UA20000超えておりました。読者の皆様、ありがとうございます。
「あの時よりも、更に強くなったのね」
美しい声色の呟きが、たった一人の少年に向け落とされた。
遥か下方に見える小さな白い影は、前方を走るもう一つの栗色の影を追い、走ってその場を去って行った。彼女はそんな一瞬の出来事にさえも、熱い視線を向けている。
黒を纏う雲が動き、闇夜に浮かぶ月が暗黒に包まれる室内を照らした。壁一面に広がる長方形の硝子から、月光が差し込み、彼女の姿を浮かび上がらせた。
空を写したかのような黒いドレスに包まれた、細身でありながら豊満な体つき。腰まで届く程の銀の長髪が、結晶を散りばめたように輝いている。
「でも、まだまだ輝ける……」
彼女──フレイヤは白い影に触れるように、己を映す硝子に手を伸ばした。
「貴方には期待しているわ。……だから、もっと輝いてね」
迷宮都市の象徴たるバベルの最上階から、部屋の主たるフレイヤは白い影──ベルを見下ろしていた。
その紫紺の瞳には深い情愛と、己より劣位の存在との間で発生する絶対優越が存在していた。
フレイヤはベルに執念していた。些事を捨て、いっそ火のついた痴情を解き放ってもよい程に、美の女神は一人の少年に夢中となっていた。
フレイヤの眼は『魂』の
ベルを目にしたのは偶然ではなかった。
フレイヤは知っていた。神友であるハトホルが、団員達と共に都市外に訪れていた理由が、ベルに会う為だと。正確に言うなら、誰かに会いに行っていたことは分かっていたが、それがベルだと知ったのは、ベルが都市に訪れてからだ。
それもまた偶然のことだった。数ヶ月の時間を置き、都市外に発つハトホル達を覗き見していた時だ。フレイヤはその時、グランが持っていた物──一振りのナイフを見た。フレイヤでも分かる、ナイフが駆け出し用の武器であると。グラン程の冒険者が扱う一品ではなく、持ち歩く物でもない。それに気付いた瞬間、都市外に向かう理由がナイフを渡す為──誰かに会うことだと感じた。
だからなのか、フレイヤはその日以降、都市の門をよく見るようになっていた。武器を渡しているならば、いつかこの都市に来るのかもしれない。冒険者を──『英雄』を目指しているかもしれない。そんな可能性に期待していたある日、遂にその日は訪れた。
ベルの姿を、『魂』の色を見た瞬間、感じ取った。あの少年がハトホル達が会っていた子なのだと。同時に、欲しい。その思いが体を支配した。
久しく感じていなかったあの感覚。全身が興奮でぞくぞくと震え、下腹部は疼き、恍惚の吐息が絶え間なく喉の淵から溢れ出てくる。これまでと同じように、アレを自分のモノにしたいと、醜さと子供のような純粋な願望が渦巻く。
あの透明な色がどう変わるのか、それとも透き通ったままなのか。しばらく様子を見たくなった。自分色に染め上げるのは一興だが、経過を見てからでも遅くはないような気がする。
「貴方がどんな風に変わるのか楽しみで、私のモノにしたいけど……複雑ね、来ないでほしくもある。今この時こそが、一番胸の躍る時なのかもしれない」
きっと今までがそうであったように、手に入れた後はいずれ関心が希薄となり、ベルのことを飽きてしまうのだろう。最初に感じていた期待と喜びは摩耗し、感情は劣化していく。
それが虚しい、とはフレイヤは思わない。愛とはそういうものであり、そして彼女は愛の女神なのだから。
だから今は、眺めるだけにしよう。お気に入りのものや、戸棚に飾る
「……でも、そろそろ『魔法』は使えてもいいかもしれない」
フレイヤの『眼』は他神の【ステイタス】を看破出来るわけではないが、色と輝きの具合を見ておぼろげに見当をつけることは出来る。
「これがいいわね」
そう言いながら、フレイヤは部屋の隅に鎮座している本棚から一冊を手に取った。頁をめくり中身を確認すると、フレイヤは満足そうに頷いた。
「オッタル」
「はっ」
入り口の扉の横で待機している眷属の名を呼ぶと、厳めしい声がそれに応える。彫刻のように立つ彼は、主人であるフレイヤの言葉を番犬の如く待つ。
「この本をあの店に……いえ、ハトホルのもとに届けてちょうだい」
「よろしいのですか?」
オッタルの疑念は当然だった。自分達が姿を見せれば当然ハトホル達は警戒だろう。その懸念を伝えるオッタルだが、フレイヤは微笑みながら答える。
「構わないわ。謝礼品ということを、ハトホルに伝えてちょうだい。お願い出来るかしら」
「は」
オッタルは短い返事で拝命し、フレイヤの手から一冊の本を受け取った。フレイヤはありがとう、と口にし、再び窓の外を眺めた。
フレイヤの視線を感じたのか、ベルは身じろぎしながら周囲を見渡していく。そんな様子にも、フレイヤは愛おしそうに見つめている。
薄暗い部屋の中、フレイヤは従者に見守られながら妖艶な笑みを浮かべている。
【ハトホル・ファミリア】
団員達が受けた
(もうお昼……書類仕事をしてると、時間があっという間に経つわね)
時計が刻んでいる時刻を確認すると、気付けば昼近くになっていた。窓から差し込む暖かな光が気持ちよく、ネルティは小さなあくびをしてしまった。机の上には片付けた書類が左右に置かれ、見やすいように纏められている。
今日の殆どの仕事を終わらせたネルティは、休憩に入ろうと席を立ちあがり、食堂に向かおうとした直後。
「ね、ネルナッティ様っ!大変です‼」
勢いよく扉を開ける同胞の団員の声に、ネルティの体が震え、瞠目した瞳で彼女に声をかける。
「どうしたの?そんなに慌てて……」
何があったのか、同胞の彼女の額には汗が流れており、少し呼吸が乱れている。
「そ、それが……!つい先程、
「……オッタルが?」
団員から告げられた二つ名に、ネルティは思わず訊き返してしまった。それぐらいオッタルの来訪は予想外であり、驚くものだった。
「は、はい。ハトホル様に会わせてほしいとのことでしたが、ハトホル様は不在ですし、団長もですので、ネルナッティ様にご連絡をと……」
団員が慌てるのも仕方ない。都市の頂点たる派閥の一つ【フレイヤ・ファミリア】との関係は、【ロキ・ファミリア】程良い関係ではない。
フレイヤの眷属──その中でも幹部に位置する第一級冒険者達は、度々グランと衝突することが多く、ネルティも巻き込まれたりしていた。特に
(今オッタルが訪れた理由……先日のフィリア祭のことかしら?)
フィリア祭での出来事はネルティも聞いている。ベルを見たいが為にモンスターを脱走させ、間に入ろうとしたグランにオッタルを向かわせた。
そのことに対し、事を大きくしたくないグランは周囲へ伝えることはせず、ハトホルとネルティ二人の間で留まらせた。
(今更その事で来るかしら……?でも。わざわざオッタルが訪れたのだから、何かはありそうだけど……)
「あ、あのネルナッティ様……どうなさいましょうか?」
「取り敢えず、私が対応するわ。オッタルはどこにいるの?」
団員の声で思考を止めたネルティは、団員にオッタルの所在を聞いた。
「客室にご案内しようかと伝えましたが、断られてしまい、
「わかったわ、ありがとう。他の団員は近づけないで」
「かしこまりました!」
報告に来た団員に感謝を告げ、ネルティは執務室を後にする。そのまま迷うことなく階段を降り、玄関まで向かっていく。道中事態を知った団員達が不安げな視線を向けるが、ネルティは安心させるように微笑んで頷いた。
玄関前に辿り着き、扉を開ける。ネルティの眼前には二Мを超す体躯に、巌のような顔、錆色の髪と耳を携えるオッタルの姿が。
「それで、ここに来た理由をきいてもいいかしら?」
「これを、ベル・クラネルに渡してくれ」
「これは……!」
ベルの名を出されたこともそうだが、オッタルが差し出した物にもネルティは驚きを見せた。
深紅の革表紙には、金糸を思わせる繊細な装飾が施され、中央には紋章のようなものが刻まれている。蔦のように絡み合う金の模様は、生きているかの如く優美な曲線を描いている。
(『
『
魔法の強制発動書とも呼ばれるもの。発展アビリティの『魔導』と『神秘』を持つ者──Lv.3以上の【ファミリア】構成員が執筆することで作成される品。一回読んでしまうと効果が消滅し、
「これを、どうしてベルに?」
「フィリア祭での謝礼品だと、フレイヤ様は仰っていた。俺はそれを届けたに過ぎん」
そう言って去ろうとするオッタルの背に、ネルティは思わず声を飛ばした。
「神フレイヤは、ベルをどうしたいの?」
純粋な疑問だった。今までのフレイヤならば、気に入った子を奪うことを容易に行っていた。だが今のフレイヤはそれをせず、贈り物までしている。そのことがネルティにとっては奇妙に感じてしまっている。
「……俺から言えることは何もない」
一切表情に変化を見せず、淡々と答えるオッタルの姿に、これ以上の詮索は無意味だとネルティは悟った。
「そう……わかったわ。これはベルの為にもなるし、ちゃんと渡しておくわ」
ネルティの返事を聞き、オッタルは満足したのか、無言のまま振り返り
(相変わらず何を考えているか分からないけど、これを届ける以外の意図はなさそうね)
フレイヤの神意を絶対とするオッタルは、フレイヤが命じたこと以外に手を出すことはしないだろう。それを知っているネルティはオッタルを呼び止めることはせず、野次馬となっている団員達と共に
それからネルティは一人
(確か今の時間はヘスティア様がお仕事中で、いるのはベルだけだったわね)
それはフィリア祭より前のこと。ヘスティアがヘファイストスに武器の制作を依頼し、一振のナイフを受け取った。その代金の支払いを、ヘスティアはヘファイストスの下で働くことで支払おうとしているのだ。アルフィアの遺産を使い、グラン達が代わりに支払おうとしたが、ヘファイストスは頑固と断り、ヘスティアも自身で返済すると聞かなかった。ヘスティアの思いを無下には出来ず、グラン達は了承することとなった。
少し前のことを思い出しながら、ネルティは教会の扉を開き、内部に入っていった。
「あ、ネルティさん!お久しぶりです」
「ええ、久しぶりね。元気そうでよかったわ」
中ではベルが掃除を行っており、両手で箒を持っていた。そんなベルにネルティは声をかけ、ベルは笑みを浮かべながらネルティの方に振り向いた。
「今日はどうしたんですか?」
「ベルに、贈りたい物があるの。今時間は大丈夫?」
ネルティは鞄にしまっていた
「それはね、
「ま、『魔法』を⁉それは凄いですね……。でも、そんな貴重な物を僕にいいんですか?」
「ええ、あなたの為になると思って用意したの。何も考えずに受け取ってちょうだい」
これがフレイヤの物だとは言えるわけもなく、自分達が用意したのだと伝えるしかなかった。今のベルにフレイヤ達の存在を教えることは、彼の冒険者活動に余計な混乱を招くだけだ。それが分かっているネルティは、フレイヤ達の存在を隠し、ただ受け取った物をベルに渡すことにした。
「……ありがとうございます。これって、読むだけでいいんですよね?」
「そうよ。時間があるようなら、この後にでも読んでちょうだい。【ステイタス】を更新した時には、『魔法』が発現していると思うから、期待しているわ」
そう言い残し去ろうとするネルティに、ベルは頭を上げた後に言葉を続けた。
「はい。ありがとうございます」
ベルに見送られながらネルティは教会を後にし、日差しが照らす道を歩き
ネルティが
理由は今日の昼間に起こった、オッタルの来訪、そして、フレイヤからの
「フレイヤがねー」
「はい。謝礼品ということで、それ以上の要件はありませんでした」
「まあ、フレイヤの指示だったら、それ以上のことはしないよねー」
自身と同じ考えを口にするハトホルに向け、ネルティは静かに頷き、再び口を開いた。
「ベルにとって害のある事ではなかったので、すぐさまベルに渡しましたが……正直、神フレイヤが何をしたいのか分かりません」
オッタルに問うても答えを得られず、自身で考えても神の思考など分かる筈もない。故に、ネルティは同じ神であるハトホルに尋ねた。
「難しく考えなくていいよー。確かに今までのフレイヤからすれば予想外だけどー」
ハトホルは手元のカップを口に運び、注がれた紅茶を飲む。その様子を見ながら、ネルティは静かに次の言葉を待った。
「様子見か、観察じゃないかなー。ベルがこの先どう変化するのか、引き込むのはその後にしようとしてると思うよー」
「つまり、見極めようとしているのですか?」
ハトホルの出した結論に、ネルティはたまらず言葉を返した。眷属の言葉にハトホルは頷き、肯定の意を示した。
「多分、フレイヤのとって例外なこと──ベルの存在がそうで、今判断を下すのは早計だと考えたんじゃないかな」
「ベルの出自に気付いたということですか⁉」
ベルの出自を知っているのは、この場の二人とグラン、そして一柱の旅の神。もしフレイヤがその事実に気付いたのなら、ベルを狙う理由にも納得がいく。ネルティは瞬時にそう判断し、声を荒げ聞き返した。
「それはないよ、ネルティ。フレイヤの『眼』は確かに凄まじいけど、子供の過去まで見えるわけじゃない。多分、『魂』のことだと思うよ」
「『魂』ですか……?それはどういう意味ですか?」
ハトホルは説明した、フレイヤの『眼』は子供達の『魂』の
それは神々の間で禁止と取り決められた絶対無比な『
「ベルが、フレイヤにどう見えたのか分からないけど……あの子の過去のことは心配ないよ」
「そうでしたか……」
「でも、油断は出来ないよ」
気を緩めたネルティの背が、再度伸びる。
「フレイヤの気が変われば、すぐにでもベルに手を出そうとするかもしれない……今のところは、違うらしいけどね」
ハトホルの言う通りだ。ベルの過去が知らされていないだけで、依然ベルが狙いであることは変わらない。
「だから、気をつけた方がいいかもね」
「はい」
ハトホルは窓の外──巨塔を見上げながらそう呟いた。