止まった針は時の終わりに未来を見る   作:ドレットノータス

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第5刻 届かない手

女は、天使のようには笑わなかった。

 

 ただ、最初からそうであったかのように、冷たく微笑んだ。

 

「久しぶりね、一誠くん。……それとも、もう"兵藤一誠"と呼んだ方がいいのかしら」

 

 一誠の顔から、血の気が引いていた。

 

 アーシアさんは、ぬいぐるみを抱きしめたまま震えている。ほんの少し前まで、友達という言葉に涙を浮かべて笑っていた少女が、今は呼吸の仕方を忘れたように固まっていた。

 

 レイナーレ。アーシアさんがそう呼んだ女。そして一誠が「夕麻ちゃん」と呼んだ女。

 

 黒い翼。夜のような衣。人間ではない気配。

 

 私は、そのすべてを目の前にして、ようやく理解した。

 

 一誠は、夢を見ていたのではない。

 

 この女に、本当に殺されたのだ。

 

「どうして……お前が、ここに」

 

「どうして、ですって?」

 

 レイナーレは可笑しそうに目を細めた。

 

「決まっているでしょう。アーシアを連れ戻しに来たのよ。その子は、私たちに必要なの」

 

「ふざけんな」

 

 一誠が前に出た。私は反射的に腕を伸ばしかけたが、間に合わない。

 

「アーシアは、嫌がってるだろ! 連れ戻すとか、勝手に決めてんじゃねえ!」

 

「一誠さん……」

 

 アーシアさんの声が震える。

 

 駄目だ、と思った。

 

 一誠は正しい。たぶん、間違っていない。けれど、今の彼はあまりにも前に出すぎている。相手の距離、姿勢、殺意——そのどれも見えていない。

 

 レイナーレの指先に、白い光が集まった。槍の形になる。熱が、空気を裂いた。

 

「一誠!」

 

 声より先に、体が動いた。

 

 守らなければ、と思った。その瞬間、使わないと決めていた手順が、胸の奥で開いた。

 

 足元の砂粒がほどける。空気中の塵が光る。世界の表面が、細かな粒子へと分かれていく感覚。壊しているのではない。選び、分け、組み直す。分解。構築。生成。

 

 知っている。私は、この手順を知っている。知っているからこそ、使わないと決めていた。

 

 光とも金属ともつかない粒子が私の右側へ集まり、身の丈ほどもある長大な砲身を形作った。白く、細く、それでいて人の手に余るほど大きな携行砲。黒い基部。握り手を覆う装甲。銃身の根元で、黄色いシリンダーが鈍く光る。

 

 スーパーノヴァ。

 

 仲間を救わんとする勇者の剣。

 

 そして、私が今まで一度も抜かなかったもの。

 

 私はそれを横向きに差し込み、一誠とアーシアさんの前に押し出した。

 

 光の槍が、砲身にぶつかる。衝撃。腕が軋んだ。肩が抜けるかと思った。足が地面を削り、膝が震える。砲身の表面を白い光が走り、火花のように散った。

 

 弾いた。直撃は、防いだ。

 

 けれど、完全ではなかった。

 

 逸れた光の欠片が、一誠の脇腹を裂いた。

 

「ぐっ……!」

 

「一誠さん!」

 

 一誠が膝をつく。血が落ちた。

 

 致命傷ではない。少なくとも、腹を貫かれたわけではない。だが浅くもない。服が裂け、赤が広がっていく。

 

 守れなかった。

 

 違う。少しは守った。

 

 違う。守りきれていないなら、それは失敗だ。

 

「……何、それ」

 

 レイナーレの声に、初めて警戒が混じった。

 

 私はスーパーノヴァを構え直そうとした。

 

 重い。見た目よりは軽い。片手で支えられないほどではない。けれど、初めて実戦で使うには、あまりにも馴染まない重さだった。

 

「スーパーノヴァ」

 

 私はその名を口にした。胸の奥が軋む。

 

「仲間を救わんとする勇者の剣です」

 

「いや、ミライ……それ、どう見ても銃……」

 

「黙っていてください。今、格好をつけています」

 

「自覚あんのかよ……!」

 

 一誠の声に力はなかった。それでも突っ込んでくるあたり、本当にどうしようもない。

 

 私は砲身をレイナーレへ向けた。

 

 撃て。撃てばいい。そう思った。

 

 だが、指が引き金に触れた瞬間、理解してしまった。

 

 撃てない。

 

 形はある。重さもある。硬さもある。盾にはなる。外側だけなら、確かにスーパーノヴァとして成立している。けれど、中身がない。射撃機構が組み上がっていない。力を通す経路が繋がっていない。砲身は砲身の形をしているだけで、弾を吐き出すための内部が追いついていない。

 

 とっさに作ったせいだ。

 

 固さだけはいっちょ前な、銃の形をしたハリボテ。

 

 何が勇者の剣ですか。何が仲間を救う武器ですか。

 

 守りたいと思って出したくせに、守りきれない。撃つ形をしているくせに、撃てもしない。未完成。不完全。ハリボテ。

 

 私は、自分の作ったものに腹が立った。

 

「……ふふ」

 

 レイナーレが笑った。

 

「驚いた。でも、それ……撃てないのね」

 

「……」

 

「図星? 可哀想。立派な見た目なのに、中身が空っぽなんて」

 

 その言葉は、思った以上に深く刺さった。

 

 中身が空っぽ。姿だけ。形だけ。

 

 私の中にある記憶のことを、この女が知っているはずはない。私が何を恐れているかも知らない。なのに、的確に傷口だけを踏み抜いてくる。

 

「黙りなさい」

 

 声が低くなった。自分でも分かるくらい、怒っていた。

 

「それ以上、私の前で笑うな」

 

「怖い怖い。でも今日は、あなたに用はないの」

 

 レイナーレの視線が、アーシアさんへ移る。

 

「帰るわよ、アーシア」

 

 アーシアさんの肩が跳ねた。一誠が立ち上がろうとする。

 

「行かせるかよ……!」

 

「動かないでください!」

 

 私は叫んでいた。自分でも驚くほど、声が荒れていた。

 

「今のあなたが動いて何になるのですか! 血を流して、倒れて、また誰かを悲しませるだけでしょう!」

 

「でも、アーシアが……!」

 

「分かっています! そんなことは、見れば分かります!」

 

 分かっている。だから腹が立つ。一誠にも。レイナーレにも。何より、撃てないスーパーノヴァを握っている自分自身にも。

 

 レイナーレが、もう一本の光の槍を生み出した。今度は一誠ではない。アーシアさんのすぐ横を、白い光が掠めた。

 

「きゃっ……!」

 

「アーシア!」

 

「戻ってくるなら、この男は殺さないわ」

 

 レイナーレは軽く言った。

 

「でも、逆らうなら……分かるでしょう?」

 

 アーシアさんは、一誠を見た。血を流して膝をつく一誠を。スーパーノヴァを構えたまま動けない私を。それから、レイナーレを見た。

 

「……私が戻れば、一誠さんには手を出さないでくださるのですね」

 

「ええ。約束するわ」

 

「信じられる相手ではありません」

 

 私は即座に言った。

 

 アーシアさんは、悲しそうに微笑んだ。あの、聖母のような微笑だった。

 

 違う。今は笑う場面ではない。そんな顔で、諦めたように笑わないでほしい。

 

「ミライさん」

 

「行ってはいけません」

 

「一誠さんを、お願いします」

 

「聞きなさい!」

 

 声が震えた。怒っているのか、怖いのか、自分でも分からなかった。

 

「あなたは、さっき友達だと言ったばかりでしょう! 友達なら、勝手に自分を差し出して納得した顔をしないでください!」

 

「……ごめんなさい」

 

 その謝罪が、余計に痛かった。

 

 アーシアさんは、一誠に向き直る。

 

「一誠さん。私、とても楽しかったです」

 

「アーシア、やめろ……!」

 

「友達だと言ってくださって、嬉しかったです」

 

「やめろって!」

 

 レイナーレがアーシアさんの肩に手を置いた。

 

 私はスーパーノヴァを動かそうとした。間に合わない。重い。撃てない。届かない。

 

「またね、一誠くん。それと、面白いおもちゃを持ったお嬢さん」

 

 レイナーレが笑う。

 

 次の瞬間、黒い翼と白い修道服が、夜の気配に呑まれるように消えた。

 

 公園に残ったのは、血の匂いと、砕けかけた足元の砂と、私の腕の中で崩れ始めるスーパーノヴァだけだった。

 

 粒子がほどけていく。白い砲身が光になり、黒い基部が砂のように散り、黄色いシリンダーの光が最後にひとつ瞬いて消えた。

 

 何も残らなかった。

 

 守りたいと思って出したものは、守りきれず、撃てず、残ることすらできなかった。

 

 

「アーシア……!」

 

 一誠が立ち上がろうとする。

 

「動くなと言いました!」

 

 私は彼の肩を押さえた。

 

「離せ、ミライ! アーシアが!」

 

「動けば傷が開きます!」

 

「そんなの関係あるか!」

 

「あります!」

 

 私は怒鳴った。

 

「あなたがここで倒れたら、誰がアーシアさんを助けるのですか! あなたはまた、助けたい相手の前で死ぬつもりですか!」

 

 一誠の動きが止まった。

 

 痛みに歪んだ顔で、それでも歯を食いしばっている。

 

 私は彼の傷口を押さえた。血が手に触れる。温かい。嫌な温かさだった。

 

 歯車なら戻せる。折れた芯なら交換できる。割れたガラスなら替えを探せる。けれど、人の体に開いた傷を、私はどうすればいいのか知らなかった。

 

「くそ……っ」

 

 一誠の声が震えた。

 

「俺、また……何もできなかった」

 

「違います」

 

「違わねえよ! 目の前で、アーシアが……!」

 

「違うと言っています!」

 

 私は傷口を押さえたまま、彼を睨んだ。

 

「反省も後悔も後です。今は血を止める。呼吸を整える。助ける方法を探す。泣くのも怒るのも、その後です」

 

「おまえだって怒ってるじゃねえか……!」

 

「怒っています!」

 

 即答した。

 

「当たり前でしょう! 友達が連れていかれて、あなたが血を流して、私が出した武器はハリボテで、これで怒らない方がどうかしています!」

 

 一誠が、少しだけ目を見開いた。それから、苦しそうに笑った。

 

「……友達って、言ったな」

 

「今そこを確認する余裕があるなら、まだ死にませんね」

 

「ひでえ……」

 

 

 その時、背後の空気が揺れた。

 

 振り返ると、魔法陣のような光が地面に浮かび、そこから二人の影が現れた。木場祐斗。塔城小猫。

 

 木場くんは一誠の傷を見るなり表情を引き締め、小猫さんは私の手元に残る光の粒子をじっと見た。

 

「兵藤くん!」

 

「イッセー先輩、大丈夫ですか」

 

「大丈夫に見えますか」

 

 私の声は、自分でも驚くほど刺々しかった。小猫さんは一瞬だけ目を瞬かせた。

 

「見えません」

 

「なら、質問の形式を修正してください」

 

「……すみません」

 

 木場くんが一誠のそばに膝をつく。

 

「何があった?」

 

「レイナーレが……アーシアを……」

 

 それだけで、木場くんの顔色が変わった。小猫さんは私を見た。

 

「見ましたか」

 

「見ました」

 

「なら、もう無関係ではないです」

 

「元から無関係のつもりはありません」

 

 私の手には、一誠の血がついていた。無関係という言葉が、こんなにも腹立たしく聞こえるとは思わなかった。

 

 

 木場くんが一誠を支える。

 

「部室へ運ぶ。治療が必要だ」

 

「アーシアは……!」

 

「今の君じゃ追えない」

 

「でも!」

 

「追うために、まず動ける状態に戻すんだ」

 

 木場くんの声は穏やかだった。だが、そこには一誠を止めるだけの強さがあった。この人は、一誠を見捨てるつもりではない。そのことだけは分かった。

 

 小猫さんが私を見る。

 

「天童先輩も来てください」

 

「当然です」

 

「……即答」

 

「血をつけたまま店に戻れるわけがないでしょう。それに、説明してもらいます。全部」

 

 小猫さんは少しだけ頷いた。

 

「部長がします」

 

 光が足元に広がる。視界が揺れ、次の瞬間、私は旧校舎の中にいた。

 

 オカルト研究部の部室。あの時入らなかった場所。入らないと決めた場所。けれど今は、そんな選択の余地などなかった。

 

 赤い髪の少女が、こちらを向いた。

 

 リアス・グレモリー。

 

 彼女の目が一誠の傷へ、私の血まみれの手へ、そして私の周囲に残る微かな光の粒子へと移る。

 

「……何があったの」

 

「レイナーレが現れました。一誠君が怪我を負い、例のシスターが連れてかれました」

 

 木場くんが短く報告する。リアス先輩の表情が険しくなった。

 

 姫島朱乃さんがすぐに治療の準備に動き、小猫さんが一誠をソファへ寝かせる。私は一歩下がろうとして、自分の手が震えていることに気づいた。

 

 怒りは、まだ消えていない。怖さも、消えていない。

 

 リアス先輩が私を見る。

 

「天童ミライさん」

 

「はい」

 

「あなたを巻き込むつもりはなかったわ」

 

「もう巻き込まれています」

 

「……そうね」

 

 彼女は少しだけ目を伏せた。

 

「なら、説明するわ。私たちは悪魔。一誠は私の眷属として転生した悪魔。夕麻と名乗っていた存在は、堕天使レイナーレ。アーシア・アルジェントは教会側のシスターで、彼女の神器をレイナーレたちは狙っている」

 

 悪魔。堕天使。神器。

 

 普通なら、笑うところなのだろう。けれど私は、黒い翼を見た。白い光の槍を見た。一誠の血を押さえた。自分の手で、スーパーノヴァを出した。笑える材料は、一つもなかった。

 

「驚かないのね」

 

「驚いています。処理が追いついていないだけです」

 

 リアス先輩は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「それと、あなたのあの武器。あれは神器?」

 

「違います」

 

「では、魔術?」

 

「違います」

 

「なら、何?」

 

 私は手のひらを見た。もう何も残っていない。

 

「私の中にある力で、作りました。分解して、構築して、生成した。けれど、とっさだったので中身は未完成です。盾としては機能しましたが、撃てませんでした」

 

 言葉にすると、また腹が立った。

 

「固さだけはいっちょ前なハリボテです」

 

 一誠がソファの上で小さく笑った。

 

「おまえ、自分の武器に辛辣すぎ……」

 

「黙って治療を受けてください」

 

「はい……」

 

 朱乃さんがくすりと笑いかけたが、すぐに表情を引き締めた。

 

 

 治療が終わる頃には、一誠の出血は止まっていた。だが完全に動ける状態ではない。それでも彼は起き上がろうとした。

 

「部長、俺、アーシアを助けに行きます」

 

「駄目よ」

 

 リアス先輩の声は厳しかった。

 

「相手は堕天使。あなたはまだ悪魔としても未熟。今のまま行っても、また殺されるだけよ」

 

「それでも行きます」

 

「一誠」

 

「アーシアは、俺の友達なんです」

 

 その言葉は、さきほどの公園で聞いたものと同じだった。迷いがない。

 

 作戦としては最低だ。勝算も薄い。自分の傷も考えていない。けれど、人としては、たぶん正しかった。

 

「……私も行きます」

 

 気づけば、そう言っていた。

 

 リアス先輩がこちらを見る。

 

「駄目よ」

 

「理由は」

 

「あなたは悪魔ではない。こちらの世界の戦い方も知らない。さっきの武器も、再現できる保証はないのでしょう」

 

「それでも、アーシアさんは私の友達です」

 

 一誠がこちらを見た。驚いた顔をしていた。

 

 何ですか、その顔は。私だって言う時は言う。

 

「気持ちは分かるわ」

 

「分かるなら」

 

「だからこそ、連れていけない」

 

 リアス先輩の声は、冷たくはなかった。けれど、揺らがなかった。

 

「あなたまで失う可能性を増やすわけにはいかない。アーシアを助けるためにも、行く人数と戦力は選ぶ必要がある」

 

「なら、私の力は戦力ではないと?」

 

「今は、危険要素よ」

 

 言い返せなかった。撃てないハリボテ。その評価は、悔しいほど正しい。

 

 リアス先輩と朱乃さんは別方面へ動くと言った。堕天使たちを引きつける必要があるらしい。一誠は、一人ででも行こうとした。その前に、木場くんが隣に立った。

 

「一人で行かせるわけにはいかないよ」

 

「木場……」

 

「君が無茶をするのは、もう分かっているからね」

 

 小猫さんも、一誠の反対側に立つ。

 

「兵藤先輩だけだと、死にます」

 

「小猫ちゃん、言い方!」

 

「事実です」

 

 私は二人を見た。木場くんの整った笑顔の奥に、少なくとも一誠を一人で死なせない意思があることは分かった。小猫さんの短い言葉にも、同じものがある。

 

 オカルト研究部。まだ信用したわけではない。けれど、少なくとも彼らは一誠を見捨てない。

 

 魔法陣が床に広がる。一誠が私を見た。

 

「ミライ」

 

「何ですか」

 

「アーシア、連れて帰ってくる」

 

「当然です」

 

「おう」

 

「失敗したら、説教です」

 

「成功しても?」

 

「もちろんします」

 

「するのかよ」

 

「怪我をした時点で確定しています」

 

 一誠は少しだけ笑った。それから、真剣な顔になる。

 

「行ってくる」

 

「……行ってらっしゃい」

 

 言った瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。

 

 光が強くなる。一誠、木場くん、小猫さんの姿が魔法陣の中に薄れていく。

 

 私は手を伸ばしかけた。

 

 届かない。また、届かない。

 

 光が消えた。

 

 

 部室には、時計の音がなかった。

 

 私の店ではない。ここには、時を刻むものがない。だから、どれだけ時間が残されているのか、私には分からなかった。

 

 分からないまま、私は初めて願った。

 

 どうか、間に合ってください。

 

 祈り方も知らないくせに。

 

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