翌朝、目を覚ますと、障子の向こうから柔らかな朝日が差し込んでいた。
昨夜は遅くまで話していたはずなのに、思っていたよりもよく眠れたらしい。枕元の腕時計は、支度を始めるのにちょうどいい時間を指していた。隣では、一誠も身体を起こしたところだった。
「……おはようございます、一誠」
「おう、おはよう、ミライ。……ちゃんと眠れたか?」
「はい。おかげさまで。一誠は?」
「俺もぐっすりだぜ。……まあ、ちょっと寝足りねえけどな」
「それは、夜更かしをしたからでしょう」
「お前だって起きてただろ」
顔を見合わせて、小さく笑う。
話したからといって、何もかもが解決したわけではない。それでも、こうして普段どおりに話せていることが、少し嬉しかった。
「……それでは、一誠。今日もお願いしてよろしいですか?」
自分の髪へ手を伸ばしてみせると、一誠はすぐに察したらしい。
「おう、任せろ!」
鏡の前へ座ると、一誠が背後に回り、床まで届く髪を丁寧にすくい上げた。昨日は毛束を分けるだけで苦戦していたのに、今日はほとんど迷いがない。
「……昨日より、随分と上手になりましたね」
「おっ、マジで? へへっ、昨日あれだけ頑張ったからな」
鏡越しの一誠は、なかなか得意げだった。編み目も昨日より揃っているし、何より、髪を引っ張りすぎないよう気をつけてくれているのがありがたい。
「これなら、他の方の髪も編めそうですね。……駒王町へ戻ったら、部長やアーシアにもしてあげてはいかがですか?」
「……部長とアーシアに?」
途端に手が止まり、鏡に映った顔がみるみる緩んでいく。何を想像しているのかは、聞くまでもなかった。
「一誠。手が止まっていますよ」
「お、おう! よーし、絶対綺麗に編んでやるからな!」
張り切って再開した、その直後。
「あっ。一誠、そこは反対です」
「うおっ、本当だ! くそっ、格好いいところ見せようと思ったのに!」
朝から賑やかな人だ。結局、編み込みが仕上がったのは、それから少し後のことだった。
○
修学旅行も、今日で三日目。スターゲイザーはホテルに置いたまま、私は一人、電車で太秦へ向かった。
目的地は『東玉太秦映画村』。時代劇の撮影に使われる町並みを、一般にも公開している施設だ。
ここを勧めてくれたのは、昨日ともに京都を回ったイズナさんだった。忍者の映画を撮る場所なのだと、目を輝かせて話してくれたのを覚えている。本当は一緒に来たがっていたけれど、今日は任務があるらしい。
入口をくぐると、江戸の町並みが広がっていた。瓦屋根の建物が道の両側に並び、軒先には提灯や暖簾が揺れている。現代的な服装の観光客さえいなければ、時代劇の中に迷い込んだと錯覚しそうだった。
近づいてみると、奥行きがほとんどない建物や、裏側が撮影用に開け放された建物もある。暮らすためではなく、映像の中で本物に見えるように作られた町。そう思うと、なかなか不思議なものだ。
広場では、ちょうど忍者ショーが始まるところだった。黒装束の忍者たちが屋根から飛び降り、煙幕から姿を現し、刀と手裏剣で派手に立ち回る。
仕掛けと役者さんの身のこなしで作られた忍術だけれど、子供たちは忍者が敵を倒すたびに歓声を上げていた。
……イズナさんが見たら、きっと大喜びするだろう。本物の忍術かどうか確かめようと、身を乗り出して観察するかもしれない。
ショーの後、写真を何枚か撮り、売店で忍者の小さな根付を買った。今度会った時に、イズナさんへ渡すつもりだ。
それから足を向けたのは、特撮作品の展示館だった。東玉が手がけてきた怪獣映画やヒーロー番組のスーツ、小道具、ミニチュアの街並みが並び、撮影の裏側が紹介されている。
私の中には、『仮面ライダー』という作品の記憶がある。キヴォトスのことと同じく、目覚めた時から持っていたものだ。物語は知っているのに、テレビや映画館で観た経験はない。そもそも、この世界にその作品は存在しない。
展示されたスーツの前で、小さな男の子が両腕を構えていた。
「見て見て! 変身!」
父親が笑いながら、その姿を写真に収めている。
ふと、記憶の中の一本の映画が浮かんだ。『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER』。仮面ライダーが、虚構として扱われる世界の物語だ。
スーツは人の手で作られたものだし、崩れ落ちるビルもミニチュアにすぎない。けれど、作り物であることと、そこに込められた想いまで偽物であることは、きっと同じではない。
虚構のヒーローでも、覚えている誰かがいる限り、確かにそこにいる。あの映画は、そういう物語だった。
昨夜、一誠とも似たような話をした。『乳龍帝おっぱいドラゴン』だって番組としては作り物だけれど、憧れる子供たちにとっては、間違いなく本物のヒーローなのだろう。
男の子が、もう一度元気よくポーズを決めた。
……やっぱり、いいものだ。ヒーローというのは。
○
映画村を出た後は、嵐電に揺られて嵐山へ向かった。路面電車のような小さな車両が、家々の軒先をかすめるように走っていく。終点で降りれば、あとは歩いてすぐだった。
土産物屋の並ぶ通りを抜けると、川の向こうに渡月橋が見えてきた。緑の山を背に、川幅いっぱいに架かる長い橋。橋の上にも河原にも観光客が大勢いて、写真を撮ろうにも、なかなか人の流れが途切れない。
一人で気ままに歩く京都も、悪くない。もう少し先まで行ってみようと、歩き出した時だった。
不意に、視界が白く霞んだ。
……霧?
つい先ほどまで晴れていたのに、橋の向こうがぼんやりと白い。足を止めたところで、ようやく違和感の正体に気づいた。
静かすぎる。
話し声も、足音も、車の音さえ聞こえない。見回せば、あれほどいた観光客が一人残らず消えていた。橋も川も山も変わらないのに、人だけが綺麗に抜き取られたようだった。
何らかの術式か、結界の類だろうか。身構えた私の耳に、遠くから轟音が届いた。地面を揺らすような、重い響き。霧が少しずつ薄れ、その向こうの光景が見えてくる。
思わず、息を呑んだ。
川の下流が、焼け野原になっていた。立ち並んでいたはずの家々は崩れ、黒い煙が何本も空へ昇っている。河原には、見たこともない異形の怪物たちが群れをなしていた。
そして、その手前に一誠たちがいた。
赤い鎧をまとった一誠の傍らで、剣を構えた裕斗とゼノヴィア、イリナが肩で息をしている。後ろにはアーシアと九重さん。その前に立つアザゼル先生の鎧は所々が砕け、黒い翼もぼろぼろだった。
向かい合う側には、見知らぬ人たちが立っていた。何本もの剣を携えた白髪の青年に、制服の上からローブを羽織った青年。
その中心に立っていたのは、学生服の上から漢服を羽織った黒髪の青年だった。長い槍を携え、服は所々が破れているのに、表情には余裕がある。
「……一つ聞かせろ。お前ら英雄派は、何のために動いてる」
アザゼル先生の低い声が、霧の中に響いた。
「理由は意外と単純だよ、総督殿。人間として、どこまでやれるのか。それを知りたいだけさ」
槍の青年は、真っ直ぐに空を指さした。
「悪魔も、ドラゴンも、堕天使も。超常の存在を倒してきたのは、いつだって人間だった。……弱い人間のささやかな挑戦だよ。人間のまま、どこまで行けるのか試してみたくなった」
青年の言葉が終わる頃には、周囲に残っていた霧も、ほとんど晴れていた。
英雄派――それが、一誠たちの戦っている相手らしい。
「――ミライ!?」
一誠の声だった。全員の視線が、一斉にこちらへ向く。
気づけば、私は両陣営のちょうど間、英雄派の方へ少し寄った場所に立っていた。一誠たちとは、焼け焦げた河原を挟んで二十歩ほど離れている。
「何でお前がここにいるんだよ!?」
「それは、私も聞きたいのですが……」
「ああ、来てくれたか」
答えたのは、槍の青年だった。驚くどころか、待ち合わせの相手でも迎えるように微笑んでいる。彼が軽く片手を上げると、英雄派の構成員たちは構えたまま動きを止めた。
「突然招いてすまないね。近くまで来ているようだったから、ゲオルクに頼んで、少し寄り道してもらったんだ」
ローブの青年が、小さく会釈した。
招いた。つまり、私がここにいるのは偶然ではない。
「……どちら様でしょうか」
「曹操という」
「……曹操?」
「本人ではないよ。その子孫だ。英雄の血と魂を受け継ぐ者、とでも言っておこうか」
三国志の英雄の名を、こんな場所で聞くことになるとは思わなかった。
「曹操、てめえ……! ミライまで巻き込みやがって!」
「巻き込んだつもりはないさ。彼女とは一度、話してみたかったんだ」
曹操は、改めて私へ向き直った。
「赤龍帝が《覇龍》に至った時、それを人間の少女が圧倒した。……そんな噂を聞いてね」
私は、口を閉じた。あの日のことは、冥界でも大きな問題になった。どこかから話が漏れることを、考えていなかったわけではない。
「さっき赤龍帝にも話したところだ。ドラゴンは力を集める。彼の周りには、名うての者たちが次々と引き寄せられてくる。……君も、その一人なんだろう?」
……引き寄せられた、か。
でも、私は自分で一誠の隣にいることを選んだはずだ。
「ミライ、そいつの話なんか聞くな! そいつら、九重の母ちゃんをさらった奴らなんだ!」
一誠の声に、私は曹操を見た。否定は返ってこなかった。
「……九重さんのお母様を連れ去ったのは、あなた方なんですか?」
「ああ。計画に協力してもらっている」
「ご本人の意思に反して、ですか」
「残念ながら、今のところはね」
あまりにもあっさりとした返事だった。
「単刀直入に言おう。俺たちと来ないか? 人間が神や魔を凌駕する。君の力は、その可能性そのものだ。実に英雄らしい話じゃないか」
……英雄。
昨夜、一誠に尋ねたことが頭をよぎった。最低最悪の魔王でも、ヒーローになれるのか。
映画村で、ヒーローに憧れていた男の子の姿が浮かぶ。けれど、目の前の青年が語る英雄は、私の知っているヒーローとは、どこか違っていた。
それに、あの力は。
「……英雄の力ではありません」
「ほう?」
「あれは、私が一番なりたくない私です」
曹操が、わずかに目を見開いた。
「……なりたくない、か。赤龍帝の《覇龍》すら圧倒する力を持ちながら?」
「はい」
「理由を聞いても?」
「お話しするつもりはありません」
理由なら、昨夜、一誠にだけ話した。今は、それでいい。
曹操は、しばらく私の顔を眺めていた。何かを考えているようだったけれど、それ以上、理由を尋ねてはこなかった。
「なるほど。……力を恐れる者の方が、案外、英雄には向いているものだよ。ますます興味が湧いた」
「……私は――」
「ああ、今すぐは聞かないさ」
口を開きかけた私を、曹操はやんわりと手で制した。
「返事は今夜、待っている。君にも、考える時間は必要だろう」
考えるまでもなかった。九重さんのお母様を連れ去った人たちと、同じ道を歩くつもりはない。
背後から、足音が近づいてきた。一誠だった。曹操たちはその動きを目で追ったものの、止めようとはしない。
「ミライ、こっち来い」
短くそれだけ言って、一誠は私の隣に並んだ。それだけで、十分だった。私は曹操から目を離さないまま、一誠と一緒に皆さんのもとへ下がった。
「その顔を見る限り、色よい返事は期待できそうにないな」
そう言いながらも、曹操はどこか楽しそうだった。
「油断するなよ、お前ら」
アザゼル先生が、曹操から目を離さずに言った。
「こいつは旧魔王派のシャルバなんぞより、よほど厄介だ。危険さで言えば、ヴァーリと並ぶ」
あの白龍皇と、同じ。その一言で、周囲の空気が張り詰めた。
河原の怪物たちは今も湧き続けているのに、英雄派の構成員はほとんど動いていない。それが、かえって不気味だった。
双方が構え直す。私も背後にアストラノヴァを展開し、その長大な銃身を両腕で抱えるように構えた。引き金には、まだ指を掛けない。
その時だった。
両陣営の間に、魔法陣が一つ、光を放って浮かび上がった。
「こいつは……」
アザゼル先生が声を漏らす。光の中から現れたのは、とんがり帽子にマントをまとった、小柄な外国の女の子だった。中学生くらいだろうか。
女の子はくるりとこちらを向くと、深々と頭を下げた。
「はじめまして。ルフェイ・ペンドラゴンと申します。ヴァーリチームに所属する魔法使いです。以後、お見知りおきを」
ヴァーリチーム。ロキとの戦いで肩を並べた、あの白龍皇の仲間。ルフェイという名前は、確かに聞いたことがあった。
「ペンドラゴン……アーサーの身内か?」
「はい。アーサーは私の兄です。いつもお世話になっております」
あの礼儀正しい剣士の、妹さん。言われてみれば、物腰がよく似ている。
そのルフェイさんが、曹操たちの視線など気にも留めず、目を輝かせて一誠へ駆け寄った。
「あ、あの! 私、『乳龍帝おっぱいドラゴン』のファンなんです! 差し支えなければ、あ、握手していただけませんか!」
「……へ?」
一誠が、鎧の中で固まったのが分かった。敵も味方も、全員が呆気に取られている。
「……あ、ありがとう」
差し出された小さな手を、一誠がおずおずと握り返す。ルフェイさんは「やったー!」と、本当に嬉しそうに跳ねた。
思わず、笑いそうになってしまった。
ほんの少し前、映画村で考えていたばかりだ。番組の中のヒーローを、本気で応援している子供たちのことを。まさか、こんな戦場の真ん中で、本物のファンに出会うとは思わなかった。
「……それで。ヴァーリのところの者が、何の用かな」
頭を掻きながら、曹操が尋ねた。ルフェイさんは、満面の笑みのまま答える。
「はい! ヴァーリさまからの伝言です。『邪魔だけはするなと言ったはずだ』だそうです。うちのチームに監視の人を送った、罰ですよ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、足元が大きく揺れた。
「きゃっ!」
「わっ……!」
アーシアと九重さんが、体勢を崩して尻もちをつく。私はアストラノヴァを背へ回し、とっさに屈み込んで九重さんの小さな身体を支えた。
「大丈夫ですか、九重さん」
「う、うむ……」
地鳴りは止まらない。河原の地面が盛り上がって割れ、土砂を巻き上げながら、何か巨大なものが姿を現した。
石とも岩ともつかない、無機質な巨人だった。十メートルはあるだろうか。
「ゴグマゴグか……!」
「はい! 私たちのチームの力持ち、ゴグマゴグのゴッくんです!」
……ゴッくん。
古の神が造った破壊兵器で、本来はすべて機能を停止しているはずのものらしい。少なくとも、アザゼル先生が興奮気味にまくし立てた説明からは、そう聞き取れた。その目が子供のように輝いているのは、見なかったことにした。
巨人が、英雄派へ向けて拳を振り下ろした。
轟音。群れていた怪物たちがまとめて吹き飛び、渡月橋が真ん中から砕け散る。英雄派の人たちは、とっさに跳んで対岸へ逃れていた。
「ああっ! 嵐山の名物が!」
一誠の悲鳴が響く。ついさっきまで、観光客が写真を撮っていた橋だ。作られた空間だと分かっていても、胸の奥が少し痛んだ。
「ハハハハ! ヴァーリはお冠か!」
対岸で、曹操が愉快そうに笑っていた。そのまま、槍の切っ先を巨人へ向ける。
「伸びろっ」
穂先が一直線に伸び、巨人の肩を貫いた。たった一撃で、あの巨体がぐらりと傾き、地響きとともに倒れ込む。足元が、また大きく揺れた。
「ミライさん。あれが《黄昏の聖槍》……神をも殺す、最強の神滅具だよ」
隣へ来た裕斗が、苦い声で教えてくれた。
橋が落ちた以上、向こう岸へ渡るには飛ぶしかない。次の一手を考えていた、その時だった。
その時、対岸の道に、ふらふらと歩く人影が現れた。右へ、左へ。危なっかしい足取りに合わせて、長い銀髪が揺れている。
「……ロスヴァイセ先生?」
「うるさいのよぉ……ヒトが気持ちよく寝てたのに、ドッカン、バッタン、チュドーンって……うるさいんれすよぉ……」
……酔っている。
昨夜、真面目な顔で見回りをしていた人と、同じ人だとは思えなかった。
英雄派の人たちも一瞬呆気に取られていたけれど、相手がグレモリー眷属だと気づくと、すぐに武器を構え直した。
「まずい! あの状態じゃ……!」
一誠が飛び出そうとした、その瞬間。
「なんれすか、やるんれすか? いいれすよ……元オーディンのクソジジイの護衛ヴァルキリーの実力、見せてやろうじゃないれすかっ!」
ロスヴァイセ先生の周囲に、魔法陣が展開された。十や二十ではない。数えきれないほどの陣が、空中で一斉に回転を始める。
「北欧式のフルバースト、くらいなさぁぁぁいっ!」
炎が、氷が、雷が、光が。あらゆる属性の魔法が雨のように降り注ぎ、対岸の家屋も店も、道路も電柱も、跡形もなく消し飛ばしていく。
ロキとの戦いで、その実力は見ていたつもりだった。けれど、酔っている時の方がよほど容赦がない。
九重さんをアーシアのそばへ戻し、私はアストラノヴァを構え直した。九重さんたちが魔法の余波に巻き込まれないよう、周囲へ注意を向ける。
もっとも、魔法の雨がすべて英雄派に届いたわけではなかった。ローブの青年――ゲオルクが手元から霧を生み出し、降り注ぐ魔法を弾いている。霧はそのまま広がり、英雄派の全員を薄く包み込んでいった。
「少々、乱入が多すぎたか。……だが、祭りの始まりとしては上々だ」
霧の向こうから、曹操の声が響く。
「我々は今夜、この京都という特異な力場と、九尾の御大将を使い、二条城で一つ大きな実験をする。ぜひ、止めに来てくれ」
アーシアのそばで、九重さんの肩がびくりと震えた。
二条城。昨日、忍術研究部の皆さんと訪れたお城だ。鶯張りの廊下を、ミチルさんが楽しそうに歩いていた場所。
「それと、君」
曹操の視線だけが、こちらを向いた気がした。
「今夜、二条城で待っているよ」
私は、何も答えなかった。どこからか、小さな笑い声が聞こえた。
霧が足元から胸元へ、そして顔の高さまで迫ってくる。
「お前ら、空間が元に戻るぞ。武装を解いておけ」
アザゼル先生の声に、私はアストラノヴァを消した。結局、一度も引き金を引くことはなかった。
視界が、白く塗り潰される。
一拍おいて霧が晴れた時、そこには大勢の観光客がいた。
橋の上を人々が行き交い、河原では家族連れが写真を撮っている。渡月橋は、傷一つなくそこに架かっていた。ルフェイさんの姿も、あの巨人も、どこにもない。
まるで、何もなかったかのようだった。
――ガシャン、と鈍い音がした。
振り向くと、アザゼル先生が電柱を横殴りにしていた。
「ふざけたことを言いやがって……京都で実験だと? 舐めるなよ、若造が」
これほど怒った先生を見るのは、初めてかもしれない。
「……母上は……母上は、何もしておらぬのに……どうして……」
九重さんが、小さな身体を震わせていた。
一誠はその傍らにしゃがみ込むと、何も言わず、九重さんの頭を優しく撫でた。九重さんは小さな手で、一誠の服をぎゅっと握りしめていた。
私は、その光景を少し離れた場所から見つめていた。
観光客の笑い声が、すぐ近くから聞こえてくる。ほんの少し前まで、私もその中の一人だった。
今夜、二条城で。
穏やかな川面に照り返す午後の日差しが、やけに眩しかった。