その日の部室には、いつもとは少し違う落ち着かなさがあった。
誰かが騒いでいるわけでも、逆に妙な静けさに包まれているわけでもない。ただ、これからディオドラ・アスタロトとのレーティングゲームを控えているのだと思えば、普段とまったく同じ空気でいられるはずもなかった。
リアス先輩は最後の確認を行い、朱乃先輩や裕斗、ゼノヴィアたちも、それぞれ出発の準備を整えている。
私は今回のゲームには参加しない。
そもそもリアス先輩の眷属ではないのだから当然なのだけれど、今日はサーゼクスさんから観戦に招かれていて、あとで皆とは別の場所へ移動することになっている。
服装も、いつもの駒王学園の制服のままだ。
前回のようにメイドとして仕事をするわけではないので、冥界へ行くからといって着替える必要もない。
そんな部室の中で、一番落ち着かない様子を見せていたのは一誠だった。
「アーシア、大丈夫か?」
「はい。大丈夫ですよ、一誠さん」
「本当か? 無理してねぇか?」
「本当に大丈夫です」
アーシアさんは、少し困ったように笑っている。
これで何度目なのだろう。
少なくとも、私が部室へ来てからだけでも、同じようなやり取りを二度は見ていた。
「一誠、さっきからそればかりですね」
「だってよ……」
一誠は私を見ると、言いにくそうに頭を掻いた。
「あいつ、アーシアにあんなこと言ってきた奴だぞ。これからそいつとゲームするって思ったら、そりゃ気になるだろ」
「気持ちは分かりますけど」
数日前、ディオドラはこの部室へ突然現れ、アーシアさんを自分の《僧侶》と交換してほしいと言った。
それだけではなく、結婚したいとまで口にしていた。
アーシアさん自身がはっきりと拒絶し、最後には頬を叩いてまで自分の意思を示したけれど、それでも一誠が心配になるのは無理もない。
「一誠さん」
今度はアーシアさんの方から、少しだけ強い声で名前を呼んだ。
一誠が振り向く。
「私、本当に大丈夫です」
「アーシア……」
「ディオドラさんには、もうちゃんとお断りしました。それに……」
そこで一度言葉を切ると、アーシアさんは部室にいる私たちを見回した。
「私は、ここにいたいんです」
その声には、迷いがなかった。
「部長さんと、一誠さんと、皆さんと一緒にいたいって、自分で決めましたから」
「……そっか」
一誠はしばらくアーシアさんを見ていたけれど、やがて少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ、さっさと勝って帰ってこようぜ」
「はい!」
アーシアさんが笑う。
数日前、ディオドラさんを前にしていた時とは違う笑顔だった。
もちろん、緊張していないわけではないのだろう。それでも今の彼女は、自分がどこにいたいのかを迷ってはいなかった。
「アーシア、頑張ってね」
近くにいたイリナさんも声を掛ける。
「ありがとうございます、イリナさん」
アーシアさんが答えると、イリナさんは今度は一誠へ視線を向けた。
「イッセーも、ちゃんとアーシアを守るんだよ?」
「言われなくても分かってるって!」
「本当に?」
「本当だよ!」
「ならいいけど」
「信用ねぇなぁ!」
そんな二人のやり取りを見ていると、これから危険な相手とのゲームへ向かうというより、いつもの部室の延長にいるような気さえしてくる。
やがて出発の時間が近づき、リアス先輩が全員を集めた。
「そろそろ時間ね。みんな、準備はいい?」
その問いに、それぞれが頷く。
私は少し離れたところから、その様子を見守っていた。
すると、アーシアさんがこちらへ歩いてくる。
「ミライさん」
「はい?」
「行ってきます」
笑顔だった。
だから私も、何も特別なことは考えずに答えた。
「はい。頑張ってください。応援しています」
「ありがとうございます」
それだけだった。
特別な言葉なんて必要ないと思っていた。
数時間もすればまた会える。ゲームが終われば、皆でいつものように帰ってくる。
私はそう思っていたからだ。
「アーシア」
一誠が手を差し出した。
アーシアさんは少し驚いたように、その手と一誠の顔を交互に見る。
「向こうに着いても離すなよ。念のためだ」
「……はい」
嬉しそうに頷いて、アーシアさんは一誠の手を握った。
それを確認したリアス先輩が、転移用の魔法陣を展開する。
床いっぱいに広がった赤い光が、一誠たちの姿を包み込んでいった。
「じゃあな、ミライ!」
「はい。またあとで」
アーシアさんも、空いている方の手を小さく振る。
私も手を振り返した。
そして次の瞬間には、リアス先輩たちの姿は部室から消えていた。
◇
私もほどなくして、別の転移魔法陣を使って冥界へ移動した。
到着したのは、以前にも一度入ったことのあるような豪華な観戦室だった。もっとも、今日はメイドとして来ているわけではない。
「来たね、ミライちゃん」
「サーゼクスさん。今日はお招きいただき、ありがとうございます」
「そんなに堅くならなくても大丈夫だよ。今日は仕事ではないんだから、普通に観戦してくれればいい」
「はい」
室内にいたのは、サーゼクスさんとアザゼル先生。
そして、もう一人。
長い白髭を蓄え、片目を隠した老人が椅子に腰掛けていた。
見覚えはない。
けれど、ただの老人ではないことくらいは、説明されなくても分かった。
「ああ、そうか。二人は初対面だったね」
サーゼクスさんが、今になって思い出したように言う。
「ミライちゃん。こちらは北欧神話の主神、オーディン様だ」
「……オーディン?」
名前くらいなら、もちろん知っている。
北欧神話の最高神。
知識を求めるためなら、自らの片目すら代価として差し出した神。
「そしてオーディン様。こちらが天童ミライちゃんだ」
「天童ミライです。初めまして」
軽く頭を下げてから、顔を上げる。
その瞬間だった。
「…………」
オーディン様と目が合った。
残された片目が、ほんの僅かに見開かれる。
それまで浮かべていた飄々とした表情も、一瞬だけ消えたように見えた。
「……?」
何だろう。
私が首を傾げるより早く、オーディン様はいつもの調子を取り戻した。
「ほっほっほ! なるほどなるほど! サーゼクス、お主もなかなか隅に置けんではないか! こんな可愛らしい娘まで呼んでおるとは!」
「誤解を招く言い方はやめてください、オーディン様」
「何を言う。年寄りのちょっとした冗談じゃろう」
サーゼクスさんが呆れたような顔をし、その隣でアザゼル先生が面白そうに笑っている。
私はもう一度だけ、オーディン様へ視線を向けた。
先ほどの一瞬が何だったのかは分からない。
ただ、今の様子を見る限り、特に気にする必要はないのだろう。
用意された席へ座り、正面に映し出された映像へ視線を向ける。
そこには、転移を終えたリアス先輩たちの姿が映っていた。
「始まりますね」
「ああ」
アザゼル先生が答える。
私は映像の中にアーシアさんを探した。
すぐに見つかった。
一誠のすぐ近くにいて、二人の距離も離れていない。
それを見て、少しだけ安心する。
あとは、試合が始まるだけ。
そう思っていた。
けれど――いつまで待っても、何も始まらなかった。
「……?」
開始を告げる声がない。
実況も聞こえてこない。
画面の中では、リアス先輩たちも何かがおかしいことに気づき始めていた。
その直後、神殿の周囲に一つ、また一つと人影が現れる。
一人や二人ではない。
数える間にも、その数は増えていった。
「……多くないですか?」
ディオドラの眷属が何人なのかは知っている。
少なくとも、今画面に映っている者たちの数が、それを遥かに超えていることくらいは分かった。
横を見る。
サーゼクスさんの表情が変わっていた。
アザゼル先生も、先ほどまでの軽い雰囲気を消している。
オーディン様も同じだった。
「サーゼクスさん?」
映像の中では、リアス先輩たちが一斉に構えを取っている。
現れた者たちが友好的でないことは、誰の目にも明らかだった。
「これは……ゲームですよね?」
答えたのは、サーゼクスさんだった。
「違う」
短い言葉だった。
それだけで、背中を冷たいものが走った。
「これは襲撃だ」
その言葉が終わるのと、画面の中で爆発が起きるのはほとんど同時だった。
「――ッ!」
大量の魔力弾が、リアス先輩たちへ降り注ぐ。
朱乃先輩が雷撃で迎撃し、裕斗とゼノヴィアが前へ出る。小猫さんも構え、一誠はアーシアさんを庇うように立っていた。
敵の数が多い。
一度攻撃を防いでも、間を置かずに次の攻撃が飛んでくる。
爆発が続き、巻き上がった煙が映像を覆った。
「一誠……」
画面から目を離せない。
煙の向こうに、一誠の姿が見える。
アーシアさんも、そのすぐ後ろにいる。
そう思っていた。
『アーシア!?』
突然、一誠の叫びが響いた。
「……え?」
煙が晴れる。
一誠が振り返っていた。
けれど、その視線の先に――アーシアさんはいない。
「アーシアさん……?」
気づけば、私は椅子から立ち上がっていた。
どこへ行ったのだろう。
ついさっきまで、一誠のすぐ後ろにいたのに。
映像が切り替わり、今度は上空を映し出す。
『一誠さん!』
「――!」
アーシアさんの声だった。
空中に、ディオドラがいる。
その腕には、アーシアさんが抱えられていた。
『アーシアァッ!』
一誠が飛び出そうとする。
しかし、その前へ大量の敵が立ちはだかった。
アーシアさんも必死に一誠へ手を伸ばしている。
それでも、二人の距離が縮まることはない。
ディオドラは何かを告げると、神殿の奥を示した。
そしてそのまま、アーシアさんを抱えて姿を消した。
「…………」
気づいた時には、私は完全に席を離れていた。
「私も行きます」
「ミライちゃん」
サーゼクスさんがこちらを見る。
「もうゲームではありませんよね?」
「……そうだね」
「なら、私が外から見ている理由もありません」
アーシアさんが連れていかれた。
一誠たちも襲われている。
それだけで十分だった。
「私も行きます」
もう一度、はっきりと言う。
「待て、ミライ」
今度はアザゼル先生に止められた。
「でも――」
「行くなとは言ってねぇよ」
「……え?」
先生はすでに別の魔法陣を展開し、何かを確認していた。
サーゼクスさんも同じだった。
二人の口から次々と指示が飛び、私には分からない場所や名前が続けて出てくる。
それを見ていて、ようやく一つの違和感に気づいた。
対応が、あまりにも早い。
「……まさか」
思わず声が漏れた。
「サーゼクスさんたちは、こうなることを知っていたんですか?」
一瞬だけ、サーゼクスさんと目が合った。
「説明はあとでする」
「でも――」
「必ず説明する。ただ、今は」
そこでアザゼル先生がこちらを見る。
「アーシアを助ける方が先だろ?」
「……はい」
納得したわけではない。
聞きたいことはいくつもある。
けれど、それを今ここで問い続けるべきではないことも分かっていた。
アザゼル先生がオーディン様へ顔を向ける。
「爺さん」
「分かっておる」
「現場へ行くなら、ミライも連れていってくれ」
オーディン様は一度だけ私を見る。
初対面した時のような妙な反応はなかった。
「娘」
「はい」
「危険じゃぞ」
「分かっています」
「そうか」
それ以上、オーディン様は何も聞かなかった。
「では行くぞ」
「お願いします」
足元へ光が広がる。
次の瞬間、転移特有の感覚とともに、視界が白く染まった。
◇
次に見えたのは、先ほどまで画面越しに見ていた神殿だった。
けれど、周囲の状況を確かめる暇すらない。
「――ッ!」
目の前を魔力弾が横切った。
反射的に身を低くする。
周囲には、旧魔王派と思われる悪魔たちが大勢いる。
少し離れたところには、リアス先輩たちの姿も見えた。
「なんだこの爺さん!?」
一誠の驚いた声が聞こえる。
「どうしてここに――」
そこまで言ったところで、一誠の視線がこちらへ向いた。
「……って、ミライ!?」
「一誠!」
答えながら前へ出る。
敵の一人が、こちらへ手を向けた。
考えるより早く右手を伸ばす。
光が集まり、一つの形を作り上げていく。
完成すると同時に盾として構え、その直後、正面から魔力弾が叩きつけられた。
「くっ……!」
重い衝撃が盾を通して腕まで伝わってくる。
それでも、防げる。
足を踏ん張って攻撃を受け切り、その勢いのままアストラノヴァを大きく振るった。
敵が数人まとめて吹き飛ぶ。
できた隙を使って、私はリアス先輩たちのところまで一気に走った。
「ミライ、どうしてここにいるの!?」
「サーゼクスさんたちと観戦していました。オーディン様に連れてきてもらったんです」
その説明を聞いた一誠が、すぐに口を開く。
「アーシアが……!」
「はい」
一誠が言い終えるより先に頷いた。
「見ていました。連れていかれるところも」
「……」
一誠の拳が強く握られる。
「絶対に助ける」
「はい」
迷う理由なんてなかった。
「もちろんです」
その時だった。
「ほれ」
オーディン様が、朱乃先輩のすぐ近くへ寄っていく。
何をするのだろうと思った、次の瞬間。
「きゃっ」
「…………」
朱乃先輩のスカートが僅かに持ち上がった。
「……オーディン様」
「なんじゃ?」
「今、何をしているんですか?」
「緊張をほぐしてやろうと思ってな!」
「今ですか?」
「今だからこそじゃ!」
「…………」
初対面してから、まだそれほど時間は経っていない。
けれど、この人がどういう人なのかは、少しだけ分かった気がした。
「じ、爺さん! 何してんだよ!」
一誠も思わず声を上げる。
「うるさいぞ、赤龍帝! こういう時だからこそ余裕が必要なんじゃ!」
「限度ってもんがあるだろ!」
ほんの一瞬だけ、一誠の怒りの向きが別のところへ逸れた。
けれど、その空気も長くは続かなかった。
「みんな」
リアス先輩が前へ出る。
その一言で、全員の視線が集まった。
リアス先輩の表情に、もう笑みはない。
「ゲームは中止よ。今はそんなことをしている場合ではないわ」
誰も異論を挟まなかった。
「アーシアはディオドラに連れていかれた。そして、敵はこの神殿の奥にいる」
一誠が神殿を見る。
裕斗も、ゼノヴィアも、小猫さんも、朱乃先輩も、ギャスパー君も。
私も同じ方向へ視線を向けた。
「行くわよ」
リアス先輩が告げる。
「アーシアを取り戻すわ」
「はい!」
真っ先に答えたのは一誠だった。
私は手の中のアストラノヴァを握り直す。
少し前まで、アーシアさんは笑っていた。
『行ってきます』
そう言った彼女に、私は何の迷いもなく答えた。
『頑張ってください』
数時間後には、また会えると思っていたからだ。
ゲームが終われば、いつものように帰ってくる。
だから私は、何も疑わずに見送った。
だったら今度は、ちゃんと言わなければならない。
――おかえりなさい、と。
そのためにも。
アーシアさんは、必ず連れて帰る。
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Final. あまねく奇跡の始発点 1&2章
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Final. あまねく奇跡の始発点 3&4章
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Vol.5 百花繚乱編
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