恋愛じゃないのに、これは絶対NTRだろ——幼馴染の「声」だった俺の話 作:颯夏
「りつに、おねがいがある」というメッセージを受け取った夜、俺はよく眠れなかった。
布団に入ってから、何度もスマートフォンを手に取ってその一行を読み返した。彼女が文字を送ってくるのは年に数回で、いつもはもっと端的だ。原稿できた、明日休む、要件だけを最小限で済ませる。それが今回は「おねがい」で、平仮名で、句読点もない。
俺は「いいよ」と返した。何を頼まれるのかは聞かなかった。言の頼みなら断る理由がない。それが俺の役割だ。そう自分に言い聞かせて、スマートフォンを枕の下に押し込んだ。
目を閉じると、自分の心臓の音が大きく聞こえた。頼まれるのが怖いのに、頼まれたい。彼女がまだ俺を必要としていると、もう一度確かめたかった。そう思う自分に気づいて、俺は寝返りを打った。
翌日、言から「図書室で待ってる」とだけ連絡があった。放課後、俺は部室に寄らずに図書室へ向かった。
数人が自習していて、司書の先生が返却本を棚に戻している。奥の窓際、日当たりのいい席に言が座っていた。前には一枚の紙が裏返しに置かれている。俺が近づくと、言は顔を上げて、隣の椅子を軽く叩いた。袖は引かなかった。
「おねがいって、なに」
普段通りの声を出したつもりだった。
言は俯いて、机の上の紙を表に返した。手書きの文字。彼女が手で書くのは、俺にだけ見せるものに限られる。
『ほんばん、聴きに来てほしい。一番前の席で』
俺はそれを二度読んだ。一度目は意味を理解するために。二度目は、そこに「手伝って」がないことを確かめるために。
「練習に付き合えとか、じゃなくて」
言は首を振った。それからもう一度、同じ文字を指さした。一番前の席で。そこだけを強調するように、指先が小さく震えていた。
「わかった」
自分の声が、他人のものみたいに聞こえた。
「もちろん行くよ。一番前で聴く」
言が顔を上げた。前髪の間から、まっすぐ俺を見ている。何か言いたそうに唇が動いたが、声にはならなかった。代わりに、小さく一度だけ頷いた。
図書室を出てから、しばらく廊下を歩いた。歩きながら、さっきの自分の声を頭の中で聞き返した。もちろん行くよ。あれはちゃんと笑えていただろうか。
俺が期待していたのは、練習に付き合ってという言葉だった。彼女が俺を必要とする、具体的な頼み事。そうすれば俺は、まだ彼女の声でいられた。その期待が外れて、俺は自分の足元が思ったより頼りないことを知った。
進路の件で坂口に呼ばれていたのを思い出して職員室に行くと、坂口は会議で席を外していた。代わりに顧問の田村が俺に気づいて声をかけてきた。
「篠宮、文学祭の件は聞いたか」
「規定変更のことですか」
「それもあるが、汐見がエントリーした。知ってるだろう」
「はい。まあ」
「あの子、ずいぶん前から練習してたらしいな。春名の家で発声の特訓をして、市の朗読サークルにも通って」
俺は田村の顔を見た。
「前、というと」
「規定が変わるより前からだそうだ。春名が来てすぐに相談を受けたと言ってた。俺も先週報告を受けて知ったんだが、もうずいぶん声が出るようになってるらしい」
田村はそれだけ言って、「坂口には伝えておく」と手を上げ、会議室へ消えた。
俺は職員室の前の廊下に立っていた。窓から差し込む午後の光が、リノリウムを白く照らしている。
規定が変わるより前から。
俺が知らなかったのは当然だ。春名の家の練習にも、朗読サークルにも、俺は一度も誘われていない。言は隠していたわけじゃないだろう。ただ、俺には言わなかった。
でも、部員も顧問も知っていた。春名も、田村も、たぶん三年も。みんな知っていて、みんなで見守っていて、俺だけが知らなかった。
俺は歩き出した。廊下の端まで行き、階段を降りて昇降口へ向かう。その途中、図書室から出てきた春名と鉢合わせた。
「篠宮先輩」
春名は一瞬驚いた顔をして、すぐに真剣な表情になった。俺の顔を見て、小さく頭を下げる。
「先輩に、謝らなきゃいけないことがあります」
「なに」
「汐見さんの練習のこと、先輩にだけお伝えしてなかったことです」
言い訳めいたものは一切なかった。ただ事実を誠実に説明しようとする声だった。
「隠してたんじゃないんです。汐見さんが、律に知られたら甘えてしまうからって。それに」
春名は一度言葉を切った。
「完成した声を、一番最初にちゃんと聴かせたいからって。先輩にだけは、練習中の声を聴かせたくなかったんだと思います」
一番最初に。
その言葉が、胸のあたりに落ちて広がった。一番大事だから、一番遠ざけられた。一番に聴かせたいから、最後まで隠された。俺は問い詰めることも、怒ることも、できなかった。彼女は俺のために、俺を遠ざけたのだから。
「春名。お前、なんでそんなに言のことに熱心なんだ」
春名は少し俯いて、それから顔を上げた。
「私、中学のとき、人前で声が出せなかったんです」
初めて聞く話だった。
「集会で固まってから、教室でも喉が詰まるようになって。学校に行けなくなりました。そのとき、放っておかないでくれた先輩が一人だけいて。半年かけて、なんとか話せるようになったんです」
淡々とした口調だった。感傷ではなく、必要なことを正確に伝えるという言い方。
「その先輩は」
「卒業しました。私が高校に入るのを見届けて、今度はお前が誰かのためにやれって」
春名は少しだけ笑った。吹っ切れているような、まだ完全にはそうでないような笑い方だった。
「だから、汐見さんを放っておけなかったんです。自分の喉が邪魔をする感覚、一人じゃ越えられないので」
俺は黙って聞いていた。春名の善意には出所があった。借りを返すための行動だった。純粋で、利他的で、だから俺は何も言えなかった。
「先輩のこと、尊敬してます。汐見さんの声を十年続けたのは、誰にでもできることじゃない。でも、今は」
「俺がいないほうがいいんだろ」
「……はい。今は」
春名は嘘をつかなかった。その誠実さが、刃のように正確だった。もう一度頭を下げて、図書室へ戻っていく。
俺はしばらくその場に立っていた。窓の外でサッカー部の練習が始まっている。笛の音、誰かの叫び声、ボールを蹴る音。全部が遠かった。
家に帰って、引き出しを開けた。手前に白紙の進路希望調査。その下に、去年の賞状が入っていた。
机の上に広げる。青嵐文学祭・創作朗読部門 最優秀賞。作品名『夏の日を閉じ込めて』。作・汐見言、朗読・篠宮律。
もらったときは誇らしかった。言が書いて、俺が読む。二人で一つの作品を作った実感があった。
今は、違って見えた。俺の名前がここにあるのは、彼女が声を出せなかったからだ。彼女が声を持てば、朗読の四文字は要らなくなる。
俺は賞状をたたんで、引き出しの奥にしまった。
文学祭の前日、またスマートフォンが震えた。言からの二通目だった。
「あした、ぜんぶ、返すね」
ぜんぶ。返す。
俺はスマートフォンを持ったまま動けなかった。返す、という言葉を、俺は知っているはずだった。彼女が俺から借りていたもの。声。十年分の代読。でも今、彼女が返そうとしているのが何なのか、うまく像を結ばなかった。
借りていた声を、もう必要としないという意味なのか。俺があげた十年を、何かの形で返そうとしているのか。それとも、借りていたものの持ち主を、元に戻すという宣言なのか。
俺は「わかった」とだけ返した。また、それしか言えなかった。
布団の中で目を閉じた。明日は文学祭。言が舞台に立ち、俺は一番前でそれを見る。彼女の声を、一番最初に聴く。特権で、栄誉で、彼女からの信頼の証だ。そう思うことにした。
返す、という言葉の意味を、俺は考えないようにして眠った。