恋愛じゃないのに、これは絶対NTRだろ——幼馴染の「声」だった俺の話 作:颯夏
放課後の文芸部室に、まだ誰も来ていなかった。
窓から差し込む西日が長机を橙色に染めている。壁際の本棚には部誌のバックナンバーが並び、一番奥の二段だけが賞状と盾で埋まっていた。並んでいるのは同じ名前だ。作・汐見言、朗読・篠宮律。二年連続で青嵐文学祭の創作朗読部門をとった、うちの部の看板コンビ。
そのうちの片方が、半年後には消えるなんて、このときの俺は考えもしなかった。
扉が開いた。振り返らなくてもわかる。足音の間合いと、俺の袖を二回引く指の力加減で。
「できたのか」
言はこくりと頷いた。前髪が揺れて、俯いた顔は見えない。差し出された紙の束は、印刷したばかりで少し温い。
俺は一番手前の机に原稿を置いて、ページを繰った。印字された文字の横に、細いシャープペンシルの書き込みが並んでいる。ここ、ゆっくり。息継ぎ、ここ。この行、少し強く。言の字だ。俺が読むためだけの指示が、余白を埋めている。
「新作か」
また頷いて、言は俺の袖から指を離した。隣の椅子に座り、膝の上で手を組んで、それから顔を上げる。はじめて、という合図だった。
部員が集まるまであと十五分ある。俺は一行目に目を落とし、口の中で一度だけ文章を転がした。無意識の癖だ。文字を舌に乗せて味を確かめてから、声にする。
「『水槽の底で』。汐見言」
タイトルを読むと、隣で言が小さく息を吸った。
透明な壁で隔てられた世界の話だった。ガラス越しに誰かの声を聴こうとする高校生の話。言の作品にしては珍しく一人称で、途中に「ここ、息を継がずに」という書き込みがあった。二行にわたる長い一文を、俺は一息で読み切った。肺が空になって視界の端が白む。その瞬間、言が身を乗り出したのがわかった。彼女は難しい注文を出したあと、いつもこうして俺の喉のあたりを見る。
読み終えて原稿を置くと、いつの間にか部員が揃っていた。三年が二人、同級生が三人。拍手が起きる。言は俺の背中に半分隠れて、申し訳なさそうに頭を下げた。拍手は彼女に向いているのに、彼女は俺の陰から出てこない。
「汐見さん、今回のもよかった」
「最後の一行、ずるいよ」
言は俯いたまま何度も頷く。俺は原稿をクリップで留めて差し出した。彼女はそれを胸に抱える。自分の書いた紙が、自分の手に戻る。
「篠宮、今日の読みキレてたな。あの一息のとこ」
同級生が肩を叩いてきた。俺は曖昧に笑って返す。褒められて悪い気はしない。ただ、この原稿を一番うまく読めるのは俺だ。息継ぎも強弱も間も、全部、俺が読みやすいように言が設計している。うまく読めて当たり前で、それは俺の技術というより、設計図の精度の問題だった。
「あの」
入口で声がした。忘れていた。転入生が立っている。
「春名ひかりです。今日から文芸部にお世話になります。よろしくお願いします」
よく通る声だった。姿勢がまっすぐで、目線を逸らさない。言とは正反対の種類の人間に見えた。部員が拍手して、三年が部の説明を始める。言は俺の背後にすっかり隠れた。新しい人が来ると、いつもこうだ。
説明が終わると、春名はまっすぐ歩いてきた。正確には、俺の後ろの言のほうへ。
「汐見さんの小説、部誌で読みました。『藍を重ねる』と『夏の日を閉じ込めて』。さっきの新作も、途中からですけど聴きました」
言が俺の背中に顔を押しつける。困ったときの合図だ。俺は口を開こうとした。
「私、汐見さんの小説、世界で一番好きになる予感がします」
部室の空気が一瞬止まった。お世辞にも計算にも聞こえなかった。ただ思ったことをそのまま口にした、という言い方で、その素直さが俺の割り込む隙をふさいだ。
言が、ゆっくり横に一歩ずれた。
俺の袖は、もう掴んでいなかった。
彼女は俯いたまま口を開いた。喉が震えるのが隣から見えた。唇が形を作ろうとして二度失敗し、三度目でようやく空気が声になる。
「……ありがとう、ございます」
掠れて、小さくて、それでも確かに彼女自身の声だった。
部室がざわついた。三年が「汐見が喋った」と驚き、同級生が「声出たじゃん」と笑う。春名は目を細めて「こちらこそ」と頭を下げた。
俺も笑った。ちゃんと笑えていたと思う。喜ぶべきことだった。言が、俺を通さずに、自分の声で礼を言った。十年かけてできなかったことを、春名の一言が引き出した。
俺は机に戻って、さっきの原稿をもう一度手に取った。もうクリップで留めてある。留め直す必要はない。それでも俺は、クリップを外して、また同じ場所で留めた。指が勝手に動いていた。二度目のクリップは、一度目と同じ位置に、同じ音でとまった。
片付けを終えて部室を出ると、廊下で担任の坂口に呼び止められた。三年の学年主任で、進路指導に熱心な教師だ。生徒一人ずつと向き合おうとする熱が、逆にこっちの逃げ道をふさぐタイプだった。
「篠宮、進路希望調査、まだ出てないのお前だけだぞ」
「すみません、忘れてました」
「忘れてたで済むか。期限から一週間経ってる」
坂口は腕を組み、少し声を落とした。廊下にはもう人がいない。
「お前さ、いつまで汐見の付き添い係をやるつもりだ」
俺は答えなかった。
「立派なことだよ。小学校からずっとだろ。あの子が学校に来られるようになったのもお前のおかげだって、前の担任から聞いてる。でもな、お前自身はどうしたいんだ。進路、白紙のままじゃ動けんぞ」
「考えてます」
「考えてるなら書けるだろ」
言葉に詰まった。坂口はため息をついて、俺の肩を一度叩いた。
「今週中に出せ。やりたいことがわからなきゃ、わからないなりに相談に来い」
足音が遠ざかって、消えた。
廊下の突き当たり、図書室へ続く曲がり角の向こうで、何かが動いた。音ではなく気配だった。上履きの白い爪先が一度だけひたりと動いて、止まる。俺が目を向けたときには、もう何もなかった。
風か、見間違いか。確かめる気にはならなかった。俺は誰もいない廊下をもう一度歩いて、部室に戻るふりをして、そのまま昇降口へ向かった。
翌週の部会で、顧問の田村が一枚のプリントを配った。青嵐文学祭の参加要項だ。毎年この時期に出る。俺たち二年は三度目の参加で、今年も創作朗読部門に出るつもりでいた。言の新作は書き上がっている。あとは手続きだけだった。
「今年からいくつか規定が変わってる。全員目を通しておけ」
田村は眼鏡を押し上げて淡々と言った。国語科で、顧問になって十年。熱心な指導はしないが、必要なことはきちんとやる。部員からの信頼は厚い。
プリントには各部門の要項が並んでいた。小説、詩、評論、そして——
「創作朗読部門が、ない」
声を出したのは三年だった。全員がプリントを二度見した。その項目が消え、代わりに新しい枠がある。
「自作自読部門。作者本人の朗読のみ、応募可」
田村が補足する。
「今年から、朗読を伴う作品は作者自身が読むのが条件になった。外部の読み手を使う形式は廃止だ。作品と朗読の一体性を重視する、と。主催者の方針でな」
部室が静まった。全員が、言を見ないようにして言を見ている。二年連続で王者になったコンビの、片割れだけが弾かれる規定だった。
俺はプリントを置いた。指先が震えた気がしたが、気のせいかもしれない。
言は俯いて、原稿用紙の端を指でなぞっていた。横顔からは何も読めない。紙をなぞる音だけが静かな部室に落ちている。
「どうする」
三年が天井に向けて放るように言った。
「規定なら、仕方ないんじゃないですか」
同級生が慎重に言う。
「でも汐見さん、人前で読むの無理だろ。今まで篠宮が代読してたから出られてたわけで」
「無理って決めつけるのは」
「決めつけじゃなくて、十年間の事実だろ」
声が遠くで聞こえた。俺は何も言わなかった。出ようとも、やめようとも、言える立場じゃない。
「汐見はどう思う」
田村が直接尋ねた。空気がまた止まる。全員が、今度は見ないふりをせずに言を見た。
言は何度か唇を動かした。声にはならない。それから彼女は、隣の俺のほうを向いた。目が合う。何か言いたそうだったが、意味はわからなかった。
言が俺の袖に手を伸ばした。
指先が布に触れる。そのまま彼女は——手を引っ込めた。
袖は、引かれなかった。
言は立ち上がり、田村に一礼して部室を出ていった。扉が静かに閉まる。誰も追わなかった。追うべきかどうか迷っているうちに、足音は廊下の向こうへ消えた。
「今日はここまでにしよう」
田村が言い、部員がばらばらと片付け始める。俺は最後まで残って、机の上の要項をもう一度手に取った。その下に、俺の鞄から半分はみ出した進路希望調査の紙が見えた。名前とクラスの欄だけが埋まって、あとは白い。さっき言が座っていた席から、ちょうど見える位置だった。俺は紙を鞄の奥に押し込んだ。
創作朗読部門は廃止。作者本人の朗読のみ応募可。作品と朗読の一体性を重視する。
三度読み直した。例外規定も、経過措置も、救済策も、どこにもなかった。
十年かけて上手くなった俺の朗読は、規定の一行で、出場資格を失った。