恋愛じゃないのに、これは絶対NTRだろ——幼馴染の「声」だった俺の話 作:レオナルド・ハ・ピンチ
放課後の文芸部室に、言が一人で待っていた。
窓の外はよく晴れて、部室棟の裏の桜が、まだ青い葉を風に揺らしている。机の上には彼女の手提げ鞄と、二つのものが置かれていた。一冊は古びた自由帳。表紙の端が擦り切れて、かつて黄色だったことがかろうじてわかる。もう一つは真新しい原稿の束で、表紙がつき、クリップで留められていた。
俺が扉を閉めると、言は立ち上がった。袖を引かずに、自分の席に座るよう促す。俺は彼女の隣に座った。いつもの位置だ。ただ、机の間に置かれた自由帳と原稿が、昨日までとは違う距離を示しているようだった。
言はまず、自由帳を俺の前に差し出した。
幼稚園の自由帳。縦書きのマス目に、拙い平仮名が並んでいた。
『あるひ もりのなかで ちいさなどうぶつたちが あつまって おはなしをしていました』
彼女の最初の物語。五歳の言が書いて、五歳の俺が代わりに読んだ。あの日、彼女は初めて笑った。声を出さずに、口元をほころばせて、それから俺の袖を二回引いた。あれが始まりだった。
「これ、まだ持ってたのか」
言は頷いた。それから自由帳をそっと取り戻して机に置き、代わりに新しい原稿の束を差し出した。
表紙に手書きの文字で『りつへ』とだけ書かれていた。彼女の字だ。原稿の余白にいつも書かれていたのと同じ、細いシャープペンシルの筆跡。俺だけに向けられた文字が、今度は作品全体の宛先になっている。
ページを開く。最初の一枚目、一行目。彼女の小説の書き出しがそこにあった。その横、余白に、見慣れた細い字が並んでいる。
ここ、ゆっくり。息継ぎ、ここ。この行、少し強く。
俺のために書かれた、読み方の指示。かつて俺が彼女の原稿を読むときに頼りにした道標。それが今、彼女自身の手で、俺のために新しく記されていた。
顔を上げると、言はまっすぐ俺を見ていた。
彼女は一度、深く息を吸った。喉が小さく上下する。両手を膝の上で握りしめ、自分の声で話し始めた。
「りつのこと、すきだよ」
詰まりながらの、掠れた声だった。でもそれは、誰かの声の再現でも、お手本のなぞりでもなかった。彼女の喉から出た、彼女自身の言葉だった。
「恋とか、じゃなくて」
続いた言葉は、ほとんど空気の震えのようにかすかだったが、確かに届いた。恋ではない。彼女はそれを、十年かけて見つけた自分の声で、はっきりと言った。
俺は頷いた。
「知ってる。俺もだ」
嘘ではなかった。幼稚園の自由帳を差し出されたあの日から、俺は彼女の声で、彼女は俺の言葉だった。それは恋という名前のつく感情ではなかった。だから告白はなく、失恋もない。奪った者も、奪われた者もいない。
俺は手の中の原稿をもう一度見た。『りつへ』。余白の息継ぎ記号。これを声に出して読めば、俺たちの役割はもう一度繋がるのだろうか。それとも。
「なあ、言」
俺は原稿を机に置いた。
「どうしてあんなに早くから、練習を始めたんだ」
言は俯いた。指先が自由帳の端をなぞる。考えているときの、あの癖。
「規定が変わるよりずっと前からだろ。春名の家で練習して、朗読サークルにも通って。文学祭に出るかどうかもわからないうちから。どうして」
責める調子ではなかった。ただ知りたかった。彼女が俺を練習に誘わなかった理由の、その裏側を。
言はしばらく黙っていた。指先が自由帳から離れ、机に落ちる。それから顔を上げずに、小さな声で言った。
「……きいちゃったの」
「なにを」
「せんせいが、りつに。いつまで付き添い係やるんだって」
俺の記憶が数週間前に巻き戻る。放課後の廊下。坂口に呼び止められて、進路が白紙だと言われた日。お前自身はどうしたいんだ、と問われて、俺は笑ってごまかした。あのとき、曲がり角の向こうで上履きの白い爪先が一度だけ動いた。
あれは、言だったのか。
「付き添い係。先生は、そう言った」
言の声は震えていた。それでも顔を上げ、俺の目を見たまま続けた。
「りつは、わたしのせいで、やりたいことをみつけられないんだと思った。りつは、声がよくて、朗読が上手で、でも、それは、わたしの代わりだからで。わたしがいなくなれば、りつは、自由になれると思った」
言葉を切って、息を継ぐ。原稿の余白の記号を思い出すような、正確な位置での息継ぎだった。
「だから、自分の声をみつけようと思った。りつを、自由にするために」
声は最後にかすれて、ほとんど息の音だけになった。それでも彼女は逃げなかった。涙も見せなかった。自分の決断を、自分の言葉で俺に伝えようとしていた。
彼女は俺を自由にするために、俺の居場所を壊した。
坂口は正論を言っただけだ。教師として当然の問いかけで、むしろ俺のために言ったのだろう。言は俺を自由にしようとしただけだ。そのために自分も痛みを引き受けて、知らない朗読サークルに通い、春名の家で発声を繰り返した。春名も、顧問も、部員も、みんな彼女を支えた。誰も俺を傷つけようとしていない。
「そうか」
俺はそれだけ言った。それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。怒りは湧かなかった。悲しみとも違う。胸のあたりに、埋めるもののない穴が開いていた。
言が立ち上がった。俺の前に立ち、右手を伸ばして、袖を二回引いた。
一回目。軽く、確かめるように。二回目。少し強く。
十年間、彼女が俺に「代わりに言って」と伝えるための合図だった。
でも、今日、彼女が続けたのは、それではなかった。
「——きいて」
合図の意味が、十年目に書き換わる。
「ありがとう」
自分の声で言った。誰の助けも借りずに、自分の喉から出した言葉で。十年分の重みを乗せた、たった五文字だった。
俺は袖を引かれた場所を、もう一方の手で押さえた。布越しに、指の感触がまだ残っている気がした。幼稚園から変わらない、細くて、少し冷たい指先。
「どういたしまして」
俺は声に出した。自分の声だった。誰の代わりでもない、篠宮律の声。でもそれは、かつて朗読で人を感動させた声とは違って、ただ掠れた、頼りない音だった。
家に帰ると、誰もいなかった。両親は共働きで、いつものことだ。俺は部屋に入り、鞄を机の横に置いた。
机の上に、進路希望調査の紙があった。坂口に今週中に出せと言われてから、どれだけ経っただろう。名前とクラス以外は白紙のままだ。
椅子に座り、ペンを手に取った。将来の夢。希望する進路。やりたいこと。
言は俺を自由にするために声を手に入れた。あれだけの努力をして、十年の関係を自ら壊してまで、俺に自由をくれた。それなら俺は、その自由で何かを見つけなければならない。それが彼女の覚悟に対する、最低限の誠実さだと思った。
ペン先は紙に触れたまま、一文字も動かなかった。
書けるようになったはずだった。代読は終わり、俺の声はもう必要とされていない。彼女のための時間も技術も、全部、自分のために使えるはずだった。
それなのに、欄を埋める言葉が、一つも浮かばない。汐見言の声でなくなった自分が、何をしたいのか、何になりたいのか、まるでわからなかった。
俺はペンを置いた。進路希望調査を引き出しの奥にしまい、代わりに『りつへ』を取り出した。表紙の文字が、机のスタンドの光を受けている。
ページを開く。彼女の小説が始まる。タイトルは書かれていなかった。本文の一行目から、彼女の言葉がある。余白には息継ぎ記号。ここ、ゆっくり。息継ぎ、ここ。あの日、俺が彼女の原稿を読むときに頼りにした記号が、今度は彼女から俺への贈り物として並んでいる。
口を開いた。最初の一文を、声に出して読もうとした。喉が動き、舌が言葉の形を作り、息が——
止まった。
俺は口を閉じた。
それから、音を立てずに読み始めた。目で文字を追い、意味を追い、言葉の流れを追う。声には出さない。喉も震わせない。舌も動かさない。文字だけが頭に入ってきて、そこで初めて意味になる。今まで一度もしたことのない読み方だった。
息継ぎ記号の場所で、音のない息を継ぐ。口の中は静かで、部屋には何の音もなくて、俺は初めて、彼女の言葉を聴くのではなく、読んでいた。
彼女の物語は、声の出ない少女の話だった。少女には、代わりに声を出してくれる少年がいた。少年はいつも隣にいて、少女の書いたものを読み上げた。少女はそれが当たり前だと思っていた。でもある日、少年が自分の声を持っていないことに気づく。少年の声は、少女の言葉を読むときだけ響くのであって、少年自身の言葉は一度も発せられていない。それに気づいた少女は、少年に声を返すために、自分の声を見つける決意をする。
読み終えたとき、外はもう暗くなっていた。
最後のページを閉じ、表紙に戻る。『りつへ』。俺に宛てられた物語。彼女が俺のために書いて、俺のために息継ぎ記号を振った、世界で一冊の小説。これを声に出して読むことは、もうないだろう。
俺は原稿を机に置き、引き出しを開けた。奥にしまってあった連名の賞状、幼稚園の自由帳のコピー、これまで彼女がくれた原稿の束。それらをまとめて、机の隅に置いた。
窓の外を見る。桜の木が風に揺れている。あの木の下で、俺は何度も彼女の原稿を読んだ。声に出して、息継ぎの位置を確かめながら。彼女はもう、その必要がなくなった。
彼女は、自分の声を手に入れた。ずっと欲しかったものを。俺の喉はまだ声を出せるし、朗読もできる。技術も経験も、ここにある。奪われたものなど、何もない。
机の上の原稿を見る。『りつへ』。彼女が俺に宛てた、最初で最後の手紙。彼女の代わりに読む原稿は、もう来ない。俺はもう、彼女の言葉を預かることはない。
部屋は静かで、誰もいなくて、俺はしばらく机の前に座っていた。
ただ、俺だけがもう、誰の声でもなかった。