恋愛じゃないのに、これは絶対NTRだろ——幼馴染の「声」だった俺の話 作:レオナルド・ハ・ピンチ
市民ホールの最前列、中央からやや左寄りの席に、俺は座っていた。
開演まで十五分ある。客席は七割ほど埋まって、観客がぱらぱらとパンフレットをめくっている。照明はまだ明るい。舞台にはマイクスタンドが一台と、小さな演台があるだけだ。朗読を聴かせるための、必要最小限の空間だった。
膝の上でパンフレットを開いた。参加校と演目が部門ごとに並んでいる。今年から自作自読部門に名前が変わった欄に、彼女の名前を見つけるのは難しくなかった。
汐見言『息継ぎの場所』——自作自読。
演目名に、見覚えがなかった。『水槽の底で』でも『藍を重ねる』でも『夏の日を閉じ込めて』でもない。まったく新しい作品だ。彼女が俺に一度も読ませず、俺の声を通さずに書き上げた、初めての小説だった。
客席の照明が落ち始める。パンフレットを閉じた。隣の席には誰もいない。一番前。言が指定した場所だ。舞台から見下ろせば、最初に目が合う位置。
アナウンスが流れ、出場者が順に舞台へ上がる。他校の生徒の詩の朗読、小説部門の受賞者の自作。みな緊張した面持ちで原稿を手に立つ。声が震える者もいたし、抑揚をつけすぎて聞き取りづらい者もいた。朗読には技術がいる。文章を声に変えるだけでは、人の耳には届かない。間と緩急と、言葉を舌の上で転がす感覚。俺が十年かけて身につけたものだ。だが今年からは、その技術を買われることはない。
五番目が読み終え、拍手が収まる。司会が次を告げた。
「続きまして、青嵐高等学校・文芸部、汐見言さん。『息継ぎの場所』」
客席の空気がわずかに変わった。青嵐は二年連続の王者だ。名前を知る観客もいる。だが去年までとは違う。今年は作者本人が読む。しかも彼女が人前で声を出せないのを知る人も少なくない。ざわめきに、期待と好奇心と、少しの心配が混じっていた。
舞台袖から言が歩いてくる。
濃紺のワンピースを着ていた。普段は制服か地味な服しか着ない彼女が、舞台用の服を選んでいる。手には原稿。クリップで留めていない。ページをめくって読むつもりなのだろう。指先が震えているのが、最前列からわかった。
言は演台の前に立ち、原稿を置いた。顔を上げずに、長い沈黙を落とす。
五秒。十秒。客席がざわつき始める。隣の女性が連れに何か囁いた。後ろで「大丈夫か」という声。司会が舞台袖から覗く。
十五秒。言はまだ動かない。俯いたまま、原稿の端を指でなぞっている。考えているときの癖だ。俺はそれを知っている。だから待てた。だが他の観客はそうじゃない。ざわめきが大きくなり、司会が一歩前に出ようとした。
そのときだった。
言の右手が、誰もいない隣の空間に伸びた。指先が空気をそっと掴み、二回、引く仕草をした。
俺は息を止めた。
言が顔を上げ、まっすぐ客席を見た。マイクに口を近づけ、最初の一文を読む。
「わたしには、声がなかった」
彼女自身の声だった。掠れて、小さくて、時折ひっくり返りそうになりながら、確かに言葉を紡いでいる。喉が震え、唇が動き、息が音になる。十年間、俺の喉を通してしか外に出られなかった言葉が、今、彼女自身の器官を通って世界に出ていた。
ざわめきが収まった。みな耳を澄ましている。聴き取りやすい朗読ではなかった。声量も安定感も、他の出場者に及ばない。それでも不思議な引力があった。たどたどしさの中に、何かを必死に伝えようとする切実さが滲んで、観客はその強さに引き込まれていた。
「わたしの声になってくれた人が、いました」
そこまで読んだとき、俺は自分の唇が動いているのに気づいた。
初めて聴く原稿だった。一行も読んでいない。演目名すら今日知った。なのに、彼女が次の一文を口にする前に、俺の唇はその言葉を形作っていた。間の長さも、息継ぎの位置も、どの単語に力を込めるかも、一音も違わず、先に来た。
彼女が息を吸う位置で、俺も息を吸っていた。彼女が言葉を強める場所で、俺の唇が同じ母音を強調していた。
俺は唇を噛んだ。動きを止めようとした。だが無意識の癖は制御できなかった。次のフレーズが近づくと、舌が勝手に文章を転がし始める。十年間、彼女の原稿を読む前に必ずやってきた仕草だ。文字を舌に乗せ、味を確かめてから声にする。今、舌の上に乗っているのは、彼女の生の声だった。舞台の言葉と、俺の唇が同期している。彼女が詰まって間を伸ばせば、俺の唇も同じだけ待った。彼女が早口になる箇所では、俺の舌も同じ速度で動いた。
満席のホール。最前列の男の唇だけが、舞台と同じ言葉を象っている。隣の女性も、後ろの観客も、舞台袖の司会も、誰一人気づかない。
俺は両手を膝の上で組んで、唇に力を入れた。動くな。念じながら、彼女の声が耳に入るたびに、口の中の筋肉がぴくりと反応する。それが止まったのは、彼女が新しい段落に入って長い間を取ったときだった。俺は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
言の物語は、声の出ない少女と、その声になった少年の話だった。細かい筋は追えなかった。ただ、要所で届く言葉が、俺の知っている場所を掠めていく。幼稚園の図書室。自分の書いたものを、自分のことみたいに読んでくれた人。彼女がそのフレーズを読むたび、俺の唇がひとりでに動き、心臓が一つ余計に打った。この話が誰の話なのか、確かめようとするたびに、次の言葉が来て、俺の口がそれを先取りした。
読み進むにつれ、物語の少女はある決意をする。自分の声で話せるようになろうと。その理由が読まれかけたとき、言が言葉を切った。
長い間だった。原稿のその場所に、息継ぎの指示はなかったはずだ。彼女の朗読は、俺が知っているどの版よりも間を必要としていた。言の視線が、原稿から上がる。まっすぐ、最前列の俺の上で止まった。
一秒か、二秒か。彼女の唇がかすかに動いて、けれど声にならず、また閉じた。それから彼女は目を伏せ、次の一文を読み始めた。
俺にはその間の意味がわからなかった。詰まったのか、忘れたのか、それとも。確かめる前に、彼女の声はもう次の言葉を紡いでいて、俺の唇は、その言葉を追えなかった。
最後の一文を、言は顔を上げて、最前列の俺をまっすぐ見て読んだ。
その言葉が何だったか、俺は覚えていない。唇がもう、動かなかったからだ。
客席から万雷の拍手が起きた。立ち上がる者もいた。隣の女性がハンカチで目元を押さえている。後ろの男子高校生が「すげえ」と呟いた。拍手は波になってホールを包んだ。
言は演台の前で俯き、肩で息をしていた。一仕事を終えたあとの、彼女のいつもの姿勢だった。違うのは、その背中を隠す俺の体が、そこにないことだけだった。
俺は拍手をした。ちゃんと手を叩いた。音が出ているのを確かめながら、両手を打ち合わせた。
審査員が講評を述べる。一人目は、技術的には未完成だが、それを補って余りある真情があったと評した。二人目は、朗読の本来の意味を考えさせられたと言った。三人目はこう締めくくった。
「この作品は、作者本人の声でしか成立し得ない。朗読という行為が、ここまで作品と不可分であるとは、我々も考えたことがなかった」
俺は拍手を続けた。手のひらが赤くなって、じんじんと熱を持ち始めても、やめなかった。
最後に出場者が全員舞台に呼ばれ、一人ずつ挨拶をした。言の番が来る。彼女はマイクの前で、何度か口を開きかけては閉じた。客席が静まる。さっきまでのざわめきが嘘のように、誰もが彼女の言葉を待っていた。
「きょうは、ありがとうございました」
詰まりながら、ひとつずつ言葉を選ぶ。
「春名さんと、文芸部のみんなと、田村先生に、おれいをいいます。それから」
そこで言葉を切って、最前列の俺を見た。
「昔、わたしの、声になってくれた人が、います。今日の声は……その人から借りたものを、返すための、声です」
客席が温かい拍手に包まれた。
俺も拍手した。借りたものを返す。彼女はそう言った。十年分の声を、今日この舞台で返した。貸し借りは、これで終わったということだ。
誰も彼女を責めない。誰も俺を責めない。挨拶には感謝しかなく、拍手は祝福で、講評は称賛だった。悪意はどこにもなかった。俺は赤くなった手のひらを、膝の上でそっと握った。
閉会後、俺は誰にも声をかけずにホールを出た。ロビーで観客が感想を言い合っている。言を探す部員の姿も見えたが、そのまま出口へ向かった。
外は夕方が近かった。秋の空気がひんやりと肌に触れる。歩道を歩きながら、俺は無意識に、口の中で言葉を転がそうとしていた。舌が動き、唇が動き、何かの文章を作ろうとして——止まった。
転がす原稿が、ない。
彼女の新しい作品は、俺を経由していない。俺は一度も声に出していない。だから舌に乗せられない。間も、緩急も、息継ぎの位置も、俺の体には刻まれていなかった。
ポケットでスマートフォンが震えた。取り出す。汐見言。二文字のメッセージがあった。
「あした、部室に来て。わたしの、さいしょの読者さんへ」
さいしょの読者。彼女にとっての最初の読者は、幼稚園の自由帳を差し出された日の俺だ。彼女が初めて自分から書いた物語を、最初に読んでほしいと願った相手。それを今、もう一度繰り返そうとしている。
俺はスマートフォンをポケットに戻した。返信はしなかった。歩きながら、さっきのホールの拍手を思い出していた。立ち上がる観客。目元を拭う女性。審査員の言葉。全部が、彼女の門出を祝うものだった。
拍手は、卒業する人間に贈るものだと、俺はあの日知った。