「……分かった」
隣から聞こえた声に、私は顔を向けた。一誠が、真剣な表情で九重さんを見つめていた。
「俺たちに何ができるかは、まだ分かんねえけどさ。お前の母ちゃんを助けるために、できることはやってみるよ」
「……本当、か?」
「ああ。母ちゃんが心配なんだろ? だったら、放っておけねえって」
いつものように笑う一誠を見て、九重さんの目にまた涙が浮かんだ。けれど、それは伏見稲荷で見た涙とは違って、どこか安心したような色をしていた。
「……ありがとう、なのじゃ」
「ただし一誠、お前一人で勝手に動くんじゃねえぞ」
すかさず釘を刺したのは、アザゼル先生だった。
「狐の大将の行方も、連れ去った相手も分かってねえんだ。まずは情報を集めて、動き方はこっちで考える。いいな?」
「分かってますって。何も考えずに飛び出したりしませんよ」
「お前の場合、そこが一番信用できねえんだよな」
「ひでえ!」
思わず苦笑してしまった。もっとも、先生の心配にも理由はある。誰かを助けるために一誠が無茶をしたのは、一度や二度ではないのだから。
「九重ちゃん、私の方でも八坂さんを捜してみるからね! だから、九重ちゃんも一人で無茶しちゃ駄目だよ?」
「……うむ。約束するのじゃ」
セラフォルー様に頭を撫でられ、九重さんはようやく小さく笑った。
この先の対応は、アザゼル先生たちと妖怪側の方々とで話し合うことになった。今の時点で生徒にできることは多くないらしく、私たちは先にホテルへ戻ることになる。
屋敷を出る前、九重さんがおずおずと私のところへやってきた。
「……ミライ。また、会いに来てくれるか?」
「もちろんです。京都には、まだ見ていない場所がたくさんありますから」
「ならば、次は妾が案内してやろう!」
「ふふっ。楽しみにしています」
差し出された小さな手を握ると、九重さんは年相応の顔で嬉しそうに笑った。
○
ホテルへ戻る道すがら、一誠は何度か屋敷の方を振り返っていた。
「……一誠は、本当に放っておけないんですね」
「そりゃ、あんなふうに頼まれたらな」
「あなたらしいと思います」
「何だよ、急に」
「褒めているんですよ。たまには」
「たまにはって何だよ!」
抗議する一誠に、小さく笑う。それから一誠は、少しだけ真面目な声で付け加えた。
「……早く、母ちゃんが見つかるといいな」
「……そうですね」
今の私たちにできることは限られている。勝手に動き回れば、かえって捜索の邪魔になるだろう。だから今は、大人たちからの連絡を待つしかない。
ホテルで夕食を済ませると、私は一足先に大浴場へ向かった。今朝一誠に手伝ってもらった編み込みをほどき、時間をかけて洗って乾かす。軽くまとめた髪を肩に掛けて部屋の前まで戻ってきた頃には、もう十時近くになっていた。
○
「イ、イッセー君!? 近い、近いよぉ!」
「だから、俺だって好きでこうなってるわけじゃ……!」
扉の向こうから、一誠とイリナの声が聞こえた。誰か遊びに来ているらしい。
「ただいま戻りまし――」
――ごんっ!
「いっっってええええ!?」
「きゃあああっ!?」
扉を開けたのと、部屋の奥で鈍い音が響いたのは、ほとんど同時だった。
大きく開いた押し入れの襖。その前の畳に仰向けに倒れたイリナと、彼女に覆い被さるように倒れ込んだ一誠。転んだ拍子に引っ張られたのか、イリナの寝間着は襟元が大きく乱れている。
押し入れの奥には、アーシアとゼノヴィアの姿まである。
一誠と目が合った。
「……ミ、ミライ?」
「…………」
「……お、おかえり?」
私は一度、開けたばかりの扉の部屋番号を確かめた。間違いなく、私と一誠の部屋だった。
「……まず、イリナの上から退いてあげてください」
「分かってる! 分かってるけど、頭ぶつけて目が回って……!」
「でしたら、無理に立たずに横へ転がってください。またぶつけますよ」
一誠がのろのろと離れると、イリナは真っ赤な顔で乱れた寝間着の襟元を押さえた。その背中では、いつの間にか現れた天使の翼が落ち着きなく揺れ、白い羽根の間に一瞬だけ黒い色が混じったように見えた。
「お怪我はありませんか、イリナ」
「だ、大丈夫! 怪我はしてないから!」
その返事を聞いた途端、頭を押さえていた一誠が、心底ほっとしたように息を吐いた。自分の額の方がよほど痛そうなのに。
ともあれ、ひとまずはいい。私は改めて、押し入れの中の二人と、頭を抱えて蹲る一誠を見比べた。
「……押し入れ、随分と人気ですね。昨夜は一誠一人でしたのに」
「今それ言う!?」
「では、どうして皆さんで入っていたんです?」
「ま、松田君と元浜君が来たからだよ!」
答えたのはイリナだった。アーシアが遊びに来ていたところへ二人が来そうになり、一誠はアーシアと一緒にとっさに押し入れへ隠れたらしい。そこへ後から、ゼノヴィアとイリナも加わったのだという。
「……後から加わる必要は、あったんですか?」
「うむ。イッセーとアーシアが随分といい雰囲気だったのでな。私も次は――」
「ゼノヴィア!」
「ゼ、ゼノヴィアさん! そのお話は、もう……!」
一誠とアーシアが、揃って顔を真っ赤にして遮った。どうやら、私の知らないところで何かあったらしい。本人たちが話したがらないのなら、無理に聞くこともないだろう。
「アーシア。一誠の頭、お願いできますか」
「は、はい!」
押し入れから這い出したアーシアが手をかざすと、淡い緑の光が一誠の額を包んだ。痛みが引いたらしく、一誠は大きく息を吐く。
「ありがとな、アーシア」
「もう……本当に気をつけてくださいね、一誠さん」
照れくさそうに笑い合う二人の距離が、いつもより少し近い気がした。もっとも、元々仲のいい二人なのだから、不思議なことでもない。
「皆さん、そろそろお部屋へ戻った方がいいのでは? 先生に見つかったら注意されますよ」
「問題ない。この部屋には結界を張ってあるからな。廊下の教師には、何も起きていないように感じられるはずだ」
「……どうして、そういうところだけ準備がいいんですか」
胸を張るゼノヴィアの腕を、イリナが慌てて引っ張った。
「と、とにかく戻ろう、ゼノヴィア!」
「仕方ない。続きは、また明日にでも考えるとしよう」
「考えなくていいって!」
何度も頭を下げるアーシアと、最後まで落ち着かないイリナ、まだ何か言い足りなさそうなゼノヴィア。三人を一誠が半ば押し出すように見送ると、扉が閉まり、部屋は嘘のように静かになった。
「……はぁぁぁ……」
畳に座り込んだ一誠が、深いため息を吐く。
「随分とお疲れですね」
「……もう、今日は色々ありすぎだろ……」
「そうですね。朝は髪のお手伝い、昼は九重さん、夜は押し入れですから」
「最後のは忘れてくれって……」
力なく項垂れる一誠に笑いをこらえながら、私は押し入れから布団を引き出した。今度は当然、誰も入っていない。黙って反対側を持ってくれた一誠と二人で、布団を二組並べて敷いた。
肩に掛けていた髪の紐をほどくと、まとめていた長い髪が背中を伝い、畳の上へ広がっていく。
「……何度見ても、すげえ長さだよな」
「今朝も同じことを言っていましたよ。……毎朝まとめている苦労が、少しは分かっていただけました?」
「分かった。めちゃくちゃ大変そうだ」
「ですから、今朝は助かりました。ありがとうございます」
「……おう」
照れくさそうな一誠の声を聞きながら、私は髪を踏まないよう布団の外へ広げた。
明日もお願いしたら、手伝ってくれるだろうか。そんなことを考えかけて、少しだけ笑ってしまう。さすがに、毎朝頼るわけにもいかない。
部屋の明かりを落とすと、障子越しの淡い光と、枕元の腕時計の小さな音だけが残った。
布団へ入り、肩まで掛け布団を引き上げる。隣からも衣擦れの音が聞こえ、少し遅れて一誠が横になる気配がした。
ようやく、静かになった。明日は、もう少し普通に観光できるといいのだけれど。
そんなことを考えながら目を閉じかけたところで、隣から声がした。
「……なあ、ミライ。もう寝る?」
「そうですね。時間も遅いですし」
「そっか……」
妙に歯切れが悪い。天井へ目を向けたまま待っていると、一誠がもう一度口を開いた。
「……いや、ほら。修学旅行の夜ってさ、普通、恋バナとかするだろ?」
何を言い出すのかと思えば。
「昨日も同じ部屋に泊まっていましたよね。でしたら、昨夜でもよかったのでは?」
「昨日はそれどころじゃなかっただろ! お前、すげえ疲れてたし!」
「……それは、そうですね」
確かに、昨日は京都へ着いたばかりだった。布団へ入ってからのことは、あまり覚えていない。
……随分とよく眠れた気はするけれど。
「分かりました。少しだけ、お付き合いしましょう」
「おっ、マジで!?」
隣から、なぜか嬉しそうな声が返ってくる。本当に元気な人だ。
「それで、何をお話しするんですか?」
「そりゃ、やっぱり……お前、好きな奴とかいねえの?」
「いませんよ」
「即答!? もうちょっと考えるとか、そういうのないのか?」
「考える必要がありませんので」
「……マジかぁ」
一誠はなぜか残念そうだった。こちらとしては、正直に答えただけなのだけれど。
「そもそも、私の恋愛事情など、それほど面白いものではありませんよ」
「いや、そんなことねえって。お前、結構可愛いしさ」
「ありがとうございます」
「……あれ? そこはちょっと照れるとか……」
「褒めていただいたのですから、お礼を言うのが普通でしょう?」
「……お前、そういうところあるよなぁ」
どういうところなのかは、説明してもらえなかった。仕方がないので、今度はこちらから尋ねてみる。
「では、一誠はどうなんです?」
「そりゃ、いるに決まってんだろ!」
「でしょうね」
「そこも即答かよ!?」
「一誠ですから」
「理由になってねえ!」
十分な理由だと思う。私は天井を見上げたまま、指を折って数え始めた。
「部長に、朱乃先輩、アーシア、ゼノヴィア……イリナとも昔から仲がいいそうですし、小猫さんとも最近はかなり親しいですよね」
「ちょ、ちょっと待て! 何で俺の周りの女の子を数え始めてんだよ!?」
「参考までに。……それに、皆さん、一誠のことを随分と慕っていますから」
一誠が、急に静かになった。少しして、照れくさそうな声が返ってくる。
「……そう言われると、何か……すげえ照れるな」
「今更ですか? 一誠も、皆さんのことが好きなのでしょう?」
「ああ! もちろん! 部長も、朱乃さんも、アーシアも、ゼノヴィアも、イリナも、小猫ちゃんも! みんな大好きだ!」
「ええ。知っています」
「……その返事、あっさりしてんなぁ」
一誠が笑い、私もつられて笑みを浮かべた。本当に、分かりやすい人だ。
ふと、先ほどの押し入れ騒動を思い出す。イリナに怪我がないと分かった途端、一誠は自分の額より先に、心底ほっとした顔をしていた。九重さんの頼みを聞いた時も、きっと同じだったのだろう。
相手が誰であっても、困っていれば放っておけない。きっと、そういう人なのだ。
「……一誠。改めて考えると、あなたが皆さんから好かれる理由も、少し分かる気がします」
「……へ?」
「ふふっ。何でもありません」
「いやいや! 今の、すげえ気になるんだけど!?」
「秘密です」
「そこまで言っといて!?」
慌てた声に、思わず笑ってしまった。いつの間にか、眠気は少し遠ざかっている。
明日も早いのだから、そろそろ眠らなければならない。それでも、こういう夜もたまには悪くないと思った。
「……なあ、ミライ。さっきの秘密、やっぱ気になるんだけど」
「まだ、その話ですか?」
「当たり前だろ! あんなこと言われたら気になるって!」
隣の布団から聞こえる不満そうな声に、思わず笑ってしまった。隠すほどのことでもなかったのだけれど、あまりにも分かりやすく反応するものだから、ついからかってしまったのだ。
「放っておけないところですよ」
「……へ?」
「一誠が、皆さんから好かれる理由です。裕斗の時も、ギャスパー君の時も。今日の九重さんだって、昨日は一誠たちを襲った相手でしょう?」
「そりゃそうだけどさ。あんな小さい子が母ちゃんを助けてくれって頼んできたんだぜ? 放っとけねえよ」
「ふふっ。そういうところですよ」
普段は随分と困ったことを言い出す人でもあるけれど、誰かのために身体を張る時の一誠を、私は信頼していた。
「……そういえば、一誠にはもう、ヒーロー番組があるではありませんか。『乳龍帝おっぱいドラゴン』」
「ぶっ!? いきなり何言い出すんだよ!?」
「ヒーローのお話をしていたので」
「いや、あれって普通のヒーローとはちょっと違わねえか? おっぱいドラゴンだぜ?」
「一誠らしくて、分かりやすいと思いますよ。……それに、あの番組を毎週楽しみにしている子供たちが、たくさんいるのでしょう?」
「ん? ああ、結構人気あるらしいぜ」
「でしたら、一誠はもう、あの子たちにとってのヒーローではありませんか」
隣が静かになった。やがて、照れくさそうな笑い声が聞こえてくる。
「……何か、そう言われるとすげえ嬉しいな」
強い存在として扱われることよりも、子供たちが憧れてくれることを素直に喜んでいる声だった。本当に、一誠らしい。
ヒーロー。私は昔から、そういう存在が好きだった。
最初から誰よりも強かったわけではない。失敗することもあれば、守りたかったものを守れないこともある。それでも誰かを救うことを諦めずに、助けを求める声のもとへ駆けつけてくれる。そんな彼らが、好きだった。
……だからこそ。
「……一誠。一つ、聞いてもいいですか?」
「おう。何だ?」
私は、少しだけ言葉を探した。
「……最低最悪の魔王でも、ヒーローになれますか?」
「…………は?」
一誠の返事が止まった。
「いや、ちょっと待て。何でいきなり魔王が出てくるんだよ?」
「……すみません。変な質問でしたね」
「変っていうか……最低最悪の魔王なんだろ? そりゃ普通、ヒーローとは逆じゃねえか?」
「……そう、ですね」
「……もしかしてお前、世界征服でもして、大魔王にでもなっちまうのか?」
冗談めかしたその言葉に、私は思わず目を閉じた。
……ああ。もし、そうだったなら。
「……その方が、よかったのかもしれません」
「……へ?」
「世界を征服して、人々を苦しめて。……誰が見ても間違っている、そんな魔王だったなら」
私は、天井を見つめた。
「……きっと、勇者が現れたでしょうね」
「……勇者?」
「はい。どれほど強大な魔王が相手でも、苦しんでいる人々を助けるために、誰かが立ち上がる。……そして、最後には平和を取り戻してくれる」
そういう物語を、私は信じている。たとえ一度は敗れても、また立ち上がる。何度倒れても諦めずに、誰かのために戦い続ける。
……でも。
「……そういう魔王では、なかったんです」
「……ミライ?」
私の声が変わったことに気づいたのか、一誠もそれ以上は茶化さなかった。
「……なあ。さっきから、何の話をしてるんだ?」
すぐには答えられなかった。
何があったのかも、何を考えていたのかも、全部覚えている。それなのに、あの日からずっと、誰にも話せなかった。忘れたからではない。……全部、覚えているから。
話すなら、あの日からだ。
「……一誠。《覇龍》になってしまった時のこと、覚えていますか?」
隣から、衣擦れの音がした。
「……覚えてるっていうか、途中からはほとんど記憶がねえんだけどな。みんなから聞いたよ。俺が暴れて、部長たちを傷つけちまったことも……お前が、俺を止めてくれたことも」
一誠の声が、低くなった。
「……あの時は、本当にありがとな」
「一誠を止めたことは、後悔していません。もう一度同じことが起きても、私はきっと同じようにあなたを止めます。ですから、そのことは気にしないでください」
そこまで言ってから、私は息を吸った。
「……ただ、あの時の話には、まだ続きがあるんです」
「……続き?」
「私は、一誠を止めた後も、あの姿のままでした」
壊れた神殿。崩れ落ちた瓦礫。傷つき、倒れた仲間たち。そして、もう二度と会えないと思っていたアーシア。目を閉じなくても、あの時の光景は思い出せる。
「その時、私は考えたんです。……こんなことが、最初から起こらなければよかったのに、と」
「……そりゃ、そうだよな。俺だって、そう思うよ」
「ええ。ですが、私が考えたのは、あの日のことだけではなかったんです」
掛け布団の下で、手を握った。
「アーシアが、ディオドラに騙されることのない世界。裕斗が、聖剣計画に巻き込まれずに済む世界。ギャスパー君が、故郷を追われずに済む世界」
一度、言葉が途切れた。
「朱乃先輩が、ご両親と一緒に暮らせる世界。小猫さんが、お姉さんと離れ離れにならない世界。……そして」
喉の奥が、詰まった。
「……一誠が、レイナーレに殺されることのない世界です」
隣で、一誠が息を呑む気配がした。
「……最初は、皆さんの不幸だけを消すつもりでした」
けれど、それだけでは済まなかった。
「アーシアを騙したディオドラにも、裕斗たちを苦しめた人たちにも、それぞれの人生がありました」
一度、言葉を切る。
「……一誠を手にかけた、レイナーレにも」
「……レイナーレも、かよ」
一誠の声に、複雑な色が混じった。無理もない。自分を殺した相手の名前なのだから。
「許せることだとは思いません。……ただ、その人たちも、最初から誰も傷つけずに済む人生を歩めたのなら。そう、考えてしまったんです」
時計の修理と同じだった。一つの歯車を直すと、噛み合っている隣の歯車の摩耗が目につく。それを直せば、そのまた隣が。
「……それに、あの時の私には、分かってしまったんです。皆さんと繋がっている人たちの悲しみも、その先にいる、会ったこともない人たちの悲しみも」
「……会ったこともない奴らのまで?」
「はい」
名前も顔も知らない誰かが、何を失い、何に泣いているのか。その一人ひとりのことが、全部。
けれど、今の私には、もう分からない。《オーマ》を解いた途端、あの時に分かっていたことは、指の間から零れるように消えてしまった。
残っているのは、確かに分かっていたという感覚と、それを前にして自分が何を決めたのかという記憶だけだ。
「全部分かっていて、全部救えるのに、皆さんだけを選んで、ほかの人たちは見捨てる。……そうしていい理由を、私は見つけられませんでした」
「……ミライ」
手を伸ばせば、届いた。もう少し先へ伸ばしても、まだ届いた。一人を救えば、その隣の誰かが。その誰かを救えば、さらにその先の誰かが。
そうして伸ばし続けた手の先にあったのは、この世界そのものだった。誰も理不尽に傷つかず、誰も大切な人を失わない世界。言葉にするなら、きっと理想郷と呼ぶのだろう。
「一つ一つは、どれも間違っていないように思えたんです。……気づいた時には、世界の全部を、過去から作り直そうとしていました」
「……そんなこと、本当にできるのか?」
「……できたんです」
迷わずに答えられた。
「あの時の私には、本当に、そうできたんです。難しいことでは、なかったんです」
止まった時計の針を、そっと指先で動かすように。ただ、そうすればいいと思っていた。
「……皆さんが幸せになれるなら、それが一番いいと思ったんです。今でも、それ自体が間違っているとは思えません。誰もあんな思いをしなくて済むのなら、その方がいいではありませんか」
長い沈黙のあと、一誠が小さく口を開いた。
「……その世界の俺は、部長たちと会ってたのか?」
「……はい。皆さんと一緒に、笑っていました」
「……何で、そんなことまで分かるんだ?」
「……そのことも、後でお話しします」
「……そっか。だったら、確かにいい世界なんだろうな。俺も殺されずに済むなら嬉しいし、裕斗たちだって、あんな目に遭わなくて済むんだろ?」
「……はい」
「……でもさ。それって、俺たちにも選ばせてくれるのか?」
今度は、私が黙る番だった。
「裕斗なら、昔の仲間が生きてる方を選ぶかもしれねえ。そりゃ、そうだろうなって思うよ。……でも、それって裕斗が決めることだろ?」
一誠の声は、静かだった。
「お前、俺たちにも聞いてくれたのか?」
答えは分かっていた。それでも、口にするまでに時間がかかった。
「……いいえ。誰にも、尋ねませんでした」
声が震えそうになるのを、必死に抑える。
「皆さんが幸せになれるなら、それでいいと思っていました。私が、そうしてあげればいいんだって。……皆さんが何を望んでいるのか、聞こうともしなかったんです」
皆、それぞれに歩いてきた道がある。自分で選んできたことがある。それを私が変えていいはずがないことくらい、本当は分かっていたはずなのに。
「……一誠。あの時のことは、全部覚えています。誰が誰なのかも、自分が何をしようとしているのかも」
「…………」
「一誠の《覇龍》とは違うんです。何も分からなくなっていたわけでも、誰かに操られていたわけでもありません。……私が考えて、私が決めました」
握った手に、力が入った。
「……あれは、私でした」
一誠は黙ったまま、それでも隣にいてくれた。その気配だけは、少しも変わらなかった。私は枕元へ目を向ける。お爺さんの形見の腕時計が、文字盤の中で小さな音を立てていた。
お爺さんは、何度も言っていた。直すってのは、時間を戻すことじゃない。壊れる前に戻すんじゃない。止まる前に戻すんでもない。もう一度、進めるようにしてやるんだ、と。
「……お爺さんに、教えてもらったことがあるんです。壊れた時計を直すというのは、壊れる前に戻すことではないんだって。もう一度、進めるようにしてあげることなんだって」
「……いいこと言う爺さんだな」
一誠が、ぽつりと呟いた。その一言が、なぜか少しだけ嬉しかった。
「……それなのに、私は……」
言葉が続かなかった。皆が苦しんだことも、泣いたことも、それでも誰かの手を取って前へ進もうとしたことも。私は、全部なかったことにしようとした。
小さく笑おうとして、失敗した。
「……すみません。せっかくの修学旅行なのに、こんな話を」
「別にいいって」
一誠は、すぐにそう答えた。
「……まだ、あるんだろ?」
思わず、隣へ顔を向けた。薄暗い部屋の中で、一誠の表情まではよく見えない。それでも、こちらを見ていることだけは分かった。
まだ、ある。世界を作り直そうとしたことよりも、ずっと怖かったことが。
「……さっき、皆さんが笑っていたと、お話ししましたよね」
「……ああ」
「あれは、想像ではないんです。……あの時、私には、その先にある未来も視えていたんです」
「……未来?」
「私が本当に世界を作り直していたら、その後、どうなっていたのか。必ずそうなると決まっていたわけではありません。けれど、実際に起こり得た未来でした。……ただの想像では、なかったんです」
目を閉じると、あの光景が蘇る。何度思い出しても、少しも色褪せない。
「……とても、綺麗な世界でした」
穏やかな街並みを、人々が行き交っていた。大切な人と食卓を囲む人、友人と笑い合う人、家族に手を引かれて歩く小さな子供。
「裕斗も、笑っていたんです。私の知らない人たちに囲まれて。……きっと、失ってしまった仲間たちだったのでしょうね」
「……そっか。あいつ、そういう顔で笑うんだな」
「ええ。……私も、初めて見る顔でした」
何かを失った悲しみを抱えながら、それでも前へ進もうとしている今の裕斗とは違う。ただ友人たちに囲まれて笑っている、一人の少年だった。その姿を見た時、私は本当に嬉しかった。
「だから、あの時の私は、自分が間違っているとは思いませんでした。……でも、その世界には、続きがあったんです」
掛け布団の下で、指先に力が入った。
「ある時、一人の人が現れました」
「……誰だったんだ?」
「顔は、よく見えませんでした。……その人は、私が作った世界を拒んだんです。誰かに与えられた幸福ではなく、自分で選んだ道を歩きたいと」
誰もが幸福であることと、誰もがその世界を選んだことは、同じではない。その人はそう訴えて、私の前に立った。
「まるで、物語の勇者のような人でした。……でも、勝てませんでした」
「……殺したのか?」
「いいえ。殺してなんて、いません」
私は首を横に振った。
「……その人も、幸せにしたんです」
一誠の返事が止まった。
「大切な人たちに囲まれて、もう誰かと戦う必要もなくて。……本当に、幸せそうでした。それは嘘ではないんです。無理やり笑わされていたわけでも、苦しみを隠していたわけでもありません」
喉の奥が、きゅっと締めつけられた。
「……ただ、その人が幸せでいいと思えるようになったのは、私が、そう変えたからなんです」
「…………」
「私を止めたいという気持ちも、自分の人生を取り戻したいという願いも。もう必要ないと思えるように。……私が、その人の心まで変えてしまったんです」
今度こそ、一誠は何も言わなかった。腕時計の秒針の音だけが聞こえる。
……かち。
……かち。
「それで、終わりではありませんでした。また別の人が現れて、私はその人を止めて、その人も幸せにして」
「……そいつらも、全員か?」
「……はい。何度も、何度も」
一つ息を吸う。
「……その未来の私は、最初の頃は迷っていたんです。その人にも選びたい人生があると、分かっていたのでしょうね。……でも、繰り返すうちに、迷わなくなっていきました」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「抵抗する人が現れれば、幸せにしてあげればいい。何を望んでいるのか、もう尋ねる必要もない。……どうすれば幸せになれるのか、分かっているのだから」
「…………」
「……そして、最後には」
そこで、言葉が止まった。
「……誰も、来なくなりました」
「来なくなったって……」
「もう、誰も拒まなくなったんです」
あの世界を拒む人は、もういなかった。私を止めようとする勇者も、私の決めた幸福に異議を唱える人も。
青い空の下で、人々は笑っていた。親子が手をつなぎ、友人たちが肩を並べている。悲しみも、理不尽な別れも、どこにもない。
その世界の真ん中に、一人の少女がいた。
長い髪を揺らし、たくさんの人々に囲まれ、感謝され、穏やかに微笑んでいる少女。誰も、その世界の在り方を疑わなかった。誰も、少女が決めた幸福に異議を唱えなかった。そして少女自身も、そのことを何とも思っていなかった。
「……その人は、最後まで笑っていたんです。誰も自分を止めに来なくなった世界で。……本当に、幸せそうに」
あの世界の中心にいたのは、私だ。天童ミライ。私自身だった。
かつて、最低最悪の魔王と呼ばれた王の物語を、私は知っている。その王が君臨する世界は荒れ果てていて、だからこそ、どれほど力の差があっても、王に立ち向かおうとする者たちがいた。
けれど、私が視た未来には、それすらなかった。荒れ果てた街も、血に染まった玉座もない。ただ幸福な人々がいて、誰もその世界を変えようとしない。
それはもう、魔王ですらない何かだった。
「……それ、本当に視たのか?」
「……ええ。あの時、実際に視えていた未来です」
「……でも、一誠。私が一番怖かったのは、その未来の私が何をしていたかだけではないんです」
「……どういうことだ?」
「……あの未来を視ていた、あの時の私は……それでも、いいことだと思えたんです」
一つずつ言葉にするたび、胸が苦しくなっていく。
「勇者が何人現れても、その人たちを幸せにできる。誰も私の世界を拒まなくなれば、もう誰も傷つかずに済む。……だから、それでいいと思いました。自分が最後に何になってしまうのか、そこまで視えていたのに」
「……ミライ」
「世界を作り直すのをやめたのも、私が自分で思いとどまったからではないんです」
だから、次も止まれるとは限らない。
「……でもさ。それって、もう終わったことなんだろ? 元に戻ったんだから、あの力はもう使えねえとか……」
終わったこと。そうだったなら、どれほどよかっただろう。
「……いいえ。使えますよ」
一誠の息遣いが止まった。
「封印されたわけでも、失われたわけでもありません。誰かが私を止めてくれているわけでもないんです。……私が、使わないと決めているだけなんです」
今も、ここにある。こうして布団に入り、一誠と話している、この瞬間にも。私がそう決めれば、きっとできてしまう。
あの時と、同じように。
使えば、また分かってしまうのだろう。会ったこともない誰かの悲しみも、もしかしたら、私自身のことさえも。
けれど、それを知るためにあの力へ手を伸ばせば、きっと私は、また止まれなくなる。
「……だから、怖いんです。今は、まだ怖いんです。あの未来を思い出すたびに」
秒針が、一つ進んだ。
「……でも、もしいつか、それを怖いと思わなくなったら。明日の私が、今日とは違う答えを出してしまったら。皆さんを幸せにできるのだから、もう誰の話も聞く必要はないんだって……そう思うようになってしまったら」
また、秒針が進む。
「……私は、その時、何になっているんでしょうね」
答えは返ってこなかった。ただ、隣から小さな声が聞こえた。
「……そっか。だから、か」
「……一誠?」
「……いや。何でもねえ」
何のことか分からなかった。けれど、今はそれを尋ねる余裕もなかった。
ヒーローは来る。私はずっと、そう信じていた。どれほど恐ろしい魔王が現れても、いつか勇者が立ち上がる。けれど、あの未来では、勇者は何度現れても魔王を止められず、最後には誰も来なくなった。
もし私が、本当にあの世界を作ってしまったら。その時、誰が私を止めてくれるのだろう。
誰も、あの私を止められなかった。……それでも。今、隣にいる一誠は、私が何になろうとしていたのかを知っている。私が、どんな顔で笑う人間なのかも。
「……一誠。一つ、お願いしてもいいですか?」
「……何だ?」
「……もし私が、最低最悪の魔王になったら」
そこで、言葉を切った。声が震えそうになる。それでも、どうしても聞きたかった。
「……一誠は、勇者として私を討ち滅ぼしてくれますか?」
時計の音が、やけに大きく聞こえた。一誠は、すぐには答えなかった。
「……何で、討ち滅ぼすなんて話になるんだよ」
「何故、と言われましても……」
「だってそうだろ。お前、俺に自分を殺してくれって言ってんだぞ。……そんなの、簡単に約束できねえよ」
思っていたよりも、真剣な声だった。
「……ですが、もし本当に私があの未来のようになったら、誰も私を止められなくなるんですよ? 勇者が何人現れても、私はその人たちを倒して、幸せにしてしまう」
「……その勇者たちってさ、負けたら、みんな幸せになったんだよな」
「……ええ」
「だったら、俺も負けたら幸せにされちまうのか?」
私は、目を伏せた。
「……はい。一誠も、あの世界で幸せに暮らすことになると思います。もう、私を止めようとは思わなくなって」
「……そっか。そりゃ、嫌だな」
一誠が、小さく息を吐いた。
「俺が幸せかどうかくらい、俺に決めさせてくれよ。……そりゃ、昔のことを全部やり直せるって言われたら、俺だって迷うと思う。けど、それを選ぶのは俺だ」
胸の奥が、小さく跳ねた。
「……それでは、一誠は、私を止めてくれるんですか?」
「止めるよ」
返事は、思っていたよりも早かった。
「……勝てるとは思わねえ。でも、何もしないで見てるつもりもねえよ。お前がまたみんなのことを一人で決めようとしたら、俺は嫌だって言う。……それにさ、お前、今はあの力を使わないって決めてるんだろ?」
「……はい」
「だったら、今はちゃんとそうしてるじゃねえか。今だって、こうやって俺に話してくれてるだろ」
……今なら。
その言葉が、胸の奥に残った。今の私は、誰かの話を聞くことができる。自分が間違っているかもしれないと、悩むこともできる。だから、こうして一誠に話している。
「……それでも、もし私が止まらなかったら? 何度言われても、変わらなかったら?」
「その時は、戦ってでも止めようとするさ」
短い答えだった。それきり、一誠は黙った。秒針の音がいくつか過ぎてから、ぽつりと続きが聞こえた。
「……それとさ。もし止められたら、その時はちゃんと話を聞くよ」
「……話、ですか?」
「ああ。何でそんなことしたのか、これからどうしたいのか。……そういうの、ちゃんと聞く」
「魔王を止めた後に、ただ話を聞くなんて……それで、いいのでしょうか」
「……ミライ」
一誠が、私の名前を呼んだ。
「お前、さっき、俺たちに何も聞かなかったって、すげえ後悔してただろ?」
「……はい」
「だったらさ」
その声が、わずかに強くなった。
「……お前をどうするかだって、勝手に決めんなよ」
思わず、息が止まった。
「俺がお前を止めようとするのか、助けようとするのか。それくらい、俺にも選ばせてくれ。……それに、何で止めたら終わりみたいに考えてんだよ。止めたら、その後また考えりゃいいじゃん。どうすればいいのか、みんなでさ」
……その後。
そんなこと、考えたこともなかった。魔王になってしまったら、勇者に討たれて、それで終わり。そういう結末しか、思い浮かべていなかった。
一人で決めなくてもいい。何が正しいのか分からないなら、誰かに尋ねてもいい。そんな当たり前のことを、私は忘れかけていたのかもしれない。
「それにさ。勇者とか魔王とか、そんな大層な話じゃなくてもいいだろ」
一誠が、照れくさそうに笑った。
「俺はお前の友達なんだからさ。お前が間違ってると思ったら、そう言うし、困ってたら助ける。……それじゃ駄目なのか?」
すぐには、答えられなかった。喉の奥が、妙に熱かった。
魔王を倒すために未来から来た青年が、最後には、その魔王の友として隣に立った物語を、私は知っている。
「……いいえ。それで、十分です」
「……そっか」
枕元の腕時計は、今も変わらず動いている。
……かち。
……かち。
もう一度、進めるようにする。
……ああ、お爺さん。今なら、少しだけ分かる気がします。
もしかしたら、私もそうなのかもしれない。間違ったことを考え、恐ろしい未来を視て、それを正しいと思えてしまった。それでも、私の時間まで、そこで終わりにしなくてもいいのかもしれない。
もちろん、今すぐ怖くなくなったわけではない。あの力は今も使えるし、あの未来も、今でも鮮明に覚えている。
けれど、今夜はどこか違った。あの未来を知っているのが、もう私一人ではなくなったからだ。
「……一誠。ありがとうございます。聞いてくださって」
声が、かすかに震えた。
「ずっと、誰にも話せなかったんです。……誰かに話したら、きっと嫌われてしまうと思っていました。私がこんなことを考えられる人間だと知ったら、もう、今までと同じようには……」
「……ミライ。それ、お前が勝手に決めてるだろ。俺がどう思うかは、俺が決める。……それに、俺はまだお前のこと、嫌いになんかなってねえよ」
私は、目を瞬かせた。
「……あ」
「だろ?」
また、同じことをしていた。相手が何を思うのか、尋ねる前に決めつけてしまう。どうやら、私はまだまだ未熟らしい。
「……ふふっ。おっしゃるとおりです」
「まあ、俺だって難しいことはよく分かんねえけどさ。……話してくれて、ありがとな」
今度は、私が言葉に詰まる番だった。しばらくして、ようやく声を絞り出す。
「……はい」
話して、よかった。本当に。
「それと、礼なんかいらねえって。……あ、でも、せっかくだし今度何か奢ってくれよ」
つい先ほどまで、あんなに真面目な話をしていたのに。
「……焼き鳥でよければ」
「おっ、いいな! 焼き鳥!」
「ふふっ。随分と安上がりですね。では、美味しいお店を探しておきましょう」
「おう! 楽しみにしてるぜ!」
つい笑ってしまった。胸の奥にあった冷たいものが、ほんのわずかに和らいで、今は少しだけ眠れそうな気がした。
「……そろそろ、本当に寝ましょうか」
「……ああ。そうだな」
長い髪を布団の外へ逃がし、身体の向きを整える。枕元の腕時計は、変わらず時を刻んでいた。
「……おやすみなさい、一誠」
「……おう。おやすみ、ミライ」
返事を聞いてから、私はゆっくりと目を閉じた。
まだ、怖い。……でも、それでいいのかもしれない。少なくとも、今はまだ、誰かの言葉を聞いて立ち止まることができるのだから。
小さな秒針の音を聞きながら、私は静かに眠りへと落ちていった。