右の肩甲骨周辺の痛みは、まだ強く残っている。右肩を大きく動かせば背中まで引きつるような感覚があり、階段を一段上がるたびに身体の奥へ鈍い痛みが響いた。背後から聞こえてくる足音は、すでに四人分へ戻っている。
十九階へ続く扉を押し開けると、そこにはホテルの裏側そのものといった空間が広がっていた。
ランドリー設備とハウスキーピング用のスペースが集められた階で、通路の両側にはリネン類を積んだ大型ワゴンが並び、その奥に洗濯設備や備品庫が続いている。
十八階のプールほど広くはなく、今の私にはありがたいくらいに物が多い。
私は速度を落とさないまま、最初に見えたリネンワゴンへ近づいた。積まれているのは、洗濯を終えてきれいに畳まれた白いシーツ。まともに投げつけたところで誰の足止めにもならないけれど、今の私が欲しいのは重さではない。
横を通り抜ける瞬間、上に積まれていたシーツを数枚まとめて引き抜く。畳まれていた布が走る勢いで大きく広がり、空気に煽られて後方へ流れていった。
一枚ずつ狙うようなことはせず、次のワゴンからも同じようにシーツを引き抜きながら通路を駆け抜ける。
直後、背後で階段側の扉が開いた。
「十九階へ入った。FOX3、先行。FOX2はその後ろにつけ」
最初に通路へ飛び込んできたクルミさんが、こちらへ流れてくる大量の白い布に気づいて声を上げる。
「えっ、今度は何!?」
一枚のシーツが盾へ張りつき、別の一枚がその上を滑って横へ流れ、後ろのニコさんたちとの間にもさらに数枚が落ちていく。
「ちょっと、前見えない!」
「FOX3、無理に進むな。布を払え」
「分かってるって!」
これまで使ってきた家具や瓦礫とは少し性質が違う。盾で受け止めても終わりにはならず、かといってショットガンで撃ち壊すような物でもない。視界へ入り込むたびに、自分で払い除けなければならないのだ。
「FOX2、右へ回れ」
ワゴンの隙間から横へ抜けようとするニコさんを横目に、私は清掃用品を積んだカートの横を通り抜けた。棚にはタオルのほか、客室用のアメニティや消臭剤、ルームフレグランスのボトルが並んでいる。
そのうち一つを掴み、後ろへ向けて中身を撒いた。
「うわっ。何ですか、これ……」
「たぶん、客室用の香りですね!」
「たぶんって、自分で使ってるじゃないですか!」
甘い香りが通路へ広がる。これだけで追跡を止められるわけではないけれど、シーツで視界を遮られ、洗剤の匂いが漂うところへ別の香りまで混ざれば、ほんの一瞬でも意識を散らすことはできる。今は、それで十分だった。
次の角へ入りながら上半身を捻り、後方へ数発撃つ。クルミさんがシーツを払いながら盾を持ち上げ、弾丸を受け止めた。
「もう! 今度は布ばっかり!」
「十八階より安全ですよ!」
「比較対象がおかしいのよ!」
ほぼ同時にニコさんのショットガンが火を噴き、散弾がすぐ横のリネンワゴンの金属部分へぶつかる。私はそのまま角を曲がり、さらに細い業務通路へ入った。
ここなら四人が横へ広がることはできず、十二階や十八階のように複数方向から一斉に狙われる心配は少ない。その代わり、こちらが逃げられる方向も限られる。しかも十八階で受けた一発のせいで、走る速度も少しずつ落ち始めていた。
「FOX3、そのまま詰めろ。FOX2は射撃を維持。FOX4は射線が通るまで待機」
クルミさんが盾を構えたまま、ほとんど一直線にこちらへ向かってくる。シーツだけで止められる距離ではない。
Beat ON
狙うのは誰か一人ではなく、狭い通路へまとまって入ってきた三人そのものだった。私は振り返り、正面へ銃口を向ける。
「何か来る!」
クルミさんが大盾を上げた瞬間、《アストラノヴァ》から強い音圧が放たれた。空気そのものが震えたような低い衝撃音が狭い通路へ広がり、壁や床へ反射しながら三人へ叩きつけられる。
「っ!?」
「うわ……!」
クルミさんの足が止まり、ニコさんも思わず片手を耳へ当てる。その後ろのユキノさんも一瞬だけ姿勢を崩した。盾では音までは防ぎきれず、しかも狭い通路では反響する分だけ、広い場所より効果が大きい。
耳や平衡感覚を乱し、数秒だけ追跡の足を止められれば十分だった。
「……これは、効きますね」
私はすぐに《ビート》を解除し、走り出した。
「ちょっと待って……耳が……」
「FOX3、無理に追うな。FOX2も立て直せ」
「はい……」
最後尾のオトギさんまでは巻き込めなかったらしいが、少なくとも三人の足音は止まっている。ほんの数秒でも、右肩から背中にかけての痛みが強くなっている今の私には、以前よりずっと価値がある。
次の角を曲がってランドリー設備の間を抜ける。大型の洗濯機や乾燥機が壁のように射線を遮ってくれるため、背後から狙われる心配も少し減った。もっとも、その静けさは長く続かない。
「FOX3、状況は?」
「もう大丈夫! びっくりしただけ!」
「FOX2?」
「私もいけます」
「追跡を再開する。FOX4は先行せず、射線が通る位置を維持しろ」
やはり回復が早い。けれど、一つの方法で完全に止める必要はない。追いかけるたびに少しずつ手間を増やしていく方が、今の状況にはずっと合っている。
背中の痛みはひどいけれど、まだ走れるし、撃つこともできる。ここで足を止める理由はなかった。
次の階へ続くサービス階段が見えてくる。私は最後に、近くのワゴンから大きなシーツを一枚引き抜いて後方へ放った。白い布が通路いっぱいに広がり、追ってくる四人との間を一瞬だけ覆い隠す。
「またそれ!?」
「まだたくさんありますので!」
「だから使い切ろうとしないで!」
私は返事をしながら階段へ飛び込み、二十階へ向かって駆け上がった。
○
二十階は、これまでとは雰囲気の違う静かな客室フロアだった。
左右には同じ形の客室扉が一定の間隔で並び、ところどころに小さな休憩スペースや自動販売機、製氷機が設置されている。
宴会場やレストランのような広さはない代わりに、廊下はいくつかの区画ごとに折れ曲がり、長い直線と短い曲がり角が交互に続いていた。
右肩から背中にかけての痛みは強く、左脇腹にも十二階からの痛みが蓄積している。背後から聞こえてくる四人分の足音は、すでに近づき始めていた。このまま客室廊下を普通に走れば、いずれ追いつかれる。
Smoke ON
銃口付近から一気に煙が噴き出す。私は立ち止まることなく、走りながら白煙を広げていった。数秒もしないうちに通路全体が煙に覆われ、一定間隔で並んでいた客室扉も、少し離れれば輪郭しか見えなくなる。
背後で階段の扉が開いた。
「二十階。目標は――……煙か」
「また見えないんだけど!」
「FOX3、速度を落とせ。FOX2は右側を確認。FOX4、視認できるまで撃つな」
十六階と同じように、今度もオトギさんの射撃が止まった。それだけで十分だった。
私は《スモーク》を解除すると、煙の中で最初の角を右へ曲がり、少し走って今度は左へ入る。さらに短い廊下を抜け、エレベーターホールの手前でもう一度進路を変えた。この階の構造は下見で確認してある。
煙の中で何度か方向を変えてしまえば、煙を抜けた時点で、こちらがどこへ向かったのか分かりにくくなる。
「……これは、かなりいいですね」
煙なら、残っている間はこちらの姿を隠し続けられる。
しばらくして、背後から再び足音が聞こえてきた。
「FOX3、右だ!」
「いた!」
それでも、先ほどより距離は開いていた。私は後ろへ数発撃ち返しながら次の曲がり角へ滑り込む。
クルミさんが盾で弾を受け、その後ろからニコさんのショットガンが返ってきたものの、角を一つ挟んだことで散弾は壁へ散った。何より、まだオトギさんの対物ライフルが聞こえてこない。
長い射線を与えなければ、あの一発を受ける可能性は大きく下げられる。
ただし、FOX小隊が同じ方法へ二度も簡単に引っ掛かるとは思っていない。二十一階へ続く階段へ飛び込む直前、背後からユキノさんの声が聞こえた。
「次に煙を使われた場合、出口側まで含めて警戒する。FOX4、煙そのものではなく、目標が出てくる位置を見ろ」
やはり、一度見せた手はすぐに覚えられる。その言葉を聞きながら、私は階段を駆け上がった。
○
二十一階も、基本的な構造は二十階と大きく変わらなかった。左右に客室が並び、長い廊下の途中には小さなホールや分岐がある。二十階で《スモーク》を見せた以上、もう一度同じことをすれば、出口側まで警戒される可能性が高い。
十九階から何度も距離を作っているはずなのに、そのたびに追いついてくる。こちらの身体は少しずつ重くなっているのに対し、四人は役割を分担している分だけ、一人当たりの負担を抑えられているのだろう。
このままでは、こちらが先に限界へ近づく。
Net ON
角を一つ曲がったところで、銃口から大きな網を射出した。狙うのは誰か一人ではなく、通路そのものを塞ぐことだ。網が壁と壁の間へ引っ掛かったのを確認し、振り返らず走り続ける。
「また何かある!」
「網ですね」
「FOX3、止まれ。FOX2」
ショットガンの銃声に続いて、何かが床へ落ちる音が聞こえた。
「……早いですね」
予想していたより、ずっと早い。ニコさんは網へ正面から突っ込むようなことはせず、通路封鎖のためだと判断した時点で、固定されていた部分ごと撃ち壊したらしい。十数秒どころか、数秒も稼げていない。
「通れるよ!」
「追跡を再開する」
目に見える障害物なら、対応は早い。私は《ネット》を解除して後方へ何発か撃った。クルミさんの盾がそれを受け、その後ろからニコさんが撃ち返し、ユキノさんまで角度を変えながらこちらの進路へ弾を送ってくる。
妨害方法そのものを覚えられているうえ、対処するまでの時間も明らかに短くなっていた。
「FOX3、そのまま圧力をかけろ。FOX2は障害物への対処を優先。FOX4、長い廊下だけを狙え」
最後の指示が、特に嫌だった。オトギさんまで、どこで撃てばいいのかを絞り始めている。
私は次の長い廊下が見えた時点で直進を諦め、手前にある小さな共用スペースから奥の別通路へ回った。直後、対物ライフルの轟音が響き、ほんの少し前まで私が走ろうとしていた廊下の壁へ大口径弾が突き刺さる。
「……危なかったですね」
もはや、姿が見えたから撃っているだけではない。こちらがどこへ行きたがるのかを考え、その先へ先に銃口を置き始めている。
私は短い廊下を抜け、二十二階へ続く階段へ向かった。次は、もう一度煙を使う。二十階で成功した方法を繰り返すためではなく、どこまで読まれているのかを確かめるためでもあった。
○
二十二階へ入って一度だけ背後を確認すると、クルミさんが前、その後ろにニコさん、全体を見ながら追うユキノさん、さらに後方にオトギさんがいた。十階から大きく変わらない隊形に見えるけれど、中身はもう違う。
こちらが何を使い、どう逃げ、どの場所を嫌がるのかまで、少しずつ覚えられている。
長い廊下へ入る直前、タッチパネルを操作する。
Smoke ON
白い煙が再び噴き出し、廊下を覆っていく。
「煙!」
「FOX3、無理に入るな。FOX2は左側の出口を確認。FOX4、正面の煙から出てくる位置を押さえろ」
やはり、もう知っている。私は煙の中で最初の分岐を右へ曲がり、短い廊下を抜けたあとで左へ入った。二十階とまったく同じ経路ではない。それでも、最後にはどこかから煙の外へ出なければならない。
煙の終わりへ近づいたところで、嫌な予感がして一度だけ速度を落とした。けれど、いつまでも煙の中へ留まることはできない。私は《スモーク》を解除し、姿勢を低くしたまま煙の外へ飛び出した。
『……そっち行くんだ?』
「――!」
オトギさんの声が聞こえた瞬間には、もう遅かった。腹の奥へ響くような轟音とともに、左の太腿へ巨大な衝撃が叩き込まれる。
「っ、ぁ……!」
足が横へ弾かれ、身体が大きく傾いた。壁へ手をついてどうにか走り続けたものの、左脚へ体重を掛けるたびに強い痛みが走る。
オトギさんは煙の中の私を見て撃ったわけではない。二十階で私が煙の中で進路を変えてから外へ出たことを覚えていたからこそ、今度は煙そのものではなく、最後に姿を見せる場所を待っていたのだ。
「……読まれましたか」
左脚を庇うせいで歩幅が狭くなり、これまでのような全力疾走を維持しにくい。背中の痛みに加え、今度は脚までやられた。
「FOX4、命中を確認」
「当たったよ~」
「FOX3、FOX2、距離を詰めろ」
足音が一気に近づいてくる。私は壁際を走りながら後方へ牽制射撃を繰り返した。クルミさんが盾で弾を受ける間だけ追跡速度がわずかに落ちるけれど、長くは持たない。
煙はもう、使えば簡単に距離を作れる道具ではなくなっていた。次に使うなら、別の経路や別の妨害と組み合わせなければ、今度は出口そのものを狙われる。
左脚の痛みに耐えながら、私は二十三階へ続く階段へ入った。
○
二十三階へ到着した時点で、身体の状態はさすがに無視できなくなっていた。
十一階から続く右肩の痛み、十二階で撃たれた左脇腹、今も呼吸するたびに強く痛む右の肩甲骨周辺、そして二十二階で撃たれた左太腿。
それ以外にも、十階から受け続けてきた細かな被弾が腕や胴体へいくつも残っている。まだ走ることはできるけれど、このまま何もせず続ければ、二十五階へ辿り着く前に身体の方が限界へ近づく可能性があった。少しだけ時間が必要だった。
Smoke ON
最初の角を曲がると同時に、再び煙を廊下へ広げる。ただし、二十二階と同じ使い方はしない。
私は煙の中で最初の分岐を抜けたあと、予定していた客室廊下とは別の通路へ入り、その先にあるコネクティングルームへ向かった。
隣り合った二つの客室を内部の扉で行き来できる部屋で、下見のときに確認していた場所だ。
煙の外へ出た直後、《スモーク》を解除して別のスイッチへ切り替える。
Net ON
後方の廊下へ網を撃つ。これだけでは長く止められないことは、二十一階で分かっている。けれど今は、煙でこちらの正確な位置が分からなくなっているところへ、さらに網を重ねている。数秒なら、それで十分だった。
《ネット》を解除して客室へ滑り込み、室内を横切って奥の連結扉から隣の客室へ移る。ここなら、最初の部屋へ踏み込まれても行き止まりにはならない。二つ目の部屋まで移動したところで、私はようやく壁へ背中を預けた。
「っ……はぁ……」
息を吐いた瞬間、全身から一気に力が抜けそうになる。十階から、ほとんどまともに立ち止まっていなかった。
Medical ON
簡易的な治療機能が起動する。これだけで全ての傷が消えるわけではなく、まず身体の状態を確認し、特に負担の大きい場所へ最低限の処置を施すだけだ。
表示される損傷の中でも目立つのは、右肩、左脇腹、右の肩甲骨周辺、そして左太腿。身体の奥まで響くような大きな損傷には、共通点があった。
「……ほとんど、オトギさんですね」
他の三人からも何度も撃たれている。それでも、後まで強く残る傷の多くは対物ライフルによるもので、特に十八階で背中へ受けた一発と、先ほど左太腿へ受けた一発は大きい。
私は壁際へ座り込み、治療機能へ身体を任せながら呼吸を整えた。四十秒ほど。これ以上は使えない。傷を完全に治す時間はないし、それを求めてもいない。
痛みを多少抑えて身体を動かしやすくし、乱れていた呼吸と疲労を少し戻せれば十分だった。
ふと、頭の中へ別の方法が浮かぶ。
時間を止めれば。あの力を使えば、少なくともこの四人から逃げるだけなら――。
右手が、無意識にわずかに動いた。けれど、そこで止める。
「……駄目です」
小さく呟いた。あの力は使わない。今の自分が制御できると分かっている力で、ここを乗り切る。
私は《アストラノヴァ》を握り直した。ほんの短い休息だったが、呼吸は少し戻り、左脚にも先ほどよりは体重を掛けやすくなっている。そのとき、廊下側から足音が聞こえた。
「……もう少しくらい休ませてほしいですね」
《メディカル》を解除して立ち上がると、最初に入った部屋の方から扉が開く音がした。
「この部屋!」
クルミさんの声を背に、私は反対側の客室扉から廊下へ出た。最初から、そのためにこの部屋を選んだのだ。今まで稼いできた時間から考えれば、四十数秒は長い。その代わりに、身体を少しだけ戻すことができた。
私は再び走り始め、二十四階へ続く階段を目指した。
○
二十四階へ入った時点で、治療のおかげで多少は身体を動かしやすくなっていた。右肩や背中の痛みは消えていないし、左太腿も走ればすぐに痛み始めるけれど、呼吸は整い、足も前へ出る。
問題は、その回復を簡単に削り取れるほど、FOX小隊の追跡が正確になっていることだった。
階段から客室廊下へ出て最初の分岐へ向かった直後、背後からユキノさんの声が飛ぶ。
「FOX3、正面を追え。FOX2は次の分岐を右から回れ」
まだこちらが曲がってすらいないのに、すでに一人を別の通路へ回している。煙を使えば角をいくつか曲がり、長い直線を避け、可能ならサービス通路や別の廊下へ逃げる――その傾向を、完全に覚えられている。
Radar ON
後方に三つ。そして右側の通路を、こちらの進行方向へ先回りするように動いている反応が一つ。
「……やっぱり」
私は予定していた右折を捨て、そのまま直進した。
「進路変更。FOX3、そのまま正面から押せ!」
クルミさんの足音が一気に近づく。右へ行けばニコさん、正面にはクルミさん。それなら左へ回るしかない。そう考えて次の分岐へ近づいたところで、後方にいた反応の一つが左側へ回っているのが《レーダー》に映った。ユキノさんだった。
「……そこまで読みますか」
逃げられる場所が、少しずつ消えていく。《レーダー》を解除して後方へ撃ち、クルミさんが盾を上げた一瞬を利用して左へ入ろうとしたものの、角の向こうから銃弾が飛んできた。
「っ!」
すぐに身体を戻す。ユキノさんが、すでに射線を作っていた。
「ミライちゃん、そっちはダメですよ!」
「どこならいいんですか!」
「止まってくれるなら、ここでもいいですよ?」
「それは選択肢に入りません!」
返事をしながら、私は正面へ走った。本来なら一番避けたいクルミさんのいる方向だが、左右を押さえられている以上、ここを強引に抜けるしかない。
盾へ弾を集中させ、クルミさんがわずかに速度を落とした隙に、手前の小さな休憩スペースへ飛び込んでソファの脇から反対側へ抜ける。
直後、背後から何発もの銃声が続いた。一発が右腕へ当たり、もう一発が脇腹を掠める。
「っ……!」
二十三階で少し戻した身体が、早くも削られていく。それでも足は止めない。次の廊下へ飛び出した瞬間、長い廊下の先に、対物ライフルを構えたオトギさんの姿が見えた。
ユキノさんたちは、私が長い直線を嫌がっていることまで知っている。だからこそ最後に残した逃げ道を、そのままオトギさんの射線へ繋げているのだ。
「……本当に嫌ですね」
『ひどいなぁ』
「褒めています!」
『それならいいけど~』
対物ライフルがこちらを向く。撃たれるより早く横の客室通路へ飛び込み、大口径弾が壁を抉る音を背中で聞いた。
直撃は避けた。けれど、それだけだった。二十階から積み重ねてきた逃げ方を、ほとんど全部見られている。
最初は私がホテルの構造を利用して四人を振り回していたのに、今は四人の方が、私がどこを使おうとするのかを予測し、その先へ先回りしていた。
最後の角を曲がり、ようやく二十五階へ続く階段を見つけた。背後から飛んできた一発が右腕へ当たり、身体が傾く。それでも《アストラノヴァ》を抱え直し、階段へ飛び込んだ。
右肩も、背中も、左脇腹も、左脚も痛む。それでも、十階の会談室からFOX小隊の四人全員をここまで引き離した。少なくとも、その目的だけは確実に果たせている。
私は乱れた呼吸を整える間もなく、最後の階段を駆け上がった。
○
二十五階へ続く扉を押し開けると、その先にはホテル上層部のスカイロビーが広がっていた。
吹き抜けになった天井は高く、正面には街の夜景を一望できる巨大な窓が並んでいる。
中央にはソファやローテーブルを組み合わせたラウンジスペースが広がり、その周囲には太い柱や装飾壁、フロントを思わせる長いカウンターまで配置されていた。
綺麗な場所だった。そして、戦う場所としては最悪だった。
「……広いですね」
思わず漏れた声に、ため息が混じる。遮蔽物がまったくないわけではないものの、フロアそのものが広いため、四人に展開されれば複数方向から狙われる。
しかも巨大な窓の前には長い直線がいくつもあり、オトギさんにとってはこれ以上ない射撃場所になる。
だから、今度は最初から中央へ出ない。私は迷わず右へ進路を変え、近くにあった太い柱とフロントカウンターの間へ身体を滑り込ませた。その直後、背後で扉が開く。
「二十五階。目標を確認。FOX3、正面。FOX2は左から詰めろ。FOX4は後方で射線を確保」
やはり、休ませてはくれない。私は柱の陰から《アストラノヴァ》だけを出し、正面から近づいてくるクルミさんへ何発か撃ち込んだ。弾丸が大盾へ叩き込まれ、重い音がスカイロビーへ響く。
「まだ撃てるんだ!?」
「こちらの台詞です!」
クルミさんは盾を上げたまま前進を止めない。その横からニコさんが回り込み、カウンターの端へ向けてショットガンを撃ってきた。すぐに身を引くと、散弾がカウンターの角を削り、細かな破片が床へ散る。
「ミライちゃん、そこにずっといるつもりですか?」
「できればそうしたいですね!」
「じゃあ、こっちから行きますね」
「来なくていいです!」
軽い調子の返事とは裏腹に、ニコさんの動きは速い。正面からクルミさん、左からニコさん。その二人の位置を見ながら、ユキノさんがさらに外側へ回って逃げ道を絞っている。
柱からカウンターへ、そこからさらに大きなソファの陰へ走る。長く同じ場所にいれば三人に距離を詰められる。
だからといって遮蔽物の間を移動すれば――腹の底へ響くような轟音とともに、対物ライフルの弾丸が背後の柱へ叩き込まれた。装飾材が弾け、破片が床へ散る。
隠れれば詰められ、動けば撃たれる。しかも、今の身体では好きなだけ走り回ることもできない。
「……本当に、よくできていますね」
『褒めても何も出ないよ~』
「できれば弾も出さないでください!」
『それは無理かなぁ』
もう一度対物ライフルが鳴る。柱の反対側へ身体を寄せると、大口径弾が柱の縁を抉り、振動が背中まで伝わってきた。
「FOX3、あと少しだ。FOX2は右へ回れ」
煙は出口を撃たれ、網はすぐ破られる。広いロビーでは《ビート》も全員には届かない。
ソファの陰から身体を出して連射し、クルミさんが盾を上げてニコさんがその陰へ入る間に、反対側の装飾壁へ移る。すぐにユキノさんの弾丸が追ってきて、一発が足元へ、もう一発が壁の縁へ、さらに右腕へ衝撃が走った。
「っ……!」
倒れずに装飾壁の陰へ滑り込む。二十三階で少し戻した体力は、もうほとんど使い切っていた。左脚の痛みも強くなっている。
自分が勝てているとは思わない。戦闘だけを見れば、明らかにこちらの方が追い詰められている。けれど、四人ともここにいる。十階の会談室から十五階も離れたこの場所に。それなら目的そのものは、まだ失敗していない。
「FOX3、右から押せ」
クルミさんが盾を構えて近づいてくる。装飾壁の反対側から撃ち込んで距離を作ろうとしたところへ、今度はニコさんが待っていた。
「っ!」
咄嗟に身体を引いたものの避けきれず、数発の散弾が左腕と脇腹を叩く。膝をつきそうになり、壁へ手をついて踏みとどまったところで、遠くからオトギさんの対物ライフルがこちらを向いた。
まずい。私は痛む左脚へ無理やり力を入れ、隣の柱まで走ろうとした。
「――FOX4、待て」
ユキノさんの声が響いた。対物ライフルは鳴らなかった。
柱の陰まで辿り着き、荒い呼吸を繰り返しながら《アストラノヴァ》を構え直す。クルミさんもニコさんも、まだこちらへ銃口を向けている。その状態のまま、ユキノさんが片手を上げた。
「――射撃停止」
それまでロビーへ絶え間なく響いていた銃声が、一斉に止まった。急に訪れた静けさに、かえって耳が痛く感じる。
私はすぐには《アストラノヴァ》を下ろさなかった。四人も同じで、撃ってこないだけで、誰も武器を収めてはいない。この休止が罠であってもおかしくないけれど、向こうが撃たないなら、こちらからわざわざ再開する理由もなかった。
一秒、二秒。こうしている時間すら、私にとっては稼いだ時間になる。
最初に口を開いたのは、クルミさんだった。
「……ほんっと、よく走るわね」
「それはこちらも同じです」
「こっちは四人いるんだけど?」
「知っています。だから困っているんです」
「それでここまで逃げる?」
呆れたような声だった。その隣では、ニコさんもショットガンを下ろしきらないまま、少し困ったように笑っている。
「ずっと上に来てますけど、まだ行くんですか?」
「行けるところまでは」
「まだ上、ありますよ?」
「ありますね」
「……休憩しません?」
「十五階でも聞きました」
「お寿司食べ損ねましたし」
「まだ言ってるんですか」
「本当に食べたかったので」
あまりにも普段通りの口調で言われ、一瞬だけ言葉に詰まった。こちらは身体中が痛く、何度も対物ライフルで撃たれ、十五階分を走り続けている。それなのに、相手は今になって寿司の話を蒸し返してくる。
「……あとにしてください」
「じゃあ、あとならいいんですね?」
「そういう意味ではありません」
ニコさんが少し笑う。クルミさんも何か言おうとしたところで、ユキノさんが一歩前へ出た。その途端、空気が少し変わる。
「天童ミライ。一つ確認する」
声は低く、十五階での軽いやり取りとは明らかに違った。
「何でしょう」
「あなたは十階で、『ここから先へは通さない』と言った。だが、現在地は二十五階だ」
私は返事をしなかった。
「あなたは一度も会談室へ戻ろうとしていない。こちらが追えば上へ進み、距離が開けばそのまま次の階へ移動する。こちらが経路を分けても、あなたは下へ戻ることなく上階へ進み続け、結果として我々全員をここまで引きつけた。十階を守ることだけが目的なら、ここまで離れる必要はない」
ユキノさんの銃口は、まだこちらを向いている。
「こちらを会談室から引き離すこと自体が目的だったと考えている。違うか?」
スカイロビーに、短い沈黙が落ちた。巨大な窓の向こうには街の灯りが広がっている。私は《アストラノヴァ》を構えたまま、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……さあ、どうでしょう」
「否定はしないんだな」
「答える必要もないと思います」
「そうか」
ユキノさんはそれ以上追及しなかった。すでに答えは分かっているのだろう。実際、その通りだった。戦闘には勝てていない。けれど、私が最初にやろうとしたことだけなら、今のところは成功している。
「でも」
今度はニコさんが口を開いた。
「それだけじゃないですよね?」
「……何がですか?」
「十五階あたりから気になってたんですけど、命令されたからって、それだけでここまでやってるわけじゃないですよね?」
責めるような声ではなかった。ただ、純粋に気になったことを聞いているように見える。
「命令されたことだけやるなら、もっと別のやり方もあったと思うんです。一人でこんなに撃たれながら、ずっと私たち四人を相手にする必要までありました?」
返事をしようとして、一度止まる。主様から命じられた。それは間違いではない。けれど、それだけならここまでやる理由にはならない。私は《アストラノヴァ》を握る手へ少し力を込めた。
「……主様から命じられたから、だけではありません」
自分の声が、思っていたより静かに響いた。
「私は――ここにいると決めましたから」
クルミさんが少し首を傾げる。
「だから、ここを守るってこと?」
「はい」
「それで一人で全部やるの?」
「必要であれば」
クルミさんの表情から、先ほどまでの軽さが少し消えた。
「いや、必要って……」
「今は私がここにいます。なら、私ができることをします」
「でも四対一だよ?」
「知っています」
「めちゃくちゃ撃たれてるけど」
「それも知っています」
「脚も痛いでしょ」
「……それも、知っています」
「じゃあ何でまだやるのよ」
答えは、自分の中では決まっていた。
「まだ動けるからです」
クルミさんが黙る。今の私には、それ以上複雑な説明は必要なかった。まだ立てる。まだ《アストラノヴァ》を持てる。まだ四人をここへ引きつけていられる。ならば、自分が止まる理由はない。
そのとき、それまで少し離れた位置にいたオトギさんが口を開いた。
『……ずっと一人でやるつもりなんだ?』
相変わらず力の抜けた声なのに、その質問には妙な軽さがなかった。
「少なくとも、今はそのつもりです」
『そっかぁ』
オトギさんは、それだけ言った。否定も説得もせず、ただ何かを確認したように、再び対物ライフルを持ち直す。その動きを見て、休戦が終わりに近づいていることが分かった。
ユキノさんも銃を構え直す。
「……では、最後に確認する。そこを退く意思はあるか?」
私は迷わなかった。
「ありません」
クルミさんが小さく息を吐き、大盾を構える。
「やっぱりそうなるのね……」
ニコさんもショットガンを持ち直した。
「できれば休憩したかったんですけどね」
「お寿司はあとにしてください」
「覚えてたんですね」
「忘れたくても忘れられません」
ほんの少しだけ、ニコさんが笑った。
オトギさんの対物ライフルがゆっくりとこちらを向き、ユキノさんも銃口を上げる。四人とも疲れていないわけではない。
クルミさんの装備には十八階の水で濡れた跡が残り、ニコさんも何度も障害物を撃ち壊したせいか、ショットガンを持つ腕をときどき動かしている。それでも、私より余力があることは見れば分かる。
私は柱の陰から身体を出した。右肩も、左脇腹も、背中も、左脚も痛む。それでも、《アストラノヴァ》はまだ持てる。四人を会談室から引き離すという目的は、すでに十分達成している。けれど、ここで終わりにする理由もまだなかった。
私は《アストラノヴァ》を構え直し、正面に立つ四人を見る。
「……では、続けましょう」
ユキノさんの視線がわずかに鋭くなる。クルミさんが盾を前へ出し、ニコさんがその横へ並ぶ。
そして、最後尾でオトギさんの指が引き金へ掛かったところで――二十五階に訪れていた短い静寂が、終わった。
今後、本作で特に見てみたい仮面ライダー要素は?
-
歴代ライダー本人の登場
-
歴代ライダーとの共闘
-
歴代ライダーとの対決
-
ライドウォッチ
-
アーマータイム
-
ミライ独自のライダー形態
-
他キャラの仮面ライダー化
-
ライダー由来の武器・アイテム
-
ライダーマシン
-
怪人・敵組織
-
歴代ライダーの能力再現
-
歴代ライダーの必殺技
-
原作ライダーの名場面オマージュ
-
仮面ライダー側の世界観・設定
-
昭和ライダー要素
-
平成一期ライダー要素
-
平成二期ライダー要素
-
令和ライダー要素
-
劇場版・Vシネマなどの要素
-
その他(感想欄で教えてください)