『YGGDRASIL』は日本においてDMMO-RPGの代名詞とまで言われたゲームである。
そのゲームのプレイヤーであり、重度の課金兵でもあるモモンガはナザリックで初めて友達を得て、そんな友達がこの地を去っていくのを見守り続けた。きっとまた一緒に冒険できると信じて。
しかし、何事にも始まりがあれば終わりもある。DMMO-RPGそんな代名詞とまで言われたゲームも終わりを迎える日がやってきた。友達ともう一度遊びたい……そんなモモンガが唯一抱いた願いは叶わなかったのだ……。モモンガは悲しみの中、玉座にて最後を待っていた。
(終わり、か……俺も死んだような物だな。違うな、モモンガは死ぬんだ)
プレイヤーは自分以外、誰もいない玉座でモモンガは頭の中で呟やく。傍観を込めて。夢なら覚めてくれと願いながら。
傍観と溜息を履きながら静かに目をつむり、罪人がその首をギロチンにかけられるかのような心境で、終わりが訪れる時を待つ。時間は止まることなくチクタクと進む。
――そして終わりの時が訪れた。
しかし一向に強制的にログアウトはされない。不審に思い目を開けるとそこは……。
「……なに、これ」
玉座の間でも鈴木悟の家でもなく、緑が広がった世界だった。
★ ★ ★
「本当に……なんなんだ、これは……」
思わず口から漏れた呟きは、誰に向けたものでもなかった。目の前に広がるのは、緑一色の世界。濃淡さまざまな緑が幾重にも重なり、風が吹くたびに波打っていた。木々の梢は太陽の光を受け、金にも似た輝きを帯びている。鳥の声が、空の彼方から、まるで鈴の音のように降り注ぐ。
――森だ。物語の中でしか聞いたことのない、生命が満ち溢れた森。
モモンガ――いや、鈴木悟は呆然と立ち尽くした。遠くの地平には、緩やかな丘陵が幾重にも連なり、その向こうに大きな集落が見える。換気扇からでる煙。そこには確かに、人の営みがあった。
自分がいた死滅した環境ではなく、確かな人の息遣いを感じた。
「……過去の文明、なのか?」
形からして、彼の知る現代より百年――いや、それ以上昔の時代のように見える。しかし、どこをどう見ても、彼が生きていたあの死にかけた星ではない。この鮮やかすぎる緑。空気中を漂う生命の匂い。どれもが、彼の知る現実からはあまりにかけ離れていた。
「これは……夢じゃないのか?」
何度も自問した。そして、何度も否定するしかなかった。
感覚があまりにも現実だった。視界は異常なまでに澄み渡り、かつての人間の身体では見通せなかった遠方まで一瞬で把握できる。肌――いや、骨と皮膚のないアバターの表層を、柔らかい風がすり抜けていく。不思議と心地よい。風が優しいと感じるなど、かつての死んだ世界では決してあり得ないことだった。
そして何より。ユグドラシルのアバターであるモモンガに備わっているスキル――「沈静化」が、何度も、何度も発動している。興奮や動揺が一定以上に高まると、自動的に精神を安定化させるこの機構が、まるで暴走する感情を抑えつけるかのように作動を繰り返していた。
夜空を見上げると、そこには丸い月が浮かんでいた。白銀に輝き、淡い雲がその光を包み込む。星々はまるで宝石のように散りばめられ、川のように天を流れている。木々の間を抜ける風が梢を揺らし、ざわめきが響く。小動物の鳴き声が森の奥から聞こえ、虫の羽音が遠くでかすかに震える。
――これが、自然というものか。
鈴木悟の知る現実では、すべてがとうに滅んでいた。星は汚染に覆われ、空気は毒を含み、夜空を見上げても星一つ見えなかった。そのすべてを取り戻したかのような世界が、今、自分の目の前にある。
訳が分からない。けれど、確かに感動していた。
もし今の自分が人間のままであったなら――おそらく自然と涙が零れていたに違いない。だが、今の肉体は骸骨のアバター。スキルの沈静化が何度も作動し、心の震えすら冷却されていく。
感動を感動として感じられないことが、これほど悔しいとは。それでも、この冷静さがなければ、今の状況を正しく理解することもできなかっただろう。
そう思えば、プラスマイナスゼロというところか――彼は内心で乾いた笑いを浮かべた。
最初に試したのは、自動発動ではないスキルの使用だった。しかしすぐに思い直した。この未知の世界で下手にスキルを発動すれば、どんな結果を招くか分からない。特に「絶望のオーラ」。
ユグドラシル時代でレベル60以下の生物を問答無用で即死させるこのスキルを使えば――この豊かな森の生命は、一瞬で沈黙する可能性がある。
「……ダメだな。やめておこう」
無意識に握った拳をゆるめる。こんな美しい世界を、自分の無思慮で壊してしまうのは、あまりにも愚かだ。ふと、遠くの茂みが揺れた。小さな茶色の影が、ピョンと飛び出す。兎のような生き物。その後を追うように、小さな鳥たちが舞い上がった。羽ばたく音すら心地よい。――生命が、息づいている。
その光景を目にした瞬間、再び「沈静化」が作動した。胸の奥に湧き上がる感情が、冷や水を浴びせられるように静まっていく。
「壊したく、ないな……」
思わず口から零れた言葉は、風に消えた。沈静化によって感情が抑えられているというのに、それでも心の奥底から湧き上がる願いだけは、抑えようがなかった。
しかし、ただ立ち尽くしているだけでは何も分からない。現状を把握しなければならない――それが、ギルド長としての本能でもあった。
「まずは……上空から確認だ」
そう呟くと、探知不可の魔法を展開し、周囲に存在を悟られぬよう配慮したうえで、フライの魔法を発動する。ゆっくりと、彼の身体が地面から離れた。木々を抜け、風が全身を包み込む。高度を上げるごとに視界が広がり、やがて眼下には絵画のような風景が広がった。
「……はは、なんだこれ。……でも、それ以上に……綺麗だ!」
沈静化が作動しているのが分かる。それでも、感動が抑えきれない。
緑の大地の向こうには、青く透き通る海があった。海は鏡のように空を映し、ゆらゆらと揺れる波紋が陽光を反射してきらめいている。そのさらに奥には、街が見える。ビルのような建物がいくつも立ち並び、月光を反射していた。
「本当に……ブルー・プラネットさんが言っていた通りだ。キラキラしてる……!」
思わず呟く。ユグドラシルの世界で、ブルー・プラネットが語っていた失われた自然の美しさ。それが、今、自分の目の前に広がっているのだ。
沈静化が再び作動する。けれど、そのたびに湧き上がる感情が、彼を突き動かした。高く、さらに高く舞い上がり、雲の切れ間を抜ける。空の青が、どこまでも深く、透明だった。
「――ああ、輝いてる。素晴らしい……。街の風景が、こんなにも美しく感じるなんて……!」
声が風に溶ける。その瞬間だけ、沈静化は作動しなかった。心が震え、確かに生きていると感じた。骸骨の体に、かすかな温もりが宿った気がした。
どこからか、光の粒が漂ってくる。風に乗って舞うその光は、まるで魔力の残滓のようでありながら、どこか神聖な輝きを帯びていた。鈴木悟――モモンガは、静かにその光景を見つめる。
「……これは、異世界なのか。それとも、過去の地球なのか」
誰にも答えはない。けれど、この世界が滅びからほど遠い、命に満ちた場所であることだけは確かだった。そして、モモンガはまだ知らない。
この美しい世界の片隅に、魔力の奔流を感じ取り、不思議そうに空を見上げる少女がいることを――。その少女の名が、高町なのはであることを。