――朝。
障子の向こうが、うっすらと白み始めていた。
まだ眠気の残る頭で天井を眺めていた俺は、胸元に伝わってくる微かな重みに気づいた。視線を下ろすと、そこにはミライの頭があった。
……そうだった。昨夜、泣きながら眠っていたミライを抱き寄せて、そのまま一緒に眠っちまったんだ。
ミライは俺の胸元に頬を寄せたまま、静かな寝息を立てていた。ほどいた銀色の髪が、布団の上から畳まで広がっている。普段は綺麗に編み込んでいるせいで忘れそうになるけど、こうして見ると、本当にとんでもない長さだ。
いつもなら、俺が少しでも変なことを言えば、丁寧な口調で容赦なく言い返してくる。それが今は何も言わず、俺の浴衣を指先で軽く掴んでいた。
――怖く、ない。
昨夜の小さな声を思い出す。何が怖いのか、俺には分からなかった。けど、今のミライはもう泣いていない。顔にも苦しそうな色はなく、穏やかに眠っている。
それを確かめて、ようやくほっとした。
『……相棒。そろそろ時間ではないか?』
「ああ……分かってる」
頭の中で響いたドライグの声に、小さく答える。今朝はアザゼル先生との特訓がある。旅行中だからって、すっぽかすわけにはいかない。
俺はできるだけ身体を動かさないようにして、まずミライの頭をそっと支え、空いている枕の上へ移してやった。胸元を掴んでいた指も、手を包むようにしてゆっくりと外す。
途中でミライが小さく身じろぎしたので、思わず息を止めた。数秒待つ。やがて、また静かな寝息が聞こえてきた。
「……ふう」
ようやく身体を起こし、布団を掛け直してやる。枕元では、昨日ミライが何度も気にしていた腕時計が、何事もなかったように秒針を進めていた。
「……行ってくるな、ミライ」
当然、返事はない。
昨夜のことを、本人に話すつもりはなかった。ミライが話したくなった時に聞く。そう決めたんだから、それでいい。
俺は着替えを手に取り、音を立てないように部屋を出た。
○
目を覚ました時、隣の布団に一誠の姿はなかった。
障子の向こうからは朝の明るい光が差し込み、廊下を行き交う人の気配も聞こえてくる。枕元の腕時計を確かめると、七時を少し過ぎたところだった。
昨日は随分と疲れていたはずなのに、思ったより身体は軽い。肩から滑り落ちた髪を払いながら隣を見ると、一誠の布団はすでに整えられていた。早朝の特訓へ向かったのだろう。
「……相変わらず、朝から元気ですね」
洗面所で顔を洗い、浴衣から制服へ着替える。今日は九時に、二条城でミチルさんたちと待ち合わせだ。修学旅行に参加するつもりもなかったのに、京都で新しい友人ができて、一緒に観光することになるとは思ってもみなかった。
髪を整えようと鏡の前へ座ったところで、部屋の扉が開いた。
「ただいまー……って、起きてたのか」
「おかえりなさい、一誠」
首に掛けたタオルで額を拭きながら、一誠が入ってくる。特訓を終えたばかりなのだろう、うっすらと汗をかいていた。
「おう。よく眠れたか?」
「ええ、おかげさまで。朝から特訓ですか」
「まあな。アザゼル先生が、旅行中だからってサボらせてくれるわけねえし」
「日頃の鍛錬は大切ですから。結構なことです」
「他人事だと思って……」
そう言いながらも、一誠は笑っていた。昨夜は同じ部屋で眠ることを妙に気にしていたのに、一晩経って慣れたらしい。
「朝飯は?」
「まだです。髪を整えてから行こうと思っていまして。……ああ、一誠。一つ、お願いしてもいいですか?」
「ん?」
「髪をまとめるのを、手伝っていただけませんか? 後ろを留める時に、支えていただけると助かるんです」
一誠は、私の髪と自分の手を交互に見た。
「俺が? こういうの、全然分かんねえぞ?」
「全部お願いするつもりはありませんよ。言ったところを押さえていただければ、それで十分です」
「……それなら、まあ。ちょっと着替えてくるわ」
洗面所で着替えを済ませた一誠が、私の後ろへ回る。
普段の髪型は、長い髪を編み込んだうえで、折り畳むようにまとめている。一人でもできる。ただ、鏡だけでは後ろの仕上がりが見えにくく、留め具を固定する時はどうしても手間がかかる。
「この束を持っていてください。引っ張らずに、そのままで」
「お、おう」
受け取る手つきがあまりにもぎこちなくて、思わず笑いそうになった。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「いや、変なところ引っ張ったら痛えだろ?」
「それはそうですが、髪はそう簡単に壊れません」
「壊れるって……時計みたいに言うなよ」
「……確かに、変な言い方でしたね」
私が編み込みを進める間、一誠は言われたとおりに髪を支えてくれた。途中で手の位置が下がることはあっても、伝えればすぐに直してくれる。
「お前、毎朝これやってんの? 俺には絶対無理だわ。こんがらがって終わりそう」
「でしょうね。ですから、編み込みは頼んでいません」
「信用ねえなあ……」
「適材適所というものです」
最後に長い部分を折り畳み、いつもの時計仕掛けの髪飾りで留める。頭を左右に動かしてみても、緩んでいるところはなさそうだった。
「……どうですか? 後ろ、変になっていません?」
「んー……大丈夫じゃねえか? いつものミライだぞ」
「そうですか。ありがとうございます」
「それにしても、あの長さをよく毎朝まとめられるよな。そのままだと踏みそうだし」
「ええ。もっとも、昨夜は踏まれずに済みましたが」
「……何で俺を見るんだよ」
「別に? 誰かさんが、ほどいた髪を随分と珍しそうに見ていたなと思いまして」
「珍しかったんだから仕方ねえだろ!」
抗議する一誠に小さく笑って、私は立ち上がった。鏡には、いつもどおりの姿の自分が映っている。ようやく、普段の調子に戻れた気がした。
「では、朝食に行きましょうか。特訓の後なんですから、食べすぎないようにしてくださいね」
「朝からそこまで心配されんのかよ!?」
「一誠の場合は、必要な心配です」
○
朝食を終え、ホテルの玄関で一誠と別れた。
一誠は学校の班別行動へ、私はミチルさんたちとの観光へ。スターゲイザーはホテルに預けたまま、今日は電車で移動する。行き先はロスヴァイセ先生に伝えてあるし、アザゼル先生の許可も得ている。
「じゃあな、ミライ。あんまり変なところ行くなよ?」
「それは、昨日伏見稲荷で襲われた人が言うことでしょうか」
「うっ……それはそうだけどさ」
「私は普通に観光してきますから。そちらこそ、今日は何事もないといいですね」
「……お前に言われると、妙に不安になるんだけど」
「気のせいですよ」
昨日のようにバイクを走らせるのも楽しいけれど、見知らぬ街を自分の足で歩くのも悪くない。通勤途中らしい人々や観光客の間を進んでいると、昨日の裏京都とはまるで違う街に来たような気分になった。
二条城の東大手門へ着いたのは、九時の少し前だった。
「ミライさーん!」
門の近くで、ミチルさんが大きく手を振っている。その隣でイズナさんが両手を上げ、ツクヨさんは控えめに頭を下げていた。昨日はイズナさんの頭にあった狐耳も、今日はすっかり隠れている。
「おはようございます、皆さん」
「おはよう! 待ってたよ、ミライさん!」
「おはようございます、ミライ殿! 本日もよろしくお願いします!」
「あ、あの……おはよう、ございます……!」
「こちらこそ。今日はよろしくお願いします」
「それじゃあ、さっそく行こう! まずは二条城!」
「はいっ! 楽しみです、部長殿!」
「……二人とも、昨日からずっと、楽しみにしていましたから……」
「ツクヨもだよね?」
「えっ!? わ、私は……その……楽しみ、ですけど……!」
顔を赤くするツクヨさんを見て、ミチルさんが楽しそうに笑う。今日も、賑やかな一日になりそうだ。
○
門をくぐると、立派な石垣と白壁、よく手入れされた木々が目に入った。その奥に見える建物は、昨日歩いた裏京都の街並みとはまた違う、歴史の重みを感じさせる。
「……立派ですね」
「でしょ! ここ、何度来てもいいんだよね!」
「はい! 忍者としても、大変興味深い場所です!」
二人とも、ここへ来るのは初めてではないそうだ。そのわりに、はしゃぎようは初めて訪れた人とほとんど変わらなかった。
「……部長、前に来た時も、同じことを言っていましたよね」
「いいものは何度見てもいいんだよ!」
「そのとおりです、部長殿!」
「……そういうことなら、私も同感です」
時計の展示なら、何度見ても飽きない自信がある。そう考えると、二人の気持ちも分かる気がした。
順路に従って二の丸御殿へ進み、靴を脱いで上がる。内部は撮影禁止なので、ミチルさんも撮影機材を鞄へしまっていた。
「ここは駄目だからね。ルールはちゃんと守るよ! ミライさんを勝手に映さないって約束もあるし!」
「ええ。そちらも、ぜひお願いします」
そして、廊下へ足を踏み入れたところで――。
きゅう。
足元から、小さな音が鳴った。もう一歩進むと、きゅ、きゅう、と今度ははっきり響く。
「……これが、鶯張りですか」
「そう! これだよ、これ! 忍者が忍び込んできても、すぐに分かるように作られたって話があるんだ!」
歩くたびに、床下から鳥の鳴き声にも似た音が聞こえてくる。板の軋む音とはどこか違い、細い金属を擦り合わせた時のような響きが混じっていた。
「むむむ……! しかし忍者たるもの、このような仕掛けに負けてはいられません!」
イズナさんが真剣な顔で足元を見つめる。次の一歩をどう踏めば音を立てずに済むのか、真剣に考えている顔だ。
「イズナさん。お気持ちは分かりますが、ここで修行を始めるわけにはいきませんからね」
「はっ! す、すみません! 忍者の血が騒いでしまいました!」
「でもさ、どこを歩けば鳴らないか、気にならない?」
「……部長も、前に試そうとしていましたよね。係の人に注意される前に、私が止めましたけど……」
「そ、そうだったっけ……?」
気まずそうに笑うミチルさんを見る限り、前回も似たようなことをしていたのだろう。
襖絵や天井の装飾、庭を望む廊下。どこを見ても丁寧な仕事が施されていて、つい足を止めたくなる。それでも一番印象に残るのは、やはり歩くたびに響くあの音だった。
きゅう、きゅう。
前を歩く人の立てる音と、自分の足元から聞こえる音が、少しずつ重なっていく。床下の仕組みを想像していると、時計の歯車や金具の組み合わせを考える時と、どこか似た感覚があった。
「……ミライさん、さっきから床ばっかり見てない?」
「仕組みが気になりまして。どうしてこんな音が鳴るのか、気になってしまうんです」
「あっ、分かる! じゃあ、私たちと同じだね!」
忍者と時計職人では、興味を持つ対象は随分と違う。けれど、好きなものを見つけた時についつい夢中になってしまうところは、確かに似ているのかもしれない。
○
二条城を出た後は、近くの京都国際マンガミュージアムへ向かった。
提案したのはツクヨさんなのに、到着する頃には、ミチルさんとイズナさんの方がすっかり張り切っていた。
「よーし! 今日は忍者漫画を探すよ! これも立派な研究活動!」
「はいっ! 忍者の知識を深める、絶好の機会です!」
館内へ入ると、壁一面に並ぶ漫画の量に驚かされた。新しい作品だけでなく、随分と古いものまで揃っている。
「……部長は、この前も閉館時間ぎりぎりまで読んでいましたから……」
「ツクヨ、それは言わなくていいって!」
目当ての作品を見つけたミチルさんとイズナさんは、さっそく描かれた技や道具について熱心に話し始めた。私はその隣で、古い時代の街並みや道具が丁寧に描き込まれた作品を手に取る。
「……ミライさんは、そういう漫画が好きなんですか?」
「ええ。細かな道具や建物まで描かれている作品は好きですね。ツクヨさんは?」
「わ、私は、その……いろいろ読むんですけど……」
迷ったあと、ツクヨさんが見せてくれたのは、忍者を題材にした漫画だった。
「……やはり、忍者なんですね」
「あ、あの! もちろん、ほかの作品も読みます……!」
「ふふっ。悪いと言っているわけではありませんよ」
棚の向こうから、ミチルさんの声が飛んできた。
「ねえねえ、この構図! 次の動画に使えないかな!? ツクヨ、あとで相談に乗って!」
「……は、はい。分かりました、部長……」
「そういえば、ここへ来る電車の中で、皆さんの動画を何本か拝見しましたよ」
「えっ!? 本当!? じゃあ、チャンネル登録は!?」
「……まだです。もう少し拝見してから判断しようかと」
「手強い! ミライさん、本当に手強いよ!」
「部長殿! ここは、さらなる修行が必要ということです!」
再生数が多いわけでも、登録者がたくさんいるわけでもない。それでも、この三人は本当に楽しそうだった。
好きなことを、好きな人たちと続けていく。その姿を見ていると、私も時計店へ帰った後のことを考えたくなる。静岡で受け取った部品の確認に、預かったままの修理。京都から戻れば、また慌ただしい毎日になるだろう。
……それも、悪くないと思った。
○
昼食は錦市場で取ることになった。
細長い通りの両側に店が並び、威勢のいい呼び込みや買い物客の話し声が飛び交っている。漬物に乾物、魚介類に和菓子。見慣れたものもあれば、初めて見るものもあった。
「部長殿! あちらから、とてもよい匂いがします!」
「ほんとだ! 行ってみよう!」
「……二人とも、あまり急ぐと迷子になりますよ……」
慌てて後を追うツクヨさんに続いて、私も笑いながら歩き出した。
湯葉の料理に、生麩田楽。店の飲食スペースで皆で違うものを頼み、味の感想を言い合う。
「……あの、こっちのも、美味しいですよ……」
ツクヨさんが差し出してくれたものを一口もらうと、優しい甘みが広がった。昨日は遠慮がちだったツクヨさんも、今では自分からおすすめを教えてくれる。会ったのは昨日なのに、不思議なものだ。
食事の後は土産物を見て回り、九重さんのことなど知らないまま、私は駒王町への土産を何にするか迷っていた。帰りに渡せるよう、日持ちのする和菓子をいくつか買っておく。
「……そういえば、昨日のバイク、本当に格好よかったです……」
「ありがとうございます。帰る前なら、また見ていただけるかもしれませんね」
「本当ですか!? イズナも楽しみです!」
時計を見ると、午後一時半になろうとしていた。
「さて、この後はどうしましょうか」
「うーん、まだ時間あるよね。だったら――」
ミチルさんが何かを提案しかけた、その時だった。端末から着信音が鳴る。
「あれ? ナグサからだ。……もしもし、ナグサ? どうしたの?」
最初は、いつもの調子だった。けれど話を聞くうちに、ミチルさんの表情が見る間に変わっていく。
「……えっ? うん、今は表の京都。錦市場。……今から?」
ミチルさんは私たちから数歩離れ、低い声で何かを尋ねた。それから端末を押さえて、こちらへ戻ってくる。いつもの明るい笑顔は、もうなかった。
「……みんな。ちょっと、大変なことになったみたい。九重様が、今日のお昼に屋敷からいなくなっちゃったんだって」
息を呑んだ。九重。昨日、一誠たちを襲った狐の少女。そして、行方不明になっている八坂様の娘。
「えっ、ミライさん、九重様のこと知ってるの?」
「本人とお会いしたことはありません。ただ、昨日、少し事情を聞いていまして」
「だったら、話が早いかも。ナグサ、ミライさんにも代わるね」
差し出された端末を受け取る。
『……ミライ?』
「こんにちは、ナグサさん。昨日はご馳走様でした。九重さんがいなくなったと聞きましたが」
『……うん。昼頃、屋敷から姿を消した。護衛が気づいた時には、もういなかったらしい』
いつもの落ち着いた声だったけれど、その奥に疲れが滲んでいた。
『裏京都の警備は強化されてるから、普通に外へ出れば誰かが気づく。でも、九重様は屋敷の構造をよく知ってる。使われていない通路を抜けた形跡があった。変化の術も使えるから、人間の姿になって表へ出た可能性が高い』
表の京都なら、観光客も多く、人間の姿に変化してしまえば簡単には見分けられない。妖怪たちの監視網から外れるには、うってつけの場所だ。
『それで、ミチルたちに頼みたいんだ。あの子たちは表の街にも慣れてるし、変化で人間に混じっても目立たない。大勢で探すより動きやすいと思う』
『見た目は人間の子供に変えられても、話し方まではすぐに直せないはず。古い言葉遣いをするから、それが目印になると思う。……見つけても、無理はしないで連絡してほしい』
ナグサさんは、そこで一度言葉を切った。
『……ミライも、手伝ってくれる?』
「ええ。私でよろしければ」
『……ありがとう』
通話を終えて端末を返すと、ミチルさんたちが私を見ていた。
「私もご一緒させてください」
「もちろん! ミライさんがいてくれたら心強いよ!」
「はい! ぜひ一緒に忍務を遂行しましょう!」
「わ、私も……頑張ります……!」
「よし。忍術研究部、緊急任務開始!」
ただ、その前に一つだけ済ませなければならないことがある。予定が変わる時は連絡しろと、アザゼル先生に言われていた。
『おう、ミライ。どうした? 観光は楽しんでるか?』
「おかげさまで。……ただ、少し予定が変わりまして。九重さんが屋敷からいなくなったそうで、捜索の協力を頼まれました。私も同行しようと思っています」
短い沈黙のあと、深いため息が聞こえた。
『……昨日、危なそうなことには首を突っ込むなって言ったよな?』
「覚えています。ですが、私から探しに行こうとしたわけではありませんし……困っている方がいるのですから」
『それも予想どおりの答えだよ。……分かった。見つけたらすぐ連絡しろ。相手は八坂の娘だ、何かあれば妖怪と悪魔の問題にもなる。無理に連れ戻そうとはするなよ。まず安全を確保しろ』
「承知しました」
『ったく。せっかくの修学旅行なんだから、もう少し普通に楽しめよ』
「午前中は、十分楽しませていただきました」
『そういう意味じゃねえんだよ……』
通話を終えて振り返ると、ミチルさんが腕を組んで考え込んでいた。いつものように勢いで走り出すのかと思ったけれど、今回は違った。
「九重様は、お母さんを探してるんだよね。だったら、ただ隠れたいだけじゃないと思う。どこか、手がかりがありそうな場所に行くんじゃないかな」
「……昨日、九重さんは伏見稲荷で一誠たちを襲ったそうです。母親を返せ、と言って」
「えっ、伏見稲荷で!?」
ミチルさんは目を丸くし、それから顎へ手を当てた。
「昨日そこへ行ったのは、お母さんをさらった相手を探すためだったんだよね。だったら、今日も同じ場所に戻ってるかもしれない」
ミチルさんは、自分の考えを確かめるように続けた。
「伏見稲荷は狐に縁のある場所だし、何も分からない時に、とりあえずそこへ行ってみようって考えてもおかしくないよ」
確証があるわけではない。けれど、何の手がかりもなく京都中を探すよりは、ずっと筋の通った考え方だった。
「私も、賛成です」
「よし! じゃあ伏見稲荷へ!」
「……あの、電車なら、こっちから行くのが早いと思います……」
ツクヨさんが端末で経路を確かめ、私たちは急いで駅へ向かった。
○
伏見稲荷に着いたのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
参道は大勢の観光客で賑わっていた。写真を撮る人、土産物を眺める人、談笑しながら歩く人。昨日、裏京都で見た見回りの姿とはまるで違う、平和な光景だ。
この中に、母親を探す狐の少女が紛れているかもしれない。そう考えると、目の前の賑わいが違って見えた。
「変化の術を使っているなら、見た目だけで探すのは難しいよね。……手分けしよう! イズナは昨日の騒ぎがあった辺りで、何か見てないか聞いてみて。ツクヨは少し離れて、人の少ないところを調べてくれる?」
「承知しました、部長殿!」
「は、はい……!」
「私は九重様がどこへ行きそうか考えてみる。ミライさんも一緒にお願い!」
普段のミチルさんは、思いついたことをすぐ口にする印象が強い。けれど今は、二人の得意なことを考えて、きちんと役割を分けていた。
人混みの中でも身軽に動けて、細かな変化を見逃さないイズナさん。背が高く、離れた場所まで見渡せるツクヨさん。そして、集まった情報を整理しながら全体を見るミチルさん。
忍者を目指しているという言葉は、ただの憧れだけではないらしい。
しばらくして、イズナさんから連絡が入った。
『部長殿! 少し前に、売店の方に話しかけた女の子がいたそうです! 昨日この辺りで騒ぎはなかったか、と尋ねていたとか!』
「昨日の騒ぎを……!?」
『はい! それに、妙に古風な話し方をする子だったそうです! その後、参道を上の方へ歩いていったと!』
ミチルさんと顔を見合わせる。ナグサさんの言っていた目印と、ぴたりと重なっていた。
「ありがとう、イズナ! ツクヨ、参道の上の方、何か見えない!?」
ミチルさんが呼びかけると、少しの間を置いて、ツクヨさんの声が返ってきた。
『……部長。参道を上がった先に、人の流れから外れた休憩所があるんですけど……さっき、小さな女の子が一人でそっちへ行くのが見えて……その後、戻ってきていないんです』
「分かった! 今から行く! ミライさん!」
「はい」
イズナさんにも連絡を入れ、ツクヨさんのいる方へ向かう。
朱色の鳥居が、いくつも連なっていた。石段を上がり、その下をくぐるたびに、景色が移り変わっていく。昨日アーシアが送ってくれた写真に写っていたのも、きっとこの辺りなのだろう。
けれど今は、ゆっくり見ている余裕などなかった。前を行くミチルさんの背中を追いながら、次々と鳥居をくぐっていく。何本目を通ったのかも、途中から分からなくなっていた。
○
「……部長、あそこです……」
合流したツクヨさんが指差した先に、小さな休憩所があった。参道の声はまだ届くものの、先ほどまでの賑わいに比べれば随分と静かだ。
その片隅に、一人の少女が座っていた。
小柄な身体に、地味な色合いの服。狐の耳も尻尾も見えない。けれど、膝の上で固く握られた手と、俯いた横顔が妙に目を引いた。
私たちが近づくと、少女がふいに顔を上げ、表情を強張らせる。
「……何者じゃ」
その言葉遣いに、私は思わずミチルさんへ目を向けた。ナグサさんの言っていた目印だ。
「……九重様?」
ミチルさんが慎重に呼びかけると、少女の肩がびくりと揺れた。
「……なぜ、妾の名を知っておる」
「私たちは裏京都から来ました。見回りのナグサに頼まれて、九重様を探してたんです」
「……ナグサが」
九重さんは一瞬だけ目を見開き、すぐに顔を背けた。
「……帰らぬぞ。妾は、まだ帰らぬ」
何か言おうとしたミチルさんを、私はそっと手を上げて制した。
「少し、お話ししてもよろしいですか?」
「……お主は?」
「天童ミライといいます。今日は、こちらの皆さんと一緒に、あなたを探していました」
「……人間、か?」
「はい」
「人間が、なぜ妾を探す」
「心配されている方々に、お願いされたからです」
「妾は、誰にも心配など頼んでおらぬ」
「そうかもしれませんね」
意外そうな顔をした九重さんの前で、私はしゃがみ込み、目線の高さを合わせた。
「お怪我はありませんか?」
「……ない」
「それなら、よかったです。お腹は空いていませんか? お昼から、ずっと歩いていたのでしょう?」
「……空いておらぬ」
そう答えた直後、小さな音が鳴った。九重さんが慌ててお腹を押さえる。私は口元が緩みそうになるのをこらえて、何も言わなかった。
「ちょうど、食べ物を少し持っています。よろしければ」
錦市場で買った、個包装の和菓子を差し出す。九重さんはしばらく迷ってから、それを受け取った。
「……毒など、入っておらぬだろうな」
「入っていたら、私も困りますね。同じものを買っていますので」
九重さんは包みを見つめ、それから小さく一口かじった。表情がわずかに緩んだものの、すぐにまた曇ってしまう。
「……妾は、帰らぬからな」
「ええ。今すぐ帰れとは言いません。まずは、どうしてここまで来たのか、聞かせていただけませんか?」
九重さんは黙り込んだ。遠くから、観光客の話し声だけが聞こえてくる。やがて、小さな声が返ってきた。
「……母上を、探しておった」
膝の上で、小さな手が握り直される。
「母上がいなくなってから、皆、妾には何も教えてくれぬ。危ないから屋敷におれ、心配するな、必ず探し出すと……そればかりじゃ。お祖母様も、皆も、母上を探してくれておる。それは分かっておる。分かってはおるのじゃ」
九重さんは唇を噛んだ。
「……じゃが、何も分からぬまま待つだけなど、妾にはできぬ。皆が忙しそうにしておるのに、妾だけ何もできずに……」
「それで、昨日の場所へ戻ったんですね。何か手がかりがあると思って」
「……知っておるのか」
「少しだけ。昨日、ここで一誠たちと会ったそうですね。……一誠は、私の友人です」
九重さんの目に、警戒の色が戻った。
「……あの、赤い龍の男の仲間か。ならば、妾を責めに来たのか」
「いいえ。あなたが無事かどうか、確かめに来ただけです。昨日のことで何があったのか、私が知らないこともあるでしょう。ですから、今ここで何かを決めつけるつもりはありません」
九重さんは、黙って私を見ていた。
「それで、何か見つかりましたか?」
答えはなかった。それが答えなのだろう。俯いた顔から、ぽたりと雫が落ちた。
「……何も、なかった。昨日の場所も、その周りも、全部探した。母上の気配がないか、何か残っておらぬか、ずっと、ずっと……」
もう一滴、膝の上へ落ちる。
「妾は、母上の娘なのじゃぞ……! 助けたいに決まっておろう! なのに、どこにおるのかも分からぬ。妾には……何もできぬ……!」
その言葉だけが、小さな休憩所に響いた。
ミチルさんたちも、黙っていた。今にも何か言い出しそうなイズナさんの肩に、ミチルさんがそっと手を置いている。ツクヨさんは数歩後ろから、九重さんを見守っていた。
「……お母様を、助けたいんですね」
「当たり前じゃ……!」
「でしたら、一度戻って、ほかの皆さんと一緒に考えませんか?」
九重さんの表情が強張った。
「……妾に、また屋敷で待っておれと言うのか」
「いいえ。待っているだけにしましょう、と言っているわけではありません。一人で探して見つからなかったのなら、今度は皆さんと一緒に探すんです」
私は言葉を選びながら続けた。
「あなたが危ない目に遭えば、お母様を探すために動いている方々が、あなたを探すためにも動かなければならなくなります。それでは、あなたも困るでしょう?」
「…………」
「一度戻ったからといって、すぐにお母様が見つかるとは限りません。私にも、どこにいらっしゃるのかは分かりません。……ですが、今日どこを探して、何を見つけられなかったのか。それを皆さんに伝えることにも、意味はあると思います」
「……意味が?」
「はい。少なくとも、あなたがどこまで調べたのか、皆さんにも分かります。次に探す場所を考える時、参考になるかもしれません」
九重さんは、自分の手元を見つめた。私も、それ以上は何も言わなかった。
今のこの子に必要なのは、帰るよう説得されることではないのだろう。母親を助けたいという気持ちを、誰かに聞いてもらうこと。それから、自分にもできることがあると思えること。少なくとも、私にはそう思えた。
「……妾が戻れば、母上を探してもらえるのか?」
「皆さんは、今も探していらっしゃいますよ」
「……そうじゃな」
九重さんはもう一度目元を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「……分かった。戻る。皆に、話を聞いてもらう」
まだ小さな声だったけれど、先ほどまでとは響きが違っていた。
「では、一緒に戻りましょうか」
「……うむ」
ミチルさんが、ようやく大きく息を吐いた。
「……よかったぁ……!」
「部長殿! 任務達成ですね!」
「まだ帰るまでが任務だよ、イズナ!」
「はっ! そのとおりでした!」
「皆さん、ありがとうございました。皆さんがいなければ、見つけられませんでした」
「えへへ……! 部長の推理と、イズナとツクヨのおかげだよ!」
「……あ、ありがとうございます、部長……」
三人の顔に、ようやくいつもの笑顔が戻る。九重さんは、そんな私たちを不思議そうに眺めていた。
○
九重さんを保護したことを、すぐにナグサさんとアザゼル先生へ連絡した。
ナグサさんは電話越しでも分かるほど安堵していて、アザゼル先生は「本当に見つけたのかよ」と呆れた声を出したあと、屋敷へ送り届けるよう指示してくれた。
表の京都の人通りを抜け、昨日ミチルさんたちに案内してもらった道へ向かう。九重さんは時折周りを気にしていたものの、もう逃げようとはしなかった。
「疲れていませんか?」
「……少しだけじゃ。お主は、随分と心配性なのじゃな」
「そうでしょうか」
「うむ。……じゃが、悪い気はせぬ」
やがて、街並みが変わり始めた。現代的な建物の間に古い町家が増え、行き交う姿にも、再び耳や尻尾が見え始める。
境を越えたあたりで、私は手首の腕時計へ目を落とした。秒針は、何事もなかったように規則正しく進んでいる。昨日は、入る時も出る時も一瞬止まったはずなのに。
昨日と今日で、何が違うのだろう。答えの出ない疑問を、私はひとまず胸の内にしまい込んだ。
昨日は、すべてが珍しく見えた街だ。けれど今日は、その賑わいの向こうで八坂様の捜索が続いていることを知っている。そのせいか、見回りをする妖怪たちの姿が、昨日よりずっとはっきりと目に入った。
「九重様……!?」
九重さんに気づいた護衛らしい妖怪たちが、慌てて駆け寄ってくる。
「ご無事でしたか! いったい、どちらへ……!」
「……すまぬ。妾が勝手に出ていったせいで、迷惑をかけた」
九重さんが小さく頭を下げると、護衛たちは一瞬言葉を失い、それから心底安心したように肩を落とした。
「……ご無事で、本当によかった……」
屋敷へ向かう途中で、ナグサさんとも合流できた。
「……ミチル、イズナ、ツクヨ。ありがとう」
「忍術研究部として、当然のことをしたまでだよ!」
「はいっ! イズナたちにお任せください!」
「……あの、無事に見つかって、よかったです……」
ナグサさんは小さく頷いてから、私へ目を向けた。
「……ミライも、ありがとう。助かった。今度、また焼き鳥でも食べに行こう」
「ふふっ。ぜひ」
九重さんを屋敷へ送り届けたところで、三人はナグサさんと一緒に任務完了の報告へ向かうことになった。
「じゃあ、ミライさん! 今日はここまでかな! 観光も楽しかったし、最後には忍務までできたし!」
「素晴らしい一日でした、部長殿!」
「……あ、あの……また、遊びに来てくださいね……」
「はい。約束です」
手を振って去っていく三人を見送ってから振り返ると、九重さんが私の袖を掴んでいた。
「……お主は、もう帰るのか?」
「ええ。そろそろホテルへ戻ろうかと」
何か言いたそうにしている九重さんの前で、私はもう一度しゃがみ込んだ。
「……先ほどは、話を聞いてくれて、ありがとう」
思わず目を見開いてから、私は微笑んだ。
「どういたしまして」
「妾は、まだ母上のことが心配じゃ。……じゃが、一人で勝手に探しに行っても、皆を困らせるだけだと、少しは分かった。だから、皆に話を聞いてもらう。妾にも何かできることがないか、考えるのじゃ」
「ええ。それがいいと思います」
九重さんが、ようやく小さく笑った。
「……天童さん?」
背後から声をかけられて振り返ると、ロスヴァイセ先生が立っていた。その後ろから、聞き覚えのある声が響く。
「おい、ミライ!? 何でお前、こんなところにいるんだよ!?」
一誠だった。その後ろにはアーシアや裕斗たち、さらにアザゼル先生とセラフォルー様の姿もある。どうやら、昨日から予定されていた、妖怪側との面会に来たのだろう。
「九重さんを探していたら、こうなりまして」
「探してたらって、お前なあ……また何か巻き込まれたのかよ」
「ちゃんとアザゼル先生には連絡しましたよ」
「そういう問題じゃなくて!」
頭を抱える一誠の隣で、アザゼル先生が呆れたように笑った。
「俺たちより先に屋敷へ着いてるとはな。……ったく、お前はどこへ行っても妙な縁を作る」
「九重さんは、もう大丈夫なんですか?」
心配そうに尋ねるアーシアに、私は頷いた。
「ええ。お怪我はありません。少し、お疲れのようですが」
「……よかったです」
九重さんは離れた場所から、一誠たちを見ていた。昨日、自分が襲った相手だ。顔を合わせるのは気まずいのかもしれない。けれど、九重さんは逃げなかった。
「……皆、こちらへ来てくれぬか」
その声は、思っていたよりもしっかりしていた。
○
案内されたのは、屋敷の奥にある広い和室だった。障子の向こうには手入れの行き届いた庭が広がり、廊下には何人もの護衛が控えている。昨日歩いた賑やかな通りとは、まるで違う空気だった。
アザゼル先生から同席の許可をもらい、私も一誠たちと並んで座る。向かいの九重さんは、狐の耳と尻尾を持つ本来の姿に戻っていた。
やがて、九重さんがゆっくりと頭を下げた。
「……まず、昨日のことを謝らせてほしい。妾はお主たちを襲った。母上を連れ去ったのが悪魔だと聞いて、ろくに話も聞かずに決めつけてしまったのじゃ。……すまなかった」
私は何も言わず、その姿を見守っていた。
伏見稲荷で会った時、この子は母親を探したい一心で、誰の言葉にも耳を貸す余裕がなかった。それが今は、自分から昨日のことを謝っている。誰かに言われて、仕方なく頭を下げているようには見えなかった。
「……いや、別にいいって」
一誠が、困ったように笑う。
「お母さんがいなくなって、心配だったんだろ? 俺たちだって事情が分かってなかったしさ。もう気にすんなよ」
「はい。お母様のこと、とても心配なんですよね。私たちは怒っていませんから」
アーシアの言葉に、ゼノヴィアやイリナ、裕斗も頷く。顔を上げた九重さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「さて。昨日の件はこれでいいとして、本題に入ろうか」
アザゼル先生の言葉に、九重さんが表情を引き締める。セラフォルー様も、柔らかな笑顔を引っ込めた。
「九重ちゃん。八坂ちゃんのこと、何か分かった?」
「……まだじゃ。皆が探してくれておるが、母上の居場所も、何者が連れ去ったのかも、はっきりせぬ」
九重さんは、膝の上で拳を握り締めた。
「母上は、この京都にとって大切なお方なのじゃ。妖怪たちをまとめるだけではない。京都の気の流れを守り、均衡を保つ役目も担っておる。母上が長く不在のままでは、京都そのものにも影響が出るやもしれぬ」
「……気の流れ、ですか」
思わず呟いて、私は京都の街を思い浮かべた。
昨日歩いた裏京都の賑やかな通り。焼き鳥屋で話したナグサさん。今日一日、一緒に笑っていたミチルさんたち。もし八坂様が戻らず、京都に大きな異変が起こるのなら、あの街の暮らしも危険に晒されるかもしれない。
「……妾は今日、昨日お主たちと会った場所へ戻った。何か手がかりがあるかもしれぬと思ってな。じゃが、何も見つからなかった。……それで、ミライたちに見つけられたのじゃ」
一誠がこちらを見た。私は小さく頷く。
「一生懸命、探していらっしゃいましたよ」
「……そうか」
一誠の声が、少しだけ柔らかくなった。
「妾には、母上を見つける力がない。遠くまで探しに行くことも、難しい術を使うこともできぬ。……じゃが、だからといって、何もせずに待っていたくはないのじゃ」
その声には、伏見稲荷で聞いた時とは違う強さがあった。
「母上は、いつも妾を守ってくれた。困った時も、怖かった時も、母上がいれば安心できた。……今度は、妾が母上を助けたい。じゃが、妾一人では、何もできぬ」
小さな手が、畳の上に置かれる。
伏見稲荷で見つけた時、この子は誰にも頼れず、一人きりで母親を探そうとしていた。その子が今、昨日自分が襲った相手に向き直っている。声を震わせながらも、九重さんは目を逸らさなかった。
「……だから、頼む。母上を……妾の母上を、助けてほしいのじゃ……!」
深く下げられた頭に、静かな部屋の空気が張り詰めた。誰もすぐには口を開かず、庭のどこかで、鹿威しの乾いた音が一つ鳴った。
一人では届かないと認めて、誰かに助けを求める。それはきっと、一人で屋敷を抜け出すことよりも、ずっと勇気のいることだ。母親を助けたい一心で、この子は今、その一歩を踏み出していた。
私は、隣へ目を向けた。
一誠が、九重さんを真っ直ぐに見つめていた。その横顔を見た時、何となく分かった気がした。
……きっと、一誠は。
この子を、放っておかないのだろう。