女は、天使のようには笑わなかった。
ただ、最初からそうであったかのように、冷たく微笑んだ。
「久しぶりね、一誠くん。……それとも、もう"兵藤一誠"と呼んだ方がいいのかしら」
一誠の顔から、血の気が引いていた。
アーシアさんは、ぬいぐるみを抱きしめたまま震えている。ほんの少し前まで、友達という言葉に涙を浮かべて笑っていた少女が、今は呼吸の仕方を忘れたように固まっていた。
レイナーレ。アーシアさんがそう呼んだ女。そして一誠が「夕麻ちゃん」と呼んだ女。
黒い翼。夜のような衣。人間ではない気配。
私は、そのすべてを目の前にして、ようやく理解した。
一誠は、夢を見ていたのではない。
この女に、本当に殺されたのだ。
「どうして……お前が、ここに」
「どうして、ですって?」
レイナーレは可笑しそうに目を細めた。
「決まっているでしょう。アーシアを連れ戻しに来たのよ。その子は、私たちに必要なの」
「ふざけんな」
一誠が前に出た。私は反射的に腕を伸ばしかけたが、間に合わない。
「アーシアは、嫌がってるだろ! 連れ戻すとか、勝手に決めてんじゃねえ!」
「一誠さん……」
アーシアさんの声が震える。
駄目だ、と思った。
一誠は正しい。たぶん、間違っていない。けれど、今の彼はあまりにも前に出すぎている。相手の距離、姿勢、殺意——そのどれも見えていない。
レイナーレの指先に、白い光が集まった。槍の形になる。熱が、空気を裂いた。
「一誠!」
声より先に、体が動いた。
守らなければ、と思った。その瞬間、使わないと決めていた手順が、胸の奥で開いた。
足元の砂粒がほどける。空気中の塵が光る。世界の表面が、細かな粒子へと分かれていく感覚。壊しているのではない。選び、分け、組み直す。分解。構築。生成。
知っている。私は、この手順を知っている。知っているからこそ、使わないと決めていた。
光とも金属ともつかない粒子が私の右側へ集まり、身の丈ほどもある長大な砲身を形作った。白く、細く、それでいて人の手に余るほど大きな携行砲。黒い基部。握り手を覆う装甲。銃身の根元で、黄色いシリンダーが鈍く光る。
スーパーノヴァ。
仲間を救わんとする勇者の剣。
そして、私が今まで一度も抜かなかったもの。
私はそれを横向きに差し込み、一誠とアーシアさんの前に押し出した。
光の槍が、砲身にぶつかる。衝撃。腕が軋んだ。肩が抜けるかと思った。足が地面を削り、膝が震える。砲身の表面を白い光が走り、火花のように散った。
弾いた。直撃は、防いだ。
けれど、完全ではなかった。
逸れた光の欠片が、一誠の脇腹を裂いた。
「ぐっ……!」
「一誠さん!」
一誠が膝をつく。血が落ちた。
致命傷ではない。少なくとも、腹を貫かれたわけではない。だが浅くもない。服が裂け、赤が広がっていく。
守れなかった。
違う。少しは守った。
違う。守りきれていないなら、それは失敗だ。
「……何、それ」
レイナーレの声に、初めて警戒が混じった。
私はスーパーノヴァを構え直そうとした。
重い。見た目よりは軽い。片手で支えられないほどではない。けれど、初めて実戦で使うには、あまりにも馴染まない重さだった。
「スーパーノヴァ」
私はその名を口にした。胸の奥が軋む。
「仲間を救わんとする勇者の剣です」
「いや、ミライ……それ、どう見ても銃……」
「黙っていてください。今、格好をつけています」
「自覚あんのかよ……!」
一誠の声に力はなかった。それでも突っ込んでくるあたり、本当にどうしようもない。
私は砲身をレイナーレへ向けた。
撃て。撃てばいい。そう思った。
だが、指が引き金に触れた瞬間、理解してしまった。
撃てない。
形はある。重さもある。硬さもある。盾にはなる。外側だけなら、確かにスーパーノヴァとして成立している。けれど、中身がない。射撃機構が組み上がっていない。力を通す経路が繋がっていない。砲身は砲身の形をしているだけで、弾を吐き出すための内部が追いついていない。
とっさに作ったせいだ。
固さだけはいっちょ前な、銃の形をしたハリボテ。
何が勇者の剣ですか。何が仲間を救う武器ですか。
守りたいと思って出したくせに、守りきれない。撃つ形をしているくせに、撃てもしない。未完成。不完全。ハリボテ。
私は、自分の作ったものに腹が立った。
「……ふふ」
レイナーレが笑った。
「驚いた。でも、それ……撃てないのね」
「……」
「図星? 可哀想。立派な見た目なのに、中身が空っぽなんて」
その言葉は、思った以上に深く刺さった。
中身が空っぽ。姿だけ。形だけ。
私の中にある記憶のことを、この女が知っているはずはない。私が何を恐れているかも知らない。なのに、的確に傷口だけを踏み抜いてくる。
「黙りなさい」
声が低くなった。自分でも分かるくらい、怒っていた。
「それ以上、私の前で笑うな」
「怖い怖い。でも今日は、あなたに用はないの」
レイナーレの視線が、アーシアさんへ移る。
「帰るわよ、アーシア」
アーシアさんの肩が跳ねた。一誠が立ち上がろうとする。
「行かせるかよ……!」
「動かないでください!」
私は叫んでいた。自分でも驚くほど、声が荒れていた。
「今のあなたが動いて何になるのですか! 血を流して、倒れて、また誰かを悲しませるだけでしょう!」
「でも、アーシアが……!」
「分かっています! そんなことは、見れば分かります!」
分かっている。だから腹が立つ。一誠にも。レイナーレにも。何より、撃てないスーパーノヴァを握っている自分自身にも。
レイナーレが、もう一本の光の槍を生み出した。今度は一誠ではない。アーシアさんのすぐ横を、白い光が掠めた。
「きゃっ……!」
「アーシア!」
「戻ってくるなら、この男は殺さないわ」
レイナーレは軽く言った。
「でも、逆らうなら……分かるでしょう?」
アーシアさんは、一誠を見た。血を流して膝をつく一誠を。スーパーノヴァを構えたまま動けない私を。それから、レイナーレを見た。
「……私が戻れば、一誠さんには手を出さないでくださるのですね」
「ええ。約束するわ」
「信じられる相手ではありません」
私は即座に言った。
アーシアさんは、悲しそうに微笑んだ。あの、聖母のような微笑だった。
違う。今は笑う場面ではない。そんな顔で、諦めたように笑わないでほしい。
「ミライさん」
「行ってはいけません」
「一誠さんを、お願いします」
「聞きなさい!」
声が震えた。怒っているのか、怖いのか、自分でも分からなかった。
「あなたは、さっき友達だと言ったばかりでしょう! 友達なら、勝手に自分を差し出して納得した顔をしないでください!」
「……ごめんなさい」
その謝罪が、余計に痛かった。
アーシアさんは、一誠に向き直る。
「一誠さん。私、とても楽しかったです」
「アーシア、やめろ……!」
「友達だと言ってくださって、嬉しかったです」
「やめろって!」
レイナーレがアーシアさんの肩に手を置いた。
私はスーパーノヴァを動かそうとした。間に合わない。重い。撃てない。届かない。
「またね、一誠くん。それと、面白いおもちゃを持ったお嬢さん」
レイナーレが笑う。
次の瞬間、黒い翼と白い修道服が、夜の気配に呑まれるように消えた。
公園に残ったのは、血の匂いと、砕けかけた足元の砂と、私の腕の中で崩れ始めるスーパーノヴァだけだった。
粒子がほどけていく。白い砲身が光になり、黒い基部が砂のように散り、黄色いシリンダーの光が最後にひとつ瞬いて消えた。
何も残らなかった。
守りたいと思って出したものは、守りきれず、撃てず、残ることすらできなかった。
「アーシア……!」
一誠が立ち上がろうとする。
「動くなと言いました!」
私は彼の肩を押さえた。
「離せ、ミライ! アーシアが!」
「動けば傷が開きます!」
「そんなの関係あるか!」
「あります!」
私は怒鳴った。
「あなたがここで倒れたら、誰がアーシアさんを助けるのですか! あなたはまた、助けたい相手の前で死ぬつもりですか!」
一誠の動きが止まった。
痛みに歪んだ顔で、それでも歯を食いしばっている。
私は彼の傷口を押さえた。血が手に触れる。温かい。嫌な温かさだった。
歯車なら戻せる。折れた芯なら交換できる。割れたガラスなら替えを探せる。けれど、人の体に開いた傷を、私はどうすればいいのか知らなかった。
「くそ……っ」
一誠の声が震えた。
「俺、また……何もできなかった」
「違います」
「違わねえよ! 目の前で、アーシアが……!」
「違うと言っています!」
私は傷口を押さえたまま、彼を睨んだ。
「反省も後悔も後です。今は血を止める。呼吸を整える。助ける方法を探す。泣くのも怒るのも、その後です」
「おまえだって怒ってるじゃねえか……!」
「怒っています!」
即答した。
「当たり前でしょう! 友達が連れていかれて、あなたが血を流して、私が出した武器はハリボテで、これで怒らない方がどうかしています!」
一誠が、少しだけ目を見開いた。それから、苦しそうに笑った。
「……友達って、言ったな」
「今そこを確認する余裕があるなら、まだ死にませんね」
「ひでえ……」
その時、背後の空気が揺れた。
振り返ると、魔法陣のような光が地面に浮かび、そこから二人の影が現れた。木場祐斗。塔城小猫。
木場くんは一誠の傷を見るなり表情を引き締め、小猫さんは私の手元に残る光の粒子をじっと見た。
「兵藤くん!」
「イッセー先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫に見えますか」
私の声は、自分でも驚くほど刺々しかった。小猫さんは一瞬だけ目を瞬かせた。
「見えません」
「なら、質問の形式を修正してください」
「……すみません」
木場くんが一誠のそばに膝をつく。
「何があった?」
「レイナーレが……アーシアを……」
それだけで、木場くんの顔色が変わった。小猫さんは私を見た。
「見ましたか」
「見ました」
「なら、もう無関係ではないです」
「元から無関係のつもりはありません」
私の手には、一誠の血がついていた。無関係という言葉が、こんなにも腹立たしく聞こえるとは思わなかった。
木場くんが一誠を支える。
「部室へ運ぶ。治療が必要だ」
「アーシアは……!」
「今の君じゃ追えない」
「でも!」
「追うために、まず動ける状態に戻すんだ」
木場くんの声は穏やかだった。だが、そこには一誠を止めるだけの強さがあった。この人は、一誠を見捨てるつもりではない。そのことだけは分かった。
小猫さんが私を見る。
「天童先輩も来てください」
「当然です」
「……即答」
「血をつけたまま店に戻れるわけがないでしょう。それに、説明してもらいます。全部」
小猫さんは少しだけ頷いた。
「部長がします」
光が足元に広がる。視界が揺れ、次の瞬間、私は旧校舎の中にいた。
オカルト研究部の部室。あの時入らなかった場所。入らないと決めた場所。けれど今は、そんな選択の余地などなかった。
赤い髪の少女が、こちらを向いた。
リアス・グレモリー。
彼女の目が一誠の傷へ、私の血まみれの手へ、そして私の周囲に残る微かな光の粒子へと移る。
「……何があったの」
「レイナーレが現れました。一誠君が怪我を負い、例のシスターが連れてかれました」
木場くんが短く報告する。リアス先輩の表情が険しくなった。
姫島朱乃さんがすぐに治療の準備に動き、小猫さんが一誠をソファへ寝かせる。私は一歩下がろうとして、自分の手が震えていることに気づいた。
怒りは、まだ消えていない。怖さも、消えていない。
リアス先輩が私を見る。
「天童ミライさん」
「はい」
「あなたを巻き込むつもりはなかったわ」
「もう巻き込まれています」
「……そうね」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「なら、説明するわ。私たちは悪魔。一誠は私の眷属として転生した悪魔。夕麻と名乗っていた存在は、堕天使レイナーレ。アーシア・アルジェントは教会側のシスターで、彼女の神器をレイナーレたちは狙っている」
悪魔。堕天使。神器。
普通なら、笑うところなのだろう。けれど私は、黒い翼を見た。白い光の槍を見た。一誠の血を押さえた。自分の手で、スーパーノヴァを出した。笑える材料は、一つもなかった。
「驚かないのね」
「驚いています。処理が追いついていないだけです」
リアス先輩は、ほんの少しだけ目を細めた。
「それと、あなたのあの武器。あれは神器?」
「違います」
「では、魔術?」
「違います」
「なら、何?」
私は手のひらを見た。もう何も残っていない。
「私の中にある力で、作りました。分解して、構築して、生成した。けれど、とっさだったので中身は未完成です。盾としては機能しましたが、撃てませんでした」
言葉にすると、また腹が立った。
「固さだけはいっちょ前なハリボテです」
一誠がソファの上で小さく笑った。
「おまえ、自分の武器に辛辣すぎ……」
「黙って治療を受けてください」
「はい……」
朱乃さんがくすりと笑いかけたが、すぐに表情を引き締めた。
治療が終わる頃には、一誠の出血は止まっていた。だが完全に動ける状態ではない。それでも彼は起き上がろうとした。
「部長、俺、アーシアを助けに行きます」
「駄目よ」
リアス先輩の声は厳しかった。
「相手は堕天使。あなたはまだ悪魔としても未熟。今のまま行っても、また殺されるだけよ」
「それでも行きます」
「一誠」
「アーシアは、俺の友達なんです」
その言葉は、さきほどの公園で聞いたものと同じだった。迷いがない。
作戦としては最低だ。勝算も薄い。自分の傷も考えていない。けれど、人としては、たぶん正しかった。
「……私も行きます」
気づけば、そう言っていた。
リアス先輩がこちらを見る。
「駄目よ」
「理由は」
「あなたは悪魔ではない。こちらの世界の戦い方も知らない。さっきの武器も、再現できる保証はないのでしょう」
「それでも、アーシアさんは私の友達です」
一誠がこちらを見た。驚いた顔をしていた。
何ですか、その顔は。私だって言う時は言う。
「気持ちは分かるわ」
「分かるなら」
「だからこそ、連れていけない」
リアス先輩の声は、冷たくはなかった。けれど、揺らがなかった。
「あなたまで失う可能性を増やすわけにはいかない。アーシアを助けるためにも、行く人数と戦力は選ぶ必要がある」
「なら、私の力は戦力ではないと?」
「今は、危険要素よ」
言い返せなかった。撃てないハリボテ。その評価は、悔しいほど正しい。
リアス先輩と朱乃さんは別方面へ動くと言った。堕天使たちを引きつける必要があるらしい。一誠は、一人ででも行こうとした。その前に、木場くんが隣に立った。
「一人で行かせるわけにはいかないよ」
「木場……」
「君が無茶をするのは、もう分かっているからね」
小猫さんも、一誠の反対側に立つ。
「兵藤先輩だけだと、死にます」
「小猫ちゃん、言い方!」
「事実です」
私は二人を見た。木場くんの整った笑顔の奥に、少なくとも一誠を一人で死なせない意思があることは分かった。小猫さんの短い言葉にも、同じものがある。
オカルト研究部。まだ信用したわけではない。けれど、少なくとも彼らは一誠を見捨てない。
魔法陣が床に広がる。一誠が私を見た。
「ミライ」
「何ですか」
「アーシア、連れて帰ってくる」
「当然です」
「おう」
「失敗したら、説教です」
「成功しても?」
「もちろんします」
「するのかよ」
「怪我をした時点で確定しています」
一誠は少しだけ笑った。それから、真剣な顔になる。
「行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
言った瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。
光が強くなる。一誠、木場くん、小猫さんの姿が魔法陣の中に薄れていく。
私は手を伸ばしかけた。
届かない。また、届かない。
光が消えた。
部室には、時計の音がなかった。
私の店ではない。ここには、時を刻むものがない。だから、どれだけ時間が残されているのか、私には分からなかった。
分からないまま、私は初めて願った。
どうか、間に合ってください。
祈り方も知らないくせに。