FAIRY TAIL ―継ぎ接ぎのS級魔導士― 作:七草空斗
まぶたの裏に柔らかな白がにじんでいた。
……ここは……?
意識の混濁をかき分けるように鼻腔をくすぐったのは、消毒液とどこか懐かしい花の香り。
重いまぶたを開けると、映る世界はとてもまぶしく、反射的に目を細め右手で顔を覆おうとする。しかし、そんな意志とは裏腹に体は鉛のように重い。それどころか、わずかな身じろぎに反応して腹部から焼けるような激痛が走り抜けた。
「……っ、……あ……」
再起動したばかりの身体を無理に起こそうとすると、声にならない熱い吐息が漏れた。呼吸のたびに走る鋭い痛み。まるで肺がまだ、自分の肉体に馴染みきっていないかのようだ。
その微かな呻きに反応し、すぐ傍らで気配が跳ねるように動いた。
「――ヴェル!意識が戻ったのね!?」
視界を遮るように身を乗り出してきたのは、白い髪を少し乱したミラだった。その瞳は赤く潤み、頬は少し痩せているように見える。
「……ミラ……。……僕、は……」
「よかった……。本当に、目を覚ましてくれてよかった……っ」
震える手が横たわる掌を包み込む。伝わるのは穏やかで慈愛に満ちた、いつもの柔らかな体温だ。
自身の身体へ視線を落とすと、清潔な病衣の下で幾重にも巻かれた包帯が白く光を跳ね返していた。
覚醒からわずかな時が経ち、混濁していた意識が徐々に晴れていく。あの戦いから一体どれほど経ったのか。掠れた声が唇から弱々しくこぼれ落ちた。
「……どれくらい、眠って……」
「一週間よ。……ずっと、このまま目覚めないんじゃないかって……」
横にいる彼女の声が小さく震える。僕には瞬きに等しい空白であっても、見守っていたミラにとっては終わりの見えない日々だったのだろう。
ミラは自分を安心させるように一度深呼吸をすると、あの後にあった出来事を語り始めた。
「あなたが倒れた後、巨人が崩壊する中でグレイが……。あなたの傷口を見て、咄嗟に氷の造形魔法で傷口を凍らせて止血したの」
あの冷静な彼が意識を呼び戻すように叫びながら、魔力が尽きるまで氷を注ぎ続けていたのだとミラは語る。
消えたはずの氷。その冷気が今も傷の奥で僕の命を繋ぎ止めているような気がした。
「その氷が……あなたの命を繋ぎ止めていたの。お医者様が来るまでずっと。……傷は塞がったけれど、それでも、まだ……」
ミラは叱るような口調を選ぼうとした。けれど、結局耐えきれずにその場へ崩れ落ちるようにして、ヴェルクの手に額を預けた。伝わってくるのは、彼女の小さな震えと安堵の熱。
「……ごめんなさい。……でも、生きていてくれて、本当にありがとう」
差し込む陽光の中で、ミラがこぼした涙が僕の指の隙間に吸い込まれていく。彼はまだ動かない腕を、それでもゆっくりと動かし、その頬をなだめるようにそっと撫でた。
「……グレイには迷惑かけちゃったね。ミラにも……こんなに心配させて」
乾いた空気を傷だらけの肺へ無理やり押し込む。掠れる声を絞り出し、その熱を室内に吐き出した。
「ただいま、ミラ。……もう大丈夫だよ」
その言葉が、一週間のあいだ凍りついていた彼女の時間をゆっくりと溶かしていく。額を預けたまま、ミラは子供のように声を上げて泣きじゃくる。
その涙の熱さを手に感じながら、僕は窓の外を見つめていた。どこまでも穏やかで、しかし守り抜いたかけがえのない青空を。
涙も落ち着き、目の周りを少し赤く染めたミラは僕の目覚めを医師に伝えてくると足早にその場から離れていった。
彼女が去った後の一人きりの静寂。
僕はようやく少し自由の利くようになった左腕を目の高さまで持ち上げた。一週間の停滞を証明するように伸び切った爪、日の光を吸い込んだように不健康に白い肌。
あれほどに全てを無に帰さんとした腕は、今や何事もなかったかのように「いつも」の形を模している。
誰が見ても何の変哲もないその左腕をただボーッと眺め、静かに拳を握り込んでみる。長く伸びた爪が掌に刺さる痛みと、指先まで意思が通う感覚にまずは安堵した。と同時に、自身の不甲斐なさに情けなくなる。
――あの時、マスターが来なければ今頃マグノリアはどうなっていたか。
ジョゼという標的を失った後、暴走したこの腕は次に何を消し去っていただろうか。慣れ親しんだギルドの看板か。笑い合っていた仲間の顔か。それとも、この街の空気そのものか。
脳裏にあの瞬間の光景が過る。
触れたものを拒絶する余地すら与えず、跡形もなく「無」へと還していく左腕。あの力に頼らなければ何も守れなかった自分の脆弱さに吐き気を覚える。
湧き上がってきたのは、強大すぎる力への不安などではなかった。魔導士として生きてきた僕の歩みをすべて否定されたようで、腹の底に泥を飲み込んだような拒絶感だ。
到底、これを魔法とは呼びたくない。
祈りも、願いも、積み上げた研鑽も。触れるものすべてをただの「空白」へと変えてしまう。
その不作法な異物を己の一部として飼っているという事実が、生理的な嫌悪となって僕の心を蝕んでいく。
――コン、コン、コン。
廊下の静寂を裂いて慌ただしい足音が近づいてくる。ミラの弾んだ声と、それに続く医師の厳格な足音。
僕は持ち上げていた左腕を隠すように、シーツの下へ滑り込ませた。
古びた引き戸が耳障りな悲鳴を上げて開く。医師の乾いた指が僕の体を検分していく間、僕は呼吸を整え、それが終わるのを静かに待ち続ける。
下された診断は、ひと月の絶対安静。
「普通なら半年は動けない重傷だ。君の体はどうなっているんだ?」
医師は驚嘆の混じった声を漏らしたが、これ以上の無理は命に関わると釘を刺す。僕はただ機械的に頷きを返した。薬の説明と、何かあればすぐに受診するようにという定型句を残し医師は部屋を出ていった。
どれだけの時間が経っただろう、五分か十分か。それとも、実際にはほんの数秒だったのか。窓の外から聞こえるマグノリアの街の喧騒が、この部屋の中だけ綺麗に切り離されている。
喉の奥にへばりつく沈黙に耐え切れず、意を決して言葉を絞り出す。
「……あ、あの」
声が重なった。不意に視線がぶつかり、意識が交錯する。
互いに次の言葉を探し、けれど相手の瞳の奥を読み切る勇気はなく、逃げるように視線を泳がせた。
「……その左腕。
彼女は全てお見通しかのように、シーツに隠した腕を見つめながら静かに切り出す。
「……」
僕は肯定も否定もできない。ただ、シーツの下で拳を握り締め黙り込む。そんな僕を見かねたのか、彼女は困ったように柔らかな溜息を零すと迷いのない動作で僕の左手を取った。
「ダメよ、隠そうとしても。あなたの態度を見てたらすぐ判るんだから」
「ごめん。……あの時、もう人には向けないって誓ったのに」
そっと触れる指先から彼女の熱が流れ込んでくる。その熱に引きずられるように、脳裏に遠い日の血と涙の記憶が蘇る。
震える僕の左手を握り締めながら、彼女がくれた「呪い」にも似た救いの言葉。
『この力は、もう二度と人には向けない』
あの時からずっと、それは僕が越えてはいけない一線を示す境界線だった。
「……そうね。約束、破ったわね」
左手を包むミラの指先に、ほんの少しだけ力が籠もる。
「それに、その力を人に向けたことを仕方なかったの一言で終わらせていいとも思わない」
「……あぁ。僕が弱かったからだ。あんなものに頼らなきゃ、みんなを守れなかった」
口にしてみれば、それは嫌になるほど簡単な答えだった。
「あの力に頼らなくても守り切れるだけの力が僕にあれば、あんな風に……傷つけることでしか守れなかったなんてことには――」
「……また、それを言うのね」
「え?」
予想していなかった言葉に顔を上げる。
ミラは怒っているようにも、泣きそうにも見えた。
「何かあれば自分が弱かったから。誰かが傷つけば、自分にもっと力があれば。……あなた、昔からずっとそう」
「それは……」
「あなたが強くなろうとしてきたことを否定するつもりはないわ。そのおかげで助けられた人がたくさんいることも知ってる」
ミラはそこで一度言葉を切り、握った僕の左手へ視線を落とした。
「でもね。あの約束は、あなた一人に我慢させるためにしたんじゃないのよ」
「この力を使わなくてもいいように、私がいる。ギルドのみんながいる。独りで何もかも背負わなくていいんだって……そういうつもりだった」
ミラの声が、少しずつ弱くなっていく。
「……あの頃の私には、そう言い切れるだけの力があった」
その言葉に僕は何も返せなかった。
かつて「魔人」と呼ばれ、誰よりも苛烈に前線へ立っていた彼女。その姿を知らないわけではない。
けれど今、僕の左手を握る指先は微かに震えていた。
「あなたがそれを使わなくても、私が隣で戦えるって本気で思ってたの」
「ミラ……」
「でも今回は違った」
伏せられた白い睫毛の奥で、その瞳が苦しげに揺れる。
「あなたがそこまで追い詰められていたのに、私は何もできなかった。助けることも、代わってあげることも……あなたがその力を使うところまで追い込まれるのを、止めることさえできなかった」
「それは――」
「なのに約束だけは残した」
握られた左手に、また少しだけ力が籠もる。
「今の私には昔みたいにあなたを支える力もないのに、その約束だけをあなたに背負わせて……守ってって言い続けてた」
ミラは自嘲するように、ほんの僅かに唇を歪めた。
「私が守るために渡したはずの言葉が、あなたを苦しめるだけのものになってたんじゃないかって……」
そこで声が詰まる。
「そんなの……呪いと何が違うのよ」
「それは違う」
自分でも驚くほど強い声が出た。
ミラが僅かに目を見開く。
「違うよ。あの言葉がなかったら……たぶん僕は、とっくにこの力を使う理由を覚えてた」
「理由……?」
「守るためだった。仕方なかった。相手が悪かった」
一つずつ口にするたびに、胸の底が冷えていく。
「そんな言い訳を一つずつ増やして、この一度くらいならって……いつか、この力を人に向けることに何も感じなくなってたかもしれない」
シーツの上に置かれた左腕へ視線を落とす。
「でも、ミラとの約束があったから止まれた。これだけは越えちゃいけないって、ずっと忘れずにいられた」
左手を包む彼女の温もりを確かめるように、僅かに指を動かす。
「ミラがあの時くれたものは、僕を縛るための呪いなんかじゃない」
一度言葉を切った。
「あれは、この力から僕を引き戻してくれた一番大切な約束だよ」
「……ヴェル」
「だから今回、その約束を破ったことまでミラが背負う必要はない。あそこでこの力を使うと決めたのは、他でもない僕自身だから」
ミラは何かを言おうとして、けれど言葉にはしなかった。
ただ、僕の左手からは離れなかった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがてミラは枕元に置かれていた新しい包帯を手に取ると、僕の左腕へ静かに巻き始めた。
カサリ、と乾いた清潔な音が僕たちの間に落ちる。
一巻き、また一巻き。
白い布が、何事もなかったかのような左腕を少しずつ覆い隠していく。
「……でも、約束を破ったことには怒ってるからね」
「……うん」
「ものすごく」
「……うん」
次の瞬間、包帯が少しだけきつく締まった。
「痛っ」
「反省して」
「はい、してます……」
思わず苦笑が漏れる。
それを見て、ミラの張り詰めていた口元もようやく僅かに緩んだ。
けれど、包帯を巻く手は止まらない。
「……ヴェル」
「ん?」
「私、もう昔みたいに何でも力でどうにかできるわけじゃない」
不意に落ちた言葉に、僕は彼女を見る。
ミラは視線を上げなかった。
「悔しいけど、それは今すぐどうにかできることじゃない。今回みたいにあなたの隣で戦えないことだって……きっと、これからもあると思う」
一巻き。
また一巻き。
「でも、だからって何もできないわけじゃない」
包帯越しに、その指先が僕の腕へそっと触れる。
「私だけじゃない。グレイも、エルザも、ナツも、みんながいる」
そこでようやくミラが顔を上げた。
「だから次は、その腕を振るうしかなくなるところまで独りで追い込まないで」
「……」
「助けてって言って。私たちを頼って」
その言葉を最後に、包帯が巻き終わった。
少しだけ、いつもよりきつめに。二度とどこか遠くへ行ってしまわないよう、引き留めるかのように。
それは僕を戦場から日常へと連れ戻すための、儀式のような優しさだった。
僕は新しく巻かれた白い包帯をしばらく見つめる。
「……やっぱり、この力は嫌いだ」
ミラは何も言わない。
「こんな力を使った自分を、簡単に許せるとも思わない。……たぶん、これからもずっと」
包帯に包まれた左手をゆっくりと握り込む。
「それでも、もしまた大切な人を失いそうになったら……僕はきっと、またこの腕を振るう」
包帯を整えていたミラの指が止まった。
「使わずに誰かを失うくらいなら、僕はその方を選ぶと思う」
「……そう」
ほんの少しだけ寂しそうに、ミラは答えた。
否定も、肯定もしなかった。
そのことが今はありがたかった。
「でも」
今度は、握っていた左手を開く。
「次は独りでそこまで行かない」
「……え?」
「その前にちゃんと助けてって言う、みんなを頼る。何でも一人で決めない」
少し気恥ずかしくなりながら、それでも今度は隠すのではなく、その左手をミラへ差し出した。
「新しい約束」
ミラはしばらく僕の掌を見つめていた。
やがて、くすりと笑う。
「……今度こそ?」
「努力します」
「そこは約束するって言うところでしょう?」
「……約束します」
ようやく満足したのか、ミラは差し出した掌に自分の手をそっと重ねた。
あの日と同じ左手。
けれど今度は、彼女に握られるのを待つのではなく、僕自身から差し出した手だった。
「ええ。……おかえりなさい、ヴェルク」
困ったように口元を緩める僕を見て、ミラはようやくいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
温かな沈黙が満ちたのも束の間。廊下の向こうから、静寂を派手に踏み荒らす足音が近づいてくる。
「おいおい、やっと目が覚めたんだってなぁ!」
勢いよく扉を開け放ったのは、大きな酒樽を小脇に抱えたカナだった。怪我人に酒を持ってくるなと窘めるミラの声を器用に聞き流し、彼女はニカッと豪快に笑う。
「一週間も寝やがって、心配させんじゃねえよ。ほら、快気祝いだ!」
「まだ一歩も動けない大怪我なんだぞ!漢なら、そこは大人しく林檎でも剥いてやるもんだろ!」
カナの後ろから、これまた不釣り合いなほど大量の果物籠を抱えたエルフマンが、窮屈そうに巨体を滑り込ませてくる。
「ふふ、二人ともありがとう。でも、ひと月は安静って言われたから酒はまた今度だね」
僕の言葉に二人は揃って顔を見合わせ、カナが呆れたように目を丸くした。
「ひと月もだって?」
「あはは、耳が痛いな」
二人の襲来に僕とミラが苦笑していると、今度は鎧の擦れる硬い音が廊下から近づき、エルザが部屋へ入ってきた。
「――騒がしいぞ、二人とも」
鋭い一瞥だけで二人を黙らせたエルザは、そのまま僕の枕元まで歩み寄る。凛とした佇まいこそいつもと変わらないが、鎧の隙間から覗く肌にはファントム戦で負った傷がまだ生々しく残っており、僕を見る切れ長の瞳だけが僅かに柔らいだ。
「目覚めたか、ヴェルク。お前が重症と聞いた時は生きた心地がしなかった。……よくぞ戻ってくれた」
「エルザ……。傷は大丈夫なの?」
「問題ない。ギルドの再建も順調だ。それに、お前があそこで踏み止まってくれたことも大きい。おかげで誰も失わずに済んだ」
「……いや。みんながいてくれたからだよ」
そう返すと、エルザは何も言わず、ただ僅かに目を細めた。
カナの酒樽に、エルフマンの果物籠。傷だらけの身体でわざわざ顔を見に来たエルザ。形こそ違えど、相変わらず不器用なその気遣いが、張りつめたままだった胸の奥を少しずつ緩めていく。
もっとも、そんな静けさが長続きするはずもなかった。
引き戸が壊れそうな勢いで開き、ナツとグレイが雪崩れ込んでくる。その後ろからハッピーとルーシィまで慌てて続き、ただでさえ狭くなっていた病室は一気に騒がしさを増した。
「おい!飯食えるか!?復活したなら勝負しろ!」
「ナツ、お前は本当に騒がしいな。病人の部屋だぞ」
「うるせぇグレイ!お前だって走ってただろーが!」
「あい!グレイはヴェルクが心配で、廊下で靴を片方落としたよ!」
「ハッピーてめぇ余計なこと言うな!」
いつもの騒がしさが、病室に漂っていた薬品の匂いも白々しい静けさも、まとめて押し流していく。
ドタバタと掴み合いを始めた二人を眺めているうち、ふと少し気恥ずかしそうに視線を逸らしているグレイが目に入った。
「グレイ」
「……あ?なんだよ」
「ミラから聞いたよ。僕の傷、凍らせて止血してくれたんだってね。……ありがと。おかげで助かった」
真っ直ぐに礼を告げるとグレイは一瞬だけ目を見開き、逃げるように顔を背けて頭を掻いた。
「……別に礼なんかいらねえよ。仲間が目の前で死にそうになってんのを、黙って見てられるか」
ぶっきらぼうな言葉だった。
それでも、そこに込められたものまで聞き違えるほど、僕も鈍くはない。
「ずるいぞグレイ!俺だって応援した!」
「応援って、横で騒いでただけだろうが!」
「なんだとぉ!?」
「もう、二人とも!ここ病室だからね!?」
慌てて止めに入ったルーシィの声まで掻き消すようにナツとグレイが騒ぎ、いつの間にかカナは酒樽まで開けている。エルザの眉間には見る間に皺が寄り、ハッピーは面白がって囃し立て、エルフマンだけが「病人の前で喧嘩とは漢らしくない!」と、なぜか一番大きな声で怒鳴っていた。
「もう、お見舞いになってないじゃない……」
頭を抱えたルーシィが深い溜息を吐く。
けれど、その直後に僕と目が合うと、困り果てていた表情がほんの少しだけ和らいだ。
「……でも、本当に目が覚めてよかった」
「うん。ありがとう」
その横ではミラも呆れたように、それでもどこか嬉しそうに笑っていた。
叱られ、騒ぎ、笑い合う。少し前まで遠くに感じていたはずの日常が、今は手を伸ばせば届くところまで戻ってきている。
ふと、包帯の巻かれた左手へ目を落とした。
――私だけじゃない。みんながいる。
ついさっき聞いたばかりのミラの言葉が、騒がしい声の一つ一つに輪郭を与えられながら、ようやく実感を伴って胸の奥へ沈んでいく。
見渡せば、本当にその通りだった。
それから数時間。面会時間が終わるまで、病室から笑い声が途切れることはなかった。
深夜。
面会時間はとうに過ぎ、昼間の喧騒が嘘だったかのような静けさが病室を満たしていた。窓の外から聞こえてくるのは、夜のマグノリアに鳴く虫の声ばかりだった。
消灯からどれほど経った頃だろう。
コン、コン、と控えめな二度の音が静寂を揺らした。
「入るぞ、ヴェルク」
聞き慣れた声と共に扉が開き、小さな身体に身の丈ほどもある杖を携えた老人が姿を見せる。
「マスター。こんな夜更けにどうしたんですか?」
身を起こそうとしたヴェルクを、マカロフは片手を上げて制した。部屋の明かりを点けることもなく、そのまま月明かりの差し込むベッドの傍らまで歩いてくる。
「よい、そのままでおれ。……身体の具合はどうじゃ」
「ひと月は安静に、だそうです。でも、気持ちはもうすっかり元気ですよ」
「そうか」
短く答えると、マカロフはベッドの脇に置かれた椅子へ腰を下ろした。
「昼間はガキどもが随分と騒いでおったからの。顔を見る暇もなかったわい」
「はは……お見舞いなのか宴会なのか、途中から分からなくなってました」
「まったく、病院でもお構いなしとは困った奴らじゃ」
呆れたように鼻を鳴らす。
けれど、その声はどこか嬉しそうだった。
昼間の騒ぎを思い出しながら僅かに笑うヴェルクを、マカロフはしばらく黙って見つめていた。やがてその視線が、新しい包帯に覆われた左腕へ静かに落ちる。
「……ファントムとの戦いでは、酷な真似をさせたな」
「マスター、それは――」
「分かっとる。お前が自分で選んだと言うことくらいはな」
先回りするようにそう告げ、マカロフは杖の上で重ねた両手へ視線を落とした。
「じゃが、それでワシの責任までなくなるわけではない。もっと早く立っておれば、少なくともお前一人にあそこまで無茶をさせずに済んだ」
「……僕一人じゃありませんよ」
昼間までこの部屋を満たしていた声が、ふと脳裏に蘇る。
「みんながいたから、僕も戻ってこられたんです」
マカロフは僅かに目を見開き、それから白髭の奥で小さく笑った。
「……そうか」
それ以上、互いに何も言わなかった。
責任の所在を押しつけ合っても意味はない。それくらいのことは、きっとマスターも分かっている。
しばらくしてマカロフは小さく息を吐くと、窓の外へ目を向けた。
「ヴェルク。今日はもう一つ、話しておきたいことがあって来た」
「話、ですか?」
「うむ」
わずかな間を置き、マカロフは静かに続けた。
「近いうちに、ファントムにおった者を一人、
「……ファントムの?」
思わず眉を寄せる。
つい数日前までこの街を襲い、ギルドを破壊した相手だ。その場にいた人間を、今度は同じ紋章を背負う仲間として迎える。頭ではマスターなりの考えがあるのだろうと分かっていても、傷ついた仲間たちの姿がまだ鮮明に残っている今、そう簡単に飲み込める話ではなかった。
そんな僕の表情から何を読み取ったのか、マカロフは急かすことなく静かに言葉を続けた。
「もちろん、彼奴のしたことが消えるわけではない。傷つけられた者に許せとも言わんし、怒る者がおっても責めるつもりはない。顔を見るだけで、あの日のことを思い出す者もおるじゃろう」
レビィたちの姿が脳裏をよぎる。
壊されたギルドも、傷ついた仲間も、つい数日前の出来事だ。僕自身だって、何も感じないわけではない。
「……それでも、迎えるんですね」
「うむ」
迷いのない返事だった。
マカロフは杖の柄へ重ねた指をゆっくりと滑らせながら、しばらく何かを確かめるように目を伏せる。
「彼奴には、己のしたことを忘れさせるつもりはない。背負うべきものは背負わせる。……じゃがの、それとやり直す道まで閉ざすことは別じゃと、ワシは思っとる」
静かな声だった。
罪を軽く見ているわけではない。その上でなお、そこから先へ進む余地まで奪うつもりはないのだと、その声音からは否応なく伝わってくる。
「悪党じゃからと外へ放り出して終わりにするのは簡単じゃ。じゃが、一度道を踏み外した者に戻る場所がなければ、そのまま間違った道を歩き続けるしかなくなることもある」
最後の言葉だけ、僅かに声が沈んだ。
長い年月の中で誰かを思い浮かべているのか、それともマスター自身が積み重ねてきた経験から出た言葉なのか僕には分からない。ただ、今になって突然思いついたような決断ではないことだけは、その横顔を見ていれば十分だった。
「それで……僕に何を?」
問いかけるとマカロフは杖へ落としていた視線を上げ、今度は僕を真っ直ぐに見た。
「お前には、彼奴と関わってやってほしい」
予想していたよりも一歩踏み込んだ頼みに、僅かに眉を寄せる。
「僕が……?」
「うむ。お前は彼奴と直接やり合っておらん。もちろん、お前とてファントムを許したわけではなかろうが、直接拳を交えた者たちに比べればまだ少し違う位置から彼奴を見ることができる」
そこで一度息を置き、マカロフはさらに続けた。
「無条件に信用せよとは言わん。仲良くしろとも、したことを水に流せとも言わん。ただ、ファントムの魔導士だったという一点だけでこれからあやつが何をする人間なのかまで決めつけんでやってほしい」
「……」
「同じギルドにおれば顔を合わせ、言葉を交わすこともある。いずれ共に仕事をすることだってあるじゃろう。その中で彼奴が何を考え、何を選ぶのかを見て、その上でお前自身が判断してくれ」
マスターが求めているのが遠くから監視していろということではないのは分かった。
同じ場所に立ち、必要なら言葉を交わし、共に動く。その中で、かつて敵だったという事実とは別にその男自身を知れということなのだろう。
「……どうして、僕なんです?」
自然と零れた問いに、マカロフは少しだけ目を細めた。
「お前は昔から、人のことを他人の言葉だけで決める奴ではなかったからの。敵なら敵として向き合うし、間違っておれば止める。じゃが、一度そうだったからといって、それだけで相手の全部まで決めつけはせん」
どこか照れ臭くなるような言葉だったが、今は茶化す気にはなれなかった。
「それに――」
穏やかだったマカロフの眼差しへ、ほんの僅かにギルドマスターとしての鋭さが戻る。
「もし彼奴がもう一度、本当に仲間へ牙を剥くようなことがあれば、お前なら止められる」
その一言で、マスターが情だけで迎え入れようとしているのではないことも分かった。
やり直す道は与える。だが、それを信じることと警戒を捨てることは別だ。もし自らその機会を踏みにじるのなら、その時は止めるつもりでいる。
そして、その役目まで含めて僕へ頼もうとしている。
「……ずいぶん難しい役目を押しつけますね」
「すまんの」
白髭の奥で僅かに苦笑したものの、マカロフは僕から目を逸らさなかった。
「お前に頼りすぎておることくらいは、ワシも分かっとる」
その言葉に今度は僕の方が返事を失った。
つい先ほどまで、ファントムとの戦いで僕をここまで追い込んだことを悔いていた。その舌の根も乾かぬうちに、また別の人間のために頼み事をしている。その矛盾を誰より理解しているからこそ、マスターは誤魔化すことなく僕の目を見ているのだろう。
「それでも頼みたい。彼奴と関わって、その上でどういう男なのかをお前自身の目で決めてやってくれ」
僕はすぐには答えなかった。
目を閉じれば壊されたギルドも、傷ついた仲間たちの姿も鮮明に浮かんでくる。数日前まで敵だった人間を、マスターが迎えると決めたからというだけで仲間として受け入れられるほど僕は出来た人間ではない。
許せるかどうかも、信用できるかどうかも分からない。
何より、僕はまだその男の顔さえ知らないのだ。
なら今ここで仲間になれるとも、なれないとも答えを決めること自体が違う気がした。
「……すぐに仲間だと思えるかは、分かりません」
正直に告げてもマカロフは遮ることなく続きを待った。
「みんなが傷つけられたことを忘れるつもりもないですし、マスターが受け入れるからって、それだけでその人を信用することもできません」
「うむ。それでよい」
思いがけないほどあっさりと肯定され、僅かに目を瞬く。
「ワシが欲しいのは、お前の盲信ではないからの」
その言葉を聞いて胸の奥に引っ掛かっていたものが少しだけほどけた。
僕は一度ゆっくりと息を吐き、それから改めてマスターを見る。
「……分かりました。その人とはちゃんと関わってみます。話すことがあれば話すし、一緒に仕事をすることになれば、その時は同じギルドの魔導士として向き合います」
それでも、今ここで何かを約束できるわけではない。
だからこそ最後だけは誤魔化さずに言葉にした。
「その上で、どんな人なのかは僕自身で決めます」
しばらく僕を見つめていたマカロフの表情から、ようやく張り詰めていたものが抜け、白髭に覆われた口元がゆっくりと緩んだ。
「……それで十分じゃ」
そう答えると、マカロフは杖へ体重を預けながら静かに椅子から立ち上がった。
「夜更けに悪かったの。今は余計なことを考えず、身体を治せ」
「はい。……おやすみなさい、マスター」
「うむ。おやすみ、ヴェルク」
大きな杖を突きながら、マカロフは静かに病室を出ていった。
扉が閉じれば、あとに残ったのは元通りの静寂だった。
ベッドへ深く身体を沈める。
昼間の騒がしさも、ミラと交わした言葉も、そして今しがた聞かされた話も、まだ頭の中には残っている。それでも、一週間眠り続けていた身体には抗えない疲労が残っていたのか、考えをまとめるより先に重い眠気が意識を覆い始めた。
窓の外では、変わらず虫の音が続いている。
まだ顔も知らない、かつての敵。
仲間と呼べるようになるのか。あるいは最後まで相容れないままなのか。
今の僕には、何一つ分からなかった。
ただ、知らないまま答えを出すことだけはしない。
そんなことをぼんやりと考えながら瞼を閉じると、ほどなくして意識は途切れ、僕は再び深い眠りへと落ちていった。