴が鳴り、一誠は慌ててパンの袋を丸めながら立ち上がった。
「じゃ、また放課後な」
「放課後、店に来ますか」
何気なく尋ねただけだったが、一誠は答えるまでにほんの少しだけ間を置いた。
「今日は、ちょっと用事ある」
「グレモリー先輩ですか」
「……まあ、そんな感じ」
「分かりました」
それ以上は聞かなかった。
一誠は少し申し訳なさそうに笑ってから、「悪いな」とだけ言う。
「謝る理由はありません」
「そっか」
そう返すと、一誠は屋上を出ていった。
私は再び空いた隣の席へ、しばらく目を向けていた。
◇
放課後、昇降口へ向かう途中で一誠の姿を見つけた。
声をかけようとしたところで、別の廊下から一人の金髪の男子生徒が現れる。
夕方の光を受けた髪は柔らかく輝き、整った顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。人当たりの良さそうな雰囲気まで含めて、どこから見ても優等生という印象を受ける。
「兵藤くん。グレモリー先輩が待っているよ」
「あ、木場。今行く」
木場祐斗
女子生徒からの人気が高いことで有名な男子生徒で、剣道部にも時々顔を出しているという話を聞いたことがある。その彼が、今日はリアス先輩の言葉を伝えるために一誠を呼びに来ていた。
「天童さん、ですよね。兵藤くんから聞いています」
木場くんはこちらへ気づくと、自然な動作で会釈をした。
「……初めまして。天童ミライです」
「木場祐斗です。いつも兵藤くんがお世話になっているそうで」
「世話というほどではありません。多少、生活習慣に問題がある常連客です」
「おい、ミライ」
隣から一誠が抗議すると、木場くんは楽しそうに笑った。
「兵藤くんらしいね」
噂で聞いていた通り、感じのいい人だった。
ただ、昨日まで一誠からほとんど名前を聞いたことのなかった相手と、今日は当たり前のように言葉を交わしている。やはり気になるのは木場くん自身ではなく、一誠の周囲が急に変わり始めていることだった。
「行こう、一誠君」
「ああ。じゃあな、ミライ」
「はい」
一誠は木場くんと並び、旧校舎の方へ歩き出した。
本人が言えないと示したことを、勝手に覗きに行くのは違う。
少なくとも今は、一誠が自分から話すまで待つべきだと思い、私はその背中を追わなかった。
◇
店へ戻るなら、旧校舎の横を通る道が一番早い。
決して様子を見に行ったわけではなく、最短経路を選んだだけだと、自分の中で一度だけ念を押しておく。
旧校舎の入口近くまで来たところで、小柄な白髪の少女が立っているのが見えた。
塔城小猫
彼女も学内では有名な生徒で、小柄で無口なのに妙に存在感がある下級生として名前くらいは知っていた。こうして近くで見るのは、おそらく初めてだ。
小猫さんは袋菓子を片手に持ち、無表情のまま一つ摘まんで口へ運んでいる。私の方を見ながらもう一つ食べているので、どうやらこちらを気にしているらしい。
「……こんにちは」
「こんにちは」
返ってきた声は小さかったが、不思議と聞き取りづらくはなかった。
「天童先輩」
「私のことを知っているんですね」
「兵藤先輩から聞いています」
「そうですか」
小猫さんは袋からまた一つ菓子を取り出し、そのまま口へ運んだ。
「兵藤先輩なら、中です」
「……そうですか」
「会わないんですか」
「はい。一誠が自分から話さないと決めたことを、勝手に覗くつもりはありません」
そう答えると、小猫さんは僅かに首を傾げたものの、特に追及することもなく「……そうですか」とだけ返し、また菓子を食べ始めた。
どうやら会話は終わったらしい。
もう少しくらい何か言うものではないだろうかと思ったものの、本人にその気がないなら仕方がない。
「では、私は帰ります」
「はい」
一歩進みかけたところで、私はふと旧校舎の入口へ目を向けた。
入ろうと思えば、入ること自体はできるのだろう。
けれど昼休み、一誠は何も話さなかった。言えないのだろうということも分かっている以上、それを承知したうえで後を追い、中で何をしているのか確かめるのは違う気がした。
少なくとも、まだ待つことはできる。
そう考えて、今度こそ旧校舎へ背を向けた。
◇
店へ戻ると、壁の時計たちはいつもと変わらない音を刻んでいた。
シャッターを半分まで上げ、作業机へ座る。修理待ちの腕時計を開いて必要な部品を並べれば、手だけはいつも通り動いてくれるものの、完全には仕事へ集中できなかった。
夕方になるまでに何人か客が来た。
ベルト調整、電池交換、置時計の相談。
その合間には、店の前を通り過ぎる学生たちの話し声も耳へ入ってくる。
「今日、兵藤が旧校舎行ってたよな」
「グレモリー先輩と何かあんの?」
「木場くんもいたし」
オカルト研究部、リアス・グレモリー、木場祐斗、塔城小猫。
どれも昨日まで知らなかった名前ではない。それなのに、一誠の周囲へ並び始めた途端、それまでとは違う意味を持って見えてくる。
何が起きているのかは、まだ分からない。
ただ、昨日までの一誠と今日の一誠が、まったく同じではないことだけは分かっていた。
夜が降り始めても、一誠は店へ来なかった。
そもそも今日は用事があると言っていたのだから、来なくても何もおかしくない。それでも、入口の鈴が鳴るたびに作業中の手を止めて顔を上げてしまう。
最後の客が帰る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
シャッターを下ろし、店内の照明を一段落としてから作業机へ戻ったところで、ふと昨日のことを思い出す。
私は引き出しを開け、伝票の裏へ書き留めておいた時刻を確認した。
午後五時十六分
原因も分からないまま止まった時計の針が示していた時間だけが、今もそこに残っている。
昨日の一誠の話と、この時刻に何か関係があるという証拠はない。それでも捨てる気にはなれず、私は紙を元の場所へ戻して、その日の店を閉めた。
◇
翌朝、登校途中の道で一人の少女を見かけた。
金色の髪をした、修道服姿の少女だった。
駒王町の朝の風景に修道服というだけでも十分に目立つが、外国人らしい顔立ちに大きな荷物まで抱えているため、なおさら周囲から浮いて見える。
少女は両手で地図を握り締めたまま、道の端で困ったように辺りを見回していた。
迷子だろうかと思い、声をかけようとした瞬間だった。
「うわっ!」
「きゃっ!」
角から飛び出してきた一誠と、少女が正面からぶつかった。
少女の手から地図が離れて朝の空気の中へ舞い上がり、一誠は慌てて倒れかけた身体を支える。そのまま何か声をかけると、少女も驚いた顔をしながら、すぐに申し訳なさそうに頭を下げた。
私は少し離れた場所で、その光景を見ながら足を止めた。
数日前にも、一誠は見知らぬ少女から突然声をかけられている。
そのせいなのか、目の前で起きた偶然に少しだけ身構えてしまったが、すぐに同じものとして考えるのはやめた。
地図を握って途方に暮れていた少女と、こちらから一誠へ声をかけてきた夕麻という少女では状況がまるで違う。そもそも私は、夕麻という少女についてさえ、結局ほとんど何も知らないのだ。
似ている部分だけを拾い集め、同じものだと決めつけるべきではない。
一誠が地面へ落ちた地図を拾い、少女へ差し出すと、彼女は何度も頭を下げながらそれを受け取った。朝の光を受けた金色の髪が、その動きに合わせて柔らかく揺れる。
その姿を眺めているうちに、昨日の昼休みを思い出した。
いつもなら最初から隣にいるはずの一誠が、昨日は昼休みも半分を過ぎるまで姿を見せなかった。たったそれだけのことなのに、あの空いた席が妙に気になったのを覚えている。
そして今も、一誠の周囲では私の知らない人や出来事が少しずつ増えている。
何が起きているのかは、まだ分からないし、分からない以上、勝手に答えを決めるつもりもない。
ただ、見なかったことにするのも、もう無理そうだった。
一誠の目覚まし時計はアニメD×Dで実際にありました