止まった針は時の終わりに未来を見る   作:ドレットノータス

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第77刻 胸の奥

どうしても、それだけが気になった。

 

 けれど、今は戦闘の真っ最中だ。朱乃先輩とバラキエルさんの間に何があったのか確かめたいからといって、俺たちだけでゆっくり話をしていられるような状況じゃない。

 

 少し離れたところでは、タンニーンさんの火球がロキの防御術式へ激突し、その爆風の中へアーサーが斬り込んでいた。ロキはその剣を受け止めながら美猴の如意棒まで弾き返し、ロスヴァイセさんの魔方陣にも別の術式をぶつけている。

 

 黒歌の仙術まで加わっているのに、ロキの動きはほとんど鈍らない。それどころか、俺たちの方を時折確認する余裕さえ残していた。

 

「赤龍帝! そっちは任せたぞ!」

 

 美猴が如意棒を伸ばし、ロキの足元へ走った魔術を強引に弾き飛ばす。

 

「すまねえ!」

 

「礼なら後でいい! こっちも長くは持たねえからな!」

 

 向こうでは、木場とゼノヴィア、小猫ちゃん、それにソーナ会長たちが二匹の子狼を押さえ込んでいる。親に劣るとはいえ、フェンリルの血を引く化け物だ。少しでも連携が乱れれば、さっきのように前線を突破されかねない。

 

 そして屋上の反対側では、《覇龍》になったヴァーリと、原初のルーンで強化されたフェンリルが戦い続けていた。二人がぶつかるたびに床が揺れ、時折こちらへまで凄まじい魔力の余波が押し寄せてくる。

 

 皆が必死に戦ってくれている。そのおかげで、ようやく俺は朱乃先輩たちの方へ向き直ることができた。

 

「……朱乃先輩」

 

「イッセー君?」

 

 名前を呼ぶと、朱乃先輩が顔を上げた。

 

 アーシアの治療によってバラキエルさんの出血はかなり収まっていたけれど、傷が塞がったからといって、すぐに動けるわけじゃない。朱乃先輩もそれが分かっているのか、父親の手を握ったまま、少しも離れようとしなかった。

 

 俺はもう一度、その表情を見る。やっぱり、何かが違う。普段の朱乃先輩なら、きっとこんな顔はしない。だったら、確かめる方法は一つだけある。

 

「……すみません、朱乃先輩。少しだけ」

 

「え?」

 

 俺は朱乃先輩の胸元へ意識を集中させた。

 

 以前から使えるようになっていた、胸の内にある言葉を聞き取るための力。使う状況としては最悪かもしれないけれど、今はどうしても、朱乃先輩が本当は何を思っているのか知りたかった。

 

「――《乳語翻訳》!」

 

「…………」

 

「…………」

 

 妙な沈黙が生まれた。

 

「……イッセー?」

 

 部長が振り返った。

 

「いや、違うんです! 今のは別に変な意味じゃなくて!」

 

「兵藤一誠」

 

 今度は、さっきまで苦しそうにしていたバラキエルさんから、恐ろしく低い声が聞こえてきた。

 

「……私の娘に、何をするつもりだ?」

 

「だから違いますって! 朱乃先輩が本当はどう思っているのか知りたくて!」

 

『相棒。言っていることは分かるが、もう少し説明の仕方を考えた方がいいぞ』

 

「だったらお前も助けてくれよ、ドライグ!」

 

 ただでさえ説明が難しいのに、こんなところで変な疑いをかけられている場合じゃない。

 

 そう思って、もう一度朱乃先輩へ意識を向けようとした時だった。

 

『――乳龍帝よ』

 

「……ん?」

 

 突然、聞き覚えのない声が頭の中へ響いた。

 

 朱乃先輩の声じゃない。ドライグとも違う、妙に落ち着いた響きの声だ。

 

『突然のお呼び立て、失礼いたします。私は乳神さまにお仕えする、乳の精霊にございます』

 

「…………は?」

 

『相棒。俺にも聞こえているぞ』

 

「ドライグにも?」

 

『ああ。だが、今の声は姫島朱乃のものではない』

 

 いや、それは俺にも分かる。問題は、聞こえてきた内容の方だ。

 

「……乳の精霊?」

 

『左様でございます』

 

「乳神さまって……なんだよ、それ」

 

『乳を求め、乳を愛し、乳に救いを見いだす者たちを慈しむ、大いなる神格でございます』

 

「…………」

 

 待ってくれ。なんだ、その神様。世界には色々な神話があることくらい知っているし、今まさに北欧神話の邪神と戦っているけれど、そんな神様がいるなんて聞いたこともない。

 

「イッセー君?」

 

 朱乃先輩が不思議そうに俺を見た。

 

「さっきから、どうしたんですの?」

 

「……なんか、声が聞こえるんです」

 

「声?」

 

「乳神さまに仕える、乳の精霊だって……」

 

「…………」

 

「…………」

 

 今度こそ、何とも言えない沈黙が落ちた。

 

「イッセーさん、頭を打たれたんですか?」

 

「アーシアまで!?」

 

「動かないでください。頭も治療しますから!」

 

「違うって! 本当に聞こえてるんだよ!」

 

『相棒の言っていることは事実だ。俺にも同じ声が聞こえている』

 

「ほら! ドライグもこう言って――」

 

『もっとも、俺にも何が起きているのかは分からんがな』

 

「最後まで味方してくれよ!」

 

 アーシアは半信半疑のまま俺の頭へ治癒の光を向け、部長まで本気で心配そうな顔をしている。

 

 それだけでも十分に酷い状況なのに、バラキエルさんに至っては、傷を治してもらっている最中だというのに俺を睨みつけていた。

 

 娘の胸へ妙な力を使ったうえに乳の精霊がどうとか言い出したのだから、まあ、怒るのも分からなくはない。

 

『乳龍帝よ。皆さまには、私の声が届いていないようでございます』

 

「……みたいだな」

 

『恐れ入りますが、私の言葉を皆さまへお伝えいただけますでしょうか』

 

「俺が?」

 

『はい。どうか、そのままお伝えください』

 

 嫌な予感がした。というか、もう嫌な予感しかしなかった。

 

「……分かった。でも、何を言われても俺が考えた言葉じゃないからな?」

 

 そう前置きしてから、俺は周囲へ聞こえるように声を張った。

 

「えっと……今から、こいつが喋ることをそのまま伝えるから!」

 

「……分かったわ」

 

 部長が頷いた。その表情は、どう見ても納得している人間のものじゃなかったけれど。

 

『乳とは、慈愛と包容の象徴にございます。豊かなる乳房とは、多くの想いを受け止め、人々を優しく包み込む、乳神さまより授けられた尊き恵みにございます』

 

「……『乳とは、慈愛と包容の象徴にございます。豊かなる乳房とは、多くの想いを受け止め、人々を優しく包み込む、乳神さまより授けられた尊き恵みにございます』」

 

「…………」

 

 読み終えた途端、部長の視線が痛くなった。

 

 朱乃先輩は少し困ったような顔をしているし、バラキエルさんの眉間には、今まで見たこともないほど深い皺が寄っている。

 

「だから、俺が考えたんじゃありませんって!」

 

 その時、少し離れた場所で大きな爆発が起きた。

 

 アーサーたちは攻め続けていたが、ロキはまだ余裕を失っていなかった。

 

 少なくとも、この時までは。

 

『恵まれし方々よ。その豊かさを誇る必要はございません。乳神さまの慈愛は、驕りや優越のために授けられるものではないのです』

 

 俺は、それもそのまま伝えた。

 

 またしても微妙な空気になる。ただ、内容そのものは意外とまともなのかもしれない。

 

 そう思ったのは、次の言葉が聞こえてくるまでだった。

 

『そして、持たざる方々よ。どうか、お嘆きになりませぬよう』

 

「…………」

 

 待て。ちょっと待て。

 

『乳龍帝さま?』

 

「……本当に、そのまま言うの?」

 

『はい。どうかお願いいたします』

 

 観念して、そのまま口にした瞬間、なぜか背筋へ冷たいものが走った。

 

 誰かを名指ししたわけでもないし、そもそも何を持っているとか持っていないとか、そんな話をしている場合じゃない。なのに、妙に危険な言葉を口にしている気がする。

 

『たとえ胸の恵みが乏しくとも、乳神さまがそのことを理由にお見捨てになることはございません。どうか、ご自身を卑下なさらぬよう』

 

 それも、そのまま口にした。

 

 今度は、すぐに次の言葉が出てこなかった。というのも、戦っていたはずのロキが、こちらを見ていたからだ。

 

「…………」

 

 アーサーの剣を防御術式で弾きながら、ロキは明らかに不機嫌そうな表情を浮かべていた。

 

 なんだ? 何か気に障ることでも言ったのか? その疑問に答えてくれる者はいなかった。

 

『乳龍帝さま。続けてもよろしいでしょうか』

 

「……ああ」

 

『豊かなる乳房を持つ方々を、妬む必要もございません。その恵みの大小は、人としての価値や能力を定めるものではないのですから』

 

 言われるまま、それも繰り返す。

 

 その時だった。ロキがアーサーの剣を弾くために展開した魔方陣が、僅かに乱れた。

 

「……?」

 

 アーサーも気づいたらしい。すぐに踏み込んで追撃し、ロキの衣服を浅く切り裂いた。

 

「――っ!」

 

 ロキは咄嗟に後退したものの、さっきまでのような余裕のある動きじゃなかった。さらに美猴が側面から如意棒を伸ばし、ロスヴァイセさんの術式が退路を塞ぐ。ロキはそれらをまとめて強引に弾き飛ばした。

 

「……何を言っているんですか」

 

 低い声が聞こえた。でも、俺にはそっちへ気を取られている余裕がなかった。なぜなら、精霊の言葉がまだ続いていたからだ。

 

『ゆえに、乳房の豊かな方々を、その大きさのみを理由に憎み、悪し様に罵ることなど、決してなさいませぬよう。そのような行いは、他者ではなく、ご自身の心を貧しくしてしまうものでございます』

 

「…………」

 

 これは。なんというか。ものすごく、誰かに喧嘩を売っているような気がする。

 

『乳龍帝さま?』

 

「……分かったよ」

 

 もう、ここまで来たら最後までやってやる。

 

 俺は、一字一句そのまま読み上げた。

 

「――何を言っているんですかぁぁぁぁぁッ!!」

 

「うおおっ!?」

 

 突然響いた絶叫に、俺は本気で飛び上がった。

 

 声の主はロキだった。

 

「誰が妬んでいると言うんですか! そもそも胸が大きいからといって、どうしてそれが優れていることになるんです!? 慈愛だの包容力だの、そんなものに何の根拠があると言うんですか!」

 

「…………は?」

 

「胸だけが大きい無能が! それだけで偉そうにしている連中の、一体どこが尊いんですか! そんなもの、ただ無駄に大きいだけじゃないですか!!」

 

 ロキが一人で怒鳴り散らしていた。

 

 アーサーが剣を構えたまま僅かに動きを止め、美猴も如意棒を伸ばした姿勢で固まっている。ロスヴァイセさんに至っては、展開していた魔方陣を維持したまま、何とも言えない顔でロキを見ていた。

 

 タンニーンさんも、黒歌も。少なくともロキと戦っていた全員が、突然始まった意味不明な怒りに戸惑っている。

 

 少し離れたところではヴァーリとフェンリルが相変わらず殴り合い、木場たちも子狼への警戒を緩めていないのに、俺たちの周囲だけ妙な空気に包まれていた。

 

「……あのさ、ロキ」

 

「何ですかッ!」

 

「誰もお前の話なんてしてないぞ?」

 

「そんなことは分かっていますよ!!」

 

「じゃあ、なんでそんなにキレてるんだよ!?」

 

「知りませんよ! 私だって、どうしてこんなに腹が立つのか分からないんですから!!」

 

「知らないのにそこまで怒れるの!?」

 

「だから、いちいち反論しないでください!!」

 

 ……どうしよう。俺たちは今、世界を滅ぼそうとしている北欧の邪神と戦っているはずだ。

 

 なのに、その邪神が突然、胸の大きさについて一人で怒鳴り散らしている。しかも、怒っている本人にさえ理由が分からないらしい。

 

「……なんというか」

 

 美猴が小さく呟いた。

 

「俺、今まで色々な奴と戦ってきたけどよ。こんな反応されたの初めてだぜ」

 

「……私もです」

 

 アーサーが静かに同意する。

 

 黒歌だけは口元へ手を当て、笑うべきなのか迷っているような顔をしていた。

 

 そうしている間にもロキは何か言い返そうとしていたが、やがて自分が何を口走っているのか気づいたらしい。

 

「…………」

 

 大きく息を吐き、額へ手を当てる。

 

「……失礼。少々、取り乱しました」

 

 どうやら気を取り直そうとしているらしい。口元に笑みを作り、いつもの穏やかな表情へ戻ろうとする。けれど、うまくいっていなかった。頬が引きつり、眉間には深い皺が残ったままだ。

 

「……続けてください」

 

「え?」

 

「そちらの話ですよ。私には関係のないことですから、どうぞ、お好きなだけ続けてください」

 

「……本当に?」

 

「ええ。何の問題もありません」

 

 そう言って笑おうとしたロキの顔を見て、俺は確信した。

 

 絶対に問題がある。

 

『乳龍帝さま』

 

「……なんだよ」

 

『お話を続けてもよろしいでしょうか』

 

「お前もよく平気で続けられるな……」

 

『何か問題がございましたでしょうか』

 

「……いや、もういいよ」

 

 俺は諦めた。これ以上胸の話を続けたら、今度こそロキが何を言い出すか分かったものじゃない。

 

「それで、精霊さん。朱乃先輩のことなんだけど……」

 

『はい。承知しております』

 

 それまでと変わらない、丁寧で落ち着いた声だった。

 

『乳龍帝さまが、この巫女の胸へ問いかけられた理由は、私にも伝わっております』

 

「……そっか」

 

『そのお気持ちは、偽りではございませんね?』

 

「ああ」

 

 俺は朱乃先輩を見る。

 

「本当は、どう思ってるのか知りたいんだ。バラキエルさんのことを」

 

『かしこまりました。それでは、どうかお聞き届けくださいませ』

 

 精霊の声が、少しだけ遠くなった。

 

『この巫女が長きにわたり胸の奥へ秘めてこられた、偽らざる想いを』

 

 その瞬間、目の前の光景がゆっくりと薄れていった。

 

 最初に見えたのは、小さな家だった。広いとは言えない庭に、まだ幼い女の子が立っている。黒い髪を揺らしながら楽しそうに走り回っているその子が誰なのか、考えるまでもなかった。

 

 朱乃先輩だ。今よりもずっと小さくて、いつも見せてくれる大人びた笑顔とは違う、年相応の無邪気な表情を浮かべていた。

 

「お母様!」

 

 幼い朱乃先輩が駆け寄った先には、黒髪の美しい女性がいた。

 

 女性は膝を折って娘を抱きとめると、楽しそうに笑う朱乃先輩の髪を優しく撫でる。その様子を見ているだけで、二人がどれほど仲のいい親子だったのか伝わってくる。

 

「お父様は、今日はいつ帰ってくるんですか?」

 

「もうすぐですよ。帰ってきたら、三人で町へお買い物に行きましょうね」

 

「本当ですか!?」

 

「ええ、もちろん」

 

 朱乃先輩が嬉しそうに笑った。俺の知っている朱乃先輩よりもずっと幼いその姿を見て、胸の奥が少し温かくなる。

 

 そして、そこでようやく気づいた。これは、ただ昔の出来事を見せられているだけじゃない。

 

 朱乃先輩の喜びが、自分のことのように伝わってくる。父親が帰ってくるのを待ち遠しく思う気持ちも、母親と一緒に過ごす時間の心地よさも、その時に抱いていた感情まで一緒に流れ込んできていた。

 

『乳龍帝さま。この記憶と想いは、あなたさまを含めた三名へお届けしております』

 

 精霊の声が響く。

 

『どうか最後まで、お見届けくださいませ』

 

 三名。俺と、朱乃先輩と、バラキエルさん。それを確かめようとしたところで、景色が変わった。

 

 今度は風呂場だった。湯船に浸かっている幼い朱乃先輩の隣には、バラキエルさんがいる。その背中には大きな黒い翼が広がっていた。

 

「お父様の羽、とっても綺麗ですね」

 

「……そうか?」

 

「はい!」

 

 朱乃先輩が黒い羽へそっと触れる。

 

「だって、私の髪と同じ色ですもの。だから、私、この羽が大好きです!」

 

 バラキエルさんが目を見開いた。それから、少し困ったような、それでいてどうしようもなく嬉しそうな顔で笑った。

 

 あんな顔をする人だったのか。俺が知っているバラキエルさんは、いつも落ち着いていて、少し近寄りがたい雰囲気を持った堕天使の幹部だ。けれど、目の前にいるのは、娘の何気ない言葉に喜んでいる一人の父親だった。

 

 再び景色が移り変わる。縁側に座っている朱乃先輩の髪を、母親が櫛でとかしていた。

 

「ねえ、お母様。お父様は、私のことがお好きなんでしょうか?」

 

「もちろんですよ。どうしてそんなことを聞くんです?」

 

「だって……お父様は、あまり帰ってこられないから」

 

 幼い朱乃先輩が少しだけ俯く。

 

 その姿を見て、母親は櫛を置き、優しく娘を抱き寄せた。

 

「お父様は、朱乃のことが大好きですよ。もちろん、お母様もです」

 

「……本当ですか?」

 

「ええ。ですから、帰ってこられたら、いっぱい甘えてあげてくださいね」

 

「はい!」

 

 朱乃先輩は嬉しそうに頷いた。でも、その笑顔の奥には小さな寂しさがあった。

 

 もっと一緒にいたい。もっと遊んでほしい。できることなら、毎日三人でご飯を食べて、同じ家で眠って、朝になったらまた顔を合わせたい。

 

 どこにでもある、ごく普通の願いだった。それが、朱乃先輩にとっては何より大切なものだったんだ。

 

 そして。景色が変わった。さっきまでの温かい光景が、嘘のように消えた。

 

 荒らされた家の中に、何人もの人影がある。武器を持った男たちが、朱乃先輩とその母親を取り囲んでいた。

 

「その子をこちらへ渡せ」

 

「嫌です!」

 

 母親が、幼い朱乃先輩を背中へ庇う。

 

「この子は私の娘です! 誰にも渡しません!」

 

「堕天使の血を引く子供など、姫島の家に置いておくわけにはいかない」

 

「この子には何の罪もありません!」

 

 男たちは聞く耳を持たなかった。その手に握られていた刀が持ち上がり、朱乃先輩の母親へ向けて振り下ろされる。

 

「――っ!」

 

 俺は反射的に飛び出そうとした。けれど、身体が動かない。これはもう終わってしまった出来事だ。どれだけ手を伸ばしても、目の前の光景を変えることなんてできない。

 

 刀が振り下ろされた。血が飛び散る。母親が、朱乃先輩を守るように倒れた。

 

「お母様……?」

 

 幼い朱乃先輩の声が震える。

 

「お母様……起きてください……」

 

 返事はなかった。小さな手が、倒れた母親の身体を揺する。

 

「お母様……!」

 

 何度呼んでも、目を開けてくれない。

 

 その時、家の中へ凄まじい勢いで一人の男が飛び込んできた。バラキエルさんだった。

 

 床に倒れている妻と、その傍らで泣き叫んでいる娘を見て、バラキエルさんの表情が凍りつく。

 

 その先で何があったのか、俺にははっきり分からなかった。ただ、次に見えた時には、バラキエルさんが娘の前へ膝をついていた。

 

「朱乃……」

 

 震える手が伸ばされる。けれど。

 

「……どうして」

 

 幼い朱乃先輩が顔を上げた。

 

「どうして、お父様は……」

 

「……朱乃」

 

「どうして、そばにいてくれなかったんですか!」

 

 悲鳴のような声だった。

 

「お父様が堕天使だから……! お父様が堕天使だから、お母様は……!」

 

「…………」

 

「私にも黒い羽があるから……私も悪い子だから……!」

 

「違う! 朱乃、お前は――」

 

「来ないでください!」

 

 伸ばされた手が振り払われた。バラキエルさんは、それ以上近づけなくなった。

 

 そして、幼い朱乃先輩の泣き声が響く中、父親も声を押し殺して泣いていた。

 

 ……ああ。そうだったのか。

 

 ようやく分かった。朱乃先輩がずっと抱えていたもの。それは、単純な憎しみなんかじゃなかった。

 

 もちろん、父親を責めた気持ちは本物だったんだろう。けれど、その奥から流れ込んできた想いは、まるで違うものだった。

 

 寂しかった。もっと一緒にいてほしかった。

 

 お父様が悪いわけじゃない。本当は、分かっていた。

 

 母親を殺したのは、目の前にいたあの連中だ。父親が自分たちを愛してくれていたことも、決して家族を見捨てたわけじゃないことも、分かっていた。

 

 それでも、どうしても許せなかった。

 

 どうしてあの時だけ、そばにいてくれなかったのか。どうして、もっと一緒にいてくれなかったのか。

 

 そんなことを考えているうちに、誰かを責めずにはいられなくなった。そうでもしなければ、あまりにも悲しくて、寂しくて、どうしたらいいのか分からなかったんだ。

 

『……三人で』

 

 幼い声が響いた。

 

『ただ、三人で暮らしたかっただけなのに……』

 

 その言葉に、俺は何も返せなかった。

 

 目の前には、もう一度だけ、あの小さな家の光景が浮かんでいる。笑っている母親。娘の頭を撫でている父親。その間で、幸せそうに笑う幼い朱乃先輩。

 

 失われてしまった、ごく普通の家族の姿だった。

 

 そして、かつて母親が娘へ語りかけた言葉が、静かに響いてきた。

 

 何があっても、お父様を信じてあげて。お父様があなたを愛していることだけは、本当なのだから。

 

 その言葉とともに、景色がゆっくりと薄れていった。

 

     ○

 

「――っ!」

 

 気がつくと、俺は屋上に立っていた。先ほどまでと同じ、ホテルの屋上だ。

 

 どれだけの時間が経ったのか分からないけれど、タンニーンさんたちはまだロキを押さえ込んでくれていた。

 

 頬へ手を当てる。濡れていた。俺、泣いていたのか。

 

「……お父様」

 

 朱乃先輩の声がした。

 

 振り返ると、朱乃先輩も涙を流していた。そして、その向かいにいるバラキエルさんも。

 

 二人の表情を見て、確信する。やっぱり、あの光景は俺だけが見ていたものじゃない。朱乃先輩も、バラキエルさんも、同じものを見ていたんだ。

 

「……私」

 

 朱乃先輩が口を開く。

 

 けれど、言葉が続かない。バラキエルさんは何も言わず、娘が話し始めるのを待っていた。

 

「……私、本当は……」

 

 震える声だった。

 

「もっと……会いたかったです」

 

「…………」

 

「もっと、一緒に遊んでほしかったです。お父様が帰ってこられる日を、いつも楽しみにしていたんです」

 

「……朱乃」

 

「お母様と、お父様と……三人で、もっと……」

 

 そこまで言ったところで、朱乃先輩の声が崩れた。

 

「もっと、一緒にいたかったです……!」

 

 堪えきれなくなった涙が頬を伝い、握っていた父親の手へ落ちていく。

 

「……すまなかった」

 

 バラキエルさんが、掠れた声で答えた。

 

「お前たちを守れなかったことも、あの時そばにいてやれなかったことも……私の後悔は、決して消えることはない」

 

「……お父様」

 

「だが、これだけは信じてほしい。私は一日たりとも、お前のことを忘れたことはない」

 

 バラキエルさんは娘の手を握り返した。

 

「お前を、ずっと愛している」

 

「……はい」

 

 朱乃先輩が小さく頷く。それから、父親の胸へ顔を埋めた。バラキエルさんも傷を庇いながら、娘を優しく抱きしめる。

 

 俺は何も言わなかった。ただ、よかったと思った。

 

 これで全部が元通りになるわけじゃない。失われた時間も、亡くなったお母さんも戻ってこない。それでも、今まで言えなかったことをようやく伝えられたのなら、きっとここから少しずつ変わっていけるはずだ。

 

『乳龍帝さま』

 

「……ああ」

 

 精霊の声が聞こえた。

 

『この巫女の想い、確かにお聞き届けになりましたね』

 

「ああ。ありがとう」

 

『お礼には及びません。あなたさまが救いを求められたのは、ご自身のためではなく、目の前の方々のためでございました』

 

「……そんな大層なことじゃないよ」

 

 俺は苦笑する。

 

「ただ、朱乃先輩に笑っていてほしかっただけだ」

 

『それこそが、乳神さまの尊ばれる慈愛にございます』

 

 その言葉が響いた直後、全身を包んでいる赤龍帝の鎧が突然輝き始めた。

 

「うおっ!?」

 

 胸だけじゃない。腕、脚、背中の翼に至るまで、鎧に埋め込まれている宝玉が次々と光を放ち、身体の奥から凄まじい力が湧き上がってくる。

 

『相棒! これは……!』

 

「ドライグ!?」

 

『外から神格の力が流れ込んでいる! それも、相当なものだ!』

 

 腰に携えていたミョルニルまで反応し、槌の周囲を白い雷が走り始めた。

 

『乳龍帝さま。巫女の想いを救われたあなたさまへ、乳神さまより一度限りの加護をお授けいたします』

 

「……一度限り?」

 

『はい。この恵みをお受けになる機会は、ただ一度にございます。どうか、存分にお役立てくださいませ』

 

「……分かった」

 

 俺はミョルニルの柄を握った。そして。

 

「……軽い?」

 

 思わず声が漏れた。

 

 今までのミョルニルは、とにかく重かった。レプリカとはいえ神話の武器であり、俺でも扱うのに相当苦労していたはずなのに、今はまるで身体の一部になったかのように自然に持ち上げられる。

 

 槌を軽く動かしてみると、それに応じて雷光が軌跡を描いた。なんだ、これ。本当に同じ武器なのか?

 

「……なるほど」

 

 不意に、ロキの声が聞こえた。顔を上げると、ロキがこちらを見ていた。

 

 相変わらずタンニーンさんたちと戦っているものの、さっきまでのような笑みはなく、眉間には深い皺が刻まれている。

 

「……本当に存在していたんですね」

 

「何がだよ」

 

「その、乳神というものですよ」

 

「……ああ」

 

「名前からは想像もできませんが、今の波動は確かに神格のものです。それも、私の知らない体系に属する……」

 

 ロキはそこで言葉を切った。そして、また眉間の皺を深くする。

 

「……どうして、よりにもよって乳なんですか」

 

「俺に聞くなよ!」

 

「……不愉快です」

 

「まだ引きずってんの!?」

 

「引きずってなどいません!」

 

 即座に反論された。けれど、どう見ても引きずっている。

 

「イッセー!」

 

 部長の声で我に返った。

 

「そろそろ戻ってきて! 皆も限界が近いわ!」

 

「分かってます!」

 

 俺はミョルニルを握り直し、ロキへ向き直る。

 

 朱乃先輩とバラキエルさんのことは、ひとまず大丈夫だ。だったら、今度こそ俺が戦う番だ。

今後、本作で特に見てみたい仮面ライダー要素は?

  • 歴代ライダー本人の登場
  • 歴代ライダーとの共闘
  • 歴代ライダーとの対決
  • ライドウォッチ
  • アーマータイム
  • ミライ独自のライダー形態
  • 他キャラの仮面ライダー化
  • ライダー由来の武器・アイテム
  • ライダーマシン
  • 怪人・敵組織
  • 歴代ライダーの能力再現
  • 歴代ライダーの必殺技
  • 原作ライダーの名場面オマージュ
  • 仮面ライダー側の世界観・設定
  • 昭和ライダー要素
  • 平成一期ライダー要素
  • 平成二期ライダー要素
  • 令和ライダー要素
  • 劇場版・Vシネマなどの要素
  • その他(感想欄で教えてください)
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