翌朝、指定された訓練場へ向かう途中で、私は何度か右手を開いたり閉じたりしながら、昨日グレイフィアさんへ頼んだことを思い返していた。
自分に戦い方を教えてほしい。
それも、メイドとしてではなく、魔王サーゼクス・ルシファーの《女王》として指南してもらうことになった。
自分から言い出したことなのだから今さら怖気づくつもりはないけれど、相手が誰なのかを改めて考えると、さすがに何も感じないというわけにはいかない。それでも後悔はなく、むしろ今日から何を教えられるのだろうという期待の方が少しだけ勝っていた。
訓練場へ到着すると、グレイフィアさんはすでに私を待っていた。
銀色の長い髪も、身に着けているものも、昨日まで本邸でメイドの仕事を教えてくれていた時とほとんど変わらない。
それなのに、こちらへ視線を向けて最初に口にした言葉だけで、今までとの違いはすぐに分かった。
「来ましたね、ミライ」
「……はい」
ミライさん、ではない。
呼び方から「さん」が一つ消えただけなのに、それだけで妙に違って聞こえた。
昨日までの私は、メイドの仕事を教わる見習いだったのだろう。
けれど、今日からは違う。
「本日から十日間、あなたに戦闘の基礎を指南します。最初に申し上げておきますが、特別扱いをするつもりはありません」
「お願いします」
「では、始めましょう」
私は頷き、いつでもアストラノヴァを出せるよう意識を向けたのだけれど、グレイフィアさんはそんな私の様子を見るなり、すぐに首を横へ振った。
「必要ありません」
「え?」
「あなたの銃も、その他の武器も使用しないでください。まずは、今のあなたがどの程度動けるのかを確認します」
「……分かりました」
武器を使わないのであれば、最初は徒手空拳でもするのだろうか。
そう思いながら構えようとした私へ、グレイフィアさんが告げたのは、それよりもずっと単純な内容だった。
「私の攻撃を避けてください」
「……それだけですか?」
「ええ。それだけです」
思わず聞き返した。
攻撃しなくていい。
受け止める必要もない。
ただ避ければいい。
それくらいなら何とかなるような気がした。以前の合宿では裕斗と剣を交えることもできたし、身体を動かすことそのものは苦手ではない。それどころか、普通の人間より遥かに高い身体能力を持っている自覚もある。
「分かりました」
「では、始めます」
グレイフィアさんが動いた。
そう思った次の瞬間、私の視界は大きく横へ回っていた。
「――え?」
直後、背中に衝撃が走る。
何が起きたのか理解するより先に、私は訓練場の床へ転がされていた。
「…………」
「立てますか、ミライ」
「……はい」
怪我はない。
ただ、何をされたのかが分からなかった。
すぐに起き上がり、改めてグレイフィアさんを見る。
「もう一度お願いします」
「どうぞ」
今度こそ、きちんと見る。
グレイフィアさんがこちらへ踏み込んだ瞬間、その腕が伸びてくるのを確認して横へ跳んだ。
今度は避けた。
そう思った直後、着地しようとした足へ何かが触れ、そのまま身体の軸を失った私は、今度は前へ向かって床を転がった。
「もう一度お願いします」
「はい」
三度目は、近づかれる前に後ろへ下がった。
最初の攻撃をかわすところまでは成功したものの、着地した時にはすでにグレイフィアさんが目の前まで距離を詰めていて、胸元を手のひらで軽く押される。
本当に、それだけだった。
けれど後ろへ跳んだことで重心がそのまま後方へ残っていた私は踏ん張ることができず、またしても尻餅をつくように倒された。
「…………」
「続けますか?」
「お願いします」
次は横へ大きく逃げてみる。
追いつかれた。
ならば最初から距離を取ってみる。
簡単に詰められた。
今度は踏ん張ってみる。
足元から崩された。
反射神経だけに任せて一気に横を抜けようとすれば、今度は自分の勢いそのものを利用され、肩へ触れられたと思った時には身体が大きく回って床へ投げ出されていた。
何度やっても結果は変わらない。
一撃目を避けることくらいなら、何度か成功した。
けれど、その避けた先へ必ずグレイフィアさんがいる。
私がどちらへ動くのか最初から分かっているように、次の手が待っていた。
気づけば、何度床を転がったのか数えることすらやめていた。
身体そのものは丈夫なので、それほど痛くはない。
だからこそ、余計に悔しかった。
「もう一度お願いします」
「先ほどから、そればかりですね」
「まだ避けられていませんから」
「随分と顔が険しくなっていますよ、ミライ」
「気のせいです」
「そうですか」
絶対に気のせいではない。
自分でも分かっている。
それでも構え直すと、また違う方法で転がされた。
◇
「本日はここまでにしましょう」
「……まだできます」
どれほど時間が経ったのか分からなくなった頃、グレイフィアさんがようやく訓練を止めた。
息はかなり上がっていて、髪も朝とは比べものにならないくらい乱れている。それでも身体そのものはまだ動くので、私は反射的に続行を求めた。
「まだできます」
「できることと、続けるべきことは別です」
静かな声でそう返され、私は口を閉じた。
何より悔しいのは、私がこれだけ息を切らしているにもかかわらず、グレイフィアさんはほとんど最初と変わらないことだった。
「ミライ」
「はい」
「あなたの身体能力は非常に高いです。反応速度、筋力、耐久力、そのどれも年齢や体格を考えれば異常と言っていいでしょう」
褒められているはずなのに、素直には喜べなかった。
その理由は、続く言葉を何となく察していたからだと思う。
「ですが、それだけです」
「…………」
「あなたは攻撃を避けることができます。しかし、その後の姿勢を維持できていません。攻撃を受けても身体の強さで耐えることはできますが、正しい受け方を知らない。そして、倒されても立ち上がることはできますが、倒れ方そのものを知りません」
言い返せなかった。
今日一日、それを嫌というほど実際に見せられたからだ。
「これまで大きな怪我をせずに戦えていたのは、技術によって危険を避けていたからではありません。あなた自身の身体が、それに耐えられるだけ強かったからです」
「……はい」
「裕斗と剣を交えられたことも同じでしょう。あなたは剣術を学んでいたわけではありません。それでも優れた身体能力と反応速度があったため、相手へ合わせて動くことができた」
その通りだった。
剣をどう振ればいいのか。
どう足を運び、どう相手との距離を作ればいいのか。
私は、きちんと誰かから教わったことがない。
ただ身体が動いた。
裕斗の動きを見て、それへ合わせることができた。
それだけで、自分はそれなりに戦えるのだと思っていた。
「今のあなたは、高い能力を使って戦闘らしい動きをしているに過ぎません」
かなり容赦のない評価だった。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
昨日、自分から知りたいと思ったことに対する答えを、今日一日かけてこれでもかと教えられたのだから。
私はまだ、戦い方を知らない。
「……分かりました」
「よろしい。それでは明日から、本当に基礎から始めましょう」
初日の訓練は、こうして一度もまともに反撃することすらないまま終わった。
◇
「今日は、転ぶ練習をします」
翌朝、訓練場へ着いた私へグレイフィアさんが告げた内容を聞いて、私は思わず昨日のことを思い返した。
「……昨日、十分転がったような気がするんですが」
「昨日は転がされたのです。今日は、自分で正しく倒れていただきます」
「違うんですね」
「大きく違います」
そこから始まったのは、受け身の練習だった。
後ろへ倒れた時、横へ崩された時、前へ倒された時、そして投げられた時に、どうすれば身体の一か所へ衝撃を集中させずに済むのか。
さらに、ただ安全に倒れるだけではなく、倒れた状態でも相手から目を離さず、そのまま次の行動へ繋げて立ち上がるところまでが一つの動きとして教えられた。
最初のうちは、どうしても自分の力で何とかしようとしてしまう。
倒れそうになれば脚へ力を入れて踏ん張り、身体が床へ近づけば腕で強引に支える。
それでも私の身体なら止めることはできた。
「力で止めないでください」
「でも、止められます」
「それが問題なのです」
グレイフィアさんはそう言うと、私の姿勢を直していく。
「あなたは身体が強いため、それでも怪我をしないのでしょう。しかし、戦闘中にすべてを力任せで止めていては、身体へ余計な負担をかけるうえ、その次の動作まで遅れてしまいます。そもそも、倒されないことだけを考える必要はありません」
「倒されてもいいんですか?」
「どれほど強い者であっても、倒される時はあります。大切なのは、そこで戦闘を終わらせないことです」
受け身とは、倒れないための技術ではない。
倒された後にも、戦い続けるための技術なのだという。
そう考えるようになってから、少しずつ身体の使い方が変わった。
無理やり勢いを止めるのではなく、傾いた身体をそのまま流し、床へ落ちる衝撃を逃がしながら転がって立ち上がる。
最初は、自分から倒れることに強い違和感があった。
けれど何度も繰り返すうちに、力任せに耐えるよりもずっと身体への負担が小さく、そのまま次へ動けることが分かってきた。
◇
三日目になると、さらに地味な訓練が続いた。
立ち方や重心の位置、足の幅、膝を必要以上に固めないこと、移動する時に両足を交差させないこと、腰の向きや視線、そして相手との間合い。
どれも派手さとは無縁だった。
「……いつ攻撃を教えてもらえるんでしょう」
「まだ早いですね」
「そうですか」
「随分と不満そうですが」
「いえ」
不満というより、そろそろ一度くらいこちらから攻撃してみたかっただけだ。
どうやらその考えまで見抜かれていたらしく、グレイフィアさんは私の前へ立つと、片手をこちらへ向けた。
「では、ミライ。そこから動かないでください」
「はい?」
何をするのだろうと思っていると、肩を手のひらで軽く押された。
初日なら、それだけで重心がずれて後ろへ一歩、二歩と下がっていたと思う。
けれど今回は、教わった通りに身体の重さを置いていたせいか、上半身が少し揺れただけで足はその場所に残った。
「……あ」
「分かりましたか?」
「はい」
思わず自分の足元を見た。
特別強く踏ん張ったわけではない。
むしろ、以前より身体から余計な力を抜いているくらいだった。
「戦闘で実際に攻撃している時間など、ごく一部です。立つ、歩く、避ける、倒れる、そして起きる。そのすべてが戦闘ですよ、ミライ」
それまで地味だとしか思っていなかったことが、少しだけ違って見えた。
その日の最後には、初日と同じ訓練をもう一度行うことになった。
「私の攻撃を避けてください」
「はい」
当然、三日程度でグレイフィアさんの攻撃を完全に避けられるようになるはずもない。
何度かやり過ごしたところで姿勢を崩され、私はまた床へ投げられた。
ただし、初日のようにそのまま転がされることはなかった。
身体が床へ落ちる前に受け身を取り、その勢いを殺しきらずに転がると、すぐに立ち上がってグレイフィアさんの姿を視界へ捉える。
「今のは悪くありません」
「……!」
たった一言だった。
それでも、この三日間で初めてまともに認めてもらえたような気がして、思っていた以上に嬉しかった。
◇
四日目になって、ようやく攻撃する方法を教わることになった。
「ここからは、徒手空拳を覚えていただきます」
「やっとですか」
「随分待ち遠しかったようですね」
「少しだけです」
拳の握り方から始まり、掌底、肘、膝、蹴り、足払い、相手の姿勢を崩す方法、さらには掴まれた時の外し方まで、一つずつグレイフィアさんから教わっていく。
そして、この辺りから訓練の感覚が大きく変わった。
グレイフィアさんが一度、見本となる動きを見せる。
私はそれを真似する。
「右足をもう少し内側へ。腰を開きすぎています」
「こうですか?」
「もう少しです」
「……こう」
「はい。その位置です」
もう一度同じ動きを繰り返すと、今度はほとんど直されない。
さらに何度か行えば、どこへ足を置き、どの順番で身体を動かし、どの瞬間に力を入れるべきなのかという感覚が、そのまま身体へ残っていく。
「……覚えが早いですね」
「そうですか?」
「ええ。かなり」
この数日間ずっと転がされ続けていただけに、その言葉は素直に嬉しかった。
どうやら私は、技そのものを覚えることについてはかなり得意らしい。
一度正しい形を見せてもらい、自分のどこが間違っているのか指摘されれば、そこを直すことにはあまり時間がかからなかった。
問題があったとすれば、やはり自分の力だった。
「持ち上げないでください」
相手の姿勢を崩して投げる方法を教わっていた時、私はグレイフィアさんの身体をそのまま持ち上げようとして止められた。
「でも、その方が早くないですか?」
「あなたの場合は特に禁止します」
「……はい」
言われた通り、腕の力で持ち上げることはやめ、相手の足の位置と重心を見ながら身体を崩し、その勢いを利用する。
すると、自分で力を込めた時よりも驚くほど軽く身体が動いた。
「……こっちの方が軽いですね」
「それが本来の方法です」
できるからといって、何でも力任せに処理する必要はない。
この数日で何度も言われ続けたことだった。
ただ、技を覚えることと、それを実際の戦闘で使うことはまったく別だった。
「では、今教えたものを私に使ってください」
「はい」
構える。
先ほど覚えた掌底を使おう。
そう考えた瞬間には、グレイフィアさんの位置がもう変わっていた。
ならば足払いへ繋げようと踏み込めば、その前に腕を取られる。
何とか外そうとした時には、また床が見えた。
「……覚えたんですけど」
「覚えることと、使えることは別です」
「難しいですね」
「ですから訓練をするのです」
そこからは、一つの技を単独で使うのではなく、複数の動きを自然に繋げる練習へ変わっていった。
相手の攻撃を避けながら踏み込み、掌底を入れ、相手が下がれば足元を狙う。
腕を掴まれれば外し、その動きのまま肘を入れて距離を作る。
最初のうちは教えられた順番通りに動いていたけれど、何度も繰り返しているうちに、自分には別の繋ぎ方の方が動きやすいことに気づいた。
攻撃を流したあと、そのまま掌底へ繋ぐのではなく、一度身体を低くして相手の足元へ入り込む。
教わった通りではない。
「今の動きは教えていませんね」
「……駄目でしたか?」
「いいえ」
グレイフィアさんは私の動きを思い返すように少しだけ目を細めた。
「その方が、あなたには合っているのでしょう」
初めて、自分で教わった形を変えた。
たったそれだけなのに、妙に嬉しかった。
◇
五日目の午後、徒手空拳の訓練が一区切りしたところで休憩を取ることになり、私は訓練場の端に座って水を飲んでいた。
グレイフィアさんも近くで休んでいる。
普段よりは空気が柔らかくなっていても、今は《女王》として指南を受けている最中なので、呼び方は変わらず「ミライ」のままだった。
「随分と動きが良くなりましたね」
「ありがとうございます」
「最初の三日間とは別人のようです」
「……あれだけ転がされたので」
「必要でしたから」
「分かってます」
もう怒ってはいない 多分。
そんな他愛のないやり取りから、いつの間にか今回の夏休みに何をしていたのかという話になった。
「そういえば、夏休みにバイクの免許を取りました」
特に深い意味があったわけではなく、何となく思い出したので口にしただけだった。
グレイフィアさんが少しだけ目を瞬かせる。
「バイクの免許を?」
「はい。つい最近ですけど」
「それはまた、少々意外ですね」
「そうですか?」
「時計を修理している姿の印象が強いものですから」
「自分でも、取る前はそこまで考えていなかったんですけど……取れるなら取っておこうかなと思って」
「それでは、すでに乗っているのですか?」
「いえ。自分のバイクはまだ持っていないので、今のところ免許があるだけです」
「そうですか」
グレイフィアさんは、それ以上その話題を広げなかった。
私も特に話すことはなく、そこで会話は終わった。
本当に、ただの雑談だった。
「そろそろ再開しましょう、ミライ」
「はい」
私は立ち上がり、再び訓練へ戻った。
◇
六日目。
「今日から、武器を使っていただきます」
朝一番にそう告げられ、私はようやく次の段階へ進めることに少し期待した。
「武器ですか?」
「ええ」
剣だろうか。
それとも槍だろうか。
以前、裕斗と剣を交えたことがあるので、この機会にきちんと剣術を覚えるのも悪くない。
そんなことを考えながら待っていると、グレイフィアさんが一本の道具を私の前へ差し出した。
「…………」
「どうしました、ミライ」
「……これは」
「はい」
「モップですよね?」
「モップです」
見間違いではない。
どう見ても、普通のモップだった。
「武器を扱うと聞いたんですが」
「そのつもりですが」
「…………」
何かがおかしい。
私がモップとグレイフィアさんを交互に見ていると、彼女は至って真面目な表情のまま続けた。
「せっかくメイドの修行もしているのですから、敵も綺麗にお掃除できるようになっていただきましょう」
しばらく考えてから、恐る恐る聞く。
「……それ、半分くらい冗談ですよね?」
「さて、どうでしょう」
「否定しないんですね」
どうやら少なくとも半分くらいは本当に冗談らしい。
ただし、その後に続いた理由は至って真面目だった。
「冗談はさておき、あなたはこの一週間以上、毎日のようにモップを扱っています。柄の長さや重心、持ち替える時の感覚、身体の横で取り回す方法については、すでにある程度身体へ馴染んでいるはずです」
言われてみれば確かにそうだった。
「剣や槍を一から教えることもできますが、この十日間という限られた期間を考えれば、すでに扱い慣れているものを利用する方が効率的でしょう」
「なるほど……つまり、棍みたいに使うんですか?」
「いいえ」
即答された。
「これは棍ではありません。モップですから」
「……そこは違うんですか?」
「違います」
そこから、さらに驚くことを教えられた。
グレイフィアさんは、モップを武器として扱う方法を普通に知っていた。
しかも、既存の棍術や槍術をそのまま流用したものではなく、メイドとして長年モップを扱ってきた経験と、《女王》として積み重ねてきた実戦経験を組み合わせ、自分で作り上げた完全な自己流らしい。
「自己流です」
「……モップ術を?」
「長く使っていれば、いろいろと思いつくものですよ」
「普通は思いつかないと思います」
「そうでしょうか?」
多分、普通のメイドはモップを使って敵を倒す方法など考えない。
けれど、実際に教わり始めれば、それが冗談でも遊びでもないことだけはすぐに分かった。
モップの先端を相手の顔の前へ滑らせ、一瞬だけ視界を遮ったところへ反対側の柄尻を突き込む。
相手の腕や武器へ先端部分を絡ませ、真正面から力を受け止めるのではなく、そのまま横へ滑らせて軌道を変える。
床を掃く時のような低い動きから足元を払い、柄の中央を持てば左右を瞬時に入れ替え、モップ側と柄尻のどちらからでも次の攻撃へ繋げていく。
どう見ても、動きの一部は本当に掃除だった。
それなのに、グレイフィアさんが使えば、その一つ一つが完全な戦闘技術になっている。
「……これ、本当に掃除の動きですよね?」
「基本は同じです」
「基本は?」
「相手が汚れではなく、こちらを攻撃してくるという点が違います」
「かなり大きな違いだと思います」
そう言いながらも、私はモップを構え直した。
意外なほど扱いやすい。
剣を初めて持った時には、自分の手から先へ一本の長いものが伸びている感覚に慣れるまで少し時間がかかった。
でもモップには、それがない。
毎日のように掃除で使っていたから、どこまで柄が伸びているのか、どの位置を持てばどう動くのかという感覚が、すでに身体の中にあった。
ただし、だからといって簡単に合格できるわけではなかった。
「形は覚えましたね」
「では、次は――」
「いいえ。もう一度です」
「……今ので合っていたと思うんですが」
「形は、です」
腕だけで振らない。
先端の重さを利用する。
腰から動く。
一つの動作で止まらず、その勢いを次へ繋げる。
そして、何よりモップへ視線を落とさず、常に相手を見る。
一つ一つの動きを何度も繰り返した。
「これ、いつまでやるんでしょう」
「考えなくても身体が動くようになるまでです」
「……長そうですね」
「ええ」
本当に長かった。
◇
七日目から九日目にかけて、訓練の内容は少しずつ複雑になっていった。
最初は立ったままモップを扱うだけだったものが、やがて移動しながら使うようになり、そこへこれまで教わった足運びや受け身、徒手空拳まで組み込まれていく。
相手の攻撃をモップで逸らしながら懐へ入り、空いた距離から肘を入れる。
反対に、自分から距離を取る時には低くモップを走らせて足元を狙い、相手がこちらの武器を掴んできたなら無理に引き戻すのではなく、そのまま距離を詰めて掌底を入れ、相手の手が緩んだところで取り返す。
受け身も、足運びも、徒手空拳も、モップ術も、最初はそれぞれ別々のものとして教わったはずだった。
けれど、何度も繰り返すうちに、その境目が少しずつ薄くなっていった。
九日目の訓練中、グレイフィアさんが突然私の動きを止めた。
「ミライ」
「はい」
「私の動きを、そのまま真似する必要はありません」
「え?」
「この技術は、私が私自身のために作ったものです。あなたとは体格も身体能力も、持っている力も違います」
そう言いながら、グレイフィアさんは私の持っているモップへ視線を向ける。
「私から教わったものを基礎にはしてください。しかし、それをあなたが使いやすい形へ変えることまで禁止してはいません」
「……変えていいんですか?」
「もちろんです。私と同じ戦い方をすることが目的ではありませんから」
その言葉は、その日の訓練が終わってからも妙に頭の中へ残った。
◇
十日目。
訓練場へ行くと、グレイフィアさんは一本のモップだけを持って私を待っていた。
「本日は試験を行います」
「試験?」
「ええ」
私はこの数日間使ってきたモップを握り直した。
「私に一撃、届かせてください」
「……一撃でいいんですか?」
「一撃で構いません」
条件はそれだけだった。
他には何も言われない。
ただ、グレイフィアさん自身が持っているのは一本のモップだけで、私の手にも同じものがある。
なら、これはこの数日間教わってきたモップ術の最終試験なのだろう。
「分かりました」
「では、始めましょう」
踏み込む。
モップを振ると、グレイフィアさんがその軌道を軽く流した。
それは予想していたので、そのまま柄を返して足元を狙う。
避けられる。
すぐに距離を詰めて掌底へ繋げるものの、それも止められ、腕を取られる前に身体を捻ってモップで間合いを作り直した。
初日の私なら、ここまで辿り着くより先に何度床を転がっていたか分からない。
今は、攻撃を避けながら姿勢を戻し、そのまま自分から次の手を出せる。
だからこそ、はっきり分かった。
それでも、届かない。
モップを絡ませようとすれば、先にこちらの軌道を外される。
足を払おうとすれば、その動きを作った本人なのだから当然のように読まれる。
教わった連携にフェイントを混ぜても、その元となった動きそのものを理解しているグレイフィアさんには通用しない。
「っ……!」
受け流された勢いを利用して身体を回転させ、反対側の柄尻を突き込む。
それも止められた。
腕を取られ、そのまま身体が浮く。
今度はきちんと受け身を取り、床へ転がった勢いのまま立ち上がる。
「まだ続けますか、ミライ」
「もちろんです」
もう一度仕掛ける。
その次も。
さらにもう一度。
けれど、続ければ続けるほど一つのことが明確になっていった。
グレイフィアさんから教わったモップ術を使い、そのモップ術を作った本人へモップだけで一撃を届かせる。
少なくとも、今の私には無理だ。
十日足らずで習った技術で、長い時間をかけてそれを作り上げた本人を上回れるはずがない。
一度、大きく距離を取る。
呼吸を整えながらグレイフィアさんを見る。
「もう終わりですか、ミライ?」
「……いいえ」
終わりではない。
ただ、今までと同じことを続けても結果が変わらないことは分かった。
昨日言われたことを思い出す。
私と同じ戦い方をすることが目的ではない。
そして、そもそも私がグレイフィアさんへ戦闘指南を頼んだ理由も、グレイフィアさんと同じ戦い方を覚えたいからではなかった。
自分自身の戦い方を知りたい。
そう言った。
それに、今日の条件も一つだけだった。
一撃を届かせること。
グレイフィアさんは、一度もモップだけを使えとは言っていない。
「…………」
左手でモップを握り直し、空いた右手を前へ出す。
意識を集中すると、その手元へ見慣れた箱型の武器が形を成していった。
アストラノヴァ
それを見たグレイフィアさんの目が、ほんのわずかに細くなった。
「行きます」
アストラノヴァを構え、そのまま撃つ。
射線を避けるため、グレイフィアさんが横へ動いた。
その瞬間、それまでとは違う感覚があった。
今まではずっと、私がグレイフィアさんの動きへ合わせていた。
けれど今は、自分が撃ったことでグレイフィアさんを動かした。
そこへ踏み込む。
左手のモップを振ると、当然グレイフィアさんのモップがそれを迎え撃つ。
防がれる。
すぐにアストラノヴァを向け直せば、その射線からまた身体をずらされる。
その移動先へモップを回す。
今度も防がれた。
上手くはいかない。
そもそも、アストラノヴァとモップを同時に使う訓練など一度もしていない。
射撃へ意識を向ければ左手の動きが遅くなり、モップへ集中すればアストラノヴァの狙いが甘くなる。
それでも、モップ一本で戦っていた時にはなかった選択肢が増えている。
アストラノヴァを撃って相手を動かし、その先へモップを置く。
モップで防御させたところへ身体を入れ、徒手空拳へ繋げる。
かわされたら無理に追わず、再び距離を取って射撃する。
決して滑らかではない。
けれど、これまで教わったものと、もともと自分が持っていたものが、初めて一つの戦闘の中で混ざり始めていた。
もう一度、アストラノヴァを撃つ。
グレイフィアさんが横へ動いた。
今度は、その先へ先回りするように踏み込む。
モップを振る。
向こうもモップを出す。
このまま最後まで振れば、また止められる。
なら、そのまま振る必要はない。
途中で左手だけへ持ち替え、柄の軌道を変えながら、身体をさらに一歩内側へ滑り込ませた。
モップの先端が、グレイフィアさんの袖へ触れる。
ほんのわずかだった。
けれど、確かに触れた。
私も、グレイフィアさんも動きを止める。
「……今、触れました?」
「ええ」
グレイフィアさんは自分の袖へ一度だけ目を向け、それから私を見た。
「条件達成です」
「……やった」
思わず声が漏れた。
もちろん、勝ったわけではない。
まともに攻撃を当てたと呼べるほどのものですらない。
それでも十日前、攻撃するところまで辿り着けずに何度も床を転がされていた相手へ、自分から一撃を届かせることができた。
「でも、一ついいですか?」
「何でしょう」
「アストラノヴァを使ってもよかったんですか?」
「禁止した覚えはありませんが」
「……言われてみれば」
確かに、そんな条件は一度も出されていない。
「もし、最後までモップだけで挑んでいたら?」
「本日中には終わらなかったでしょうね」
「…………」
少し酷いと思う。
そんな私の顔を見たグレイフィアさんは、特に悪びれた様子もなく続けた。
「私は、私と同じ戦い方をするためにあなたを指南したのではありません」
「……はい」
「この十日間で教えた受け身も、足運びも、徒手空拳も、モップの扱いも、すべてあなたが戦うための手段です。何を使い、どのように組み合わせるかを決めるのは、あなた自身です」
昨日言われたことと同じだった。
教わったものを、そのまま真似することが目的ではない。
自分へ合う形に変える。
「最後に、自分でそれを選ぶことができたのであれば、十分でしょう」
「はい」
今度は迷わず頷いた。
◇
「それでは、合格したあなたへ一つ用意してあります」
「何ですか?」
グレイフィアさんが持ってきたものを見て、私はまた少しだけ言葉を失った。
長い柄の先に付いているのは、どう見ても見慣れた清掃用の部分だった。
「……モップ?」
「ええ」
「またですか」
「今度は、あなたのために用意したものです」
差し出されたそれを受け取ると、持った瞬間にこれまで使っていたものとの違いが分かった。
柄の長さが、私の身長にちょうど合っている。
両手で持っても、途中で片手へ切り替えても、重心が邪魔にならない。
試しに軽く力を込めてみれば、普通のモップよりも遥かに頑丈に作られていることも分かった。
「あなたの身体能力を考慮して、十分な強度を持たせています。片手でも両手でも扱えるよう、長さと重心もあなたに合わせて調整してあります」
「……ありがとうございます」
軽く振ってみる。
今まで使っていたものより、ずっと自然に動かせた。
そこで、一つ気になることがあった。
「これ、ちゃんと掃除にも使えるんですか?」
「当然です」
何を当たり前のことを聞くのかと言わんばかりに、グレイフィアさんは答える。
「モップですから」
「そうですよね」
そこで、さらに別のことに気づいた。
「でも、これ……今日作ったわけではありませんよね?」
「ええ」
「もし私が試験に合格できなかったら?」
「合格するまでお渡ししなかっただけです」
「…………」
つまり、試験が始まる前から用意されていたらしい。
私がいつ合格するのかはともかく、最終的にはここまで辿り着くと思っていたのだろうか。
グレイフィアさんは、それについては何も言わなかった。
だから、私も聞かなかった。
代わりに、新しいモップをもう一度握り直す。
左手には、グレイフィアさんからもらったモップ。
右手には、先ほど初めて同時に使ったアストラノヴァ。
二つを組み合わせた戦い方は、まだ全然完成していない。
今日の試験でやったことだって、ほとんどその場の思いつきだった。
射撃へ意識を向ければモップが遅れ、モップへ集中すればアストラノヴァの照準が甘くなる。今のままでは、二つの武器をそれぞれ持っているだけで、とても一つの戦い方と呼べるものではない。
それでも、グレイフィアさんから教わったものをそのまま使っていた時には届かなかった場所へ、自分で考えて方法を変えたことで、ほんの少しだけ届くことができた。
たぶん、ここから先は教えてもらうだけでは駄目なのだと思う。
受け身も、徒手空拳も、グレイフィアさんが作り上げたモップ術も、すべて教えてもらったものだ。
これからは、それを自分の身体や、自分の持っている力に合わせて変えていく。
今日初めて試したアストラノヴァとの組み合わせも、その一つになるのだろう。
まだ完成なんてしていない。
けれど、自分自身の戦い方を作るための最初の一歩くらいには、ようやく辿り着けた気がした。
推しのゲヘナ生を教えてください 推しが選択肢にいない場合は、感想欄で教えてください!
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空崎ヒナ
-
天雨アコ
-
銀鏡イオリ
-
火宮チナツ
-
陸八魔アル
-
浅黄ムツキ
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鬼方カヨコ
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伊草ハルカ
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黒舘ハルナ
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鰐渕アカリ
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愛清フウカ
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棗イロハ
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丹花イブキ
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羽沼マコト
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京極サツキ
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元宮チアキ
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鬼怒川カスミ
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氷室セナ
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夜桜キララ
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旗見エリカ