夏休みに入って最初に目にした異常は、悪魔でも、堕天使でも、時間を止める神器でもなかった。
兵藤家だった。
「……ここ、ですよね」
手元の住所を確認する。間違っていない。門柱に取り付けられた表札にも、しっかりと『兵藤』と書かれている。
それでも私は、もう一度だけ目の前の建物を見上げた。
ついこの間までここに建っていたのは、ごく普通の二階建ての一軒家だったはずだ。少なくとも、私が以前訪れた時にはそうだった。
ところが今、目の前にあるのはどう見ても一軒家と呼んでいい大きさではない。横にも広いが、上にも高い。窓の数を追っていけば、少なくとも六階はある。門から玄関までにも妙な距離があり、建物だけを見ればちょっとしたホテルか何かにしか見えなかった。
「……建て替えって、一晩で終わるものなんでしょうか」
「俺に聞くな!」
門の向こうから声が飛んできた。見ると、一誠がこちらへ走ってくる。
「俺だって朝起きてびっくりしたんだよ! 昨日まで普通の家だったんだからな!」
「やっぱり昨日までは普通だったんですね」
「そこ疑ってたのかよ!」
少しだけ。悪魔と関わるようになってから、私の中で『普通』の基準はかなり怪しくなっている。とはいえ、さすがに一晩で六階建ての家が出現するのは普通ではないと思う。
「地下も三階あるらしいぞ」
「増えてるじゃないですか」
「俺に言うなって!」
一誠は頭を抱えた。
事情を聞けば、一誠のご両親には、リアス先輩のお父様が建築関係の仕事をしていて、モデルハウスとして家を改築した――という説明になっているらしい。
本当に建築関係の仕事をしているのかは知らない。たぶん、少なくとも今回の改築を説明するための話なのだと思う。
何しろ、リアス先輩の家は悪魔の名門だ。
地上六階、地下三階の建物が一晩で完成している時点で、人間界の建築会社の仕事として考える方が無理があった。
私は玄関へ向かいながら、改めて巨大な建物を見上げた。
「一誠のご両親が納得しているなら、もうそれでいい気もしてきました」
「俺もそう思う」
少なくとも、私が考えても元の家には戻らない。なので、考えるのをやめた。
*
一誠の部屋も、以前とは比較にならないほど広くなっていた。というより、部屋というよりちょっとしたリビングに近い。
そこにオカルト研究部の皆さんが集まっていた。夏休みということもあって、皆さん普段よりも随分と気楽な格好をしている。リアス先輩を中心に、朱乃さん、祐斗、小猫さん、アーシアさん、ゼノヴィア、ギャスパーくん。そして私と一誠。
全員が揃ったところで、リアス先輩が口を開いた。
「せっかくの夏休みだけど、今年は少し長く冥界へ行くことになるわ」
一誠たちにとっても初耳だったらしく、何人かが顔を上げる。
「私の実家――グレモリー領へ帰省するの。もちろん、眷属のみんなも一緒よ」
そこから説明された予定は、私が思っていたより本格的なものだった。グレモリー家への帰省。リアス先輩のご両親への正式な挨拶。冥界で開かれる若手悪魔たちの集まり。そして、その後には今後のレーティングゲームなども見据えた修行。戻ってくるのは夏休みの終盤になるらしい。アザゼル先生も冥界へ向かい、途中までは一緒だという。
「ミライも来る?」
リアス先輩がこちらを見る。
「眷属ではないから強制するつもりはないけれど、せっかく正式な部員になったんだもの。グレモリー領を見ておくのも悪くないと思うわ」
「行きたいです」
それ自体には迷わなかった。冥界を自分の目で見てみたい。何より、皆さんが長期間向こうにいるのなら、私だけ人間界に残り続ける理由もない。
ただ、一つ問題があった。
「ただ……皆さんより少し遅れて行ってもいいでしょうか」
「遅れて?」
「はい。夏休みに入る前から予定をいくつか入れてしまっていて」
指折り数える。
「時計の出張修理が何件かあります。それと、お店の仕事もありますし……普通自動二輪免許の教習も予約しています」
「普通自動二輪?」
一誠が反応した。
「はい。バイクの免許です」
「……待て」
声が低くなった。何かを思い出した顔をしている。
「どうしました?」
「お前、聖剣の時に普通にバイク乗ってたよな?」
ああ。その話ですか。
「乗りましたね」
「あれ、免許は?」
「持っていませんでした」
「やっぱり無免許だったのかよ!」
一誠が立ち上がった。隣では小猫さんもこちらを見ている。
「あの時、私も言いました」
「はい」
「無免許運転です、と」
「覚えています」
「覚えてて走っていったのかよ!?」
「捜索を優先しましたので」
「だからその理屈が通らねえって、あの時も言っただろ!」
そうだっただろうか。確かに背後から何か叫ばれていた記憶はある。
「ですから、今度はちゃんと取得しておこうと思いまして」
「反省の方向が妙に実務的なんだよ!」
でも、免許を取得すれば次からは問題ない。少なくとも免許に関しては。
ゼノヴィアが不思議そうに首を傾げた。
「ミライは二輪車に詳しいのか?」
「いいえ。ほとんど何も知りません」
「……では、あの時どうやって運転したんだ?」
一誠まで妙な顔をする。
「ライドベンダーに触れた時、動かし方が分かったんです」
「それだけ?」
「それだけです」
「怖ぇよ……」
なぜか一誠が引いていた。私としても、どこから知識が来たのか分かっていないので、その反応を完全に否定はできない。
「まあ、事情は分かったわ」
リアス先輩が笑いながら話を戻した。
「なら、無理に私たちと同じ日に来なくてもいいわよ。予定を全部済ませてからいらっしゃい」
「ありがとうございます」
「人間界での用事が終わったら電話して。いつでもこちらから迎えを寄越すから」
「分かりました。その時はお願いします」
これで問題はなくなった。私は人間界で予定を済ませる。終わったらリアス先輩に連絡する。グレモリー家から迎えを出してもらい、冥界へ向かう。少し遅れて合流するだけだ。
その時の私は、本当にそう考えていた。
*
数日後。一誠たちが冥界へ向かう日、私は最寄りの駅まで見送りに来ていた。
「ミライさん、本当に後から来てくださるんですよね?」
アーシアさんが少し心配そうにこちらを見る。
「はい。予定を済ませたら、リアス先輩に連絡します」
「約束ですよ?」
「約束です」
そう答えると、ようやくアーシアさんが笑った。
「先に向こうで待ってるからな」
一誠が荷物を持ち直しながら言う。
「遅れてきたら、冥界案内してやるよ」
「一誠が案内される側でしょう」
祐斗が笑う。
「うっせえな! 着いたら覚えればいいんだよ!」
「一誠が迷子にならないことを祈っておきます」
「お前まで!?」
いつもの調子だった。だから私も、特別な別れだとは思わなかった。
「じゃあね、ミライ」
リアス先輩が最後に振り返る。
「急がなくていいわ。用事が終わったら連絡をちょうだい」
「はい。行ってらっしゃい」
皆さんを見送る。人混みの中へ姿が消えるまで立ってから、私は駅を出た。
今日からしばらく、皆さんはいない。そう考えると少しだけ静かになるような気がした。
――もっとも。
「おせえぞミライ! 昼飯どうすんだ!」
時計店へ戻った途端、モモタロスの声が飛んできたので、その考えはすぐに訂正することになった。静かになる予定は、どうやらなかった。
*
教習所で最初に分かったのは、私はバイクに乗れるわけではなかった、ということだった。
「はい。まず車体起こしてみようか」
「はい」
横に停められた教習車を見る。聖剣の時に使ったライドベンダーとは違う。当然だ。普通のバイクなのだから。
問題は、触れても何も分からないことだった。ライドベンダーに触れた時には、スロットルをどう扱えばいいか、どこを操作すれば走るのか、まるで最初から知っていたように理解できた。今回は何もない。
クラッチ。ブレーキ。ギア。それぞれの役割から説明を受け、本当に一から覚えていく。少し新鮮だった。
時計なら蓋を開ければ、ある程度は構造を追える。けれどバイクは、構造を理解しただけで乗れるものではなかった。
「じゃあ発進してみよう」
「分かりました」
言われた通りに操作する。少し進んで。
エンジンが止まった。
「……止まりました」
「最初はそんなもんだから」
教官は笑っていた。私は止まった車体を見下ろす。聖剣の時には、こんなことはなかった。あの時は、本当にライドベンダーが必要なことを教えてくれていたのだろう。
逆に言えば。私はあの時、バイクを運転できていたのではない。ライドベンダーを動かせていただけだった。そこには、思っていた以上の違いがあった。
*
夏の日々は、思ったより早く過ぎていった。
午前中に教習所へ行き、午後は時計店。出張依頼が入っていれば工具箱を持って外へ出る。夜になれば、地下に置かれたデンライナーの細かな補修を進める。
中枢機関そのものは、もう以前の段階で修復を終えていた。時間を走るための根幹部分も、動力系も問題ない。残っているのは、細かな配線や一部の補助設備、壊れた内装、接触の悪いパネル類。それから、走らせる前に確認しておきたい細部だった。
本気で取り組めば、数日もかからず終わる。だから急いではいなかった。時計の仕事を放り出す理由もなければ、予約していた教習を後回しにする理由もない。
「それ、先に全部終わらせちまえばいいんじゃねえの?」
地下で作業していると、モモタロスがそう言ったことがある。
「仕事がありますので」
「ちょっとくらい後でもいいだろ」
「よくありません」
「真面目か!」
「時計屋ですから」
「時計屋ってそういう意味か?」
たぶん違う。
*
出張修理の依頼先は、町の外れにある古い一軒家だった。
「こちらなんです」
依頼人に案内され、居間の隅に置かれた時計を見上げる。私よりずっと背が高い、大きな古時計だった。木製のケースには細かな傷があり、色もところどころ薄くなっている。新品のような綺麗さはない。けれど、雑に扱われてきた時計ではないことはすぐに分かった。
「家族の形見なんです」
依頼人がそう言った。
「ずっと動いていたんですが、少し前から遅れるようになって……とうとう止まってしまって」
「分かりました。中を見てもいいですか?」
「お願いします」
前面を開ける。振り子。重錘。歯車。長い時間を働いてきた機械の内部には、それだけの痕跡が残っていた。古い油。汚れ。摩耗。少しだけ歪んだ箇所もある。でも、駄目になっているわけではない。
「直りますか?」
後ろから、不安そうな声が聞こえた。私はもう一度内部を確認した。
「はい」
工具箱を開く。
「まだ直せます」
部品を外す。一つずつ状態を確かめる。使えるものは使う。直せるものは直す。交換しなければならない部分だけを交換する。
全部を新しくしてしまえば、それは確かに綺麗になるのかもしれない。でも、この時計を別の時計にするために呼ばれたわけではない。今までこの家で時を刻んできたものを、もう一度動かすために来た。
そうして作業を続けた。しばらくして、止まっていた振り子が再び一定の幅で動き始める。
カチ。カチ。
静かな部屋の中に、規則正しい音が戻ってきた。
「……動いた」
後ろで小さな声がした。私は時刻のずれを確認しながら、最後の調整をする。
「しばらく様子を見てください。もし大きく遅れたり、また止まったりしたら連絡をお願いします」
「ありがとうございます。本当に……」
何度も頭を下げられた。私は工具を片付けながら、もう一度だけ時計を見る。
古い。傷もある。新品より性能がいいわけでもない。それでも、ここにあることに意味がある。そういうものを直せるのは、少し嬉しかった。
*
教習も少しずつ進んだ。最初の頃は操作するだけで精一杯だったが、慣れてくると別の難しさが見えてくる。特に低速だった。
「下見すぎ。もっと先」
一本橋の途中で教官から声が飛ぶ。私は視線を上げる。
「手元じゃなくて、進みたい方を見る」
「はい」
言われた通り前を見る。車体が少し安定した。
機械を操作するなら、細かい部分を見る。それは私にとって当たり前だった。でもバイクでは、自分自身もその機械と一緒に動いている。手だけでは足りない。身体も、視線も、重心も使う。
面倒だと思うより先に、面白いと思った。聖剣の夜には知る余裕もなかった感覚だった。
*
「受かった?」
「受かりました」
時計店に戻ってそう答えると、リュウタロスが真っ先に寄ってきた。
「じゃあバイク乗れるの?」
「乗れますよ」
「どこ?」
「何がですか?」
「バイク」
「持ってません」
「え?」
リュウタロスが首を傾げる。その後ろで、モモタロスが露骨に顔をしかめた。
「お前、免許だけ取ったのかよ!」
「はい」
「なんでだよ!」
「免許を持っていなければ、バイクを買っても乗れませんから」
「先にバイク決めるとかあるだろ!」
「今のところ欲しい車種も分かりません」
「本当に何も知らねえじゃねえか!」
それは最初から言っている。
ウラタロスが横から口を挟んだ。
「まあまあ。これから探せばいいんじゃない? ミライちゃんに似合うのをさ」
「僕も乗る!」
「二人乗りできるものなら考えます」
「やった!」
「まだ買うとも言っていません」
相変わらず騒がしかった。そんな会話をしながら夕食を食べて、翌朝になればまた店を開ける。暑い日はアイスを買った。近所の夏祭りを覗いた日もあった。リュウタロスが屋台ではしゃぎすぎて、私は何度か謝ることになった。
教習所へ行って。時計を直して。店番をして。時々地下へ降りて、デンライナーを触る。そんなふうに、私の夏休みは過ぎていった。
*
八月二十日。
夏休みに入る前に予定していたことは、ほとんど終わっていた。二輪免許は取った。頼まれていた出張修理も終わった。店の仕事にも大きな予定は残っていない。そしてデンライナーも、あと少しだった。
「……今日中に終わりますね」
地下で作業箇所を確認する。残っている項目は多くない。ここまで来れば、先延ばしにする理由もなかった。
工具を広げる。配線を一本ずつ確認し、交換していたパネルを戻す。接触の悪かった端子を調整する。車内設備を順番に動かし、不具合がないことを確かめる。
最後に残っていた箇所へ手を入れた頃には、思っていたより時間が経っていた。
「ミライー、まだー?」
どこかからリュウタロスの声がする。
「もう少しです」
「さっきもそれ言ってたぞ!」
「今度は本当にもう少しです」
「信用ならねえ!」
モモタロスの声まで混ざる。私は返事をせず、最後の確認を続けた。
中枢機関。正常。
走行系。正常。
時間移動系。正常。
車内設備。問題なし。
補助系統。問題なし。
一つずつ確認して、チェックを入れる。最後の一項目。そこにも印をつけた。
私はしばらく紙を見つめた。もう残っていない。
工具を置き、立ち上がる。いつの間にか、モモタロスたちも近くまで来ていた。
「……終わったのか?」
モモタロスが聞く。
私は車内を見渡す。最初に見た時には、あちこちが壊れ、まともに走ることもできなかった列車。今は違う。灯りは点いている。機器は動いている。必要なら、いつでも走り出せる。
私は小さく頷いた。
「はい」
工具箱の蓋を閉じる。
「ゴウカ、イスルギ、レッコウ、イカヅチ――」
もう一度、直し終えた車両を見渡す。
「デンライナーの修理、これで全部終わりました。」
今後の更新について、最も近い希望を教えてください
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このまま続けてほしい
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短く休んでから再開してほしい
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不定期でも続けてほしい
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今回で一区切りでもよい
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作者の判断に任せたい