FAIRY TAIL ―継ぎ接ぎのS級魔導士― 作:七草空斗
目に映るのは静謐な空気に包まれた図書館のような一室。
僕の隣には一人の黒髪の青年が座り問いかけるように、あるいは諭すように口を動かしている。
けれど彼の声も周囲の物音も一切聞こえない。まるで最初からこの世界に「音」という概念そのものが存在しないかのようだ。
――完全なる静寂。
それでも不思議と違和感はなく、声なき言葉の意味まで理解できる。
青年の口が動くたび意識の奥をいくつもの光景が通り過ぎていく。
天を突くほどの巨大な建造物。
暗闇の中で幾重にも重なり合う輪郭の定まらない影。
どれも意味を捉える前に掻き消え、すぐに別の光景へ塗り替えられていく。
ただそのすべてに目の前の青年が深く関わっていることだけは、不思議なほど明確に理解できた。
名前すら知らないはずなのに、その穏やかな眼差しの奥には決して触れてはならない何かが潜んでいる。僕はそれを理屈もなく受け入れている。
視界の端に映る机には二つの茶器が並び、その傍らには未完成の設計図と一本のペンが置かれている。
青年は僕を見ているようで、実際には僕の向こうにいる「誰か」と終わりのない議論を続けているようにも見える。
静寂の中で永遠とも思える対話が続き、僕はいつも同じところでこの光景が夢なのだと気づく。
自我を得た頃から一度も筋書きを変えず、擦り切れたフィルムのように意識の底で再生され続けている夢だ。
その静寂を破ったのは腹の奥へ響く鈍い衝撃だった。
土煙が立ち込め、幾度も重なる爆音と激しい地響きが遺跡全体を揺さぶった。
その振動に引きずられるように意識が夢の底から強引に引き上げられた。
「っ……!」
覚醒した瞬間、脳裏をよぎったのはデリオラの復活だった。
だが、階段の下に鎮座する巨体は、依然として氷の中に閉じ込められたままだ。
亀裂はない。
封印も、まだ完全には破られていない。
「……ナツか」
答えはすぐに出た。これほど派手に正面から馬鹿正直に暴れ回る男など、ギルドには一人しかいない。
来た道を引き返し、爆音の中心へ急ぐ。
地下から階段を駆け上がるほど、肌を刺す冷気は濃さを増していった。やがて通路の先に見えてきたのは、入り口を塞ぐ分厚い氷壁。
「この氷……」
そこから立ち昇るのは、ナツが村で身に纏っていた氷と同じ魔力だった。
零帝のものだ。
この奥でナツが戦っている。
零帝を止めなければならない。そう確信して踏み出した瞬間、死角から一点の光が飛来した。
「ぐっ!?」
反応が半拍遅い。
腹部へ深くめり込んだ水晶玉の一撃に内臓を揺さぶられ、逆流した胃液が喉を焼く。
「が、は……っ」
奪われた呼吸。
腹を押さえたまま、その場へ膝をついた。
「ほっほっほ。少々卑怯な手で申し訳ありませんな。これ以上、零帝様の邪魔をする者を通したくなかったものでね」
氷の陰から姿を現したのは、仮面を被った小柄な男だった。宙を舞う水晶玉を手元へ呼び戻し、僕を見下ろしながら愉快そうに笑っている。
「どいてくれないかな……。僕は、その氷の奥に用があるんだ」
口内に残った苦い液を吐き捨てる。腹の痛みを押し殺して立ち上がると、男は芝居がかった仕草で首を振った。
「それは困りますな。零帝様には、まだ働いていただかねばなりませんので」
「なら、力ずくで退かす」
「できるものなら」
自身にかかる重力を軽減し、床を蹴った。
壁から天井へ。
さらに柱を足場として角度を変え、仮面の男の懐へ一気に潜り込む。
だが、拳は届かない。
「どうしましたかな? 私を倒すのではなかったので?」
行く手を遮ったのは、意思を持つかのように宙を駆ける水晶玉だった。
進路を塞がれ、拳の軌道を逸らされる。体勢を立て直そうと足を下ろせば、今度は着地の瞬間を狙った一撃。
「っ……!」
肩。
脇腹。
太腿。
いずれも致命傷ではないものの、攻撃を受けるたびに身体の動きが鈍くなっていった。
速さではこちらが上回っているはずだ。それでも水晶玉は攻め筋を読んだように先回りす。
最初に受けた腹部への一撃も尾を引いている。腹に入った衝撃が、呼吸のたびに鈍く響いていた。
「倒すさ。……その前に、その目障りな水晶玉を片付ける!」
壁を蹴って天井付近まで跳ね上がり、旋回する水晶玉へ片手を向けた。
「
発生させた引力が水晶玉の軌道を強引に捻じ曲げる。逃れようとするそれを重力の核へ引き込み、勢いのまま石床へ叩きつけた。
甲高い破砕音。
無数の破片が床を跳ねる。
「さあ、武器は壊した。これで少しは大人しくしてくれるかな」
荒い息を整えながら男へ向き直る。
だが動揺した様子はない。
仮面の奥にあるのは、変わらぬ余裕だけだった。
「武器を壊したと?なら、戻せばいいだけの話ですぞ」
「戻す?何を――」
問い返した直後、背中を貫く凄まじい衝撃。
「ぐぁっ!?」
身体が宙を舞い、そのまま壁へ叩きつけられた。視界に火花が散る中で振り返れば、砕いたはずの水晶玉が傷一つない姿で浮かんでいる。
「また不意打ちか……。なんだよ、予備でも持ってたの?」
「ほっほっほ。さて、どうでしょうな」
男の周囲をゆるやかに旋回する水晶玉。
先ほどまで床に散らばっていたはずの破片は、どこにも見当たらない。
予備には見えなかった。
砕けたものが元へ戻ったとしか思えない。
単に破壊するだけでは意味がないのなら、動かせる空間ごと塞ぐしかない。
「だったら、逃げる余地ごと潰す」
身を低くしたまま周囲へ魔力を伸ばし、崩れた石材を一斉に引き寄せる。
集めた石材に反発力を与え、上下左右から男へ撃ち込んだ。
逃げ場を埋め尽くす石の弾丸。
しかし、そのすべてが男へ届く寸前で形を失っていく。
長い年月を一瞬で経たかのように表面が崩れ、やがて残ったのは宙を漂う塵だけだった。
「石材が……!?」
立ち込める粉塵を一筋の影が切り裂く。
避ける余裕はない。
水晶玉は痛みの残る腹部へ正確に突き刺さり、肺に残っていた空気を強引に押し出した。
「がっ……!」
膝から力が抜ける。
息を吸おうとしても、喉の奥で引っ掛かるばかりだった。
「残念ながら、タイムアップのようですな」
倒れた僕の横を通り過ぎ、氷壁の向こうへ歩いていく仮面の男。
物体を一瞬で塵へ変える現象。
砕けた水晶玉を元の姿へ戻す力。
そんな芸当を可能にする魔法を、僕は一つだけ知っていた。
いや、知っているとは言い難い。
過去にその存在を耳にしたことがあるだけだ。
推測を確信へ変えるには情報が足りず、今の身体には考えを詰める余裕も残されていない。
「……待て」
必死に伸ばした手は虚空を掻いた。
男の姿が氷壁の奥へ消えた直後、その向こうから膨大な魔力の波動が溢れ出す。
遺跡全体を揺さぶる地鳴り。
傾いていた床が、不自然な速さで水平へ戻り始めた。
「まずい……!」
痛む腹を押さえ、這い上がるように氷壁の内側へ踏み込む。
そこではナツと零帝が対峙しており、その傍らには重傷のはずのグレイまで立っていた。
「ほっほっほ。それでは『
仮面の男は僕たちの横を平然と通り過ぎ、そのまま遺跡の奥へ向かっていく。
本当なら今すぐ追いかけ、あの仮面ごと叩き伏せるべきだろう。けれど、その前に確かめておかなければならないことがあった。
「ナツはともかく、なんでグレイまでいるんだ。エルザが連れ帰ったんじゃ……」
「今この島で起きてることは、俺とリオンの問題だ。あいつとは俺が決着をつける。誰にも邪魔させねぇ」
低く響いた声には、何を言われても退かないという決意が滲んでいた。
リオンと、師の命を代償に封じられたデリオラ。
グレイがこの場を離れない理由としては、それだけで十分だった。
「……わかった。エルザに会って
「悪いな」
「無理はしないで。最後はみんなでギルドに戻るよ」
「ああ、わかってる」
その返事を聞き届け、遠ざかる仮面の男の魔力を追う。
腹部は脈打つように痛み、足を進めるたびに呼吸が浅くなる。それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。
あの仮面の奥に隠された正体を暴き、今度こそ止める。
「ったく、人には無茶するなって言いながら、自分が無茶してちゃ格好がつかねぇな」
背後から聞き慣れた声が届いた。
振り返るまでもなく、その不敵な口調だけで誰なのかはわかる。ほどなく拳を鳴らしたナツが追いつき、そのまま僕の横へ並んだ。
「ナツ。リオンの方はいいのかい?」
「あいつはグレイに任せた」
ナツは前だけを見据え、荒々しく鼻を鳴らす。
「それより俺の狙いは、あのナマハゲ野郎だ!あんにゃろう、人がせっかく壊した遺跡を勝手に直しやがって!」
怒りに任せて床を踏み鳴らす姿には、こんな状況でなければ呆れていたかもしれない。
けれど今は、その単純さが少しだけありがたかった。
「ハハ、今回ばかりはナツと同感だよ。僕もあいつには、きっちりお返しをしなきゃいけないからね」
「ヴェルクもあいつに何かされたのか?」
「見ての通り。訳のわからない魔法で、手痛い洗礼を受けたところさ」
「らしくねぇな」
「自分でもそう思うよ」
そう答えて前へ視線を戻すと、開けた通路の先に仮面の男の背中が見えた。
「目標は一緒みたいだな」
「だね。負けたままじゃ『
「「100万回ブッ飛ばす!!」」
重なった声を合図に地を蹴る。
「『
空間の重圧を拳へ重ね、先陣を切って男の背後へ迫った。
「ほっほっほ」
振り向きざまに拳をいなした男は、嘲るような笑みを崩さないまま天井へ片手を掲げる。
次の瞬間、頑丈な石造りの天井に亀裂が走り、巨大な岩塊が僕たちの頭上へ崩れ落ちてきた。
「こんなもん、効くかぁ!!」
後方から跳び上がったナツが、炎を纏った蹴りで岩塊を真っ二つに叩き割る。
だが、砕けたはずの石材は地面へ落ちなかった。
「えっ」
「元に戻った……!?」
無数の破片が空中で引き寄せられ、時間を巻き戻すように元の形を取り戻していく。
亀裂さえ残さず天井へ収まった光景を前に、ナツは呆気に取られていた。
「ご覧の通り。こうやって遺跡を元に戻したのですよ。あの水晶玉もね」
慇懃無礼に頭を下げた男は、自らの魔法を見せつけるように両手を広げる。
「これは『
復元――いや、それだけではない。
壊れたものを戻すだけなら、先ほど石材が塵になった理由を説明できない。あの男が操っているのは物体そのものではなく、その状態や経過した時間に近い何かなのだろう。
下手に攻撃を仕掛ければ足場も武器も崩され、攻め筋そのものを潰されかねない。
「考え事か? なら置いてくぞ!」
「待って、ナツ!」
制止するより早くナツが飛び出したものの、仮面の男は煙に溶けるように姿を消した。
「あ、逃げた!」
ナツが慌ただしく周囲を見渡す。
しかし通路には人の気配すら残っておらず、完全にこちらの感覚から逃れていた。
「どこへ行きやがった、あの野郎!!」
「儀式をするなら頂上のはずだけど……」
「いや、下だ!」
鼻をひくつかせたナツが迷いなく断言する。
「下からあいつの匂いがしてくる!」
「本当!?」
「間違いねぇ! あいつの匂いはよーく覚えてる。甘い女の香水の匂いだ」
「……オーケー、行こう!」
微かな残り香さえ逃さないのは、さすがドラゴン譲りの嗅覚というべきだろう。
僕たちはその場で反転し、階段を転げ落ちるほどの勢いで地下へ駆け戻った。ナツが辿る匂いに従って湿り気を帯びた洞窟を進み、最深部に近づいたところでようやく仮面の男の背中を捉える。
「「とりあえず――」」
ナツの拳に炎が灯り、僕も空間の重圧を一点へ集めた。
「燃えとけぇ!!」
「潰れとけぇ!!」
洞窟内に響き渡る二つの叫び。
炎と重圧が同時に襲いかかったものの、仮面の男は柳のように身を翻し、その場から消えるほど軽やかに攻撃をかわした。
「ほっほー、随分と乱暴な挨拶ですなぁ。しかし、よく私がここにいると気づきましたな」
「俺は鼻がいいんだ」
「ほっほっほ。そうでしたか。ですが、私はどうしてもデリオラを復活させなければならないのですよ」
「やめとけ、やめとけ。それはもう無理だ!」
ナツは鼻を鳴らし、考える間もなく言い切った。
「ほう……なぜ無理だと?」
「グレイがあいつをブッ飛ばす! そして俺たちが、お前をブッ飛ばす!」
その声に迷いはない。
ナツはグレイが勝つことを、欠片ほども疑っていなかった。
「それはどうでしょう」
男が余裕を崩さないまま視線を向けた先には、洞窟の奥に鎮座するデリオラの巨体がある。
つられて振り向いた僕たちの目の前で、氷の塊が異様な輝きを放ち始めた。
「光……!?」
「たった一人では『
天井の隙間から差し込んだ紫の光が氷へ触れた瞬間、パキリと硬質な音が最深部に響き渡る。
「デリオラの氷が!!」
か細い光が絶対と思われた氷へ亀裂を刻み、溶け出した水は生き物のように地面を這い始めた。
「しくじった……!」
見上げた先で、デリオラを覆う氷が少しずつ形を失っていく。
完全に復活すればナツもグレイも、この島に暮らす者たちまで巻き込まれるだろう。
残された手段が脳裏をよぎった。
『
その言葉を思い浮かべただけで、指先がわずかに震える。
恐怖ではないとは言い切れない。けれどそれ以上に、目の前の悪魔をどうにかしなければならないという焦燥が思考を焼いていく。
「何をぼーっとしてんだ!」
ナツの一喝が洞窟内に響いた。
「上のやつを何とかするのが先だ!」
「……あ、ああ!」
その声で意識が現実へ引き戻される。
今は迷っている場合ではない。月の雫を止めれば、まだデリオラの復活を阻止できる可能性が残っている。
「逃げる気ですかな、
上層へ走り出そうとしたナツの足元が崩れ、積み重なった石材が一斉に奈落へ落ちていった。
「うおっ!?」
「ナツ!」
即座に周囲の岩へ魔力を伸ばし、体勢を崩した男の背後へ撃ち込む。
しかし岩は届く前に急速に風化し、粉塵となって宙へ消えた。
「ほっほっほ。どうやら私を追ってきたのは失敗だったようですな」
男の余裕は崩れない。
その間にもデリオラの氷は溶け続けており、ここで足止めされるほど復活が現実味を帯びていく。
仮面の男を倒し、月の雫を止め、デリオラを覆う氷も守る――そのすべてを二人だけで抱えるには、どう考えても手が足りない。
だからこそ、やるべきことは一つだった。
「ナツ」
「なんだよ」
「上は任せた」
振り向いたナツと一瞬だけ視線がぶつかる。
それ以上言葉を重ねる必要はなかった。こちらの意図を察したナツは獣のように笑い、両の拳を打ち合わせる。
「おう。上は俺がブッ壊す」
「その前に少し荒っぽくいくよ」
「あ?」
「ごめんね」
『
「うおっ、何す――」
「行って!」
ナツの身体にかかる重力を軽減し、出口へ向けて空間の反発を叩き込む。
「うおおおおおおおっ!?」
凄まじい勢いで吹き飛ばされたナツは、土煙を巻き上げながら上層へ続く通路へ消えていった。
途中で壁を蹴る音が響き、次いで遠ざかる声が洞窟内へ返ってくる。
「上は任せろ! そのナマハゲ野郎、俺の分までブッ飛ばせよな!」
「わかってるよ!」
ナツの気配は迷いなく上層へ向かっている。
彼がもう振り返らないのなら、僕も振り返る必要はない。
「ほっほっほ。
愉快そうに笑う仮面の奥へ視線を据えた。
「まだ終わったわけじゃない」
腹部は脈を打つように痛み、呼吸も浅い。
背後ではデリオラの氷が今も溶け続けている。
それでも、ここで足を止める理由にはならなかった。
「ナツはナツの全力で、僕は僕の全力を尽くす。……それだけだよ」
重圧を纏った魔力が膨れ上がり、洞窟の空気をじりじりと震わせ始めた。