第8刻 悪魔の日常
朝から、学校が騒がしかった。
二年生の教室のある廊下が、妙にざわついている。廊下ですれ違う生徒たちの会話の断片が、勝手に耳に入ってきた。
「見た? 金髪の転校生」
「小柄で可愛い子でしょ。兵藤のクラスだって」
「なんで兵藤の周りばっかり」
私は歩調を変えずに、自分の教室へ向かった。
変えなかったが、胸の内では、一つの事実を静かに確かめていた。
アーシア・アルジェントが、転校してきた。
死んだはずの少女が、制服を着て、教室で自己紹介をしている。
それは奇跡というには、あまりにも日常的だった。
だからこそ、胸に来た。
教会を追われ、堕天使に力を奪われ、一度は心臓が止まった少女が、今は「転校生」という、どこにでもある札を下げて教室にいる。誰もその裏側を知らない。知らないまま、彼女は日常の中に立っている。
リアス先輩が繋いだのは、たぶん、こういうことなのだと思った。
過去を巻き戻す救いではない。死の先へ、未来を繋ぐ救い。
その未来が、今日から制服を着て歩いている。
昼休み、屋上に来たのは一誠だけではなかった。
「ミライさん!」
アーシアさんが、少し息を弾ませて階段を上がってきた。駒王学園の制服姿だった。
彼女は私の前に立つと、少し照れたようにスカートの裾を摘まんだ。
「制服、変ではありませんか?」
「似合っています」
少しだけ間を置いて、私は付け加えた。
「少なくとも、教会の地下よりはずっと」
アーシアさんは一瞬きょとんとして、それから、ふわりと笑った。
「はい。私も、こちらの方が好きです」
その笑顔を見て、私は弁当箱の蓋を開けた。
だし巻き卵は、今日は四切れ作ってきた。
理由は、聞かれても答えない。
「そういえば」
弁当を食べながら、私は一誠に目を向けた。
「ホームステイは、どうですか」
「え、何が」
「アーシアさんの生活環境の話です。朝食は取りましたか」
「と、取ったぞ」
「目が泳いでいます」
「今日は食った!」
「今日は、という言葉に問題があります」
アーシアさんが慌てて口を挟んだ。
「あ、あの、一誠さんのお家の皆さんは、とても良くしてくださっています。朝ごはんも、お母様が」
「お母様が作ってくださるなら安心です。問題はこの男が食卓に着くかどうかです」
「着いてるよ! アーシアが来てから毎朝ちゃんと!」
「アーシアさんが来てから、という言葉に全てが表れています」
「ぐぬ……」
アーシアさんが小さく笑った。
私は鞄から、小さな包みを取り出した。
「アーシアさん。これを」
「私に、ですか?」
包みの中身は、小ぶりな目覚まし時計だった。白い縁の、飾り気のない、正確なだけが取り柄の一品。店の在庫から選んできた。
「環境が変わると、朝の感覚が狂います。良ければ使ってください」
「ありがとうございます。可愛い時計ですね」
「兵藤一誠のものと違い、妹も幼馴染も委員長もいません。正常な時計です」
「俺の時計を異常扱いすんな!」
「仕様の時点で故障しています」
「その理屈まだ続くの!?」
アーシアさんは時計を両手で包むように持って、大事そうに鞄へ仕舞った。ぬいぐるみの時と同じ持ち方だった。
この子は、受け取ったものを大事にしすぎる。
そういうところは、少し困る。
そして、悪い気はしない。
「あ、そうだ。昨日の悪魔の仕事なんだけどさ」
一誠がパンを齧りながら言った。
「どうでしたか」
「契約は取れなかった」
「またですか」
「あと、依頼人がすごかった」
「どの方向に」
「聞かない方がいい」
「では聞きません」
「賢明」
悪魔の仕事、というものの実態を、私はまだよく知らない。魔法陣で呼ばれて、依頼をこなして、対価を貰う。説明としてはそれだけ聞いている。
ただ、一誠の顔を見る限り、実態は説明よりだいぶ混沌としているらしい。
深入りは、しないでおいた。
放課後、旧校舎へ向かった。
入部届を書いたからといって、扉の重さが変わるわけではない。
それでも、今日は少し違った。
招かれた客ではなく、部員として扉を開ける。その差は、思ったより大きかった。
部室には、すでに全員がいた。
そして、見知らぬ顔も。
眼鏡をかけた、姿勢のいい女子生徒。その後ろに、副会長らしき雰囲気の生徒がもう一人。二人とも、生徒会の腕章をつけていた。
リアス先輩が、私に気づいて紹介した。
「彼女が天童ミライ。昨日から正式にオカルト研究部の部員になったわ」
一拍置いて、付け加える。
「ただし、グレモリー眷属ではありません」
続けて、リアス先輩は二人を紹介した。
生徒会長、支取蒼那。
その後ろに控える副会長、真羅椿。
支取会長が、私を見た。
値踏みする視線ではなかった。ただ、確認する視線だった。どこかで見たことがある。ああ、初日のリアス先輩と同じ種類の目だ。
「眷属ではない、正式部員」
「はい」
「悪魔でもないのですね」
「はい。少なくとも、私の認識では」
「認識では、という留保が気になりますね」
「私自身、自分の全容を把握していないので、断言を避けています」
会長の眼鏡が、僅かに光った気がした。
この人も、悪魔なのだ。
生徒会長が悪魔。この学校は、私が思っていたよりずっと裏側に近い。そして私は、その裏側の一部に、正式な部員として足を踏み入れている。
「率直に伺いますが」
私は先に言った。
「私を危険要素として見ていますね」
「否定はしません」
「正直ですね」
「曖昧にした方が不誠実でしょう」
「同感です」
会話が、綺麗に噛み合った。
この人とは、話が通じる。敵意はない。警戒はある。だがその警戒は、感情ではなく職務から来ている。そういう警戒なら、私は嫌いではない。
「なんか話が硬えな」
一誠が横から言った。
「あなたが柔らかすぎるのです」
「兵藤くんが単純すぎるだけです」
声が重なった。
私と会長は、一瞬だけ互いを見た。
会長の口元が、ほんの僅かに動いた。笑ったのかもしれない。私も、たぶん似たような顔をしていた。
「……なんか俺、今二方向から斬られなかった?」
「気のせいです」
「事実です」
「どっちだよ!」
生徒会側が帰った後、部室はいつもの空気に戻った。
ソファで一誠が伸びをしながら言った。
「そういえば、この前テニスをしたんだよ」
「テニスですか」
「いや、途中からテニスじゃなかった」
「その説明で納得できると思わないでください」
「マジなんだって。部長と生徒会長の試合だったんだけど、ラケットが途中から光り出して」
「競技規則はどこへ行ったのですか」
「たぶん最初の三分で消えた」
朱乃さんが、お茶を出しながらくすくす笑った。
「ふふ。良い勝負でしたのよ?」
「勝負の定義から確認が必要そうですね」
「あと、使い魔を捕まえに行った話もあるんだけど」
「悪魔は使い魔と契約するのですね」
「いろいろあった」
「あなたの“いろいろ”は、大抵ろくでもないので詳細は後で聞きます」
「賢明」
「二回目です、その言葉」
契約。
悪魔が何かと関わる時、その言葉は何度も出てくる。
私はまだ、その言葉に触れるべきではない。自分の中にあるものすら、制御できていないのだから。
湯呑みを傾けながら、私はそう思うだけに留めた。
部室の話が一段落した頃だった。
私は、ふと気づいた。
リアス先輩の相槌が、半拍遅い。
普段通りに笑っている。普段通りに話している。けれど、会話と会話の継ぎ目で、彼女の視線が一瞬だけ、どこか遠くへ行く。
時計なら、分かる。健康な音と、どこかに負荷がかかっている音の違い。
人間相手にそれが通用するなんて、言うつもりはない。
ないのだけれど。
「リアス先輩」
「なにかしら」
「顔色が、少し悪いです」
「そう?」
「アーシアさんほど詳しくはありませんが、少し無理をしているように見えます 」
「ふふ。貴方までそんなことを言うのね」
貴方まで。
その言葉に、私は引っかかった。私の他にも、誰かが同じことを言ったのだ。
視線を巡らせると、朱乃さんが、リアス先輩を見ていた。
いつもの微笑ではなかった。心配そうな、静かな目だった。
私が気づいたことに、朱乃さんも気づいたらしい。彼女は小さく首を振った。今は聞かないで、という合図に見えた。
聞くべきか、迷った。
けれど私は、まだ入部したばかりだ。
ここにいていい理由は得た。だが、他人の胸の奥に踏み込む理由までは、まだ持っていない。
私は湯呑みに視線を戻した。
帰り道、夕焼けの中を歩きながら、今日一日を頭の中で並べ直した。
悪魔の日常は、私の常識よりずっと騒がしかった。
転校生。生徒会。悪魔の仕事。テニスだったらしい何か。使い魔契約。どれも理解できたとは言い難い。
けれど、アーシアさんは笑っていた。
一誠は相変わらず騒がしかった。
それでも、誰かを笑わせる騒がしさだった。
小猫さんは菓子を食べ、木場くんは爽やかで、朱乃さんは楽しそうに笑い、リアス先輩は部長としてそこにいた。
日常は、戻ってきたように見えた。
だからこそ私は、気づくのが少し遅れた。
リアス先輩の笑顔の奥に、別の影が差していたことに。
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