オーディンの爺さんが日本へやって来てから、何日かが過ぎた。
日本神話側との正式な会談を控えている――なんて聞けば、普通ならそれまでは大人しく準備に専念するものだと思う。少なくとも俺はそう思っていたし、ロスヴァイセさんも間違いなく同じ考えだったはずだ。
けれど、肝心のオーディンノ爺さんには、どうやらそんな常識は存在しなかったらしい。
「いやぁ、日本という国は実によいのう。飯は美味いし、見るものも多い。それになにより、女性がよい」
「オーディン様……」
夜空を進む巨大な馬車の中に、ロスヴァイセさんの心底疲れ切った声が響いた。
俺たちが乗っているのは、北欧神話でも有名な八本脚の軍馬――スレイプニルが引く馬車だ。地上の道ではなく、八本の脚で夜空そのものを蹴って進んでいる。
車内は外から見た印象よりずっと広く、揺れもほとんど伝わってこない。窓の外へ目を向ければ、遥か下に駒王町の灯りが、こぼした砂粒みたいに小さく広がっていた。
初めて乗った時こそ感動したけれど、数日もこの生活を続けていれば、さすがに珍しさも薄れてくる。なにしろこの数日間、俺たちはオーディンの爺さんの観光にひたすら付き合わされていたのだ。
寿司を食べたいと言えば寿司屋へ行き、遊園地を見たいと言えば遊園地へ向かい、気になる店があれば予定を変えて寄り道する。そこまではまだいい。問題は、この爺さんが年齢制限のあるような店にまで平然と入ろうとすることだった。
当然、高校生の俺たちは中へ入れない。護衛なのに、外で待機。なんだそれ。
「……思い返しても納得いかねえ。護衛としてついて行ったのに、結局俺たちは店の外で待ってただけじゃねえか」
つい漏れた俺の愚痴に、向かいのオーディンの爺さんがにやりと笑った。
「なんじゃ、赤龍帝。そんなに中へ入りたかったのか?」
「違うって! 護衛としての話だよ!」
「ほう? わしには随分と残念そうに見えたがのう」
「それは、その……中がどうなってるのか多少気になっただけで――」
「イッセー?」
すぐ隣から、よく知っている声が聞こえた。それだけで背筋が伸びる。
「なんでもありません、部長!」
「そう?」
部長は笑っていた。ただし、その笑顔から感じる圧力については考えないことにする。
「あらあら、イッセー君ったら」
「朱乃先輩まで!」
「私は何も言っていませんわ?」
「その顔が全部言ってます!」
馬車の中に小さな笑いが広がる。窓際ではアザゼル先生が我関せずとばかりに欠伸を噛み殺し、アーシアが困ったように笑い、小猫ちゃんは無言で俺を一瞥してから、また膝の上のお菓子の袋へ視線を戻した。
……その一瞥が一番効く。
そんないつも通りの空気の中で、俺はふと、朱乃先輩の横顔が気になった。
ここ何日か、朱乃先輩が時々こうして会話から意識を外していることがある。普段通りに笑っているし、目立って様子がおかしいわけでもない。それでも、ふとした瞬間にどこか遠くを見るような表情を浮かべることが増えていた。
今もそうだ。笑い声が収まった後、朱乃先輩の視線は窓の外へ向いていた。夜空の中を、馬車と並んで飛んでいる人影の一つへ。
バラキエルさんと話したことが原因なのだろう。たぶん。
だからといって、今の俺に気の利いた言葉がかけられるわけでもないし、朱乃先輩自身が何も言っていない以上、無理に踏み込むのも違う気がする。今は、そっとしておくしかない。
「……とにかくです!」
ロスヴァイセさんが声を強めた。
「明後日には日本神話側との正式な会談があるのですよ? 今回の来日は観光旅行ではありません。せめてそれまでは、ご自身のお立場を少しは考えて行動してください!」
「ちゃんと考えておるぞ? こうして無事に観光を終えて戻っておるではないか」
「結果論です!」
「細かいのう」
「細かくありません!」
……この二人、本当にいつもこんな感じだな。
俺は苦笑しながら窓の外へ視線を移した。
馬車のすぐ外側には、木場、ゼノヴィア、イリナ、それにバラキエルさんが護衛としてついている。そのさらに外周に展開しているのが、もう一組の護衛部隊――ユキノさん、ニコさん、クルミさん、オトギさんの四人からなるFOX小隊だ。
見慣れてきたとはいえ、あの人たちの飛び方はやっぱり俺たちとは違って見える。翼を持っているわけじゃない。装備へ刻まれた北欧のルーンが淡い光を放ち、その力で身体そのものを空中へ固定し、自在に動かしている。
上がり、下がり、横へ滑る。空中で静止したかと思えば、次の瞬間には一気に加速する。俺たちの飛び方が翼で風を掴む「飛行」だとすれば、FOX小隊の動きは、地上で戦う兵士がそのまま三次元へ活動範囲を広げたみたいだった。
ユキノさんが前方、ニコさんが右側から後方、クルミさんは馬車に近い位置。大きな銃を持ったオトギさんは、他の三人より少し高い場所から広い範囲を見ている。ただ並んで飛んでいるわけじゃない。それぞれに役割があるのだろう。
護衛任務が始まる前、FOX小隊からは一つ説明を受けていた。緊急時に名前で呼び合っていては混乱するため、護衛や対象一人一人に識別用のコードネームが割り振られている。
通信は、任務前に渡された小型の受信機を耳に着けておけば、FOX小隊の無線がそのまま聞こえる仕組みだ。
オーディンの爺さんは《RAVEN》。俺たちグレモリー眷属をまとめて呼ぶ場合は《CRIMSON》。そして俺個人に割り当てられたのは――《DRAKE》。
初めて聞いた時、正直ちょっと格好いいと思った。でも口にしたら絶対からかわれるので黙っている。特に松田と元浜には絶対知られたくない。
そんなことを考えていた、その時だった。
「ヒヒィィィィィィンッ!」
突然、スレイプニルが大きく嘶いた。窓の外で八本の脚が一斉に夜空を踏みしめ、馬車全体が大きく揺れる。
「うおっ!」
身体が前へ持っていかれ、慌てて座席へ手をついた。急停止だ。ロスヴァイセさんが咄嗟にオーディンの爺さんの肩を支え、アーシアが小猫ちゃんに抱きとめられている。
「何!?」
部長の声が一瞬で切り替わる。全員が立ち上がるのと、耳の受信機から通信が飛び込んできたのはほぼ同時だった。
『FOX1より全員。警戒。FOX2、後方を確認。FOX3、RAVENへ。FOX4、上から前方を見て』
『FOX2、了解』
『FOX3、了解』
『FOX4、了解。前方確認するね』
短い。でも、誰も迷っていない。指示が出た瞬間、四人がそれぞれ別方向へ動き出す。
俺も窓際へ寄った。
馬車の進行方向。そこに、一人の女が浮かんでいた。
最初に思ったのは――小さい、だった。
淡い桃色の髪に、白を基調にした、どこか制服を思わせる服。頭上には見たことのない形の輪が浮かび、月の光を受けて夜空の中でやけにはっきりと光っている。
背中に翼はない。それなのに、見えない床でもあるみたいに、平然と夜空へ立っていた。
見た目だけなら俺たちと大して変わらない。とてもじゃないが、八本脚の巨大馬が引く馬車を一人で止めた相手には見えなかった。
『相棒。見た目で判断するな』
「……分かってる」
ドライグに言われなくても、悪魔になってから何度も学んだ。見た目と強さが一致しない奴なんて、いくらでもいる。
アザゼル先生が先に馬車の外へ出た。開いた扉から、高空の冷たい夜風が一気に吹き込んでくる。
「ずいぶんな挨拶だな。いきなり進路を塞いで、こっちの馬まで止めやがって」
「突然お止めしてしまったことについては、お詫びします」
女は慌てる様子すら見せず、穏やかに微笑んでいた。
「ですが、オーディン様へ確認しておきたいことがありまして。少しだけお時間をいただければと思います」
「その前に名乗ったらどうだ?」
「……そうですね。それが順序でした」
女は軽く頷いた。
「北欧神話では、ロキと呼ばれている者です」
「……は?」
一瞬、俺の頭が止まった。
ロキ。北欧神話を詳しく知らない俺でも聞いたことのある名前だ。なのに、目の前にいるのは小柄で、桃色の髪で、制服みたいな服を着た女。もっとこう、恐ろしい顔をした男とか、いかにも怪しい奴とかを勝手に想像していた。
「……マジで?」
「驚かれることが多いですね」
『FOX1より全員。正面敵性をJESTER指定』
アザゼル先生の方は、もう完全に警戒態勢へ入っている。
「それで? ロキさんよ。オーディンに何の用だ」
「最近、オーディン様がずいぶんと他神話へ積極的に関わっておられるようですので、その点について少々お話をと思いまして」
その言葉に、オーディンの爺さんも外へ出た。ロスヴァイセさんがすぐに続き、俺や部長たちもその後を追う。同時にクルミさんが爺さんの近くへ入り、ニコさんとユキノさんが射線を作った。
「なんじゃ。わざわざ出てきたと思えば、またその話か」
「『また』で済ませてよい問題だとは思っていません。悪魔、天使、堕天使。今度は日本神話です。北欧を代表する方が、そこまで他の神話体系へ接触する必要が本当にあるのでしょうか?」
「必要かどうかなど知らん。わしが面白いと思っておるから来た。それでは駄目か?」
オーディンの爺さんらしい。ロスヴァイセさんが後ろで頭を抱えそうな顔をしている。
「知らん文化、知らん考え方。それを知るのは面白いぞ?」
「……面白いから、ですか」
ロキの笑顔は残っていた。でも、目だけがほんの少し冷えた気がした。
「やはり、私には理解しかねますね。神々がそれぞれの都合で判断し、そのたびに他の神話体系と交渉し、利害をすり合わせる。あまりにも非効率です。より優れた者が全体の方針を定め、それ以外はその決定に従う。そうすれば、無駄な対立も調整も減らせます」
「お前、それ本気で言ってんのか?」
「もちろんです。何か問題がありますか?」
「問題しかねえ気がするんだがな」
「そうでしょうか?」
アザゼル先生の問いに、ロキは本当に不思議そうな顔をした。そこが一番不気味だった。自分の考えが極端だと分かって言っているわけじゃない。本気で、それが一番正しいと思っている。
「……何が言いたいの?」
部長が警戒しながら訊く。ロキは薄く笑った。
「神と同じ位置に立っているだけでは不足、ということです。神より上に立ち、神話そのものを導く存在――《超神》」
「ちょう……しん?」
「適切な呼称だと思いませんか?」
少しも恥ずかしそうにしない。
「つまり、自分が神様より偉くなって、全部決めてやるって話か?」
「随分と乱暴な要約ですが、大きく間違ってはいません」
「間違ってないのかよ……」
その口調からは、自分がその「優れた者」であることを疑っている様子が欠片もなかった。
こいつは話をしに来たわけじゃない。話し合っているような顔をして、自分の答えを説明しているだけだ。
「一応聞いておくが、禍の団と繋がってるわけじゃねえよな?」
アザゼル先生の質問に、ロキが初めて明確に不快そうな顔をした。
「心外ですね。私は誰かに依頼されてここへ来たわけでも、誰かの命令に従っているわけでもありません」
「つまり全部自分の判断か。……そっちの方が面倒だな」
アザゼル先生が小さく息を吐く。
クルミさんたちに守られた位置から、オーディンの爺さんがロキへ声をかけた。
「何を言われても、わしは予定通り日本神話との会談へ出るぞ」
「考え直すおつもりは?」
「ない」
「……そうですか」
ロキは目を閉じ、短く息を吐いた。
「残念です」
次の瞬間、空気が変わった。
同じ笑顔で、同じ声。それなのに、首筋を内側から撫でられるような冷たさが走る。ロキの周囲に、淡く輝く北欧のルーンがいくつも浮かび始めていた。
『相棒、来るぞ』
「ああ」
「それでは、こちらも必要な措置へ移行します。場合によっては――ラグナロクを開始することになるでしょう」
「いや、規模がおかしいだろ!」
反射的に叫んでしまった。会議で意見が合わなかったから世界大戦を始めます、みたいな話じゃねえか!
「だったら、その前に止めるだけだ!」
鋭い声と同時に、ゼノヴィアがデュランダルを振り抜いた。巨大な聖なるオーラが夜空を切り裂き、正面からロキの小柄な身体を飲み込む。
「やったか!?」
『相棒、それは言わない方がいい』
「今それ言ってる場合か!」
光が薄れていく。
「……嘘だろ」
ロキは、そこにいた。身体の前には何重にも重なった北欧の術式。デュランダルの一撃を受け止めながら、ほとんど姿勢さえ崩していない。桃色の髪が、余波の風に少し揺れているだけだ。
「困りましたね。まだ、お話の途中だったのですが」
「ラグナロクを始めると言った相手と、これ以上話すことなどない!」
ゼノヴィアの横へ木場とイリナが並び、部長たちも戦闘態勢へ移る。アーシアは治療役として馬車の陰へ下がり、小猫ちゃんがその傍へついた。
俺は右腕を前へ出す。
「ドライグ!」
『応!』
宝玉が輝き、全身へ赤い力が走る。神より偉い《超神》だかなんだか知らないが、護衛対象へ喧嘩を売ってきた以上、黙って通すわけにはいかない。
『Welsh Dragon Balance Breaker!』
赤い光が全身を包み込み、《赤龍帝の鎧》が俺の身体を覆った。
正面では、ゼノヴィア、木場、イリナが三方向からロキへ攻め込んでいる。デュランダルの斬撃、聖魔剣、光の槍。その三つへ、それぞれ別々のルーンが現れた。
ゼノヴィアの剣は真正面から受け止められ、木場の足元には拘束の文字が走る。木場は直前で進路を変えたが、その横を別の術式が追いかけた。イリナの光槍は、薄い防壁に触れた瞬間に軌道を曲げられて夜空の彼方へ飛んでいく。
「一つじゃない……!」
木場も気づいた。あいつは一枚の防壁を使い回しているわけじゃない。相手ごとに別の術式を同時に動かしている。
「イッセー! 《女王》へ昇格させるわ!」
「おう!」
部長の声と同時に、さらに強い力が身体を駆け抜けた。《兵士》の駒を持つ俺は、本陣である部長の近くでなら《女王》の特性を得られる。力も、速さも、魔力も上がる。
「これなら――!」
背中から魔力を噴き出し、一気に距離を詰めて右拳を振り抜いた。
当たらない。ロキはほんの少し身体を傾けただけで、俺の拳は頬を掠めることすらなく空を切った。
左、蹴り、さらに拳。続けざまに叩き込んでも、ロキは攻撃が届くギリギリのところを滑るように動いていく。まるで俺の拳がどこまで伸びるのか、最初から測り終えているみたいに。
「くそっ! ちょこまかと!」
「力任せに追いかけるだけでは、いくら速くても捕まりませんよ」
「余裕ぶってんじゃ――」
ロキの右手が動いた。
「――ねえ!」
そう思った時には、俺の左側に小さなルーンの円が開いていた。反射的に腕を上げた直後、横殴りの衝撃が来て、身体が何十メートルも流される。
「イッセー!」
「大丈夫だ、部長!」
ブースターを噴かして姿勢を戻す。腕が少し痺れているけど、鎧は無事だ。
すぐにロキへ向き直って――そこで初めて、妙なことに気づいた。俺を吹き飛ばしたロキは、こっちを追っていなかった。
ゼノヴィアが上から斬りつければ、頭上に三枚の術式が重なってデュランダルを受け止める。その直後には木場の周囲へ細長いルーンが何本も走り、イリナの光槍は左手一本で防がれる。
「消し飛びなさい!」
「あらあら、こちらも忘れないでくださいね?」
部長の《消滅の魔力》と、朱乃先輩の雷。前後、上下、別々の方向からの、ほとんど同時の攻撃だった。
なのに、部長の魔力へ一枚、朱乃先輩の雷へ二枚。ロキを中心に北欧文字が次々に現れ、その間にもゼノヴィアと木場への妨害術式は消えていない。夜空に浮かぶルーンの光が、ロキの周りだけ星座みたいに増えていく。
一つの魔法が終わってから次を使っているんじゃない。全部同時だ。
俺がロキと戦っている――そう思っていたけど、違う。俺も、木場も、ゼノヴィアも、イリナも、部長も朱乃先輩も。全員まとめて、あいつに処理されている。
「っざけんな……!」
『Boost!』
『Boost!』
倍加、さらに倍加。今度は殴りにいかない。籠手の宝玉が脈打つように光り、掌の前に赤い塊が膨らんでいく。
「だったら、こいつを止めてみろ! ドラゴンショット!」
巨大な赤い魔力弾が、周囲の空気まで震わせて夜空を走った。
「ふむ」
ロキがこちらへ手のひらを向ける。一枚、二枚、三枚と、北欧文字の防壁が重なった。
ドラゴンショットが一枚目を砕く。二枚目が大きく揺れ、亀裂が入る。そこまでは行った。でも、三枚目の前で俺の魔力が押し止められ、数秒の拮抗の末、光の粒になって消えていった。
「出力自体は悪くありません。ただ、これほど大きな力を正面から撃つのであれば、相手にも準備する時間を与えることになります」
「戦い方の講義頼んだ覚えねえぞ!」
「失礼しました」
悪びれてねえ! 本気で助言したつもりなのが余計腹立つ!
「イッセー、熱くなりすぎないで!」
「北欧側でも相当上位だ。まともに正面から削ろうとすんな! まず術式の癖を見ろ!」
部長とアザゼル先生の声が飛ぶ。分かってる。分かってるけど、目の前で全部防がれてたら、どうしたって力ずくでぶち抜きたくなるだろ!
「それにしても、ずいぶんと大勢で来られたのですね」
俺の拳を一枚の術式で止めながら、ロキがふと周囲へ視線を巡らせた。俺たちグレモリー眷属、アザゼル先生、バラキエルさん、ロスヴァイセさん、そして馬車の周囲で警戒を続けるFOX小隊。
「こちらだけ一人というのも、少々不公平でしょうか」
――ぞくっ。嫌な感じがした。
「ロキ、まさか……!」
「ええ」
ロスヴァイセさんの表情が変わる。
ロキが片手を上げると、さっきまでとは明らかに違う巨大な術式が描かれ始めた。いくつもの北欧文字が輪を描き、その内側へさらに別の文字列が重なっていく。円の直径だけで、馬車がまるごと収まりそうだった。
『FOX1より全員。JESTER、大規模術式』
クルミさんが馬車とオーディンの爺さんの前へ移り、オトギさんが高度を上げる。
術式の中心で、空間が黒く歪んだ。
最初に見えたのは、灰色だった。四本の脚、長い鼻面、鋭い爪――そして月明かりの中へ、その全身が姿を現す。
「……狼?」
でかい。十メートル近くあるんじゃないか。
風に揺れる毛並みは一本一本が針金みたいに硬そうで、薄く開いた口の隙間からは白い息が漏れている。こちらを見下ろす両眼には、感情らしいものが何も浮かんでいなかった。
「グルルルルル……」
低い唸り声を聞いた瞬間、身体が固まった。
まだ何もしていない。ただこっちを見ただけだ。なのに、鎧の内側で背中に冷たい汗が流れ、喉が乾いていく。逃げろ、と身体のどこかが勝手に言っている。
『相棒! あれには近づくな! 特に口元へは絶対に行くな!』
「全員、そいつから距離を取れ!」
ドライグとアザゼル先生が、ほぼ同時に叫んだ。
「あいつはフェンリルだ! 北欧の《神喰狼》! 牙だけは食らうな、神を殺せるって話は伊達じゃねえ!」
『神格を持つ奴だけじゃない。あの牙は龍にも危険だ。鎧があるから大丈夫なんて考えるなよ』
ドライグが敵を強いと言うことは何度もあった。でも、こういう警告の仕方はあまりない。つまり、本当にやばい。
「紹介しましょう。我が子、フェンリルです」
「こんなもんまで連れて来てやがったのか……!」
「物事は効率よく進めるべきだと、先ほど申し上げたでしょう? 必要な戦力を、必要な場所へ配置しただけです」
「やっぱお前、話通じねえな!」
アザゼル先生が吐き捨てる。
『FOX1より全員。大型敵性をFANG指定』
フェンリルが頭を上げ、その視線が――馬車へ向いた。オーディンの爺さんを見ている。
「ロスヴァイセ!」
「はい!」
ロスヴァイセさんがすぐ爺さんの前へ出る。クルミさんも既に巨大な盾を構えていた。
『FOX3、RAVEN前面。接近させない』
『FOX1了解。FOX4、FANGへ先制牽制』
次の瞬間、ズドンッ! と夜空へとんでもない銃声が響いた。
高高度からの、オトギさんの対物ライフルだ。弾丸がフェンリルの頭部へ直撃し、巨大な狼の顔が僅かに逸れる。
でも、効いていない。灰色の毛並みの一部が、焦げたように少し乱れただけだ。
それでも、フェンリルの視線はオーディンの爺さんから外れていた。向いた先は上空――オトギさんだ。
『FOX4、命中。損傷確認できず。ただしFANG、こちらを捕捉』
『十分。撃破は狙わない。RAVENから引き剥がす』
「おい! そいつの一撃は――!」
『把握しています。だから近づけません』
アザゼル先生の声に、ユキノさんは振り返りもしなかった。ユキノさんとニコさんの銃撃がフェンリルの身体へ次々と当たり、巨大な狼がFOX小隊を見る。
「グオオオオオッ!」
咆哮だけで空気が震え、鎧越しに胸を叩かれたような衝撃が来た。
巨体が動く。あの大きさからは想像できない速度で、クルミさんへ突っ込んだ。
『FOX3、離れて!』
クルミさんの装備のルーンが強く光り、身体が横へ滑る。直前までいた場所をフェンリルの爪が薙ぎ、風圧だけでクルミさんの身体が揺れた。遠くから見ている俺にも分かる。あれは、盾があるからどうこうって威力じゃない。
クルミさんを追おうとしたフェンリルの頭へ、側面からニコさんの散弾が何発も命中した。顔がニコさんへ向けば、今度は背中へオトギさんの狙撃が叩き込まれる。
「……あの四人、フェンリルを倒そうとしてない」
俺の近くまで下がってきた木場が呟いた。
言われて見直すと、確かに狙いは全部、致命傷を与えるためのものじゃない。頭、横腹、背中――とにかく気を引く場所ばかりだ。
フェンリルがオトギさんへ向けばニコさん、ニコさんへ向けばクルミさん、クルミさんを追えばユキノさん。四人が順番にフェンリルの視線を奪い、少しずつ、少しずつ、馬車から引き離していく。
『距離、十分。このまま維持』
『FOX4、りょーかい』
倒せないことを最初から受け入れて、そのうえで目的だけを達成している。俺だったら、たぶん、どうやって倒すかを最初に考えていた。
「護衛なら、あれで正解だ。オーディンに一度も触れさせなきゃ勝ちだからな」
「合理的ですね」
アザゼル先生の言葉に答えたのは、ロキだった。
あいつは、俺たちと戦いながら、フェンリルとFOX小隊の戦いまで見ていた。
「初めから撃破を捨て、攻撃対象だけを誘導する。護衛としては非常に正しい判断です。特に、大型の相手には効果的ですね」
俺もフェンリルを見る。十メートル近い巨体は、どれだけ速くても狙う場所がいくらでもある。顔がどちらを向いているかも分かりやすい。誰を狙い、どちらへ走るのか――全部、身体そのものが教えている。
「……そういうことか。非常に参考になりました」
ロキの口元が、ほんの少しだけ誇らしげに緩んだ。
「では、せっかくです。私の成果をもう一つお見せしましょう」
嫌な予感がした。
「FOX! なんかするぞ!」
俺が叫ぶのと、ロキが指先を上げるのは同時だった。
「大きいということは、強さでもあります。ですが同時に、分かりやすいということでもある」
『FOX4、FANG周囲に術式発生!』
『全員、FANGから距離を取って』
フェンリルの巨体へ、いくつもの北欧文字が張り付いていく。灰色の毛皮を這い、四本の脚を覆い、身体全体へ広がっていく。
「増やす必要はありません。今あるものを、より適した形へ整えればよいだけです」
「グルルルルルッ……!」
フェンリルが吠え、その身体が縮み始めた。
ただ小さくなっているわけじゃない。前脚が腕へ、後脚が人間の脚へ。背中が起き上がり、狼の頭部すら光に包まれて別の輪郭へ作り替えられていく。骨が組み替わるような鈍い音が、離れたこちらまで聞こえてきた。
光が弾けた時、そこに浮かんでいたのは、一人の女性だった。
「……は?」
狼の毛並みと同じ灰色の長い髪に、獣を思わせる耳。服装は警察の制服みたいに見える。頭上にはロキのものとは少し違う形の輪が浮かび、腰には拳銃まで下げていた。
「グルルルル……」
整った顔には何の表情も浮かんでおらず、獣の耳だけが周囲の音を拾うように小さく動いている。人の姿になっても、口から漏れるのは唸り声だけだった。
『FOX4より全員。FANG、人型へ形態変化』
『FOX1確認。呼称FANG継続』
ユキノさんの声には迷いがない。FOX側は、姿が変わったことより戦い方が変わることを警戒しているらしい。
「神話に記されたものを、そのまま使い続ける必要などありません。理解し、解析し、必要に応じてより適した形へ変える」
「それも《超神》とかいうものになるために必要なのかよ」
「少し違います。これは、その結果の一つです」
なんだよ、それ。さっきの狼ですら洒落になってなかったのに、人間の姿にしたから何だっていうんだ?
『FOX4、狙撃可能』
『撃って』
ズドンッ! オトギさんの弾丸が飛ぶ。
「消えた!?」
違う、避けたんだ。人型フェンリルは一瞬で横へ移動し、さらに加速していく。巨大狼の時なら、身体全体を見ればどこへ動くか分かった。でも今は人間と変わらない大きさで、しかも速さはまったく落ちていない。
クルミさんが盾を構えた、その真正面へ人型フェンリルが現れた。
「速――」
クルミさんもすぐ横へ動く。その時、人型フェンリルの右手が腰へ伸び、拳銃を抜いた。
『FOX3!』
ニコさんの声と同時に、クルミさんが巨大な盾を正面へ構える。乾いた銃声――そして次の瞬間、ドゴォォォンッ! という轟音が響いた。
普通の拳銃じゃ絶対に出ない音だった。クルミさんの身体が後ろへ押される。
『FOX3、無事!』
すぐに本人の声が返ってきて、ほっとする。でも。
「……なんだ、あれ」
あれだけ頑丈そうだった盾の表面が、大きく抉れていた。穴が開いたわけではないし、銃弾の跡とも違う。
金属が上下から何本もの鋭いものに挟まれ、そのまま力任せに噛み砕かれたみたいな損傷だった。抉れた縁が、ぎざぎざに捲れ上がっている。
『盾に異常損傷。通常弾じゃない!』
『FOX3、直受け禁止。盾は身体を隠すためだけに使って。FOX2、FOX4。FANGの銃口を見て、発砲前に射線から外れる』
『了解!』
たった一発で、ユキノさんは戦い方を変えた。
実際、その後のFOX小隊は崩れなかった。人型フェンリルが銃口を向ければ、撃たれる前に射線から外れる。
クルミさんは損傷した盾を斜めに構え、受け止めるのではなく進路を塞ぐために使う。ニコさんが空いた場所へ入り、オトギさんは自分で狙える位置を取り、ユキノさんは足りないところだけを指示しながら自分も撃つ。
小さく、速く、あの拳銃まで持った相手に、それでもフェンリルを馬車へ近づけていない。
「……面倒になってんじゃねえか」
『そうだな、相棒』
フェンリルは小さくなって弱くなったんじゃない。近づかなければ届かないはずの《牙》とは別に、あの拳銃がある。さっきクルミさんの盾を壊しかけた一発は、いったい何だったのか。
「余所見とは余裕ですね」
「っ!」
目の前に術式が開いていた。ブースターを噴かして横へ逃げた直後、俺がいた場所を北欧の魔力弾が通り抜ける。
「先ほどより反応が良くなりましたね」
「採点すんな!」
殴りかかりながら、俺は気づいた。ロキの視線が、時々こちらから外れている。向いているのはFOXと人型フェンリルの方だ。これだけの人数を相手にしながら、あいつはまだ向こうの戦いを観察している。
「十分ですね」
ロキが言った。
「何がだ?」
「確認です」
何でもないことみたいに答えたあと、ロキの視線が動いた。FOXでも、オーディンの爺さんでもない。俺たちの後ろ――部長だ。
「部長!」
「フェンリル」
俺の声を、ロキの声が遮った。遠くでクルミさんを追っていた人型フェンリルの身体が、ぴたりと静止する。
「あちらの紅い髪の方を」
『FOX1、FANGが標的変更!』
ユキノさんの声と同時に、人型フェンリルが消えた。少なくとも、俺の目にはそう見えた。次に見えた時には、もうこっちへ向かっている。
『速すぎる! 射線にCRIMSONが入る!』
『撃たないで!』
オトギさんの報告に、ユキノさんが即座に止める。FOXが遅いんじゃない。フェンリルが速すぎるうえに、俺たちとの距離が近すぎる。
「イッセー!」
部長の声が聞こえた時には、俺はもう動いていた。考える前に、身体が出ていた。
「うおおおおおおっ!」
ブースター全開で、部長とフェンリルの間へ飛び込む。
「部長に――触るんじゃねえ!」
右拳が人型フェンリルの顔面へ入った。ゴッ! 確かな手応えとともに、小さな身体が横へ弾かれる。
「よしっ!」
少なくとも部長からは離した。俺は部長を背中へ庇いながら、フェンリルを見る。
倒れていなかった。
空中で身体を立て直したフェンリルの顔には、傷らしい傷もない。殴られた頬を気にする素振りすらなく、同じ無表情でこっちを見ている。
むしろ拳の方が痺れていた。分厚い鉄の塊を叩いたみたいな感触が、籠手の内側に残っている。
「硬すぎんだろ……!」
『相棒、来るぞ!』
フェンリルが飛び込んでくる。迎え撃った拳とフェンリルの腕がぶつかり、凄まじい力が返ってきた。人の大きさになっても、力まで小さくなったわけじゃない。
「このっ!」
左拳。フェンリルが身体を捻って避ける。
そこで。
「――え?」
フェンリルの右手が、腰へ下がっていた。
『相棒! 離れろ!』
ドライグが叫ぶ。でも、もう銃口が俺の腹に触れている。
後ろには、部長がいる。
ここで避けたら――。
ドンッ!
銃声と同時に、腹の中を何かが食い破った。
「が――っ!?」
息が止まる。兜の内側に鉄の味が広がって、口から血が溢れたのだと、遅れて分かった。
「イッセー!」
部長の声が遠い。
俺はゆっくり、下を見る。
《赤龍帝の鎧》の腹部に、穴が開いていた。
ただの弾痕じゃない。縁が、鋭いものに何度も噛み千切られたみたいに、ぎざぎざに裂けている。
クルミさんの盾に残っていたのと、同じ形だった。
今後、本作で特に見てみたい仮面ライダー要素は?
-
歴代ライダー本人の登場
-
歴代ライダーとの共闘
-
歴代ライダーとの対決
-
ライドウォッチ
-
アーマータイム
-
ミライ独自のライダー形態
-
他キャラの仮面ライダー化
-
ライダー由来の武器・アイテム
-
ライダーマシン
-
怪人・敵組織
-
歴代ライダーの能力再現
-
歴代ライダーの必殺技
-
原作ライダーの名場面オマージュ
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仮面ライダー側の世界観・設定
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昭和ライダー要素
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平成一期ライダー要素
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平成二期ライダー要素
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令和ライダー要素
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劇場版・Vシネマなどの要素
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その他(感想欄で教えてください)