ソラは星を超えるか?   作:アキヴィリ-マイフレンド

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4 : 神は誰が作るのか

 模擬宇宙の演算が終了し、研究室には静かな余韻だけが残っていた

 だが、その静けさは、ただの休止ではなかった
何かが終わったというより、何かがまだ終わりきっていない――そんな気配が、部屋の隅々に薄く沈殿している

 

 機材の駆動音は止まり、空調の低い唸りだけが細く響いている
それなのに、モニターの光だけは強く、室内の影を輪郭の曖昧なものへ変えていた
壁際に落ちた影は、わずかに揺れて見える
照明は正常なはずなのに、どこか異様だった

 

 画面には先ほどまで星が歩んだ無数の分岐が映し出されている

 

 一本だったはずの黄金の航路は、今では蜘蛛の巣のように複雑な網目を描いていた
いくつかの枝は途中で途切れ、いくつかは同じ地点へ戻り、まるで何度も同じ選択を繰り返した痕跡のようにも見える
その乱れ方は、単なる演算誤差というより、誰かが意図的に書き換えた記録のようでもあった

ヘルタはその結果を眺めながら、小さく息を吐いた

 

 「……結局、また予測不能。ほんと、面倒ね」

 

 言い終えた直後、端末の一つが短く明滅した
誰も触れていない
だが、画面の隅に走ったノイズは、まるで何かが一瞬だけ内部を覗き込んだようだった
。白い砂嵐のような乱れが、ほんの一拍だけ星図の上を横切る

 

 少し遅れて、アンバーが答える

 

 「演算精度は上がった。だが、再現性は落ちた」

 「それ、嫌な結果じゃない」

 「嫌うべきではない」

 

 アンバーは画面を見つめたまま言った

 

 「当然の帰結だ。開拓とは未知へ向かう運命だ。未知を完全に予測できるなら、それはもう開拓ではない」

 

 ヘルタは肩をすくめる

 

 「そういう大きな話は求めてないの。私は原因を知りたいだけ」

 「なぜ演算できないのか、なぜ収束しないのか」

 

 アンバーは静かに笑う

 

 「その問い自体が、もう哲学だ」

 「……はいはい、またその調子」

 

 ヘルタは呆れたように椅子へ腰掛ける

 ルアン・メェイは二人のやり取りを見ながら紅茶を注いだ
カップが触れ合う音だけが、やけに大きく響く
その澄んだ音が、かえって部屋の静けさを際立たせた

 

 「お二人とも、少し休憩なさいませんか?議論は脳の活動量を大きく増加させます」

 「必要ない」

 「私は結構だ」

 

 ヘルタとアンバーの返答が、ほとんど同時に重なる

 ルアン・メェイは少しだけ微笑んだ

 

 「息もぴったりですね」

 「嬉しくない」

 「その評価は誤りだ」

 

 星は思わず吹き出した

 

 「二人とも本当は仲良いよね?」

 「ない」

 「そうではない」

 

 また同時だった

 研究室に小さな笑いが広がる
だが、その笑いが消えたあと、妙に長い沈黙が落ちた
誰も次の言葉を急がない
カップを置く音も、椅子が軋む音もない
ただ空調だけが、一定の間隔で低く鳴っている
その規則正しさが、逆に不自然だった

 その空気が落ち着いた頃、ヘルタがアンバーへ視線を向けた

 

 「ねえ、一つ聞きたいことがある」

 「なんだ?ヘルタ」

 「あなた、本当に神学者なの?」

 

 星は首を傾げた

 

 「え?今さら?」

 

 ヘルタは腕を組む

 

 「だって変じゃない。あなたは星神を研究している。なのに、星神そのものには興味がないと言う。神学者なら普通は神を研究するでしょう?」 

 

 アンバーは静かにコーヒーカップを持ち上げる

 湯気がゆっくりと立ち上る
その白い筋は、照明の揺れに合わせてかすかに歪んだ

 一口だけ口をつけてから答えた 

 

 「ヘルタ、君は神学を誤解している」

 「そう?」

 「神学とは神を研究する学問ではない」

 

 星が目を丸くする

 

 「違うの?」

 「違うさ」

 

 アンバーはゆっくりと言葉を続けた 

 

 「神学とは、人がなぜ神という概念を必要とするのかを研究する学問だ」

 

 研究室が静まる

 今度は誰もすぐに返さない
ヘルタはカップを持ったまま、アンバーの横顔を見ていた
ルアン・メェイも、紅茶を口に運ぶ手を止める
星だけが、視線の行き先を探すように二人を交互に見た 

 

 ヘルタは興味深そうに目を細めた

 

 「概念?」

 「この宇宙では星神は実在する。概念なんかじゃない」

 「もちろん実在する」

 

 アンバーはあっさり認める

 

 「では質問しよう。もし明日、すべての星神が消えたら、人類は神を忘れるだろうか」 

 

 ヘルタは即座に答える

 

 「忘れない。記録も伝承も残るもの」

 「そうだ『神秘(ミュトゥス)』が書き換えるような事態を除きー忘れない。では百年後は、千年後は、一万年後は」

 

 ヘルタは少しだけ考え込む

 その沈黙のあいだ、モニターの一枚が再び細かくノイズを走らせた
星が気づいて眉をひそめる
だが、アンバーは画面を見ない
まるで、答えがそこにはないと知っているかのように
あるいは、そこに映るものを見慣れすぎているかのように 

 

 「……新しい神話に置き換わる」

 「その通り。文明は必ず神を生む、星神が存在しようと、存在しまいと」 

 

 その言葉に合わせるように、照明が明滅した
一瞬だけ、モニターのノイズが星図の輪郭をなぞる
まるで、見えない何かが「その通りだ」と囁いたようだった 

 

 ルアン・メェイがゆっくり口を開く

 

 「興味深いですね。生命もまた未知に直面した時、それを理解するためのモデルを構築します。つまり神とは文明が宇宙を理解するための一つのモデルなのでしょうか」

 「半分は正しい」

 

 アンバーは頷いた

 

 「では残り半分は?」

 「神とは」

 

 彼は窓の外に広がる銀河を見つめる

 その視線は遠いはずなのに、どこか一点だけを正確に捉えているようでもあった
星はその横顔を見て、なぜか言葉を失う
ヘルタも、いつもの軽口を挟まない 

 

 「文明そのものを映す鏡だ」

 「鏡?」

 

 星が聞き返す

 

 「例えば『存護(クリフォト)』」 

 

 アンバーはモニターへ表示された星神の一覧を指差した

 

 「ある文明は存護を崇める。それは神を信じているからではない。自分たちが守りたいものを持っているからだ。『巡狩(ラン)』も同じ『知恵(ヌース)』も『調和(シペ)』も、神とは、文明が最も価値を置くものを映し出した姿に過ぎない」

 

 ヘルタが腕を組み直した

 

 「でも星神(アイオーン)は文明より先に存在している場合もある」

 「そう見えるだけだ」 

 

 アンバーは落ち着いた声で返す

 

 「記録されている星神の顕現と、その運命を歩く文明の成立時期には差がある。だが、それが因果を証明するわけではない。私は逆の可能性を考えている」

 

 ヘルタの瞳が鋭くなる

 

 「つまり文明が先?」

 「そうだ。人々が同じ志を持ち、同じ運命を歩み続けた結果、その運命が宇宙に刻まれ、やがて星神という現象になった。星神は存在の極限だ一つの思想が宇宙法則になる」

 「ならアキヴィリは?」

 「開拓という思想そのもの。」

 

 星は頭を抱えた 

 

 「うーん……つまり、みんなで歩き続けたら神様になったってこと?」

 

 アンバーは笑う 

 

 「極端に言えば、そうだ。だが、神になった個人が重要なのではない。重要なのは人々が同じ方向を向いて歩いたという事実だ」

 

 その言葉のあと、しばらく誰も話さなかった

 ルアン・メェイは静かに思索を巡らせていた
星は彼女の横顔を見たが、何を考えているのかまでは読めない
ヘルタは指先でカップの縁をなぞり、アンバーは窓の外を見たまま動かない

 

 やがてルアン・メェイが口を開く 

 

 「ですが、それでは生命という要素が説明できません。星神にも意思があります。観測し、判断し、時には使令に力を授ける。それを単なる現象として片づけるのは、少し乱暴ではありませんか」

 

 アンバーは少しだけ考え答えた

 

 「生命という言葉の定義による。私にとって生命とは有限な存在だ。有限だからこそ選択する。有限だからこそ価値を持つ。では星神は?彼らは運命そのものだ.死という概念はあれど生命ではない」

 

 ルアン・メェイは静かに頷く

 

 「……生命が運命を生み、運命は生命ではない。その理解でよろしいですか」

 「私の考えではそうだ。運命はあまりにも無限の可能性に満ち溢れ過ぎている」

 

 ヘルタは机を軽く叩いた 

 

 「面白い、でも証拠がない現状ではただの思想」

 「もちろん」

 

 アンバーはあっさり認める 

 

 「だから私は研究している。思想を仮説へ、仮説を理論へ、理論を証明へ、それが学問だからだ」

 

 その答えに、ヘルタは満足そうに笑った

 「その姿勢は嫌いじゃない。でも」 

 

 彼女はそこで一度言葉を切る

 その間、誰も口を挟まない
星はヘルタの顔を見て、次にアンバーを見る
ルアン・メェイは視線を伏せたまま、カップを持つ指先に力を込める

 

 「昔のあなたなら、もっと先へ進んでいたはず。理論だけじゃ終わらない。証明するためなら、自分で実験する人だった」

 

 研究室の空気がわずかに張り詰める。モニターの一枚が再びちらつき、星神の一覧が一瞬だけ乱れる
すぐに戻るが、その不自然さは消えない
ノイズはただの乱れではなく、何かを隠すための幕のように見えた

 

 ルアン・メェイは視線を伏せた
星だけが事情を知らず、不思議そうにヘルタを見る 

 

 「どういうこと?」 

 

 ヘルタはアンバーから目を逸らさない 

 

 「昔、この人は――」 

 

 一拍置いて、彼女は言った 

 

 「天才クラブ#1ザンダー・ワン・クワバラとおなじように新しい星神を創ろうとした」

 

 沈黙

 今度は本当に、研究室から音が消えた

 空調の唸りさえ、遠くへ引いたように感じる
星は思わず立ち上がる

 

「えっ!?星神って……創れるの!?」 

 

 アンバーは驚く様子もなく、静かにカップを置いた 

 陶器が机に触れる音が、やけに乾いて響く
その音のあと、誰もすぐには動かなかった
まるで、その一音が何かの封印を解いたかのように

 

「噂は広まるものだな」

「否定しないの?」

 

 ヘルタが問う

 アンバーは穏やかに笑った

 

 「事実だからだ」 

 

 その一言だけで、研究室の空気は先ほどまでとは別物になった

 ルアン・メェイは静かにアンバーを見つめる

 その瞳には驚きよりも、純粋な探究心が宿っていた
だが、その奥に、ほんのわずかな警戒も混じっているように見える
彼女は何かを知っているのか、それとも知ってしまうことを恐れているのか、星にはまだ分からない

 

 星は息を呑んだまま、アンバーの顔を見つめる
彼が何を語るのか、次にどんな言葉が落ちるのかを待ちながら

 そしてアンバーは、しばらく何も言わなかった

 沈黙が一つ、また一つと重なっていく
誰も急かさない
誰も視線を外さない
ただ、告白の前触れだけが、静かに室内を満たしていく


 

 研究室は静まり返っていた

 誰もすぐには口を開かない

 星は、机の上に置かれた端末の光をぼんやり見つめながら、胸の奥に小さなざわめきを覚えていた。神を創る。運命を創る。そんな言葉は、あまりにも大きすぎて、手のひらの中に収まる気がしない

 

 沈黙を破ったのは、やはりヘルタだった

 

 「じゃあ改めて聞くわ。本当に、新しい星神を創ろうとしたの?」  

 

 アンバーは視線を窓の外へ向ける

 宇宙ステーションの外では、星々が静かに瞬いていた

 その光を見ながら、彼はかつて自分が追いかけていたものを思い返していた。あの頃の自分は、まだ答えを掴めると信じていた。知識を積み上げれば、神の輪郭に触れられると。だが今なら分かる。輪郭に触れることと、正体を知ることは違うのだと

 

 「少し違う、私が創ろうとしたのは、星神そのものではない」 

 「なら何?」

 「――新しい『運命』だ」

 

 星は思わず息を呑む。

 運命を創る。そんなことが本当に可能なのか。いや、可能かどうか以前に、それを人が望んでよいのか。星の胸には、未知への好奇心と、どこか本能的な畏れが同時に芽生えていた。言葉の重さが空気を少しだけ変えた気がした

 

 「運命を……創る?そんなことができるの?」

 「分からない。だから研究していた」  

 

 その答えは、あまりにもアンバーらしかった。断言ではなく、探究。信仰ではなく、検証。星はその姿に、妙な安心を覚える。分からないからこそ進む。分からないまま終わらせない。その姿勢は、彼女自身が旅の中で何度も見てきたものだった

 

 ヘルタは腕を組んだ

 

 「あなたらしい答えね」

 「でも、新しい運命を創ることと、星神を創ることは同じでしょう」

 

 言いながらも、ヘルタは内心で少しだけ興奮していた。やはりこの男は面白い。神を創るなどという大仰な話を、まるで研究テーマの一つのように語る。だが同時に、彼の言葉には軽薄さがない。理屈の奥に、確かな覚悟がある。しかも、その覚悟がただの狂気ではなく、文明の行き先を本気で見据えたものだと分かるからこそ、彼女の好奇心はさらに煽られた

 

 

 「結果だけ見ればそうだ。星神とは運命を体現する存在だ。新たな運命が誕生すれば、それを体現する星神が現れる可能性はある。だから多くの者は『星神を創る研究』と呼んだ」

 

 ルアン・メェイがゆっくり問いかける。

 

 「ですが、なぜそのような研究を?知的好奇心だけでは説明できないように思えます」

 

 彼女の声は静かだったが、その静けさの奥には、確かな関心があった。生命を研究する者として、彼女は知っている。純粋な好奇心だけでは、人はここまで深く潜れない。必ず、何か個人的な問いがあるはずだ。しかもその問いは、ただの学術的な興味ではなく、彼自身の生き方そのものに結びついているように見えた

 

 アンバーは少しだけ目を閉じた

 

 「私は一つの疑問を抱いていた。星神は人を導く存在なのか、それとも、人が歩いた道の果てに生まれる存在なのか、もし後者なら人類は、自ら新たな『運命』を切り開くことができる。それは神を創ることではない。神を待たない文明になるということだ」

 

 

 星はその言葉を聞きながら、自分の旅を思い返していた。誰かに導かれるだけではなく、自分で選び、自分で進む。その繰り返しの先に、今の自分がいる。もし文明も同じなのだとしたら、そこには確かに希望がある。けれど同時に、誰にも頼れない孤独もあるのだろう。星はその孤独を、まだ言葉にできないまま胸の奥で受け止めていた

 

 星はぽつりと呟く

 

「神様に頼らない……文明」

 

 その言葉を口にした瞬間、星は少しだけ自分の声が震えているのに気づいた。頼らない、というのは強さだ。だが、頼れない、という意味にもなりうる。彼女はその境界線の上に立っているような気がした

 

 「そうだ文明が成熟するとは、自ら選択できるようになることだ。誰かに未来を示されるのではなく、自ら未来を定めることだ」

 

 ヘルタは興味深そうに机へ肘をついた

 

「へぇ、あなたは神を否定したかったわけじゃない。神を、人間の手が届かない場所から引きずり下ろしたかったんだ」

 

 アンバーは小さく笑う

 

 「少し表現が過激だが、概ねその通りだ。神は畏れる対象ではない。理解すべき対象だ。理解できるなら、いずれ再現もできる」

 

 その言葉に、ヘルタは内心で舌を巻いた。理解すれば再現できる。あまりにも研究者らしい、そしてあまりにも危険な発想だ。だが、だからこそ彼は天才クラブにいるのだろう。常識の外側を、常識の言葉で押し広げる。しかもその危うさを、彼女は嫌いではなかった。むしろ、止めるべきか、見届けるべきかを一瞬で天秤にかけてしまう自分に、少しだけ苦笑した

 

 ルアン・メェイは静かに首を傾げる

 

 「生命科学では、そのような考え方をよくします。生命現象を理解すれば、再現できる。ですが、あなたの考えであれば、星神は生命ではありません」

 

 彼女は淡々としていたが、その胸の内では別の思考が巡っていた。生命とは何か。再現とは何か。もし神が生命ではないなら、神を理解するためには、生命科学とは異なる座標軸が必要になる。だからこそ、この話は面白い。だからこそ、危うい。彼女はその危うさを、どこかで自分の研究にも重ねていた

 

 「ああ、だから私は神学者になった。生命だけでは届かない問いだったからだ」

 

 ヘルタは端末を操作しながら言う

 

 「でも、その研究は途中で終わった」

 「理由は?」

 

 アンバーはしばらく答えなかった。

 その沈黙には、過去を思い返す重みがあった。彼の脳裏には、白い研究室、積み上がった資料、夜を徹して交わした議論、そして最後に残った冷たい敗北の感触がよみがえる。あの時、自分はまだ進めると思っていた。だが、進むことと、進んでよいことは違ったのだ。

 

 「……私は知識の特異点へ至ろうとした」

 

 星が首を傾げる

 

 「知識の特異点?」

 

 ヘルタが代わりに説明する

 

 「簡単に言えば、天才クラブ#22のリルタが提唱した知識が一定の臨界点を超え、それまでとは比較にならない速度で知識が増殖する状態。文明そのものが一段階上の知性へ移行する仮説よ」

 

 説明しながら、ヘルタは自分でも少しだけ感心していた

 

 「その通り。私は、博識学会の学者たちと共に、その可能性を模索していた。天才一人の閃きではない。無数の秀才が知識を積み重ね、その先に到達するパラダイム・シフト、それが知識の特異点だ」

 

 ルアン・メェイは静かに感心したように呟く

 

 

 「だからあなたは博識学会を高く評価するのですね」

 

 彼女はその言葉を聞きながら、少しだけ自分の研究と重ねていた。生命もまた、一人では完成しない。細胞が集まり、組織となり、個体となる。知識も同じなのだろう。ひとつの閃きではなく、積み重ねの果てにしか見えない景色がある。そう考えると、彼が博識学会に見ていたものは、単なる学術組織以上のものだったのだと分かる

 

 「そうだ。文明は、一人の英雄では完成しない。無数の名も無き人々が知識を受け継ぐことで発展する。私は、その営みを信じている」

 

 ヘルタは少しだけ苦笑した。

 

 「本当に変わってる。天才クラブの会員なのに、天才を信じていない」

 

 アンバーは首を振る。

 「違う、天才を信じている。だが、それ以上に文明を信じている」

 

 その言葉に、ルアン・メェイは静かに紅茶へ視線を落とした

 

 

 「生命も同じです。一つの細胞は生命になれません。ですが、無数の細胞が集まれば、一つの個体となります」

 

 彼女はそう言いながら、自分の内側でひとつの確信を深めていた。個は脆い。だが、集まり、関係を結び、役割を分け合うことで、個を超えた何かになる。文明もまた、そうした有機的な総体なのかもしれない。だからこそ、そこに至る過程には、必ず秩序があるはずだ。彼女はその秩序を、静かに見極めようとしていた

 

 アンバーは穏やかに笑う

 

 「ルアン・メェイ、君らしい例えだ。文明とは、一つの巨大な生命なのかもしれない」

 

 その時だった

 ヘルタが何気ない調子で口を開く

 

 「でも、その研究は成功しなかった。そうでしょう?」

 

 研究室の空気が再び張り詰める

 ヘルタは平静を装っていたが、内心では答えを急いでいた。ここから先が本題だ。彼が何を失い、何を諦め、何を今もなお抱えているのか。それを知りたい。知りたいという欲求は、彼女にとってほとんど本能だった。だが同時に、もし本当に失敗したのだとしたら、その理由は単純な技術不足ではないはずだ、とも感じていた

 

 アンバーは静かに頷いた

 

「ああ、成功しなかった。いや正確には途中で終わった。終わらせられた」

 

 星が思わず身を乗り出す

 

 「誰に?」

 

 その問いには、純粋な驚きと、少しの緊張が混じっていた。誰かが止めた。誰かが終わらせた。その事実は、星にとって予想以上に重かった。研究が失敗したのではなく、止められたのだとしたら、そこには意志がある。しかも、それを止めた相手がいるということは、彼の見ていた先に、彼より先に辿り着いた誰かがいたということでもある

 

 数秒の沈黙

 やがて、静かに一つの名前だけを口にした

 

 「……ポルカ・カカム」

 

 ヘルタの表情が僅かに変わる

 

「やっぱり彼女だったのね」

 

 彼女は内心で、ようやく腑に落ちたという感覚を覚えていた。あの名を聞けば、すべてが少しだけ不穏になる。ポルカ。天才クラブの中でも、特別な意味を持つ存在。彼女なら、確かに止めるだろう。必要とあれば、ためらわずに。そう思う一方で、ヘルタの胸には、止めた理由をもっと知りたいという興味が、かえって強く芽生えていた

 

 ルアン・メェイも小さく息を呑む

 

 

 その名は、天才クラブの中でも特別な意味を持つ

 彼女はその名前を聞いた瞬間、静かに思考を巡らせた。知識の果てを知る者。あるいは、果ての向こうにある危険を知る者。どちらにせよ、ただの研究者ではない。だからこそ、アンバーを止められたのだろう。彼女はその事実に、淡い警戒と、同時に奇妙な共感を覚えていた。境界を知る者だけが、境界を止められるのかもしれない

 

「彼女は知識の果てを恐れていた。『知恵』の星神ヌースの思考を超えることを、だからこそ、私を止めた」

 

 星は不思議そうに尋ねる

 

 「戦ったの?」

 

 

 アンバーは少し考え、静かに答えた

 

 「議論もした。戦いもした。そして負けた」

 

 その言葉には、かすかな悔しさが滲んでいた

 星はその一言に、思った以上の重さを感じた。研究が止められたことより、彼がそれを淡々と認めることの方が、胸に残る。勝てなかったのではなく、勝ってはいけない場所があったのだと、彼女は直感した。敗北は痛いはずなのに、その痛みを飲み込んでなお前を向いている。その姿に、星は静かな敬意を覚える

 

 だが同時に、それを認めざるを得ないだけの静かな敬意もあった。彼は敗北を恥じてはいない。ただ、その敗北が何を意味していたのかを、今になってようやく理解しているのだ

 

 「彼女は、私より先に見えていたのだろう、どこまで進めばいいのか、どこから先は、進むべきではないのか私はそこを見誤った。いや見誤ったというより、見えていてもなお進もうとしたのかもしれない」

 

 

 そこまで言って、アンバーはわずかに目を伏せた

 その瞬間、彼の胸の内には、あの時の自分への問いが再び浮かぶ。なぜ止まれなかったのか。なぜ、理解していながら踏み込もうとしたのか。答えは簡単ではない。だが、ひとつだけ確かなことがある。自分は神を創りたかったのではない。人類がどこまで行けるのかを、どうしても見たかったのだ

 

 「その時、理解した。知識には到達点があっても文明には終着点がない。神を創ることを急ぐ必要はない。人類は、まだ歩いている途中なのだから」

 

 

 その声には、敗北を受け入れた者の諦念が静かに宿っていた

 だがそれは投げやりなものではない

 長い時間をかけて、ようやく辿り着いた納得だった

 星はその言葉を聞きながら、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じていた。終わりではない。まだ途中なのだ。そう言われると、少しだけ息がしやすくなる。旅も、文明も、きっと同じなのだろう

 

 誰も何も言わなかった

 ヘルタは静かに端末の電源を落とす

 ルアン・メェイはカップの中で揺れる紅茶を見つめる

 星は窓の向こうに広がる銀河を眺めていた

 

 それぞれが、それぞれの沈黙の中で、今聞いた話を噛みしめていた。ヘルタは知的興奮と、わずかな畏れを。ルアン・メェイは生命と文明の相似を。星は、自分がこれから歩く道の長さを。誰も口にはしないが、ポルカという名と、そこで終わった研究の重みは、三人の中にそれぞれ違う形で沈んでいた

 

 

 アンバーはゆっくりと立ち上がる

 

 「さて、今日は少し話しすぎた」

 

 その言葉に、彼自身も少しだけ苦笑していた。語りすぎたのではない。語らずにいられなかったのだ。長く胸の内に沈めていたものを、ようやく言葉にできた。その事実が、彼には思いのほか軽かった

 ヘルタは珍しく引き止めなかった

 

 「ええ、でも、面白い話だった」

 

 アンバーは研究室の扉へ向かって歩き出す

 その背中に、ルアン・メェイが静かに問いかける

 

「Dr.アンバー、もし、今ならもう一度その研究を始めますか?」

 

 彼は足を止める

 少しだけ振り返り、穏やかな笑みを浮かべた

 その笑みには、かつての焦燥はなかった。代わりにあるのは、長い時間を経て得た静かな確信だった。今の自分なら、急がない。答えを奪いに行くのではなく、答えが育つのを待つだろう

 

 「いや、今の私ならまずは人類が、どこまで歩けるのかを見届けよう神を論じるには、人を知らなければならない」

 

 そう言い残し、彼は研究室を後にした

 自動扉が静かに閉じる

その音を聞きながら、ヘルタはぽつりと呟いた

 

 「……本当に変な哲学者」

 

 彼女はそう言いながらも、どこか楽しそうだった。変だが、嫌いではない。むしろ、こういう変人がいるからこそ、世界は退屈しないのだ。

 ルアン・メェイは穏やかに微笑む

 

 「ですが、だからこそ、私たちと同じ天才クラブの一員なのでしょう」

 

 研究室には再び静寂が戻る

 しかしその静寂は、議論の終わりではなかった

 むしろ、新たな問いの始まりだった

 宇宙には星神が存在する

 だが、人はその存在を待つだけなのか

 それとも、自ら新たな運命を切り拓いていくのか

 その答えを探す旅は、まだ終わっていない

 

 星は窓の外を見つめたまま、胸の内でそっと思う

 

 自分はこれまで、何度も誰かの運命に触れてきた。だが、もし本当に運命を創ることができるのなら、その先にあるものは何だろう。救いか、責任か、それとも孤独か。答えはまだ分からない。けれど、分からないからこそ、歩く意味があるのかもしれない

 

 ヘルタは端末の残光を見つめながら考える

 

 神を創る研究。実に馬鹿げていて、実に魅力的だ。だが、今日の話を聞いて確信した。あの男は、ただの夢想家ではない。文明の行き先を本気で考えている。そういう人間は、たいてい厄介で、そして面白い

 

 ルアン・メェイは静かに紅茶を飲み干す

 

 生命は集まり、形を変え、やがて個を超える。文明もまた、そうして成熟するのだろう。ならば、神とは何か。文明がまだ届いていない、ひとつの到達点なのか。それとも、到達点だと思い込んでいるだけの幻なのか。彼女の中で、その問いはしばらく消えそうになかった

 

 そしてアンバーの胸には、かつて抱いた問いが今もなお静かに灯り続けていた

 

 文明は、いつか神を必要としなくなる日が来るのだろうか

 

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一般流浪人がスタレのキャラに狙われる話(作者:しいたvol.3)(原作:崩壊:スターレイル)

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総合評価:2924/評価:8.54/完結:33話/更新日時:2026年04月03日(金) 23:01 小説情報


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