翌朝の駒王学園は、いつもより騒がしかった。
昇降口へ向かう生徒たちの流れが、校門のあたりで妙に滞っている。誰かが足を止め、誰かが振り返り、誰かが小声で名前を呼んだ。
原因は、すぐに分かった。
兵藤一誠が、赤い髪の女子生徒と並んで校門をくぐってきた。
赤。最初に目についたのは、その色だった。
朝の光の中で、彼女の髪だけが妙に鮮やかに見えた。派手という言葉では少し足りない。目立つのではなく、視線を引き寄せる。周囲の空気が自然とその色を避けて、彼女のために輪郭を空けているような、そういう赤だった。
リアス・グレモリー。
名前は知っている。駒王学園に通っていれば嫌でも耳に入る。容姿端麗、成績優秀、実家は良家。旧校舎のオカルト研究部に所属しているという噂も聞いたことがあった。
その有名人が、なぜか一誠の隣にいた。
「イッセー! お前、何があったぁぁぁ!」
「グレモリー先輩と登校とか、裏切りだぞこの野郎!」
「いや、違う! 違うから! これはそういうのじゃなくてだな!」
一誠は全力で否定していたが、否定している顔がすでに説明に失敗していた。いつものことだ。
リアス先輩はその騒ぎを、少し困ったような、少し面白がるような顔で見ていた。怒ってはいない。呆れてはいる。けれど、突き放すような冷たさもない。
彼女は一誠を連れていく側の人間に見えた。けれど、一誠を奪うために笑っているわけではない。それが分かるから、余計に判断が難しかった。
その時、リアス先輩がこちらを見た。
目が合った。
値踏みではない。威嚇でもない。ただ、私という存在がそこにいることを確認したような視線だった。
次の瞬間、彼女は何事もないように微笑んだ。
私は軽く会釈した。
それだけだった。それだけなのに、背筋の奥が少し冷えた。
教室に入ってからも、ざわめきはしばらく収まらなかった。
一時間目の現代文の間も、二時間目の数学の間も、誰かが小声で「グレモリー先輩」「兵藤」「オカ研」と囁いていた。授業中に関係のない話をするのは感心しないが、内容だけは耳が勝手に拾ってしまう。
オカルト研究部。旧校舎。リアス・グレモリー。
三つの単語が、頭の中で妙に整列していく。
私はノートの端に書きかけて、やめた。書くほどのことではない。まだ、何も起きていない。
昼休みになっても、一誠は来なかった。
普段なら四時間目が終わって五分もしないうちに屋上へ来る。勝手に隣へ座り、勝手に「今日の弁当うまそうだな」と言う。こちらが許可する前に箸を伸ばすこともあるので、最近では最初から一切れだけ余分に作ることが増えた。
今日は、その席が空いていた。
私は屋上のベンチに座り、弁当箱を開けた。だし巻き卵が三切れ。ほうれん草の胡麻和え。鮭。白米。特に変わったところはない、朝いつも通りに詰めたものだ。
箸を取る。
だし巻き卵を一切れ、弁当箱の端に寄せた。
別に、誰かのために残したわけではない。ただ、箸がそこを避けただけだ。
「……何をしているんですか、私は」
小さく呟いた声は、風に流れて消えた。
結局、一誠が来たのは昼休みが半分ほど過ぎてからだった。
「悪い、ミライ。ちょっと遅れた」
「見れば分かります」
「怒ってる?」
「怒る理由がありません」
「それ、怒ってる時の言い方じゃん……」
一誠は頭を掻きながら空いていた席に座った。
顔色は悪くない。昨日よりはずっとましだ。目も泳いでいない。けれど、何かが変わっていた。
昨日は、何が起きたのか分からずに怯えていた。今日は違う。何かを知った顔だった。知って、理解しきれず、それでも飲み込もうとしている顔。そしてその何かを、私には言わない顔。
「……今朝は大変そうでしたね」
「あー……見てた?」
「学校中が見ていました」
「だよなぁ……」
「グレモリー先輩の件ですか」
「えっ」
分かりやすく固まった。
「違うなら違うと言えばいいでしょう」
「いや、違うっていうか、違わないっていうか……その、いろいろあって」
「いろいろ」
「いろいろ」
「便利な言葉ですね」
「便利なんだよ、今の俺には」
その言い方に、少しだけ疲れが混じっていた。
私はそれ以上、踏み込むのをやめた。
聞きたいことはある。昨日の夜、店を出た後に何があったのか。今朝なぜリアス先輩と一緒だったのか。なぜ今日の一誠は昨日までと違う顔をしているのか。
しかし、一誠の顔にははっきりと書いてあった。
言えない。言いたくない、ではない。言えない。
なら今ここで問い詰めても、得られるのは嘘か沈黙だけだ。
「言えないなら、今は聞きません」
「……助かる」
「ただし」
「ただし?」
「また"夢だった"で片付けようとしたら、その時は止めます」
一誠は一瞬きょとんとして、それから苦笑した。
「おまえ、怖いこと言うなぁ」
「あなたの整理能力が信用できないので」
「ひでえ」
「事実です」
少しだけ、空気が緩んだ。
一誠はパンを食べ始めた。いつものように勢いよく、けれど時々、何かを思い出したように手が止まる。
私は黙って、端に寄せていた卵焼きを彼の方へ差し出した。
「え、いいの?」
「余りました」
「絶対嘘だろ」
「余りました」
「……いただきます」
彼は素直に食べた。その素直さに、少しだけ安心した。
食べ終わる頃、一誠がふと思い出したように言った。
「そういやさ、今朝も目覚ましがうるさくてさ」
「あなたの部屋の、あの目覚まし時計ですか」
「そうそう。今日は幼馴染パターンだったかな。『起きないと遅刻だぞ、ばか』みたいなやつ」
「以前、液晶とスピーカーを修理したものですね」
「知ってる。おまえが直してくれたやつだし」
「私は液晶とスピーカーを直しただけです。妹、幼馴染、委員長、謎の転校生をランダム再生する機能までは直せませんでした」
「そこは故障じゃなくて仕様だからな!」
「仕様の時点で故障しています」
「ひでえ!」
「ですが、今朝の騒ぎは目覚まし時計の責任ではなさそうですね」
「ぶっ……な、なんのことだよ」
「何のことでしょう」
「目が怖いんだよ、おまえ!」
「安心してください。聞かないと言いました」
「その言い方が一番安心できねえ……」
昼休み終了の予鈴が鳴った。
一誠は慌ててパンの袋を丸め、立ち上がった。
「じゃ、また放課後な」
「放課後、店に来ますか」
一誠は答えるまでに、ほんの少しだけ間を置いた。
「今日は、ちょっと用事ある」
「グレモリー先輩ですか」
「……まあ、そんな感じ」
「分かりました」
一誠は少し申し訳なさそうに笑った。
「悪いな」
「謝る理由はありません」
「そっか」
彼は屋上を出ていった。席がまた空く。私はその空席を、しばらく見ていた。
放課後、昇降口へ向かう途中で、一誠を見つけた。
声をかけようとした、その時。別の廊下から、金髪の男子生徒が現れた。
夕方の光を受けて、彼の髪はやけに柔らかく見えた。整った顔。穏やかな笑み。人当たりの良さそうな声。
「兵藤くん。グレモリー先輩が待っているよ」
「あ、木場。今行く」
木場祐斗。女子生徒からの人気が高い、爽やかな優等生。剣道部にも顔を出すことがあるという評判だったはずだ。その彼が、リアス・グレモリーの遣いとして一誠を呼びに来ている。
普通の用事なら、友人が呼びに来た、で済む。けれど「待っている」という言い方は、少し整いすぎていた。
木場くんは私に気づくと、穏やかに会釈した。
「天童さん、ですよね。兵藤くんから聞いています」
「……初めまして。天童ミライです」
「木場祐斗です。いつも兵藤くんがお世話になっているそうで」
「世話というほどではありません。多少、生活習慣に問題がある常連客です」
「おい、ミライ」
木場くんは笑った。自然な笑い方だった。あまりに自然で、どこまでが本心なのか分からない。
「兵藤くんらしいね」
その言葉は柔らかかった。柔らかいのに、なぜか少しだけ、こちらの踏み込みを止める線にも見えた。
「行くぞ、イッセー」
「ああ。じゃあな、ミライ」
「はい」
一誠は木場くんと並んで、旧校舎の方へ歩き出した。
私は追わなかった。追う理由がない。追う権利もない。追えばきっと、何かを見てしまう。
三つの理由のうち、最後だけが本音に近かった。
店に戻るには、旧校舎の横を通る道が一番早い。
だからそこを通った。決して、様子を見に行ったわけではない。最短経路を選んだだけだ。
旧校舎は、昼間でも音が少なかった。古い建物なら、床も窓ももっと鳴るはずだ。風が通れば軋む。人が歩けば沈む。そういう音があるはずなのに、そこだけ学校の中から少し外れているように静かだった。
入口近くに、小柄な白髪の少女がいた。
塔城小猫。
彼女もまた有名人だった。小柄で無口で、けれど妙に存在感がある下級生。名前は知っていたが、こうして近くで見るのは初めてかもしれない。
彼女は袋菓子を持っていた。無表情のまま、ひとつ摘まんで口に運ぶ。こちらを見る。食べる。また見る。
なぜ食べ続けながら見るのだ。
「……こんにちは」
「こんにちは」
声は小さかった。しかし聞き取りづらくはない。短く、余計なものがない声だった。
「天童先輩」
「私のことを知っているんですね」
「兵藤先輩の知り合いなので」
「それだけですか」
小猫さんは、菓子を一つ噛んだ。
「今は、それだけです」
今は。その二文字が、妙に重く聞こえた。
「兵藤先輩は中です」
「聞いていません」
「でも、気にしてます」
「……否定はしません」
小猫さんは瞬きをした。表情はほとんど変わっていない。けれど、少しだけ意外そうに見えた。
「入りますか」
「いいえ」
即答した。
「招かれていません。勝手に入るのは礼儀に反します」
「そうですか」
「それに」
「それに?」
「今入ると、たぶん、私は冷静ではいられません」
言ってから、少しだけ後悔した。口に出すつもりはなかった。
だが、小猫さんは笑わなかった。ただ袋からまた菓子を一つ取り出した。
「悪い人ではなさそうです」
「評価基準が分かりません」
「お菓子を奪わなかったので」
「奪いません」
「なら、大丈夫です」
大丈夫の範囲が狭すぎる。そう言おうとした時には、小猫さんは旧校舎の中へ戻り始めていた。
古い床板の上を歩いているはずなのに、足音がほとんどしなかった。
最後に、彼女は振り返らずに言った。
「兵藤先輩は、部長の大切な人です」
「……大切な人?」
「はい」
小猫さんは少しだけ間を置いた。
「だから、今日は帰れます」
「……今日は?」
返事はなかった。扉が静かに閉じる。
私は旧校舎の前に、しばらく立っていた。
部長の大切な人。
それは、一誠がただ連れていかれただけではないという意味に聞こえた。同時に、今日は帰れる、という言葉は、その逆もあるという意味に聞こえた。
安心させたいのか、不安にさせたいのか、どちらかにしてください。
そう文句を言う相手は、もう扉の向こうだった。
やはり、入るべきではなかった。入らなかった自分を褒めるべきなのか、責めるべきなのか、判断がつかなかった。
店に戻ると、壁の時計たちはいつも通りに鳴っていた。
いつも通り。その言葉が、今日は少しだけ信用できない。
シャッターを半分だけ上げ、作業机に座る。修理待ちの腕時計を開け、部品を並べる。手は動く。動くのに、意識の半分は旧校舎に置き忘れてきたようだった。
夕方の客が何人か来た。ベルト調整。電池交換。置時計の相談。その合間に、店の前を通る学生たちの声が聞こえた。
「今日、兵藤が旧校舎行ってたよな」
「グレモリー先輩と何かあんの?」
「木場くんもいたし」
オカルト研究部。グレモリー先輩。木場祐斗。塔城小猫。
知らない名前ではない。なのに、それらが一誠の周囲に並ぶと、知らない構造に見えた。
夜が降りる頃になっても、一誠は来なかった。
来るとは言っていない。だから、来ないことはおかしくない。
おかしくないのに、鈴が鳴るたびに顔を上げてしまう自分がいた。
最後の客が帰り、シャッターを下ろし、店内の明かりを一段落とした。
作業机に戻った時だった。
空気が、薄くなった。
そう感じた。
音が消えたわけではない。壁の時計たちは動いている。車の音も、遠くの踏切の音もある。それでも一瞬だけ、町全体が息を止めたように思えた。
私は顔を上げた。何もない。何も見えない。
ただ、店の奥にある古い掛時計の秒針が、ほんの僅かに遅れた。
半拍にも満たない遅れ。普通なら気づかない。気づいたとしても、気のせいで済ませる程度のもの。
私は引き出しを開け、伝票の裏に時刻を書いた。
午後八時四十二分。
書いてから、しばらくその数字を見つめた。
また、何かが起きている。
そう思った。根拠はない。証拠もない。けれど、あの日の午後五時十六分と同じように、記録せずにはいられなかった。
その夜も、鈴は鳴らなかった。
翌朝。
登校途中の道で、私は金髪の少女を見た。
修道服を着た少女だった。駒王町の朝に、彼女の姿は少し目立ちすぎていた。両手で地図を握りしめ、道の端で困ったように周囲を見回している。外国人らしい顔立ち。大きな荷物。少し不安そうな目。
迷子だろうか。声をかけるべきか、と思った瞬間。
「うわっ!」
「きゃっ!」
角から飛び出してきた一誠と、少女がぶつかった。地図が宙に舞う。
一誠は慌てて少女を支え、何かを言っている。少女は驚いた顔をして、それから申し訳なさそうに頭を下げた。
私は一歩、足を止めた。
まただ。また、彼の周りに知らない誰かが増えていく。初対面。偶然。ぶつかる。困っている少女。始まり方としては、あまりに雑だ。
けれど今度は、昨日までとは違う。
その少女からは、悪意が見えなかった。少なくとも、私の目には。
一誠が落ちた地図を拾い、少女に渡す。朝の光の中で、金色の髪が揺れた。
私は少し離れた場所から、その光景を見ていた。
昼休みに空いた席は、昨日一日、最後まで埋まらなかった。
そして今、その空席の近くに、また別の誰かが立とうとしている。
見なかったことには、できない。
たぶん、もう。