金髪のシスターが、角から飛び出してきた一誠とぶつかった。
地図が宙に舞い、白い布が朝の光の中で揺れる。慌てて手を伸ばした一誠が彼女を支え、彼女は何度も頭を下げていた。
それを見た時、私は一歩だけ足を止めた。
修道服。外国人。迷子らしい地図。困ったような表情。駒王町では、少し目立つ姿だった。
けれど、それだけだ。
初対面の少女とぶつかる。道を聞かれる。そういう偶然は、物語でなくても起こる。すべての出来事を疑っていたら、登校するだけで日が暮れる。
だから私は、落ちた地図を拾って渡す一誠の姿を横目に、そのまま学校へ向かった。
あの時は、まだそう思っていた。
あの少女がまた一誠の周りに現れるとは思っていなかったし、私自身が彼女の笑顔を記憶することになるとも思っていなかった。
数日後の放課後、私はゲームセンターにいた。
店を開けるまで少しだけ時間があった。仕入れも終わっている。急ぎの修理も、今日はない。そういう時、私はたまにここへ来る。
別に、遊んでいるわけではない。
いや、遊んではいる。そこを否定すると、たぶん話がややこしくなる。
画面の中で、小さな自機が弾幕の隙間を抜けていく。右へ二ドット。停止。左下へ斜め入力。弾が通り過ぎた瞬間に回収。倍率維持。ボムは使わない。三面中盤まではノーミスが前提。四面ボス第二形態で安全を取るか得点を取りに行くかは、残機とスコア次第。
音が大きい。光も多い。人の声も、電子音も、景品機のアームが動く音も、全部が入り混じっている。時計屋の店内とは、まるで逆の場所だ。
けれど、嫌いではない。
規則がある。攻略がある。失敗には理由がある。成功にも理由がある。偶然のように見える弾の列にも、発生位置と速度と周期がある。分かれば、避けられる。分かれば、進める。ゲームとは、そういうものだ。
自機が最後の弾幕を抜け、ボスが爆発する。リザルト画面が表示された。
ハイスコア更新。ただし、一位ではない。
「……二千七百点不足」
許容できない差ではない。次回で詰められる。三面の回収を少し変えれば届く。もしくは四面の安全策を一つ削る。
筐体の前で再投入用の硬貨を取り出したところで、背後から聞き慣れた声がした。
「……ミライ?」
振り返る。兵藤一誠が、なぜか金髪のシスターを連れて立っていた。数日前、朝の道でぶつかっていた少女だった。
「兵藤一誠」
「いや、なんでおまえがここにいるんだよ」
「正規の利用者です。ゲームセンターにいてはいけない理由がありません」
「それはそうだけどさ……おまえ、ゲーセン来るんだな」
「来ます。ゲームは趣味です」
「意外すぎる……」
「失礼ですね。私は娯楽を理解しています」
「その言い方がもう娯楽を理解してなさそうなんだよ」
失礼な評価だった。
私は反論しようとして、隣に立つシスターと目が合った。青い目だった。どこか不安そうで、それでもこちらを見た瞬間に、ぱっと明るくなるような目。
「あ、あの……先日は、道で……」
「覚えています。地図を落としていた方ですね」
「はい。あの時は、ありがとうございました」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「アーシア・アルジェントと申します」
「天童ミライです」
「ミライさん、ですね」
彼女は嬉しそうに名前を繰り返した。それだけのことなのに、少し調子が狂った。
名前を確認する声に、妙な含みがない。探るようでもない。媚びるようでもない。ただ、覚えようとしているだけの声だった。
夕麻という少女について、私は一誠から聞いただけだ。顔も声も知らない。けれど、その話には最初から、どこか作られたような綺麗さがあった。
目の前の少女は違った。綺麗というより、危うい。よくできた演技ではなく、すぐに傷つきそうな素直さが、そのまま歩いているように見えた。
「ミライさんは、この機械がお得意なのですか?」
アーシアさんは、私がプレイしていた筐体を見上げた。
「得意というほどではありません。まだ一位を取れていませんので」
「でも、すごかったです。小さな船が、たくさんの光を避けていて……まるで踊っているみたいでした」
「敵弾には規則性があります。怖がらずに見ることです」
「怖がらずに、見る……」
「はい。大抵のものは、見ない方が怖いです」
「……すごいです」
アーシアさんは、そう言って微笑んだ。
そこで、私は言葉を失った。
笑顔には種類がある。相手を動かすための笑顔。相手を安心させるための笑顔。相手に許してもらうための笑顔。そして、たぶん、何も求めずに向けられる笑顔。
彼女の笑みは、最後のものに近かった。
聖母の微笑。
そんな言葉が不意に浮かんで、私は内心で首を傾げた。私の中のどの棚から出てきた表現なのか分からない。祈った記憶も、祈られた記憶もないのに。
「……どうかしましたか?」
「いえ。何でもありません」
一誠が横から覗き込んできた。
「なあ、ミライ。これ、アーシアでもできる?」
「初心者向けではありません。初めてなら、あちらのレースゲームか、リズムゲームの低難度を推奨します」
「おお、なんか先生っぽい」
「私は筐体破壊を未然に防いでいるだけです」
「壊さねえよ!」
「あなたはテンションでハンドルを引き抜きかねません」
「俺への信用どうなってんだよ!」
結局、アーシアさんは一誠と一緒にレースゲームをした。結果は、コースアウト多数。逆走一回。ゴール手前で壁に衝突。
それでも彼女は、ひどく楽しそうだった。
「すごいです、一誠さん! 車がこんなに速く!」
「いや、アーシア、ブレーキ! ブレーキ踏めって!」
「ぶれーき……あっ」
「壁ぇぇぇ!」
画面の中で車が派手に跳ねた。
私は隣の筐体にもたれながら、それを見ていた。騒がしい。効率は悪い。得点も順位も、見るべきところは何もない。
けれど、楽しそうだった。
ゲームの正しい遊び方が一つではないことくらい、私にも分かる。分かる、はずだ。
その後、一誠はアーシアさんをクレーンゲームへ連れていき、よく分からないぬいぐるみに挑戦して失敗し、格闘ゲームでは初見のアーシアさんに操作説明をしようとして自分もよく分かっていないことを露呈した。
私は必要最低限の助言だけした。
ただし、クレーンゲームについては一度だけ手を出した。
「アームの力が弱いです。正面から持ち上げるのではなく、倒してずらす方が成功率が上がります」
「お、おお」
「一回だけ見せます」
硬貨を入れ、アームを動かす。景品の重心と爪の角度を見て、ほんの少し奥を狙う。持ち上げるのではなく、押して、転がす。
ぬいぐるみが落ちた。
「すごいです、ミライさん!」
「確率と位置取りの問題です」
「おまえ、ゲーセンでも職人みたいな遊び方するのな……」
「遊び方に貴賤はありません」
アーシアさんは受け取ったぬいぐるみを、大事そうに抱えた。
「ありがとうございます。宝物にします」
「……そこまでの物ではありません」
「でも、ミライさんが取ってくださったものですから」
また、あの笑顔。
困る。こういう善意は、扱い方が分からない。機械なら分解できる。故障なら原因を探れる。けれど、まっすぐ向けられる感謝は、どこを持てばいいのか分からない。
私は少し目を逸らした。
「落とさないようにしてください」
「はい!」
ゲームセンターを出る頃には、夕方の光が少し柔らかくなっていた。
「この後、公園寄ってかねえ?」
一誠がそう言った。
「公園、ですか?」
「うん。ちょっと休憩。ゲーセンって結構疲れるだろ」
「はい。でも、とても楽しかったです」
アーシアさんはぬいぐるみを抱えたまま頷いた。一誠がこちらを見る。
「ミライも来る?」
「私は店が」
と言いかけて、時計を見る。開店まで、まだ少しある。
断る理由はあった。店の準備。修理の確認。帳簿。断らない理由もあった。目の前の少女が、嬉しそうにこちらを見ていた。
「……少しだけなら」
「やった!」
「なぜあなたが喜ぶのですか」
「いや、なんとなく」
三人で公園へ向かった。
数日前、一誠が死ぬ夢を見たと言った公園とは別の場所だった。昼間は子どもが多いが、夕方になると少し静かになる。ベンチがあり、噴水があり、木陰がある。
普通の公園だ。
普通という言葉を、最近の私は少し疑いながら使うようになっている。
ベンチに座ると、一誠が自動販売機で飲み物を買ってきた。
「ほい、アーシア。ミライはお茶でいいよな」
「はい」
「判断が早いですね」
「おまえ、炭酸あんま飲まないだろ」
「……よく覚えていますね」
「そりゃ友達だし」
さらっと言われた。私は返答に困り、ペットボトルの蓋を開ける作業に集中した。
アーシアさんは、そのやり取りをにこにこと見ていた。
「一誠さんとミライさんは、仲が良いのですね」
「まあ、昔からな」
「腐れ縁です」
「そこは幼馴染とか友達とか言えよ!」
「幼馴染というには出会った時期が遅いです。友達については……否定していません」
「ややこしいな!」
アーシアさんが笑った。声を上げるような笑いではない。小さく、嬉しそうに、胸の奥からこぼれるような笑いだった。
それから、彼女は少しだけ俯いた。
「私は、そういう方がいなかったので……少し、羨ましいです」
一誠の表情が変わった。私も、ペットボトルを持つ手を止めた。
「アーシア」
「すみません。暗い話をするつもりではなかったのですが」
「いや、聞かせてくれよ。嫌じゃなければ」
アーシアさんは迷ったように指先を合わせた。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。
孤児だったこと。八歳の頃に、不思議な力が目覚めたこと。傷ついた人を癒やせる力だと分かり、大きな教会に連れていかれたこと。それからずっと、たくさんの人を治してきたこと。誰かの痛みが消えるたび、誰かが感謝してくれるたび、自分はここにいていいのだと思えたこと。
けれど、ある日。
教会の前に倒れていた男を治療した。助けを求めているように見えたから。放っておけなかったから。後になって、その男が悪魔だったと知らされた。それが理由で、彼女は教会から追放された。魔女と呼ばれた。異端だとされた。そして、駒王町へ来た。
話している間、アーシアさんは誰かを恨むような顔をしなかった。そこが、かえって痛かった。
「悪魔でも、怪我をしていたら痛いと思います」
彼女は静かに言った。
「苦しそうにしている人を見たら、助けたいと思ってしまいます。……それは、いけないことだったのでしょうか」
救えるなら、救う。
彼女はそれを、あまりにもまっすぐに言った。
私には、それが少し怖かった。
簡単だからではない。軽いからでもない。それが、たぶん本当に優しさだったからだ。
救えるかもしれない力を持ちながら、その力を恐れて使わない私には、彼女の言葉が眩しすぎた。
答えは簡単なはずだった。いけないことではない、と言えばいい。
けれど、その言葉を一番早く出したのは、私ではなかった。
「いけなくなんかねえよ」
一誠だった。彼は真っ直ぐにアーシアさんを見ていた。
「困ってる奴を助けるのは、普通だろ。相手が何だとか、そんなの関係ねえよ」
「一誠さん……」
「それにさ」
一誠は少し照れたように鼻の下をこすった。
「友達がいなかったって言ったけど、もういるだろ」
「え?」
「俺。もう友達だろ、俺たち」
その言葉は、驚くほど迷いがなかった。
普段の一誠は、正直、評価に困る。欲望に素直で、騒がしくて、計画性がなくて、目覚まし時計の趣味も最悪だ。けれど、誰かが本当に困っている時、この男はなぜか一番間違えてはいけない場所だけは間違えない。
アーシアさんの目に、涙が浮かんだ。
「……はい」
彼女は笑った。涙を浮かべたまま、それでも嬉しそうに笑った。
「はい。一誠さんは、私の友達です」
その笑顔を見て、私は胸の奥が少し詰まるような感覚を覚えた。
聖母の微笑。さっき浮かんだ言葉が、また戻ってくる。
けれど、今度は少し違っていた。
これは聖女の顔ではない。誰かを許すための顔でも、救うための顔でもない。
友達ができて、ただ嬉しそうにしている少女の顔だ。
アーシアさんがこちらを見る。
「ミライさんも……その、よろしければ」
言葉に迷っている。拒まれるかもしれないと思っている顔だった。
まったく。どうしてこの子は、そんなところで不安そうになるのだろう。
「……異議はありません」
「そこは友達って言ってやれよ!」
「言葉の形式より、合意の有無が重要です」
「重要だけどさぁ!」
アーシアさんは、目元を拭いながら笑った。
「ありがとうございます、ミライさん」
「……はい」
返事が少し遅れた。別に、照れたわけではない。ただ、どう返せばいいのか、ほんの少し判断に迷っただけだ。
その時だった。
公園の空気が変わった。
音が消えたわけではない。噴水の水音も、遠くの車の音も、木の葉が揺れる音もある。それでも、何かが一枚、薄く張られたような感覚があった。
私は顔を上げた。
右手の奥が、微かに熱を持った。何かを作れる。何かを構えられる。そういう感覚が、胸の奥の棚から勝手に滑り落ちてくる。
けれど、まだ形にはならない。形にしてはいけない、とも思った。
アーシアさんの肩が、小さく震えた。一誠の表情も変わる。
その視線の先に、女が立っていた。
黒い翼。夜のような衣。人間のものではない気配。
顔も、声も、私は知らない。けれど、その女が微笑んだ瞬間、隣の一誠から熱が引いたように見えた。
「楽しそうね、アーシア」
軽い声だった。場違いなほど、軽い声。
アーシアさんは、ぬいぐるみを抱きしめる手に力を込めた。
「レイナーレ様……」
レイナーレ。知らない名だ。
けれど、一誠の唇が、別の名を零した。
「……夕麻、ちゃん」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが噛み合った。
天野夕麻。
私が知っているのは、一誠から聞いた話だけだ。顔も知らない。声も知らない。笑い方も、歩き方も、何一つ知らない。
それでも分かる。
この女が、彼の数日間を奪った。彼の記録を消した。彼を一度、死なせた。
女は、天使のようには笑わなかった。
ただ、最初からそうであったかのように、冷たく微笑んだ。