京都サーゼクスホテルに着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
広い車寄せを抜け、案内された駐車スペースにスターゲイザーを停める。エンジンを切ると、身体の下から伝わっていた細かな振動が消え、辺りが急に静かになった気がした。
「……ふぅ」
ヘルメットを脱いで、大きく息を吐く。途中で休憩は取っていたけれど、肩や腰には一日分の疲れがしっかりと溜まっていた。
それでも、裏京都へ寄り道したことは後悔していない。明日また会う約束を思い出すと、自然と口元が緩んだ。
バッグを降ろして施錠を確かめ、ホテルの入口へ向かう。
自動扉の先には、広々としたロビーが広がっていた。磨き上げられた床に照明が映り込み、落ち着いた色合いの調度品が整然と並んでいる。さすがは、サーゼクス様の関わるホテルというべきだろうか。
「天童さん!」
声のした方を向くと、見覚えのある銀髪の女性が、足早にこちらへ歩いてくるところだった。
「ああ、ロスヴァイセさん……いえ、ロスヴァイセ先生。お待たせしました」
「こんばんは。無事に到着できたようで、安心しました」
そう答えたロスヴァイセ先生は、どこか嬉しそうに表情を緩めた。まだ、先生と呼ばれることには慣れていないらしい。
「アザゼル先生から連絡は受けていました。まさか本当に、今日中に着くとは思いませんでしたけれど……。駒王町から静岡を経由して、京都までバイクでいらしたのでしょう?」
「休憩を挟みながら走りましたので、特に問題はありませんでしたよ」
「……天童さんがそう言うと、本当に何でもないことのように聞こえますね」
先生は呆れたように笑い、私のバッグへ目を向けた。
「お荷物は、それだけですか?」
「はい。制服と最低限の着替え、それから仕事の道具です。参加できるかどうか分からなかったので、必要なものしか持ってきていません」
「不足しているものがあれば、遠慮なく相談してくださいね」
そう言う先生の顔には、どこか疲れの色が見えた。
「……先生。何かありましたか? 少し、お疲れのようですが」
「ああ……」
ロスヴァイセ先生は、一瞬だけ何とも言えない顔をした。
「……少々、手のかかる生徒がいまして」
「それは大変ですね」
「ええ。本当に……」
ずいぶんと実感のこもった返事だった。教師になったばかりだというのに、早くも苦労しているらしい。誰がそこまで先生を困らせたのか、気にならないと言えば嘘になる。
「では、皆さんのところへご案内します。今は兵藤君のお部屋に集まっていますよ」
○
案内されたのは、ホテルの一角にある和室だった。
「兵藤君、皆さん。天童さんが到着しましたよ」
ロスヴァイセ先生が声をかけると、中から間の抜けた声が返ってきて、すぐに扉が開いた。
「……ミライ!?」
「こんばんは、一誠。修学旅行は楽しんでいますか?」
「いや、楽しんでるけど! お前、来ないんじゃなかったのか!?」
「仕事が片付けば途中から参加すると、先生には伝えてありましたよ」
「俺、何も聞いてねえぞ!?」
「それは、私に言われても困ります」
「ミライさん!」
部屋の奥から、アーシアが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「本当にいらしたんですね! お仕事、お疲れさまでした!」
「こんばんは、アーシア。写真、ありがとうございました。おかげで、京都へ向かうのが少し楽しみになりましたよ」
「えへへ……そう言っていただけると、嬉しいです!」
「……ちょっと待て。アーシアは知ってたのか?」
「あ、あの……はい。ミライさんから、お返事をいただいていたので……」
「だったら教えてくれよ!」
「す、すみません! 昼間はいろいろあって、その後も落ち着かなくて……お伝えしたつもりになっていました!」
「……昼間?」
引っかかる言い方だった。けれど一誠は、自分だけ知らされていなかったことの方が気になる様子だ。
「俺だけ知らなかったのかよ……」
「今知ったのですから、問題ないでしょう」
「そういう問題じゃねえよ!」
予想以上に驚いてくれたので、こちらとしては、なかなか面白かった。
「こんばんは、ミライさん。来られてよかったね」
「こんばんは、裕斗。お邪魔します」
穏やかに笑った裕斗が、荷物を置ける場所を空けてくれる。
「時計店の仕事は、もう大丈夫なのかい?」
「はい。必要な部品は受け取ってきましたし、残りは配送していただくことになっています」
「それなら安心したよ。せっかくの修学旅行だし、楽しめるといいね」
ゼノヴィアやイリナとも挨拶を交わしながら、部屋の中へ入る。八畳ほどの和室には丸いテーブルが置かれ、奥には大きめの押し入れがあった。グレモリー眷属だけでなく、シトリー眷属の二年生たちの姿もある。
バッグを脇へ置くと、一誠が改めて尋ねてきた。
「で、お前、どうやって来たんだ? 新幹線か?」
「いえ。スターゲイザーです」
「…………」
「スターゲイザーというと、ミライのバイクか?」
黙り込んだ一誠の隣で、ゼノヴィアが首を傾げる。
「ええ」
「……そのバイクで?」
「もちろんです」
何とも言えない沈黙が流れた。……確か、今日の昼頃にも、似たようなやり取りをした気がする。
「駒王町から京都まで、バイクで走ってきたのか!?」
「途中で静岡の取引先に寄りましたが、そうですね」
「余計すげえことになってんじゃねえか! ……普通、もうちょっと大変だったって顔するもんだろ」
「大変でしたよ」
「……そうか」
「……何か調子狂うなあ」
失礼な。私だって、疲れる時は疲れるし、大変なことは大変だと言う。
「それで、ミライさん。今夜はどこに泊まるんだい?」
騒ぎが一段落したところで、裕斗が尋ねてきた。
「まだ決まっていません。もともと不参加で届けていましたので、私の部屋割りはないはずです」
「そうですね……」
ロスヴァイセ先生が、困ったように頷く。
「急な途中参加ですから、一般の生徒と同じように部屋を割り当てるのは難しいでしょうね。別室の手配も含めて、確認しないと……」
「だったら、俺の部屋でよくねえか?」
何気なく口を挟んだのは、一誠だった。
「ここ八畳あるしさ。布団をもう一組持ってきてもらえば、二人で寝るくらい余裕だろ?」
確かに、広さだけなら問題はない。私の体格なら、布団を二組並べてもまだ余裕があるだろう。わざわざ別の部屋を用意してもらうよりは、その方がありがたい。
「……なるほど。それでも構いませんが」
「待ってください!」
ロスヴァイセ先生の声が響いた。
「いくら何でも、男子生徒と女子生徒を同じ部屋に泊めるわけにはいきません!」
「布団は別々にしますよ?」
「そういう問題ではありません!」
「でも、家じゃ部長たちとも一緒に寝てますし……」
「それはそれ、これはこれです!」
先生はそのまま一誠を指差し、勢いよく続けた。
「そもそも、つい先ほど女子風呂を覗こうとしていた人と、天童さんを同室にするなんて認められません!」
部屋の空気が止まった。
「……ロスヴァイセ先生?」
「……あっ」
どうやら、口にするつもりのない話だったらしい。ロビーで見た先生の疲れた顔の理由も、ようやく分かった。
私は、ゆっくりと一誠へ目を向けた。
「……覗き、ですか」
「ち、違う! いや、違わねえけど!」
「京都まで来て、実に有意義な活動をされているようですね」
「その言い方やめろって!」
「何か、間違ったことを言いましたか?」
「何も言い返せねえ……!」
修学旅行に来てまで、一誠は一誠らしい。もちろん、褒めているわけではない。
「とにかく、私は反対です!」
「おいおい、何の騒ぎだ?」
ロスヴァイセ先生が言い切ったところで、入口からアザゼル先生が顔を出した。
「ああ、ミライ。無事に着いたみたいだな。ちゃんと休みながら来たんだろうな?」
「もちろんです」
「ならいい。……で、何を揉めてるんだ?」
事情を聞いたアザゼル先生は、部屋を見回してから、あっさりと言った。
「別にいいんじゃねえか?」
「アザゼル先生!?」
ロスヴァイセ先生の声が裏返った。
「ここはもともと、必要があれば俺たちが集まって話せるように押さえてある部屋だろ。ミライのために一般の部屋割りをいじるより、こっちの方が都合がいい」
「しかし、男女が同じ部屋というのは……!」
「事情を知ってる連中をまとめておけば、何かあった時にも動きやすい。布団を別々に敷いて、あんたが見回りをすりゃいいだろ。どうしても問題があるなら、明日また考えりゃいい」
アザゼル先生は、私たちへ目を向けた。
「お前らも、それでいいんだな?」
「俺は大丈夫っす」
「私も、寝る場所が確保できるなら問題ありません」
「……だそうだ」
ロスヴァイセ先生は、しばらく納得のいかない様子だったものの、最後には深くため息をついた。
「……分かりました。ただし、見回りはしますからね。兵藤君、妙なことをしたら本当に許しませんよ」
「しませんって!」
「その言葉は、今日すでに一度信用を失っていますが」
「ミライまで追い打ちかけるなよ!」
信用というものは、日頃の積み重ねだと思う。
「ところで天童さん、ナイトウェアは持ってきていますか?」
「いえ。そこまでは」
「でしたら、私のジャージをお貸ししましょうか?」
「ありがとうございます。ですが……」
私は先生を見上げ、それから自分の背丈と見比べた。
「……おそらく、サイズが合わないと思います」
「…………あっ」
先生も私を見下ろし、小さく声を漏らした。
「お気持ちだけいただきます。浴衣があれば、そちらを使わせてください」
「分かりました。では、天童さんの体格に合う小さめの浴衣を、追加の布団と一緒に手配しておきますね」
こうして、今夜の寝床は決まった。隣では一誠が、まだ何やら落ち着かない様子でこちらを見ている。
「……何か不満でも?」
「いや、ねえけど……お前はもうちょっと気にしろよ!」
「何をですか?」
「それだよ、それ!」
相変わらず、よく分からない人だ。
「よし。それじゃ、そろそろ行くぞ」
アザゼル先生が手を叩いた。
「セラフォルーが待ってる。今の京都で起きてる件について、話があるんだとさ」
セラフォルー様。お会いするのは、駒王会談以来だろうか。
○
アザゼル先生に連れられて、一誠とアーシア、ゼノヴィアとイリナ、裕斗、そして私の六人は、夜の京都を少し歩いた。料亭『大楽』は、細い路地を入った先にひっそりと構えていた。
控えめな照明に照らされた門をくぐると、小さな坪庭の石灯籠に柔らかな明かりがともっている。磨かれた廊下を奥へ進み、個室の戸が開いた途端、明るい声が飛んできた。
「ハロー! みんな、いらっしゃーい!」
出迎えてくれたのは、華やかな着物に身を包んだセラフォルー様だった。艶やかな黒髪を和服に合わせてまとめ、満面の笑みを浮かべている。
「こんばんは、セラフォルー様。ご無沙汰しています」
「あっ、ミライちゃんもいるー! 久しぶりだね! 駒王で会って以来かな?」
「はい。お久しぶりです」
「修学旅行、途中から来られたんだって? それなら、いっぱい京都を楽しんでいってね!」
冥界の四大魔王の一角とは思えない気さくさは、以前と少しも変わらなかった。
「ほらほら、遠慮しないで食べてね! ここの料理、すっごく美味しいんだから!」
座敷の大きなテーブルには、すでに料理がいくつも並んでいた。一誠たちも勧められるまま箸を取っていたけれど、ホテルで夕食を済ませているせいか、あまり勢いはない。
一方、私はまだ夕食を取っていない。丁寧に味の染みた煮物に、香ばしく焼かれた魚。どれも上品な味で、朝から身体を動かし続けてきた分、温かい食事がいつも以上にありがたく感じられた。
「……ミライ、お前よく食えるな」
隣の一誠が、呆れたように言った。
「私はまだ夕食を取っていませんので。あなたと同じ条件だと思わないでください」
「ああ、そっか。ホテルに来たばっかりだったな」
「今さら気づいたんですか」
「いちいち刺すような言い方するなよ……」
「そういやミライ、京都に着いてから何か食ったのか?」
やり取りを聞いていたアザゼル先生が、面白そうに尋ねてきた。
「はい。焼き鳥をご馳走になりました。五本ほどですが」
「へえ。どこで食ったんだ?」
「裏京都です」
アザゼル先生の箸が止まった。向かいに座っていたセラフォルー様も、こちらへ顔を向ける。
「……ミライちゃん。今、何て言った?」
「裏京都で、焼き鳥をご馳走になった、と」
「お前、いつの間にそんなところへ行ったんだよ……」
アザゼル先生が、額に手を当てた。
「道を確かめようとしていたら、いつの間にか知らない街へ入り込んでいまして。どうやって入ったのかは、私にも分かりません」
そう説明したところで、セラフォルー様の表情が、先ほどまでとは違うものになっていることに気づいた。
「ミライちゃん。そこで、誰かに何か言われなかった? どこから来たのかとか、誰の関係者なのかとか」
「いえ。特には」
「危ない目には?」
「遭っていません。むしろ、随分と親切にしていただきました」
「……そっか。それならよかった」
セラフォルー様は小さく息を吐くと、アザゼル先生へ目を向けた。
「アザゼル。先に、あの話をした方がよさそうだね」
「ああ。その方がよさそうだ」
「ミライちゃん。その裏京都は、どんな様子だった?」
「とても賑やかでしたよ。提灯の並ぶ通りに、食べ物の露店や古道具屋があって。妖怪の皆さんも、ごく普通に買い物をしたり、仕事をしたりしていました」
「普段どおりに見えた?」
「初めて訪れたので、比べることはできませんが……少なくとも、街全体が騒ぎになっているようには見えませんでした。ただ、見回りに出ている妖怪たちは、随分と多いようでした」
「ほかには?」
「通れなくなっている道もありましたね。それと、案内してくださった三人のほかに、もう一人お会いしました。焼き鳥をご馳走してくださった、御稜ナグサさんという方です」
「……ナグサちゃんに会ったの?」
セラフォルー様が、わずかに目を見開いた。
「ご存じなんですか?」
「直接親しいわけじゃないけど、見回りや治安維持に協力している子として、名前は聞いてるよ」
焼き鳥屋で見た、ナグサさんの疲れた横顔を思い出す。見回りの帰りだと言っていたこと。食事のあとも、まだ用事が残っていると言って別れたこと。あの見回りの妖怪たちと、やはり関係があったのかもしれない。
「ナグサさんも、最近は随分とお忙しいようでした。何か事情があるのでしょうか」
「……うん」
セラフォルー様は、小さく頷いた。
「実はね、今の京都では、少し困ったことが起きてるの。私たちは京都の妖怪たちと、協力関係について話を進めていたんだけど……その妖怪たちをまとめている人が、行方不明になっちゃったんだ」
先ほどまで料理を勧めていた時とは、明らかに声の調子が違っていた。
「九尾の狐。京都の妖怪を束ねている、八坂っていう人だよ」
京都の妖怪たちを束ねる存在が、突然姿を消した。それなら、街の妖怪たちが警戒を強めるのも無理はない。
「それで、見回りが増えていたんですね」
「たぶんね。詳しいことを知らされていない住民も多いみたいだから、表面上はいつもどおりに見えたかもしれない。それに、妖怪側は私たち悪魔を疑ってるところもあるの」
「悪魔を、ですか?」
「ちょうど協力の話を進めていた時期だから、いろいろ勘繰られちゃってるんだよね」
それで、セラフォルー様は私が裏京都へ入ったことを気にしたのだ。私は人間だけれど、悪魔陣営と無関係というわけではない。素性を疑われていたら、余計な火種になっていたかもしれない。
「……知らなかったとはいえ、何事もなくてよかったです」
「うん。ミライちゃんが無事に帰ってきてくれて、本当によかった」
セラフォルー様が、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「……あの、ちょっと待ってください」
声を上げたのは、一誠だった。
「その九尾の人って、もしかして娘がいたりします?」
「いるよ。九重ちゃんっていう、まだ小さな女の子」
「……やっぱりか」
一誠が何とも言えない顔をし、その隣でアーシアも小さく息を呑んだ。
「一誠?」
「ああ、ミライにはまだ話してなかったな。……実は今日、伏見稲荷で狐の女の子に襲われたんだよ。母上を返せって。俺たちが、母親をさらったと思われてたみたいでさ」
「…………はい?」
思わず、箸が止まった。
母親を返せ。その言葉と、たった今聞いた九尾の失踪が、頭の中でつながる。
「つまり、その子が九重さんで……行方不明になった八坂様の、娘さんということですか」
「多分な」
私はしばらく考えてから、アーシアへ目を向けた。
「アーシア。今日送ってくださった、千本鳥居の写真がありましたよね」
「……はい」
「あの写真の場所で、そんなことがあったんですか」
アーシアが、申し訳なさそうに肩を縮めた。
「す、すみません、ミライさん……。お仕事中でしたし、京都まで長い距離を移動されるところでしたから……余計なご心配を、おかけしたくなくて……」
写真の中の一誠たちは、随分と楽しそうに見えた。その裏で、そんな騒ぎがあったのだ。昼間はいろいろあって、というのも、つまりはそういうことだったのだ。
「怒ってはいませんよ。ただ、そういうことがあったなら、無事だったことくらいは教えていただけると嬉しかったですね」
「……はい。すみません」
「謝らなくて大丈夫です。皆さんが無事なら、それで」
アーシアは、ほっとしたように微笑んだ。
それにしても、妙な巡り合わせだった。私が静岡から京都へ向かって走っていた頃、一誠たちはすでに、この事件に巻き込まれていた。そして私はその夕方、何も知らずに、指導者を失った街を観光していたのだ。
「……八坂様は、まだ見つかっていないんですか?」
「うん。妖怪側も探してるけど、まだ詳しいことは分かってないの」
脳裏に浮かんだのは、裏京都で見た妖怪たちの姿だった。
店先で笑っていた店主に、通りを走り回る子供たち。忍術の話になると目を輝かせるミチルさんたちと、初対面の私に焼き鳥をご馳走してくれたナグサさん。あの賑やかな街の裏側で、今も大きな問題が続いている。
「……ミライ」
隣から、一誠が声をかけてきた。
「なんか、考え込んでたからさ」
「ええ。今日、親切にしていただいた方々のことを、少し」
「……そっか」
一誠はそれ以上、何も聞かなかった。代わりに、アザゼル先生が口を開く。
「まあ、事情は分かっただろうが、お前らが今すぐ何かしなきゃならねえわけじゃない。せっかく京都まで来たんだ、まずは修学旅行を楽しめ」
先生は、私たちを見回した。
「こういう面倒事は、できるだけ俺たちで何とかする。もちろん、何かあった時は話が別だがな。今の段階で、お前らが観光をやめる必要はねえ」
普段は自由奔放な人だけれど、こういう時は、やはり先生なのだと思う。
「……分かりました。それと先生、明日の予定について、一つ相談があるのですが」
「ん? 何だ?」
「私は観光班に入っていませんので、明日は個別に京都を見て回ろうと思っています。今日、現地で知り合った方々と約束をしていまして」
「……現地ってのは、裏京都の連中か?」
「はい。忍者を目指している三人組です」
「…………忍者?」
「ええ」
「……お前、京都に来て何時間だ?」
「正確には覚えていませんが」
「いや、そういう意味じゃねえよ……」
頭を掻くアザゼル先生の向かいで、セラフォルー様がくすくすと笑った。
「いいじゃない! 妖怪の子たちと、仲良くなれたんでしょ?」
「はい。とても親切な方々でした」
「そういう普通の交流があるのは、私も嬉しいな」
その声には、先ほどまでの外交的な緊張とは違う、素直な喜びがあった。
「で、明日はどこへ行くつもりなんだ?」
「二条城と京都国際マンガミュージアム、それから錦市場です」
「……全部、普通の観光地だな」
「せっかく京都まで来ましたので」
「分かった、行ってこい。ただし、今の京都は少々面倒なことになってる。行き先と帰る時間はロスヴァイセにも伝えとけ。予定が変わる時は連絡、何かあったらすぐ俺に知らせろよ」
「承知しました。ありがとうございます」
「あと、危なそうなことには首を突っ込むな」
「……それは、状況によりますね」
「おい」
「困っている人を見かけても無視しろ、という意味ではないでしょう?」
「……ったく。そういうところは相変わらずだな、お前は」
「先生ほどではありませんよ」
「どの口が言ってんだ……」
一誠たちが笑っている。私も肩の力を抜いて、お茶を口にした。
八坂様のことは気になる。けれど、今ここで私が勝手に動いたところで、何ができるのかも分からない。明日会う約束をしたミチルさんたちを、不安にさせるようなこともしたくなかった。
今は、先生たちの言葉に従っておこう。
そう決めて、私は残っていた料理へ箸を伸ばした。せっかくの夕食を残すのは、もったいないので。
○
料亭を出ると、夜の京都は随分と静かになっていた。店じまいを終えた通りには、街灯と自動販売機の明かりだけがぽつぽつと残っている。
ホテルへ戻る途中、通りの向こうにドラッグストアの明かりが見えた。皆には先に戻ってもらうことにして、私は足を止めた。
「一誠。少し寄っていきますよ」
「ん? 何か買うのか?」
「ええ。必要なものを、ほとんど持ってきていないので」
「じゃあ、俺も行くわ。飲み物くらい買うし」
そう言って、一誠は当たり前のように隣へ並んだ。
店内で、洗顔料やスキンケア用品、それから明日の分の肌着を一つずつかごへ入れていく。最後に、髪の手入れ用の小さな容器を手に取った。
「お前、結構いろいろ使うんだな」
「人の買い物かごを覗き込まないでください。……髪の手入れに必要なんです。適当に済ませると、後が大変なので」
「ああ……お前、髪すげえ長いもんな。洗う時とか大変そう」
「大変ですよ。今さら気づいたんですか?」
一誠の買い物は、結局炭酸飲料が一本だけだった。
「夜も遅いのですから、あまり飲みすぎないでくださいね」
「お前、ほんとじいちゃんみたいなこと言うよな」
「……誰のせいだと思っているんですか」
「俺!?」
○
ホテルへ戻ると、私たちはそのまま大浴場へ向かった。
「私の方が時間がかかりますので、先に戻っていてください」
「ああ、髪か。了解、部屋で待ってるわ」
夜も遅いせいか、女湯には私以外に誰もいなかった。広い浴場には湯気が白く漂い、大きな窓の向こうでは、ライトアップされた庭木が夜の中に浮かんでいる。
身体を洗い、長い髪を湯につけないよう高くまとめてから湯船に浸かると、思わず長い息が漏れた。温かいお湯が、一日中ハンドルを握っていた腕や、強張った肩と腰に、ゆっくりと染みていく。
そうして目を閉じていると、壁の向こうから物音が聞こえてきた。
ごそごそ。がたっ。
「……くそっ、やっぱ無理か……」
聞き覚えのある声だった。確かこの人は今日、女子風呂を覗こうとして、ロスヴァイセ先生に叱られたばかりのはずだ。
「……一誠」
「うおっ!? ミ、ミライか!?」
「先ほどから、何をしているんですか?」
「い、いや! 別に何もしてねえぞ!?」
何もしていない人間の反応には、とても聞こえない。
「ちなみに、こちらには私しかいませんよ。……それとも、私の裸を見たいのですか?」
「ぶっ!?」
壁の向こうで、盛大にむせる声がした。
「な、何言ってんだよ、いきなり!?」
「……まさか、また覗こうとしていたわけではありませんよね?」
「…………」
沈黙。実に分かりやすい。
「私だって、見られて恥ずかしくないわけではありません。大人しくお風呂に入っていてください。そもそも、こちらを覗いたところで、あなたの期待するようなものはありませんよ」
「い、いや、俺は別にミライに期待してるとか、そういう――」
がたんっ!
「……いってえ……!」
「何をしているんですか」
「手が滑ったんだよ!」
「どうして、手が滑るようなことをしていたんです?」
「…………」
「今日だけで、何度ロスヴァイセ先生に叱られるつもりなんですか?」
「うぐっ……!」
どうやら、こちらの方が効いたらしい。私は呆れながら、湯船の縁に身体を預けた。
しばらくして、壁の向こうから、今度は落ち着いた声が聞こえてきた。
「……なあ、ミライ。お前、疲れてねえの? 朝からずっと走ってきて、京都に着いてからも歩き回ってたんだろ?」
「疲れていますよ。当然でしょう」
朝早くに駒王町を出て、静岡で仕事を済ませ、京都まで走ってきた。妖怪たちの街へ迷い込み、忍者を目指す三人と観光して、焼き鳥までご馳走になった。思い返せば、随分と長い一日だった。
「……正直、少々無理をしたとは思っています。ですが、来てよかったとも思っていますよ」
「……そっか。なら、よかったな」
壁の向こうで、一誠が少し笑った気がした。短いやり取りだったけれど、不思議と悪い気分ではなかった。
「じゃ、俺はそろそろ上がるわ。あんまり長湯するなよ」
「あなたに言われるまでもありません」
「最後まで可愛くねえなあ……」
その一言は、聞こえなかったことにしておいた。男湯から一誠の気配が消えてから、私は湯船を出て、髪の手入れに取りかかった。
長い髪を丁寧に洗い、絡まないよう気をつけながら乾かしていく。今日は一日中ヘルメットを被っていたので、いつもより念入りにしておきたかった。終わった頃には、随分と時間が過ぎていた。
持ってきた着替えに袖を通し、乾かした髪を軽くまとめてから、私は大浴場を後にした。
○
「……戻りました」
「おう、おかえり。……って、遅かったな!」
和室の扉を開けると、浴衣姿の一誠が、布団の上で落ち着かなげに胡坐をかいていた。布団は二組、間を空けて並べて敷かれている。
部屋の隅には、小さめの浴衣が一組畳んで置かれていた。入浴している間に、届けてもらえたようだ。ロスヴァイセ先生には、明日改めてお礼を言っておこう。
「ですから、時間がかかると言ったでしょう。あなたとは髪の長さが違いますので」
「……それもそうか」
「今さら納得しないでください」
買ってきたものをバッグの横へ置き、私は浴衣を手に取った。
「それでは一誠。少しの間、押し入れに入っていてください」
「……は?」
「着替えますので」
一誠の表情が固まった。
「ちょ、ちょっと待て! お前、ここで着替えるのか!? 俺がいるだろ!?」
「ですから、押し入れに入っていただくんでしょう?」
「そ、そうだけど! そういう問題じゃなくて!」
私だって、男の子の目の前で平然と着替えるほど、羞恥心がないわけではない。だからこそ、襖の閉まる押し入れで待っていてもらおうと言っているのだけれど。
「……一誠。あなた、普段から部長やアーシアの裸を何度も見ているでしょう? それなのに、私が着替えるとなった途端、どうしてそこまで慌てるんですか?」
「ぶっ!? い、いや、それとこれとは別だろ!?」
「何が違うんです?」
「そ、それは……!」
何やら必死に言葉を探しているようだけれど、今ひとつ要領を得ない。
「別に、見てもいいと言っているわけではありませんよ。終わったら声をかけますから、それまで大人しく待っていてください」
「わ、分かったよ……」
一誠は観念したように肩を落とし、押し入れへ入った。
「……覗かないでくださいね」
「覗かねえよ!」
「今日の実績を考えると、少々不安ですが」
押し入れの中から、深いため息が聞こえた。襖がきちんと閉まっているのを確かめてから、私は着替えに取りかかった。着替えるだけで、どうしてこうも騒がしくなるのだろう。
「……もういいですよ、一誠」
浴衣の帯を結び終えて声をかけると、襖が開いて一誠が顔を出した。こちらへ目を向けた彼は、なぜか一瞬だけ動きを止める。
「……どうかしましたか?」
「……いや、何でもねえ」
何とも歯切れの悪い返事だった。
私は鏡の前へ座り、髪をまとめていた留め具を外した。普段は編み込んで畳んでいる髪も、入浴の時に一度ほどいている。淡く紫がかった銀色の髪が肩から背中へ流れ落ち、その先が畳の上に広がった。
「……お前の髪、ほんと長えな」
背後から、一誠の声がした。
「今さら何を言っているんですか」
「いや、いつも編んでるからさ。こうして見ると、やっぱすげえなって」
櫛で髪の流れを整えていると、背後で一誠が、まだ何か言いたそうにしている気配がした。
「何か言いたいことがあるなら、はっきり言ってください。先ほどから挙動が不審です」
「いや、別に……その、似合ってると思ってさ」
「……浴衣が?」
「お、おう」
私は、自分の袖へ目を落とした。ホテルの、ごく普通の浴衣だ。先生が小さめのものを頼んでくれたおかげで、丈もちょうどいい。
「……そうですか。ありがとうございます」
「……おう」
それきり、一誠は静かになった。ようやく落ち着いてくれたのなら、何よりだ。
髪を整え終えた私は、バッグから腕時計を取り出した。今日、二度も秒針が一瞬だけ止まった、お爺さんの時計だ。耳元へ近づけると、規則正しい音が聞こえてくる。少なくとも今は、動作に異常はなさそうだった。
「……何してんだ、ミライ?」
「時計の確認です。お爺さんの形見で、今は私が整備しているんですが……今日、秒針が一瞬だけ止まったんです。それも、二度」
「壊れたんじゃねえの?」
「止まった直後から、何事もなかったように動いているんです。しかも、どちらも裏京都の境界のあたりでした」
「……じゃあ、何か関係あるのかもな」
「そうかもしれませんね」
ただ、確証はない。ホテルの部屋で分解するわけにもいかないし、詳しい点検は駒王町へ戻ってからだ。私は腕時計を、枕元へそっと置いた。
その時、部屋の扉が軽く叩かれた。
「兵藤君、天童さん。ロスヴァイセです。少し確認してもよろしいですか?」
「あ、はい!」
一誠が慌てて扉を開けると、ロスヴァイセ先生が顔を覗かせた。先生は間を空けて敷かれた二組の布団を確かめ、それから一誠へ視線を向ける。
「……妙なことはしていませんね?」
「してませんって!」
「今のところは、ですね」
「ミライ!?」
「……兵藤君。本当に、くれぐれもお願いしますよ。今夜の見回りは、これで最後ですから。二人とも、明日に備えて早く休んでくださいね」
念を押してから、先生は次の部屋の確認へ向かっていった。
「そろそろ休みましょうか」
「おう」
布団へ入った途端、一日の疲れがどっと押し寄せてきた。
「……ミライ。本当に、俺と同じ部屋でよかったのか?」
隣の布団から、一誠が尋ねてくる。
「まだ気にしているんですか。布団は別々ですし、先生も許可してくださったでしょう。……それとも、何かするつもりでも?」
「しねえよ!」
「でしたら、問題ないでしょう」
男子と同じ部屋で寝ることに、何の抵抗もないわけではない。けれど、相手は一誠だ。私が本気で嫌がるようなことをする人ではないと、それくらいは知っている。……くだらないことは、よくするけれど。
「いい加減、落ち着いてください。その調子では、明日の朝まで眠れませんよ」
「お前は平気なのかよ……」
「私は疲れているんです」
「……はいはい」
部屋の明かりが消えると、辺りはすっかり静かになった。障子越しの街明かりがうっすらと天井を照らし、枕元からは腕時計の小さな音が聞こえてくる。隣で一誠が何度か寝返りを打っていたけれど、もう気にする余裕もない。
「……おやすみなさい、一誠」
「おう。おやすみ、ミライ」
明日は、二条城。ミチルさんたちも、きっと楽しみにしているだろう。そんなことを考えたのを最後に、意識はゆっくりと遠のいていった。
○
――夜中、俺はふと目を覚ました。
何か、音がした気がした。障子越しの薄明かりの中、聞こえるのは、ミライの枕元に置かれた腕時計のかすかな音くらいだ。気のせいかと思って天井を見つめていると、すぐ隣から、もう一度小さな声が聞こえた。
「…………っ」
寝息、じゃない。
「……ミライ?」
返事はなかった。そっと身体を起こして、隣の布団を覗き込む。
ミライは眠っていた。枕元から畳の上まで、長い髪が広がっている。いつもよりずっと幼く見える顔には、少しだけ苦しそうな色が浮かんでいた。
頬に、細い筋が光っていた。
涙だった。閉じた瞼の端から、ぽろぽろとこぼれている。布団の端を握った手が、かすかに震えていた。
「……怖く、ない……」
かすかな声が漏れて、俺は動きを止めた。
怖くない。そう言いながら、ミライは泣いていた。怖い夢を見て、自分に言い聞かせているんだろうか。
……分からなかった。
ミライとは、それなりに長い付き合いだ。時計店に顔を出せば、作業机から決まって小言が飛んでくる。朝飯を抜いたのを見抜かれて説教されるのもしょっちゅうで、そのくせ、何だかんだ言いながらパンや茶を出してくれる。
ちょっと理屈っぽくて、結構口が悪くて、妙なところで頑固で。そのくせ、困ってる奴がいたら放っておけなくて、自分のことは後回しにする。
俺の知ってるミライは、そういう奴だ。こんなふうに泣いているところなんて、一度も見たことがなかった。
手を伸ばしかけて、途中で止める。悪い夢なら、起こしてやった方がいいのかもしれない。けど、何も分からないまま、無理に起こしていいものなのか。
『……相棒。無理に起こすな』
不意に、頭の中でドライグの声がした。
『今は、そばにいてやれ』
それだけ言って、ドライグは黙った。
そばにいてやれ、か。何を怖がっているのかも、どうすればいいのかも、正直なところ分からない。それでも、このまま放っておく気にはなれなかった。
俺はミライの布団のそばへ身体を寄せ、起こさないように、そっとその頭を胸元へ抱き寄せた。
長い髪が腕に触れる。ミライは一瞬だけ身じろぎしたけど、目は覚まさなかった。ただ、俺の浴衣の胸元を、指先でかすかに掴んだ。
「……大丈夫だ」
ほとんど無意識に、そう言っていた。
「大丈夫だから」
何が大丈夫なのかなんて、俺にも分かってない。それでも、ほかに言葉が思いつかなかった。
しばらくそうしていると、震えていた身体から、少しずつ力が抜けていった。呼吸が穏やかになり、頬を伝っていた涙も、いつの間にか止まっている。
「……よかった」
小さく息を吐いた。
俺は、ミライのことを結構分かってるつもりだった。けど、どうやら知らないこともあるらしい。それも、たぶん結構大事なことが。
明日の朝になれば、ミライはいつもの調子で小言を言ってくるんだろう。……だったら、それでいい。少なくとも、今夜のことを誰かに話すつもりはなかった。
いつか、ミライが話したくなった時には、ちゃんと聞いてやろう。今は、それでいい。
「……おやすみ、ミライ」
聞こえないと分かっていて、小さく呟く。返事の代わりに、胸元から静かな寝息が聞こえてきた。
起こさないようにゆっくりと身体を横たえ、腕の位置を少しだけ直して、布団を掛け直す。
胸元から伝わってくる穏やかな呼吸と、枕元で時を刻み続ける小さな音。それを聞きながら、俺はいつの間にか、眠りに落ちていった。