止まった針は時の終わりに未来を見る   作:ドレットノータス

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第36刻 見習いメイド、始めました

シトリー眷属とのレーティングゲームに向けた修行が始まる日、本邸は朝からいつもとは少し違う空気に包まれていた。

 

 もっとも、使用人の人たちが慌ただしく走り回っているわけではない。廊下を行き交う人たちは普段と変わらず落ち着いていて、必要な荷物を運び、短い言葉を交わしながら、それぞれの仕事を滞りなく進めている。

 落ち着かなかったのは、むしろ私たちの方だった。

 もうすぐ行われる、リアス先輩たちとシトリー先輩たちのレーティングゲーム。そのための修行が今日から本格的に始まることになっていて、リアス先輩は本邸に残るものの、他の皆さんはそれぞれ自分に必要な修行をするため、朝から別々の場所へ向かう準備をしていた。

 一誠は山へ。

 裕斗も山へ。

 ゼノヴィアも山へ。

 ただし三人が同じ場所で修行するわけではなく、それぞれ別の山へ向かうらしい。朱乃先輩やアーシアさん、小猫さんも同じで、修行の内容も場所も違うため、朝食を終える頃には一人、また一人と本邸を出ていった。

 

「じゃあな、ミライ! 次に会った時は驚くくらい強くなってるからな!」

 

 出発前から妙に自信満々な一誠に、私は笑って頷いた。

 

「うん。楽しみにしてる」

 

「おう!」

 

 大きく手を振りながら歩いていく一誠の少し先では、裕斗がこちらに気づいて軽く手を上げ、ゼノヴィアも振り返って一度だけ頷いてから、それぞれの目的地へ向かっていく。

 皆の姿が見えなくなるまで見送ってから本邸へ戻ると、さっきまであれだけ人がいたせいなのか、広い屋敷が急に静かになったように感じられた。

 私は今回のレーティングゲームには出場しないため、リアス先輩が皆のために用意した修行計画にも入っていない。

 だからといって特に困ることもなく、皆が戻ってくるまで時計でも触っていようか、それともせっかく冥界まで来ているのだから屋敷の中をもう少し見て回ろうかと考えながら廊下を歩いていると、その先に見慣れた銀色の髪が見えた。

 

「そちらの客室は午後から使用いたしますので、その前に換気をお願いします。リネン類は昨日届いたものをお使いください」

 

「かしこまりました」

 

「お嬢さまのお茶はいつもの時間に。今日は執務がございますので、お部屋までお持ちしてください」

 

「はい」

 

 グレイフィアさんだった。

 何人かの使用人へ次々と指示を出しているのだけれど、声を荒らげることもなければ、長々と説明することもない。それでも指示を受けた人たちは迷うことなくそれぞれの仕事へ向かい、グレイフィアさん自身も立ち止まったまま監督するのではなく、廊下を進みながら次の仕事を確認していた。

 途中で別の使用人から声をかけられると、足を止めて話を聞き、必要なことを伝えてから再び歩き始める。

 私は、そんなグレイフィアさんの後ろ姿を何となく眺めていた。

 銀色の長い髪に、綺麗に整えられたメイド服。そして、次から次へと仕事が舞い込んでいるはずなのに、慌てた様子を見せない無駄のない動き。

 それを見ているうちに、頭の中へまったく別の少女の姿が浮かんできた。

 

『ぱんぱかぱーん! アリスはメイド勇者にジョブチェンジしました!』

 

「…………」

 

 長い髪を一つにまとめ、普段とは違うメイド服を着たアリス。

 確か、仕事のためにゲーム開発部のみんなと一緒にメイド姿になった時のものだったと思う。メイドそのものには苦手意識が残っていたはずなのに、そこはアリスらしく新しい職業へ変わったのだと考えて、自分は『メイド勇者』へジョブチェンジしたのだと言っていた。

 そして、その手には大きなモップ。

 

「……メイド勇者」

 

 思わず呟いてから、もう一度グレイフィアさんを見る。

 アリスとは随分違うけれど、目の前にいるのは本物のメイドだ。それも、私が知っている人の中では間違いなく一流と呼べる人で、そんな人から直接教えてもらえる機会なんて、これを逃したら二度とないかもしれない。

 皆は今日から修行。

 私は特に予定がない。

 そして目の前には、グレイフィアさんがいる。

 そこまで考えたところで、答えはほとんど決まっていた。

 

 ――やってみたい。

 

     ◇

 

「私に、メイドの仕事を教えていただけませんか?」

 

 仕事が一区切りついたところを見計らって声をかけると、グレイフィアさんは珍しく目を瞬かせた。

 

「……メイドの仕事を、ですか?」

 

「はい」

 

「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 

「少し、憧れがありまして」

 

「憧れ、ですか」

 

「知っている女の子が、メイドをしていたことがあるんです。それを思い出したら、私も一度やってみたくなりました」

 

 嘘は言っていない。

 その女の子が別の世界の物語に登場するアリスだということまで説明すると余計に話が長くなりそうだったので、そこまでは言わなかった。

 グレイフィアさんは私の顔をしばらく見ていたけれど、やがて静かに頷いた。

 

「構いません。ただし、お教えする以上は遊びではありません。それでもよろしいですか?」

 

「はい。お願いします」

 

 答えに迷いはなかった。

 最初のきっかけがアリスだったとしても、グレイフィアさんに教えてもらう以上、中途半端にやって終わるつもりはない。

 

「承知しました。それでは、明日の朝から始めましょう」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

 こうして、皆が戦うための修行を始めたその日。

 私は一人だけ、メイドの修行を始めることになった。

 

     ◇

 

 その日のうちに採寸を受け、どんな服がいいのかと聞かれた私は、記憶に残っているアリスのメイド服を参考にしながら、大まかな希望を伝えた。

 もちろん、まったく同じものを一から作ってもらったわけではない。本邸に用意されていたメイド服の中から体格の近いものを選び、それを私に合わせて仕立て直してもらったのだけれど、それでも翌朝、鏡の前に立った私の姿は普段とは随分違っていた。

 黒を基調としたメイド服に、白いエプロン。

 髪も普段の編み込みはそのまま残しながら、長く伸びた部分を後ろで一つにまとめている。

 正面から確認してから身体を横へ向け、さらに首を回して後ろも確かめてみる。

 

「……かなり、それっぽいですね」

 

 思っていた以上に気に入った。

 アリスもメイド服を着た時はこんな気分だったのだろうか、と一瞬考えたものの、確かあちらはメイド勇者へジョブチェンジしたせいでレベルが一に戻ったとか言って、普段より随分弱気になっていた気がする。

 それを思い出すと、少しおかしかった。

 

「ミライさん。準備はよろしいでしょうか?」

 

「あ、はい」

 

 扉の向こうからグレイフィアさんの声が聞こえ、私は慌てて鏡から離れた。

 最初に教えられたのは、掃除だった。

 もちろん、掃除そのものをしたことがないわけではない。時計店でも掃除はしていたし、自分の部屋くらいなら普通に片づけられる。

 けれど、グレモリー本邸ほど大きな屋敷を、そこで暮らす人や訪れる客のことまで考えながら整える方法となれば話は別だった。

 

「まずは上から下へ進めてください。先に床を整えても、その後で埃を落としてしまえば二度手間になります」

 

「はい」

 

「こちらの調度品は、動かす前に位置を覚えておいてください。元に戻したつもりでも、わずかに位置が違えば部屋全体の印象が変わることがあります」

 

 グレイフィアさんは説明だけで終わらせず、一度自分でやって見せてくれたので、私はその手元をじっと観察した。

 布の持ち方、家具に触れる時の力加減、装飾品を動かす順序、傷をつけずに汚れを取る方法、そして動かしたものを正確に元の位置へ戻すまでの一連の動き。

 見ているうちに、少しだけ時計に似ていると思った。

 扱っているものの大きさも目的もまったく違うけれど、順序を間違えないこと、細かな場所まで確認すること、必要以上の力を加えないこと、そして元の状態をきちんと覚えておくことは同じだった。

 

「では、お願いします」

 

「はい」

 

 最初はゆっくりと、グレイフィアさんが見せてくれた通りに進める。

 装飾品を一つ持ち上げ、その下に残っていた埃を拭き取ってから元の位置へ戻し、今度は銀器の細かな溝に残っていた汚れを見つけて、布の端を使いながら丁寧に落としていく。

 時計の内部に入り込んだ汚れを探すことに比べれば、これくらいならずっと見つけやすい。

 しばらく作業を続けていると、離れたところからグレイフィアさんがこちらを見ていることに気づいた。

 

「何か間違っていましたか?」

 

「いいえ。初めてとは思えないほど丁寧ですね」

 

「こういう細かい作業には慣れていますから」

 

「そうなのですか?」

 

「時計より大きいので、かなりやりやすいです」

 

「……そうですか」

 

 なぜか、返事まで少し間があった。

 その後も掃除を続け、最後に使うことになったのがモップだった。

 長い柄を両手で持ち、教わった通りに奥から順番に床を拭いていくうちに、またメイド姿のアリスが頭をよぎる。

 

「……一緒に掃除しましょう、でしたっけ」

 

「何かおっしゃいましたか?」

 

「いえ。何でもありません」

 

 今のところ、勇者らしいことは何一つしていない。

 ただ普通に掃除をしているだけなのだけれど、それはそれで楽しかった。

 

     ◇

 

 午前中の仕事をいくつか終えた頃、本邸へ来客があった。

 玄関側から報告を受けたグレイフィアさんは、話を聞いた時点ですでに次に何をするのか決めていたらしく、すぐに応対へ向かおうとする。

 

「私も行きます」

 

 せっかく教わっているのだから何か手伝えるかもしれないと思い、反射的にそう言ったのだけれど、グレイフィアさんは足を止めずにこちらを見た。

 

「必要ありません。代わりに紅茶を一つ、五分後に客間へお願いします」

 

「紅茶、ですか?」

 

「はい。できますね?」

 

「……はい」

 

 それだけ言うと、グレイフィアさんはそのまま廊下の向こうへ消えていった。

 自分も一緒についていけば何か手伝えると思っていたけれど、必要だったのは私が客人の前へ出ることではなかったらしい。

 お客様が来たから、グレイフィアさんが応対する。

 そして、その後にはお茶が必要になる。

 言われてみれば当たり前のことなのに、私は目の前で起きたことしか見ていなかった。

 何かが起きてから動くのではなく、その後に何が必要になるのかを考えて先に準備しておく。

 グレイフィアさんが、ほとんど立ち止まることなく屋敷中の仕事を回していた理由が、ほんの少しだけ分かった気がした。

 

「……五分」

 

 私は時計を確認すると、厨房へ向かった。

 

     ◇

 

 指定された時間に間に合うよう紅茶を用意し、五分後。

 私はトレイを持って客間の前に立っていた。

 時間は間違っていない。

 グレイフィアさんから言われた通り、ちょうど五分後だった。

 だから、そのまま扉をノックしようとした。

 

「ミライさん」

 

「はい?」

 

 横から小さく呼ばれて手を止めると、いつの間に戻ってきたのか、少し離れたところにグレイフィアさんが立っていた。

 何も言わず、客間の扉へ視線を向ける。

 私もつられて耳を澄ませた。

 扉の向こうから聞こえてくるのは、低い声だった。

 内容までは分からないけれど、雑談をしているような雰囲気ではない。

 

「……まだ、入らない方がいいですか?」

 

「ええ。少々お待ちください」

 

 言われた通り、私はトレイを持ったまま廊下で待った。

 それからしばらくして会話が一区切りしたらしく、グレイフィアさんが小さく頷く。

 

「今です」

 

「はい」

 

 今度こそ扉をノックし、紅茶を運び入れた。

 仕事を終えて客間から出た後、私はグレイフィアさんのところへ戻った。

 

「時間を間違えたのでしょうか?」

 

「いいえ。時間は正確でした」

 

「では……」

 

「ですが、予定は常にその通りに進むとは限りません。五分後に、と申し上げたのは、五分経過した瞬間に何があっても入室しなさい、という意味ではありません」

 

「あ……」

 

 そこで、ようやく分かった。

 私は時計を見ていた。

 グレイフィアさんは、中にいる人を見ていた。

 

「時間通りに動くことは大切です。しかし、私たちがお仕えする相手は時計ではありません」

 

 その言葉に、私は黙って頷いた。

 

「必要とされてから動くのでは遅いこともあります。ですが、先回りすることばかりを考え、今そこにいる相手を見失ってもいけません。何が必要になるのかを考えながら、その時の状況を見ることです」

 

「……難しいですね」

 

「ええ。ですから、覚えるのです」

 

 厳しく叱られたわけではない。

 それでも、掃除で何かを見落とした時より、その言葉はずっと強く頭に残った。

 時計なら、正しく整備すれば正しく動く。

 けれど、人は違う。

 同じ時間に、同じことをすれば、それで正しいとは限らない。

 どうやらメイドの仕事は、私が思っていたよりずっと難しいらしい。

 

     ◇

 

 それから数日、私はグレイフィアさんについて、本邸の仕事を一つずつ教えてもらった。

 ベッドメイクでは、ただシーツを敷くのではなく、皺を残さず角まで揃え、次に使う人が気持ちよく休める状態まで整える。

 食器や銀器を扱う時は、傷をつけないことはもちろん、必要以上に指を触れないよう注意する。

 リネンの管理や基本的な礼儀作法、給仕の時の立ち位置や歩き方まで、覚えることは思っていた以上に多かったけれど、一度教わった手順を覚えること自体には、それほど苦労しなかった。

 ただ、最初の頃と違い、グレイフィアさんがすべてを教えてくれることは徐々に減っていった。

 ある朝、いつものように仕事を始めようとすると、グレイフィアさんから突然尋ねられた。

 

「ミライさん。今日は、どこから始めるべきだと思いますか?」

 

「え?」

 

 昨日までは、最初にする仕事を教えてもらっていた。

 今日は違う。

 私は廊下を見回し、昨日まで教わったことを思い返す。

 午後から使う客室がある。

 朝のうちなら邪魔にならない。

 なら、その前に。

 

「……客室の換気から始めます。その間にリネンを準備して、換気が終わったらベッドを整えます」

 

「理由は?」

 

「午後から使うので、今なら誰の邪魔にもならないからです」

 

 グレイフィアさんは、それ以上何も言わなかった。

 

「では、お願いします」

 

「はい」

 

 正解だったらしい。

 少しだけ嬉しくなって、私は客室へ向かった。

 

     ◇

 

 ただし、手順を覚えることと、相手に合わせることはやはり違った。

 

「手順は問題ありません」

 

 一人で淹れた紅茶を確認したグレイフィアさんがそう言ったので、私は安心しかけた。

 

「では、これで大丈夫でしょうか?」

 

「いいえ」

 

「……違うんですか?」

 

「こちらは、どなたにお出しするものですか?」

 

「リアス先輩です」

 

「仕事中は『お嬢さま』と」

 

「あ……はい。リアスお嬢さまです」

 

 まだ慣れない呼び方に違和感を覚えながら言い直すと、グレイフィアさんは小さく頷いた。

 

「でしたら、お嬢さまのお好みも考えなくてはなりません。同じ茶葉を使い、同じ手順で淹れたとしても、いつ、誰に、どのような状態でお出しするかによって最善は変わります」

 

「…………」

 

 また、同じだった。

 間違ってはいない。

 でも、それだけでは正解にならない。

 時計なら、正しく組み直せば動く。部品の位置も歯車の噛み合わせも決まっていて、正しい答えがある。

 けれど、こちらは違う。

 昨日と同じように正確にやれば、それで今日も正しいとは限らない。

 相手を見る。

 その時の状況を見る。

 そして、その次に何が必要になるのかを考える。

 最初にグレイフィアさんを見た時、どうしてあれほど多くの仕事を迷わず処理できていたのか、ようやく少しずつ分かってきた。

 

     ◇

 

 メイド修行を始めて一週間ほどが経った頃、グレイフィアさんから声をかけられて振り向いた私は、その手にあるトレイを見た。

 ティーポットとカップ、それに小さなお菓子が載っている。

 

「こちらを、お嬢さまのお部屋へお願いします」

 

「……私がですか?」

 

「はい。そろそろ実際にお任せしても問題ないでしょう」

 

 掃除なら、間違えても直せる。

 けれど、給仕には相手がいる。

 私はトレイを受け取ると、中身が揺れないよう気をつけながらリアス先輩の部屋へ向かい、扉の前で一度姿勢を整えてからノックした。

 

「どうぞ」

 

「失礼します」

 

 部屋へ入ると、リアス先輩は机に向かい、何枚もの書類へ目を通していた。

 私に気づいて顔を上げ、そのまま目を丸くする。

 

「……本当にメイドをやっているのね、ミライ」

 

「はい。修行中です」

 

「似合っているわよ」

 

「ありがとうございます」

 

 素直に嬉しかったけれど、今は仕事中だ。

 机だけではなく、まず部屋を見る。

 リアス先輩の前には書類が広げられていて、すぐ右側にはペンとインクも置かれている。そこへカップを置けば邪魔になりそうなので、反対側にある比較的空いた場所を選び、リアス先輩が無理なく手を伸ばせる距離を確かめながら、静かにカップを置いた。

 

「どうぞ」

 

「ありがとう」

 

 リアス先輩が自然にカップへ手を伸ばす。

 そこで終わりにせず、邪魔にならない程度に周囲へ目を向ける。

 特に足りないものはない。

 リアス先輩も、今は書類を読むことに集中している。

 

「それでは、失礼します」

 

 一礼して部屋を出た。

 扉を静かに閉じると、少し離れたところでグレイフィアさんが待っていた。

 

「どうでしたか?」

 

 今度は、何を聞かれているのか分かった。

 

「机の上に書類が多かったので、邪魔にならないところを選びました。お嬢さまが手を伸ばしやすい位置にも置いたつもりです。それと、他に必要そうなものがないかも確認しました」

 

 グレイフィアさんが小さく頷く。

 

「以前より、周囲を見る余裕ができましたね」

 

「はい」

 

「まだ動作に意識が向きすぎるところはありますが、初めて一人でお任せした給仕としては――及第点です」

 

「……!」

 

 直すところはまだある。

 それでも、その一言は思っていた以上に嬉しかった。

 

     ◇

 

 その日の夕方、仕事が一段落してから、私はグレイフィアさんと並んで長い廊下を歩いていた。

 本邸には夕方の光が差し込み、磨かれた床の上へ窓の形を長く伸ばしている。

 

「思っていたより、大変でした」

 

 この一週間で覚えたことを思い返しながらそう言うと、グレイフィアさんがこちらへ視線を向けた。

 

「辞めますか?」

 

「いえ」

 

 答えに迷うことはなかった。

 

「むしろ、楽しくなってきました」

 

 掃除を終えた後、綺麗になった部屋を見ること。皺一つなく整えられたベッドを見ること。自分で磨いた銀器に光が反射すること。

 昨日より上手く紅茶を淹れられたり、言われる前に次の仕事へ気づけたり、誰かが必要としていることを自分で考えられたりすること。

 一つ一つは小さなことなのに、それが昨日より上手くできるようになっていくのは、思っていた以上に気持ちがよかった。

 

「最初は、知っている女の子がやっていたからというだけだったんですけど」

 

「そうでしたね」

 

「でも、私はこういう仕事が結構好きなのかもしれません」

 

 そう言うと、グレイフィアさんはほんのわずかに目を細めた。

 笑ったのかどうかまでは、私には分からなかった。

 

「でしたら、明日からも続けましょう」

 

「はい」

 

 たったそれだけの会話だったけれど、私は嬉しかった。

 

     ◇

 

 夜、自分の部屋へ戻ってから、メイド服に汚れが残っていないことを確認し、教わった通りに皺を伸ばしてハンガーへ掛ける。

 最初は、アリスの真似だった。

 メイド勇者

 その姿を思い出して、私も一度やってみたいと思っただけだった。

 けれど、一週間続けた今は違う。

 明日は今日より上手くできるだろうか。今日気づけなかったことに、明日は自分から気づけるだろうか。

 そんなことを考えながら、明日の準備をしている自分がいる。

 

「……不思議ですね」

 

 皆は今頃、それぞれの場所で修行をしている。

 一誠も、裕斗も、ゼノヴィアも。

 朱乃先輩も、アーシアさんも、小猫さんも。

 同じレーティングゲームを前にしているのに、私は一人だけ随分違うことをしている。

 それが少しおかしくて、自然と口元が緩んだ。

 

     ◇

 

 小猫さんを見かけたのは、その翌日のことだった。

 修行先から一度本邸へ戻ってきたらしく、廊下の向こうから歩いてきた小猫さんへ声をかける。

 

「あ、小猫さん」

 

 小猫さんは私に気づくと、少し遅れて顔を上げた。

 

「……ミライ先輩」

 

 久しぶりに見る姿は、最初こそいつもと変わらないように思えたけれど、近づいてくるのを見ているうちに、普段より歩く速度が遅いことに気づいた。

 

「修行、どうですか?」

 

「……順調です」

 

「そうですか」

 

 それなら良かったと、そのまま別れようとして、足を止める。

 声にも、いつもほど力がないような気がした。

 

「……疲れていませんか?」

 

 小猫さんが、わずかに目を瞬かせた。

 

「……大丈夫です」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 返ってきたのは、いつもと同じ短い言葉だった。

 皆、レーティングゲームに向けて修行しているのだから、多少疲れているのは当然なのかもしれない。私だって一日中本邸の仕事を手伝った日は、部屋へ戻る頃には身体が重くなっている。

 だから、それ以上は聞かなかった。

 

「無理はしないでくださいね」

 

「……はい」

 

 小猫さんは小さく頷くと、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。

 私はその後ろ姿をしばらく見送っていたけれど、やがてグレイフィアさんに呼ばれ、いつものように仕事へ戻った。

 この時は、それで十分だと思っていた。

 




メイドミライ  イメージイラスト
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