恋愛じゃないのに、これは絶対NTRだろ——幼馴染の「声」だった俺の話   作:颯夏

2 / 3
練習

 規定変更の知らせがあってから最初の土曜、俺は目覚ましが鳴る前に起きた。

 

 体が軽い。昨夜はいつもより早く布団に入って、夢も見ずに眠った。カーテンを開けると外はよく晴れていて、電線に鳥が二羽止まっている。なんでもない朝だった。

 

 朝食のあいだ、今日の予定を考えた。午前は部活、午後は特にない。いつもなら原稿の読み込みをするが、今日はそれがない。文学祭に出ないなら、新作の準備を急がなくていい。

 

 そこで箸が止まった。

 

 今年は出ない。規定が変わった。言が自作自読をするのは現実的に難しい。つまり今年も、これまで通りだ。言が部誌に書いて、俺が部内で読む。二人の形は変わらない。

 

 俺は味噌汁を飲み干した。言のために、これまで通りが一番いい。そう考えたとき、胸の奥のどこかが軽くなった。その軽さがどこから来たのか、確かめる前に俺は席を立った。茶碗を流しに運び、蛇口をひねる。水の音が、やけに大きく耳に響いた。

 

 部室に行くと、言と春名が来ていた。

 

 机を挟んで向かい合い、言が俯いて何か書いている。春名はそれをじっと見て、時折声をかけていた。俺が想像していた「いつもの部活」とは違う光景だった。

 

「篠宮先輩、おはようございます」

 

 春名が顔を上げて笑う。言も気づいて頭を下げた。袖は引かれなかった。

 

「早いな」

 

「汐見さんに、前の部誌の短編を読ませてもらってたんです。ラストの三行、すごくいいですよね」

 

 先週俺が読んだ新作のことだった。確かにいい作品だ。言にしか書けない。俺はそれを指示通り読み上げただけだ。

 

「先輩の朗読も聴きたかったな。あの最後のところ」

 

「大したことじゃない」

 

「そんなことないですよ。汐見さんの原稿、余白に書き込みがたくさんあって、最初は何かと思ったんですけど、読み方の指示だったんですね。あれを全部再現してるって、すごいことです」

 

 言の書き込みに気づいたのか。観察力は思っていたより鋭い。俺は笑って、窓際の席に座った。言の隣ではなく、少し離れた場所に。

 

 部活が始まる前、春名が改まって切り出した。

 

「みなさんに提案があります。文学祭のことなんですけど」

 

 視線が集まる。三年が腕を組み、同級生が顔を上げた。

 

「汐見さん、自作自読部門に出ましょう。汐見さんの声で」

 

 部室が静まった。先週と同じ種類の沈黙に、困惑が混じっている。

 

「無理だろ」と三年が口を開いた。「汐見が人前で声を出せないの、春名だって知ってるだろ」

 

「はい。でも、練習すればできるかもしれない。私、中学のとき、似たような経験があって」

 

 春名の声は落ち着いていた。押しつける強さも、引く様子もない。彼女は言のほうを向き、少し屈んで目線を合わせた。

 

「汐見さんが本当に嫌なら、無理にとは言いません。でも、少しでも出たい気持ちがあるなら、私、手伝いたいです」

 

 言は俯いたままだった。前髪に隠れて表情は見えない。指先が原稿の端をなぞっている。迷っているときの癖だ。

 

 俺は、言がどうするかわかっているつもりだった。彼女は新しい人が苦手だ。人前で声を出すなんて、もっと無理だ。十年間そうだった。だから首を振る。そして俺の袖を引く。いつものように。

 

 言が顔を上げた。

 

 そして、俺の袖を引かずに、春名に向かって深く頷いた。

 

 ざわめきが走った。三年が「正気か」と呟き、同級生が顔を見合わせる。俺は窓枠に寄りかかったまま、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。

 

 春名だけが、静かに微笑んでいた。

 

 練習は翌日から始まった。

 

 最初は俺も部室の隅にいた。言が声を出す練習をするなら、一番近くにいる俺が手伝うべきだと思った。放課後になると、何も言わずにいつもの窓際に座った。

 

 言が原稿を手に机の前に立つ。春名が少し離れて見守る。言が口を開く。最初の一文字が空気を震わせる前に消える。もう一度開く。息だけが漏れる。三度目、かすかな声が一文を作って、二文目で詰まる。彼女の目が、無意識に俺を探した。

 

 俺は軽く頷いて、手本を読んだ。

 

「『八月の終わり、僕は海を見に行くことにした』」

 

 声はよく通った。言の言葉が俺の声で部室に満ちる。言はそれを聴いてから、同じ文を口にする。今度は少しスムーズだった。俺の声をなぞるように。

 

「そうそう、いい感じです」と春名が言う。

 

 続けて言が次の文で詰まる。目が俺を探す。俺が読む。彼女がなぞる。俺が読む。彼女がなぞる。何度も繰り返した。繰り返すうちに、俺の中で何かが引っかかっていく。この光景は、俺たちがずっとやってきたことに似ていた。誰かの言葉を声にする。ただ今回は、俺が読んだあとに言がもう一度読む。工程が一つ増えただけだ。

 

 三度目の練習の日、春名が言った。

 

「先輩、少しお話が」

 

 練習のあと、言は部室の外で待っている。俺と春名だけが残った。春名は言いにくそうに、でも目を逸らさずに言った。

 

「先輩がいると、汐見さん、先輩の声に帰っちゃうんです」

 

 俺は何も言わなかった。

 

「先輩がお手本を読むと、汐見さんはすごく上手に真似できる。でもそれは、自分の声じゃなくて先輩の声の再現なんです。先輩は素晴らしい朗読者です。でも今、汐見さんに必要なのは、自分の声を見つけることで」

 

 春名は一気に言って、それから小さく頭を下げた。

 

「すみません。私が言う資格、ないかもしれない。先輩は十年も汐見さんの声をやってきたのに」

 

「だよな」

 

 俺は笑った。笑うしかなかった。春名の言うことは正しい。反論の余地が一ミリもない。観察は正確で、提案は誠実で、言の成長を願っている。だから何も返せない。

 

「悪い、気を回させて。俺がいないほうがいいなら、そうする」

 

「すみません。本当に、嫌な言い方して」

 

「全然。お前の言う通りだよ。言のためなら、それがいい」

 

 俺は部室を出た。廊下で言とすれ違う。彼女が不安そうに見上げてくる。俺は「ちょっと進路の話だ」と言って手を振った。言は少し迷う顔をして、部室に戻っていった。

 

 歩きながら、誰も俺を呼び止めなかったことを、頭の隅で数えていた。春名も、言も。それが正しいからだ。正しいから、誰も間違っていない。廊下の突き当たりまでの距離が、やけに長かった。

 

 それからは練習に参加しなくなった。

 

 放課後は図書室で時間をつぶすことが増えた。本を読むわけでもなく、机に座って窓の外を眺めているだけの時間が多かった。図書室の窓からは部室棟が見えるが、俺はそちらを見ないようにしていた。

 

 耳は塞げなかった。

 

 図書室と部室は同じ棟で、静かな放課後には音が思いのほか遠くまで届く。廊下の向こうから、言の声が聞こえてくることがあった。詰まりながら、途切れながら、それでも紡がれていく言葉の断片。最初は一文がやっとだったのが、二文になり、三文になり、小さな段落を読めるようになっていた。

 

 ある日、図書室のドアを閉めようとして手が止まった。廊下の向こうの声に、聞き覚えのあるリズムがあった。

 

 言が読んでいたのは、去年の文学祭で俺が朗読した『夏の日を閉じ込めて』だった。彼女が書いて、俺が声を当てた作品。その一節を、彼女は今、自分の声で読んでいる。間の取り方が、俺の癖に似ていた。強調する箇所も、息継ぎの位置も、俺がいつもやっていた通りだった。

 

 俺はドアを閉めた。音を立てないように、ゆっくりと。

 

 聴いてはいけない気がした。でも聴かずにいられなかった。彼女の声の中に俺の痕跡を見つけて、俺は少しだけ安心していた。安心した自分を、うまく見ないようにした。

 

 家に帰って、机の引き出しを開けた。白紙の進路希望調査が入っている。もらってから二週間以上経つのに、名前とクラス以外は空欄のままだ。

 

 坂口の声が耳の奥で反響した。お前自身はどうしたいんだ。

 

 どうしたいのか。考えようとするたびに頭が白くなる。汐見言の声。それが俺の輪郭だった。幼稚園から、ずっと。彼女の言葉を声にすることが役割で、それ以外の自分を考えたことがなかった。将来の夢、希望する進路、やりたいこと。欄を埋める言葉が、一つも浮かばない。俺の中には彼女の言葉しかなかった。原稿の余白の「ここ、ゆっくり」「息継ぎ、ここ」だけが、俺の手に取れる道標だった。

 

 もし言が、自分の声で読めるようになったら。あの書き込みを書いてもらう相手が、もう俺じゃなくなる日が来るのか。

 

 俺はペンを置いた。白紙の調査書を引き出しの奥に戻した。

 

 それから一週間が経った。

 

 言の声は日ごとに確かになっていった。まだ人前で読むには拙いが、最初よりは格段に上達している。春名の指導は的確で、言も必死に応えているのがわかった。俺は部活には顔を出した。部会にも出て、部誌の編集も手伝った。言とは相変わらず隣の席で、彼女が書いているあいだ、俺は別の作業をしていた。会話は減った。袖を引かれることも減った。

 

 夜、スマートフォンが震えた。汐見言。

 

 彼女が文字を寄越すのは年に数回だ。電話が苦手で、メッセージもあまり打たない。必要なことは原稿の余白に書くか、俺の袖を引いて伝える。メッセージは短かった。

 

「りつに、おねがいがある」

 

 俺はしばらく画面を見つめた。句読点もない一行。それを読んだとたん、胸のあたりが重くなった。

 

 おねがいの中身はわからない。練習に付き合ってほしいのか。手本を見せてほしいのか。まったく別の何かか。わからないのに、指先が冷たくなっていく。

 

 返信を打とうとして、指が止まった。「いいよ」と打っては消し、「何を」と打っては消す。どれも正しい言葉に思えなかった。画面が暗くなって、俺はスマートフォンを机に置いた。

 

 頼まれることが、こんなに怖いのは初めてだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。