冥界から人間界へ帰る日の朝、私は自分に割り当てられていた部屋で、開いた鞄を前にしばらく手を止めていた。
来た時と比べると、明らかに荷物が増えている。
着替えや日用品もそうだけれど、一番分かりやすいのは壁際に立てかけてある一本のモップだった。見た目だけならどこにでもありそうな掃除道具なのに、実際はグレイフィアさんが私に合わせて用意してくれたもので、普通に床を掃除できる一方、私が戦闘で振り回しても簡単には壊れないように作られている。
冥界へ来る前の自分に、夏休みの終わりには専用のモップを持ち帰ることになると言ったところで、たぶん何の話をしているのか分からなかったと思う。
「……これ、どうやって持って帰りましょう」
どう考えても鞄には入らないので、これはそのまま持っていくしかない。
そう結論を出してから、今度はベッドの上に置かれた箱へ目を向けた。
中に収められているのは、この屋敷で着ていたメイド服だ。
昨夜のうちに返そうとしたのだけれど、グレイフィアさんからは、その必要はないと言われていた。すでに私の身体に合わせて調整したものだから、そのまま持っていて構わないらしい。
それだけなら、ここで過ごした記念として受け取ることもできたのだけれど、グレイフィアさんは最後にもう一つ理由を付け加えていた。
『今後、一誠様の居宅の方でもお手伝いをお願いすることがあるかもしれませんので』
増築されてから随分と大きくなった兵藤家には、リアス先輩たちも暮らしている。人が増えれば、それだけ家事の量も増えるのだから、必要な時には私にも手伝いに来てほしいということらしい。
私は正式にメイドになったつもりなどないのだけれど、だからといって、たまに手伝うことまで嫌だとは思わなかった。
「……まあ、たまになら」
自分でも思っていたより素直にそう呟きながら、メイド服の入った箱を鞄へしまう。
この冥界で、時計の修理とはまるで違うことを随分たくさん覚えた。
料理や掃除、給仕だけではない。相手が口にする前に必要なものを考えることも教わったし、そこからなぜか受け身や足運び、徒手空拳まで学ぶことになり、最後にはモップを使った戦い方まで教わった。
振り返ってみれば、最初に想像していた夏休みとはかなり違っている。
それでも、ここで増えた荷物の中に、持って帰りたくないものは一つもなかった。
◇
荷造りを終えて屋敷の外へ出ると、一誠たちはすでに出発の準備を済ませて集まっていた。
「お、ミライも終わったか」
「はい」
一誠は返事を聞きながら私の手元へ視線を落とし、持っているものを見て微妙な顔になった。
「……それ、本当に持って帰るんだな」
「いただいたものですから」
「いや、それは知ってるけどよ。こうして改めて見ると、本当にモップなんだよな」
「モップですから」
「でも戦闘にも使うんだろ?」
「掃除にも使います」
「結局どっちなんだよ」
「両方です」
どうしてそこまで納得できないのか分からない。
隣にいた裕斗は苦笑していたけれど、ゼノヴィアだけは妙に真剣な顔で頷いている。
「武器と日用品を一つで兼ねられるなら合理的だな」
「ゼノヴィアまでそっちに行くなよ」
「何かおかしいか?」
「お前ら二人に説明してたら、俺の方がおかしい気がしてきた……」
一誠が頭を抱えかけたところで、リアス先輩がこちらを振り返った。
「みんな、準備はできた?」
それぞれが返事をする。
昨日までレーティングゲームのことで頭がいっぱいだったはずなのに、それが終わってしまえば、今日はもう帰る日だった。
屋敷の前には、私たちを見送るためにグレモリー家の方々が集まっていた。リアス先輩のお父さんとお母さん、ミリキャス君、サーゼクスさん。そして、その少し後ろにはグレイフィアさんもいる。
リアス先輩たちが家族と挨拶を交わし、一誠たちも順番に礼を言っていく中、私は最後にグレイフィアさんの前へ立った。
「グレイフィアさん」
「はい」
「ありがとうございました」
「何についてでしょう?」
真顔で返されて、少し困る。
何についてと言われても、一つには絞れない。
「……色々ありすぎて、どれとは言えません」
メイドの仕事を教えてもらったことも、小猫さんのことで相談に乗ってもらったことも、戦い方を一から教えてもらったことも、最後に私専用のモップまで用意してもらったこともある。
一つずつ挙げていけば、それだけでは終わらない。
私の答えを聞いたグレイフィアさんは、ごく僅かに表情を和らげた。
「では、まとめて受け取っておきましょう」
「はい」
私は小さく頭を下げた。
「教えていただいたこと、ちゃんと使えるようにします」
「私から教わった形を守り続けることが目的ではありませんよ」
返ってきたのは、以前にも聞いた言葉だった。
「あなたが使うものなのですから、必要であれば変えなさい。私とあなたでは体格も身体能力も違いますし、持っている力も、最終的に選ぶ戦い方も異なるのですから」
「……はい」
「もちろん、メイドとして教えたことについても同じです。ただ決められた作業をこなすのではなく、その場と相手を見て判断してください」
「そっちも続くんですね」
「当然です」
まったく迷いなく言い切られる。
「兵藤家へお手伝いをお願いする際には、改めて連絡いたします」
「……本当に行くことになってるんですね」
「そのための衣装もお持ち帰りになるのですから」
どうやら逃げ道は最初からないらしい。
とはいえ、自分から持って帰ることを受け入れた以上、今さら嫌だとも思わなかった。
「分かりました。その時は行きます」
「よろしくお願いいたします」
これで挨拶も終わったと思い、皆のところへ戻ろうとした時だった。
「そういえば、ミライちゃん」
今度はサーゼクスさんに呼び止められる。
「はい?」
「まだ君に渡していないものがあったんだ」
「忘れ物ですか?」
「いや、お給料」
「…………給料?」
まったく予想していなかった言葉だった。
サーゼクスさんは、私が驚いたことの方が不思議だというように頷いている。
「この滞在中、何度も働いてもらったからね」
「でも私は、メイドの仕事を教えてもらっていただけで……」
「それとこれとは別です」
すぐにグレイフィアさんから訂正が入った。
「訓練を受けていた時間とは別に、ミライさんには実際の業務にも従事していただきました。屋敷内での給仕や補助、催しの際の対応など、その分については正式な労働として扱われます」
「でも、私としては色々教えていただいた方が多いですし……」
「悪魔は契約と対価を重んじる種族だよ」
サーゼクスさんの口調は穏やかだったけれど、言っていること自体はかなり真面目だった。
「働いてもらったのなら、その分の対価を支払うのは当然だ。ましてや魔王である私が、誰かを働かせておきながら何も支払わなかったなんてことになれば、それこそ問題だからね」
そこまで言われれば、むしろ受け取らない方が話をややこしくしそうだった。
「……分かりました」
「よかった。じゃあ、こちらへ」
「こちら?」
給料を受け取るだけなら、その場で済みそうなものなのに。
疑問に思いながら案内された先には、大きな布をかけられた何かが置かれていた。一誠たちも気になったらしく、いつの間にか後ろからついてきている。
「なんだ、あれ」
「さあ……」
私にも分からない。
サーゼクスさんが布へ手をかけ、そのまま一気に取り払った。
現れたのは、一台のバイクだった。
白を基調とした低いフルカウルの車体に、マゼンタとシアンの鋭いラインが走り、黒い足回りとの対比が全体を引き締めている。止まっているだけなのに、今にも前へ飛び出していきそうな印象があり、普通の市販車とは少し違う雰囲気をまとっていた。
私はしばらく、それを見たまま言葉を失っていた。
「……バイク?」
「うん」
「これが……給料ですか?」
「現物支給だね」
「給料でバイクってありなのかよ!?」
私より先に一誠が叫んだ。
「普通もっとこう、金とかじゃねぇの!?」
「本人が使えるものの方がいいと思ってね。ミライちゃんは夏休みの間に二輪免許を取ったんだろう?」
「取りましたけど……」
確かに取った。
けれど、自分のバイクを買うところまでは進んでいなかった。
だからといって、働いた給料として一台そのものが出てくるとは思わない。
私は車体へ近づき、側面に記された文字へ目を落とした。
「……スターゲイザー」
「それが、この車両の名前だよ」
「スターゲイザー……」
今度は名前として、もう一度口にする。
白い車体に鮮やかなラインが走るその姿を見ながら、これが自分にとって初めての愛車になるのだと考えると、まだ少し現実感がなかった。
ただ、名前も含めてかなり気に入った。
「人間界でも普通に乗れるんですか?」
「もちろん。そのための登録も問題なくできるようにしてあるよ」
サーゼクスさんの説明によれば、スターゲイザーは人間界では四百ccクラスとして正式に登録できるようになっており、通常時の性能も公道で使用できる範囲に合わせて制限されているらしい。必要な書類についてもすでに手配されているという。
そこまで聞いて、ようやく少し安心した。
「それなら、普段は普通の四百ccとして――」
「普段はね」
サーゼクスさんが付け加えた。
嫌な予感がした。
「……普段は?」
「スターゲイザーには、悪魔側の技術もかなり使われているんだ」
「かなり?」
「かなり」
グレイフィアさんも否定しない。
「通常時は、人間界で安全に使用することを前提として本来の出力を制限しております。しかし、戦闘や緊急時には、その制限を解除することが可能です」
「解除すると、どのくらいになるんですか?」
「最高出力は二百六十二・五キロワット」
「……それだけだと、私にはあまり分からないです」
「だったら最高速度の方が分かりやすいかな」
「はい」
「五百八十キロくらい」
しばらく、何を言われたのか理解できなかった。
「……もう一度お願いします」
「五百八十キロくらい」
「聞き間違いじゃなかったんですね」
「だってよ、ミライ」
一誠がスターゲイザーを指差しながら、呆れた顔をする。
「これもう、バイクの皮を被った何かだろ」
「バイクだよ」
「五百八十出るものを普通のバイクって言わねぇんだよ!」
その意見には私もかなり同意したかった。
「ちなみに、停止状態から四百メートルまでなら三・五秒ほどです」
さらにグレイフィアさんが、まるで普通の仕様を説明するような口調で付け加える。
「…………」
「ミライちゃん?」
「これ、本当に私の給料なんですよね?」
「正確には、労働への対価を現物として支給したものだね」
「そういう意味ではなくて……」
どう考えても豪華すぎる。
ただ、サーゼクスさんはあくまで正式な対価として渡すつもりらしく、グレイフィアさんもその認識に何の疑問も持っていない。
悪魔にとって契約と対価は、それだけ重いものなのだろう。
「もちろん、人間界の一般公道で本来の性能を使用することは禁止です」
「それは絶対にしません」
グレイフィアさんの注意には即答した。
時速五百八十キロで一般道を走る理由など、どう考えてもない。
「通常時は登録上の区分に合わせて制限されていますので、普段はこちらを使用してください。本来の性能を解放するのは、本当に必要な状況に限ります」
「はい」
「また、車体についてもミライさんが使用することを前提として、素材には可能な限り良質なものを選んでおります。耐久性についても通常の車両とは比較になりません」
「素材まで?」
「はい」
私は試しに白いカウルへ手を触れてみた。
指先へ返ってくるのは冷たい感触だけれど、普通の金属や樹脂に触れた時とは少し違う気がする。
時計の部品を見る時のように何が使われているのかまで分かるわけではない。それでも、単に高価な材料というだけではなく、人間界の普通のバイクとはかなり違うものが使われていることくらいは感じられた。
「……すごいですね」
「気に入ったかい?」
サーゼクスさんに尋ねられ、改めてスターゲイザーを見る。
まだ自分のものになったという実感は薄いけれど、欲しくないとはまったく思わなかった。
「はい」
そこだけは、迷わず答えられた。
◇
スターゲイザーは、そのまま私が乗って人間界へ帰るわけではなく、グレモリー家の者で時計店まで運んでもらえることになった。
考えてみれば当然の話で、冥界から人間界へバイクで帰れるわけではない。
改めてグレモリー家の方々へ挨拶を済ませ、私たちは列車へ乗り込んだ。
やがて車両が動き始め、窓の外を冥界の景色がゆっくりと流れていく。
これでしばらく、この場所ともお別れになる。
少し感傷的になるのかと思っていたけれど、隣から聞こえてきた声で、その気分はすぐに消えた。
「…………やべぇ」
一誠だった。
「どうしたんですか?」
「宿題」
「宿題?」
一誠が、今まで見たことがないくらい青い顔でこちらを見る。
「夏休みの宿題、ほとんどやってねぇ……」
私は少しだけ考えてから、一番現実的な答えを返した。
「頑張ってください」
「それだけ!?」
「他に何を言えばいいんですか?」
「もっとこう、助けてやろうとかあるだろ!」
「見せませんよ」
「まだ写させてくれなんて言ってねぇ!」
「顔に書いてあります」
「くそぉぉぉ……!」
一誠が頭を抱える横で、裕斗は苦笑し、ゼノヴィアは宿題というもの自体について何か考え込んでいる。
その時、小猫さんが一誠の近くまで歩いていき、何の前触れもなく、その膝の上へ座った。
「こ、小猫ちゃん!?」
「……何ですか?」
「何ですかじゃなくて!」
慌てる一誠とは対照的に、小猫さんは特に気にした様子もなく、そのまま座っている。
私も少し驚いたけれど、それ以上は何も言わなかった。
少し前より、小猫さんが一誠との距離を気にしなくなったようには見えるけれど、どうしてそうなったのか、その変化を本人がどう考えているのかまでは私には分からないし、今ここで勝手に理由を決める必要もない。
ただ、小猫さんの表情が以前より少し柔らかく見えた。
それだけで十分だった。
私は再び窓の外へ視線を戻した。
夏休みに入った時には、こんなことになるとは思っていなかった。
メイドの仕事を覚え、グレイフィアさんから戦い方まで教わり、最後にはモップを武器として使うことになったうえ、働いた分の給料として、普通のバイクとは到底呼べそうにないものまで支給された。
「……かなり変な夏休みでしたね」
「ん? なんか言ったか?」
「何でもありません」
変ではあった。
でも、悪い夏休みではなかった。
◇
人間界へ戻って最初に感じたのは、空気の違いだった。
長く冥界に滞在していたせいか、ずっと暮らしてきたはずの場所なのに、見慣れた景色まで少し久しぶりに感じる。
「帰ってきたぁぁぁ!」
一誠が大きく伸びをした。
「人間界だ! 俺の世界だ!」
「一誠、宿題が待っていますよ」
「帰ってきた瞬間に現実へ引き戻すな!」
そんなふうに騒いでいた一誠が、不意に少し離れた場所を見て足を止めた。
「あれ?」
リアス先輩たちも同じ方向へ視線を向ける。
そこには、こちらを待っていたらしい一人の青年が立っていた。
一誠たちの反応を見る限り、初めて会う相手ではないらしい。
「一誠、知っている人ですか?」
「ん? ああ。若手悪魔の顔合わせにいた奴だよ」
「……私はその場にいなかったので」
「あ」
一誠がようやく思い出したような顔をする。
「そういや、お前あの時いなかったな」
「はい」
青年も私たちの会話を聞いていたらしく、こちらへ視線を向けた。
「なるほど。では、君とは初めましてですね」
柔らかな笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げる。
「ディオドラ・アスタロトです」
「……アスタロト?」
思わず、名前ではなく姓の方を繰り返していた。
アスタロト。
その家名を聞いた瞬間、真っ先に一人の少女の顔が頭に浮かぶ。
天雨アコ
もちろん、目の前にいる青年と彼女には、見たところ何の共通点もない。
それでも、私がこれまで知ってきた神話外装の対応を考えれば、何の引っかかりもなく聞き流せる名前ではなかった。
「僕の家名をご存じなのですか?」
私が反応したことに気づいたディオドラさんが尋ねてくる。
「……名前だけは」
「そうですか」
少し興味を持ったようには見えたものの、ディオドラさんはそれ以上追及してこなかった。
私も今ここで説明するつもりはないし、そもそも自分自身でも、なぜ同じ名前が別のところへ現れるのかを正確に理解しているわけではない。
それよりも、ディオドラさんの視線はすぐに私から外れ、別の人へ向けられた。
「アーシア・アルジェント」
「は、はい」
名前を呼ばれたアーシアさんが、少し戸惑いながら前へ出る。
ディオドラさんは、まっすぐアーシアさんを見ていた。
ただ帰還した私たちへ挨拶をするために待っていたわけではないことくらいは、私にも分かった。
「ずっと、君を探していました」
「私を……ですか?」
「以前、人間界で僕が傷を負っていた時、君に治療してもらったことがあります」
アーシアさんの目が大きくなる。
「え……?」
その話を聞いた瞬間、一誠たちの空気まで変わった。
アーシアさんが教会にいた頃、傷ついた悪魔を治療したことがある。
そのことを原因として彼女は『魔女』と呼ばれるようになり、教会を追われた。
私はその話そのものは知っていたけれど、まさか治療された悪魔本人が、こうして自分たちの前へ現れるとは思っていなかった。
「じゃあ……あなたが、あの時の……?」
アーシアさんも記憶へ辿り着いたらしい。
「はい」
ディオドラさんは穏やかに頷いた。
「あなたに助けてもらったことを、僕はずっと忘れていません」
一誠が僅かに警戒するようにアーシアさんの近くへ寄り、リアス先輩も黙ったままディオドラさんの様子を見ている。
それからディオドラさんは、改めてアーシアさんの名前を呼んだ。
「アーシア・アルジェント。僕の妻になってほしい」
その言葉が意味として頭に入ってくるまで、少し時間がかかった。
一誠も、アーシアさんも、リアス先輩たちもすぐには反応できず、もちろん私も同じだった。
「…………はい?」
最初に声が出たのは、たぶん私だった。
◇
当然ながら、その場ですぐに答えが出るような話ではなかった。
何よりアーシアさん本人が突然のことで混乱していて、一誠も落ち着いて話を聞ける状態には見えない。ディオドラさんから求婚の理由や事情について話はあったものの、結論については改めて考えることになり、その日はそこで別れることになった。
それでも、人間界へ帰ってきたばかりだというのに、いきなり随分大きな問題が増えた気がする。
アーシアさんへの突然の求婚だけでも十分なのに、私にとってはディオドラさんが名乗った「アスタロト」という家名まで引っかかっている。
冥界から戻れば多少は落ち着くと思っていたのだけれど、どうやらそんなに都合よくはいかないらしい。
◇
一誠たちと別れたあと、私は自分の時計店へ戻った。
見慣れた通りを歩き、店の前まで来ると、いつものように鍵を取り出して扉を開ける。冥界へ行っていた時間そのものはそれほど長くなかったはずなのに、鍵を回す感覚も、店の中へ足を踏み入れる瞬間も、どこか久しぶりに感じられた。
「ただいま」
そう声をかけても、当然ながら返事はない。
おじいさんが亡くなってから、ここで暮らしているのは私一人なのだから、それが本来の状態だった。けれど、扉を閉めたところで、私はなぜかその場に立ち止まった。
静かだった。
もちろん、音がないわけではない。壁や棚にはたくさんの時計が並んでいて、秒針が規則正しく進む音や、振り子が一定の間隔で左右へ揺れる音、古い機械式時計の内部で歯車が動く小さな音が、店のあちらこちらから重なって聞こえてくる。
どれも昔から聞き慣れていたはずなのに、今日は妙にはっきりと耳に入った。
少し前までは、その音の間にもっと別のものが混ざっていたからだ。
店の奥からモモタロスの大きな声が聞こえてきたり、ウラタロスが余計なことを言って誰かと揉めたり、キンタロスが動くたびに大きな物音がしたり、リュウタロスがいつの間にか何かを始めていたりした。
時計店なのだから、もう少し静かにしてほしいと思ったことも何度もある。
それなのに、いなくなってみると、元に戻っただけのはずの店が、以前よりもずっと静かに感じられた。
「……帰ったんですね」
小さく呟く。
分かっていなかったわけではない。冥界まで送ってもらった時に、モモタロスたちとはちゃんと別れの挨拶をしたし、これで一度それぞれの時間へ戻るのだということも理解していた。
ただ、その時にはもう私は冥界へ来ていて、そこからすぐにグレモリー家での生活が始まった。だから、モモタロスたちがいなくなったあとの時計店で過ごす時間を、まだ一度も経験していなかった。
こうして自分の家へ帰り、時計の音しか聞こえない店の中に立ってみて、ようやく実感が追いついたのだと思う。
たった三か月ほどだった。
それでも、一人きりだった店にあれだけの人数が入り込み、毎日のように騒いでいたせいで、元に戻っただけのはずの静けさが、以前とは少し違って感じられた。
「……困りましたね」
自分でも何に困っているのか分からないまま、そんな言葉が出た。
けれど、しばらく時計の音を聞いているうちに、この静けさにずっと沈んでいる必要もないような気がしてきた。
モモタロスたちが帰ったことは変わらないし、寂しいからといって、その事実が変わるわけでもない。
でも、だからといって、これからずっと一人でいなければならないわけではない。
増築された兵藤家には、一誠も、リアス先輩たちもいる。それにグレイフィアさんからは、必要な時にはメイドとして手伝いに来てほしいと言われていた。
「……賑やかさが欲しくなったら、兵藤家にでも行きましょうか」
口にしてみると、思っていたより悪くない考えだった。
ちょうどメイド服まで持ち帰ってきているし、仕事の練習にもなる。何より、あそこへ行けば一誠を筆頭に、誰かしらが騒いでいるはずだ。
もちろん、モモタロスたちと同じ賑やかさではない。
でも、同じである必要もないのだと思う。
静かすぎると感じた時に、ふらりと行ける場所がある。それだけでも十分だった。
そう考えると、店の中の静けさも、少しだけ受け入れやすくなった。
◇
荷物を自分の部屋へ置いたあと、私は店の裏手へ回った。
そこには、私たちより先に冥界から運ばれていたスターゲイザーが置かれている。
白い車体に、マゼンタとシアンの鋭いライン。
グレモリー家の屋敷で見た時と何も変わっていないはずなのに、自分の家の敷地に置かれているだけで、急に現実味が増して見えた。
「……本当に、私のバイクになったんですね」
近づいて、白いカウルへ手を置く。
冷たい感触が指先へ伝わったところで、私は少しだけ眉を動かした。
冥界で初めて触れた時にも、普通のバイクとは使われている素材が違うのだろうとは思っていた。けれど、今こうして落ち着いた状態で自分の力を意識しながら触れてみると、それだけではないことに気づく。
妙に馴染む。
私はアストラノヴァを作る時、何もないところからでも必要な物質を生み出すことができる。
ただ、本当のところを言えば、最初から何もない状態よりも、すでに存在する物を材料にして分解し、それを別の形へ組み直す方がずっと安心できる。
何を使って、どこをどう変えているのかが分かるからだ。
しかも、スターゲイザーに使われているのは、サーゼクスさんが用意した最上級の素材だった。
「……これなら」
ふと、一つの考えが浮かぶ。
スターゲイザーへ触れたまま、自分の力を向ける。
複雑に考える必要はなかった。
すでにそこにあるものを使って、何度も作ってきた形へ組み直す。
ほどなくして、白いバイクの代わりに、見慣れたアストラノヴァがそこに現れた。
「…………」
私はそれを持ち上げてみる。
違いは、すぐに分かった。
「……いつもより、安定していますね」
何もないところから作った時よりも形を保ちやすく、それだけでなく、本体そのものにも以前より余裕があるように感じる。実際にどこまで性能が上がっているのかは、きちんと試せる場所で確認しなければ分からないけれど、少なくとも普段のアストラノヴァより完成度が高いことだけは確かだった。
もう一度意識を向けると、アストラノヴァは問題なく元のスターゲイザーへ戻った。
「……便利になりましたね」
どう考えても、サーゼクスさんたちが最初から想定していた使い方ではない。
スターゲイザーそのものに変形機構があるわけではなく、私が勝手に材料として使っているだけなのだから、今度会った時には一応報告しておいた方がいいだろう。
私は元の姿へ戻ったスターゲイザーのカウルを軽く撫でた。
店の中からは、昔から変わらない時計の音が聞こえている。
この一か月ほど、その音に混ざっていたモモタロスたちの声はもうない。
だからといって、スターゲイザーがその代わりになるわけではないし、そう考えるつもりもなかった。
モモタロスたちは、自分たちの時間へ帰った。
スターゲイザーは、この夏に私のところへ来た。
それぞれ別の出来事で、どちらかがもう片方の代わりになるようなものではない。
ただ、夏休みが始まった頃と比べれば、私の周りにあるものは随分と変わった。
メイドの仕事を覚え、グレイフィアさんから戦い方を教わり、自分用のモップまで手に入れたうえ、最後にはスターゲイザーまで給料として受け取った。
そして人間界へ帰ってきたその日に、今度はアーシアさんへ求婚するディオドラさんまで現れた。
しかも、その家名はアスタロト。
あの名前についても、何も気にせず忘れることはできそうにない。
私はスターゲイザーの横に立ったまま、まだ夏の暑さが残っている空を見上げた。
夏休みは、もうすぐ終わる。
最初に思い描いていたものとは、まるで違う夏になった。
それでも、この夏で終わったものもあれば、この先へ続いていくものもあり、さらに新しく始まりそうなものまで、すでにいくつも目の前へ現れている。
もしまた時計店の静けさが少し寂しくなったなら、その時は兵藤家へ行けばいい。
持ち帰ったメイド服を着て少し手伝い、一誠たちの騒ぎに巻き込まれて、それからまたこの店へ帰って時計を直す。
そんな日があってもいいのだと思う。
そう考えると、少し前まで寂しく感じていた時計の音も、いつの間にか昔から聞き慣れた音へ戻っていた。
たぶん、次の季節も静かなままでは終わらない。
そんな予感だけは、妙にはっきりしていた。
推しのゲヘナ生を教えてください 推しが選択肢にいない場合は、感想欄で教えてください!
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