FAIRY TAIL ―継ぎ接ぎのS級魔導士― 作:七草空斗
ナツの足音が遠ざかり、再び地下洞窟には不気味な静寂が戻ってきた。
だが、その静けさは決して安息を意味するものではない。
頭上の儀式の間から漏れ出す紫色の光――『
僕はザルティから視線を外さないよう注意しながら、ほんの一瞬だけ背後のデリオラへ目を向けた。
氷の表層は絶え間なく形を失い、溶け出した水が足元を這うように広がっている。けれど、まだ悪魔の本体が完全に露出するまでには至っていない。
なら、今の僕にできることは限られている。
こいつを可能な限り足止めすること。
ナツが上で『
そして、できることなら――。
「あんたの顔面に、一発くらいは叩き込ませてもらうよ」
「ほっほっほ。威勢がよろしいですなぁ」
ザルティは仮面の奥で笑いながら、宙に浮かぶ水晶玉をゆっくりと回転させた。その余裕は、腹立たしいほど崩れない。
「はぁっ!」
ナツから模倣した紅蓮の炎を両足へ纏い、爆ぜる炎を推進力に変えて地を蹴る。
炎による加速へ『
床から壁へ、壁から天井へと足場を移し、直線では捉えられない軌道でザルティの死角へ潜り込む。
「ほっほっほ。
ザルティが軽く指を振った。
その動きに応じて水晶玉が弾丸のように加速し、拳の届く寸前で進路へ割り込んでくる。
先ほどと同じだった。
こちらの死角へ回り込み、拳の軌道を押し退け着地しようとする足元へ攻撃を重ねてくる。まともに追えば、水晶玉一つに振り回されるだけだ。
なら、同じ攻め方を繰り返す必要はない。
僕は迫る水晶玉へ片手を向けた。
「
二重の重圧を球体の片側へ集中させ、軌道を強引に地面へ引き落とす。
水晶玉は床へ激突したものの今回は粉々に砕かなかった。表面に亀裂が走り、欠けた破片が一つ転がっただけだ。
それでも均衡を失った球体は大きく揺れ、ザルティの周囲へ戻ろうとする動きが僅かに鈍る。
「おや。今度は壊し切りませんでしたな」
「壊しても意味がないことくらい、もう分かってるよ」
僕の言葉にザルティは愉快そうに肩を揺らし、欠けた水晶玉へ掌を向けた。
「でしたら、この程度の傷を残しておく意味もありませんな」
床に落ちた破片が、重力に逆らうように浮かび上がる。
それは水晶玉の欠けた部分へ吸い寄せられ、失われた形をなぞるように元の位置へ収まっていった。亀裂も次第に閉じ、傷一つない球体へ戻ろうとしている。
僕はその流れから目を離さなかった。
崩れた遺跡を元へ戻し、水晶玉を復元する一方で、飛ばした石材は一瞬で塵へ変えた。
壊れた物を直しているわけではない。
物体が辿った時間を前後へ動かしている。
そして、その魔法には覚えがあった。
「……『時のアーク』」
破片を戻していたザルティの手が僅かに止まる。
「ほう。ご存じでしたか」
「時を操る『
「ご名答ですな」
ザルティは否定することなく、復元を続けている。
その魔力は水晶玉の表面を覆うのではなく、亀裂の奥へ染み込むように流れていた。現在の形へ力を加えているのではない。おそらく、壊れる前に存在していた形を引き寄せている。
「けれど、生き物には使えないみたいだね」
「ほっほっほ。なぜそう思われますかな?」
「デリオラに使えるなら、わざわざ『
「なるほど。ですが、魔法の性質を知ったところで――」
水晶玉が完全な形を取り戻し、ザルティの指先がこちらへ向けられる。
「私に対する有効打がありますかな!」
復元された水晶玉が再び動き出す。
だが、僕が言葉を交わしていたのは考えを整理するためだけではない。
ザルティの魔力が亀裂へ入り込み、失われた形を取り戻していく。その流れを、最初から最後まで見極めるためだった。
この魔法の構造を今は完全には理解できていない。
ザルティのように、物体の時間を操る感覚もない。
それでも、すでに流れている魔法へ同じ性質の魔力を重ねることならできるかもしれない。
「
右手に集まったのは、ザルティのものと似ていながら形の定まらない粗い魔力だった。
それを迫る水晶玉へ向ける。
「……戻る道筋があるなら、少しくらいは乱せる」
僕の魔力が水晶玉へ触れた瞬間、滑らかに回転していた球体が不自然に揺れた。
「なっ……!?」
表面に消えたはずの亀裂が一瞬だけ浮かび上がり、水晶玉の軌道がザルティの制御から外れる。
止められたわけではない。
復元を解いたわけでもない。
二つの異なる術式が同じ時間へ干渉したことで、制御が僅かに噛み合わなくなっただけだ。
けれど、その一瞬で十分だった。
「
軌道を乱した水晶玉を重力の核で捕らえ、床へ押しつける。
ザルティが制御を取り戻そうと魔力を注ぎ込むほど、そこへ絡みついた僕の術式も激しく軋んだ。
長くは保たない。
次も同じように干渉できる保証さえない。
だけど今だけは、水晶玉がザルティの元へ戻るより僕の方が速い。
「不完全とはいえ、私の術式へ割り込むとは……!」
「君みたいに扱えるわけじゃないよ。今の一度で精一杯だ」
『時のアーク』への集中を切り、即座に『
身体にかかる重力を限界まで削り、蹴り出す力のすべてを加速へ変える。腹部に鋭い痛みが走って視界が揺れたものの、足を止める理由にはならない。
「やっとできた――」
床を蹴り、壁を足場に角度を変える。
水晶玉の制御が戻るより早くザルティの懐へ飛び込んだ。
「あんたを殴る隙が!」
「しまっ――」
ザルティが後ろへ退こうとする。
だが、もう遅い。
「
三倍の重圧を拳へ重ね、真下から顎を撃ち抜く。
「ぐっ……!」
確かな手応えと共に小柄な身体が宙へ跳ね上がり、そのまま背中から岩壁へ叩きつけられた。
ようやく届いた一撃。
それでも勝ったとは思えない。床へ押さえつけていた水晶玉はすでに震え始め、ザルティの制御下へ戻ろうとしている。
「……ほっほっほ」
岩壁にもたれていたザルティが、ゆっくりと顔を上げた。
「驚きましたよ。まさか一撃をもらうとは」
「こっちは最初に何発ももらってるからね。お返しにはまだ足りないよ」
「なるほど。では、続きといきたいところですが――」
ザルティの視線が僕の背後へと向いた。
その瞬間。
パリィィィィン!!
洞窟全体を震わせるような硬質な破砕音が響いた。
反射的に振り返ると、デリオラを覆っていた氷が轟音と共に砕け散っていた。
天井から降り注いでいた『
だが、それまでに蓄積された光だけで十分だった。
氷結の殻は崩れ、封印は破られた。
そして幾年の沈黙を破るように、デリオラの巨体が洞窟の奥でゆっくりと動き出す。
「ヴオオオオオオオォォォォッ!!!!」
凄まじい咆哮が地下洞窟のすべてを揺さぶった。
耳の奥が痺れ、膝から力が抜けそうになる。肌を刺すほどの魔力圧が押し寄せ、腹部の痛みさえ一瞬遠のくほどの寒気が背筋を駆け上がった。
「デリオラの氷が……」
砕けた氷は役目を終えたかのように溶け始め、冷たい水となって足元を這いながら洞窟の奥へ流れていく。
咆哮に意識を奪われた僅かな間に、ザルティの気配は消えていた。
追わなければならない。
だが今はそれどころではない。
咆哮が途切れた洞窟に水音だけが残り、やがて背後の階段から不規則な足音が重なった。
「ヴェルク、大丈夫か」
振り返ると、傷だらけのグレイが壁に手をつきながら一歩ずつこちらへ向かっていた。
「うん、こっちは大丈夫。でも……」
僕たちの視線の先では、氷から解放されたデリオラが低い呻き声を漏らしている。
「ああ、分かってる」
妙に静かな声だった。
「デリオラは、俺がどうにかする」
「おまえら……には……無理だ……。アレは……オレが……!」
さらに後ろから、全身を傷だらけにしたリオンが這うように姿を現した。
「リオン」
追い続けた災厄を前に、リオンの身体は小刻みに震えている。
歓喜と執念。
そのどちらもが、掠れた声に入り交じっていた。
「やっと……やっと会えた……」
リオンを見つめるグレイの瞳には、深い憐れみが浮かんでいた。
あの身体でまだ戦うつもりなのだろう。リオンは震える脚を無理やり動かし、執念だけを支えにデリオラへ近づいていく。
「もういい、リオン」
歩み寄ったグレイが、すれ違いざまにリオンの腹へ拳を沈めた。
「がっ……」
すでに限界を超えていた身体は一撃に耐えきれず、力を失って地面へ崩れ落ちる。
グレイは倒れたリオンの傍らを静かに通り過ぎ、デリオラの正面へ立った。
「デリオラは……」
胸の前で両腕が交差する。
その構えを取った瞬間、洞窟の空気が一変した。
グレイを中心に冷気が膨れ上がり、足元を流れていた水が音を立てて凍りついていく。
「俺が封じる!!!」
「よ、よせグレイ!!」
倒れたままのリオンが必死に顔を上げ、残された力を振り絞るように叫んだ。
「あの氷を溶かすのに、どれだけの時間がかかったと思ってるんだ!!同じことの繰り返しだぞ!いずれ氷は溶け、また俺が挑むだけだ!!!」
グレイは答えない。
胸の前で腕を交差させたまま、ただデリオラだけを見据えていた。
僕は反射的にグレイへ一歩踏み出した。
「グレイ、早まっちゃダメだ」
呼び止めたものの、続くはずだった言葉は喉の奥で止まった。
グレイの横顔に浮かんでいたのはただの無謀でも、死に急ぐような諦めでもない。
リオンの執着も、ウルの死も、デリオラという災厄も、そのすべてを背負ったうえで過去に決着をつけようとする、重く静かな覚悟だった。
「もう、これしかねえんだ」
グレイはデリオラから目を逸らさない。
「今、奴を止めるにはこれしかねぇ」
彼が背負ってきたものを僕の言葉だけで否定することはできない。この場に積み重なった因縁も横から軽々しく断ち切っていいものではなかった。
それでも、誰かがまた命を差し出そうとしている。その事実だけが胸の奥を焼いた。
止める方法なら一つだけある。
決して選びたくはなかった、最悪の方法が。
僕はデリオラを見上げる。
「……グレイ」
「なんだ」
「もし、本当にどうにもならなくなったら、僕が――」
言いかけた瞬間、デリオラが動いた。
丸太のような腕がゆっくりと持ち上がる。
咆哮。
冷気を押し潰すような圧。
考えるより先に身体が動いていた。
「ヴェルク!?」
グレイの声が背後で響く。
『
その言葉が脳裏で形になる。
失敗すれば呑まれる。
最悪の場合、僕ごと封じてもらうしかない。
それでもグレイを死なせるよりは――。
「っ……!」
僕はデリオラの振り下ろされる腕へ手を伸ばした。
指先がその肉体に触れ、禍々しい魔力を捉える――はずだった。
だが、そこにあったのは長い時間をかけて削られ空洞になった殻のような感触だけだった。
肉体を満たしていたはずの魔力さえほとんど失われ、その奥に今にも消え入りそうな残滓が僅かに留まっているだけだった。
それでも、
けれど、その残滓は掴み取るより早く、砂のように輪郭を失っていった。
「……違う」
パキッ
硬質な音が響いた。
デリオラの動きが凍りついたように止まる。
振り下ろされかけていた右腕の肘から、不自然な亀裂が走った。
「え……?」
リオンが呆然と声を漏らす。
「ヴェルク! 『
グレイの声に、僕は首を振った。
「いや……できてない」
デリオラの右腕に生じた亀裂が、蜘蛛の巣のように巨躯全体へ広がっていく。
「生きている悪魔の感触が、ない」
それ以上は言えなかった。言うべきではないと思った。
この場で、その意味を受け止めるべきなのは僕じゃない。
「バ……バカな」
リオンが震える声で呟いた。
「そんな、まさか……!」
デリオラの巨体が砂のように崩れ始める。
誰も動けなかった。
僕も、グレイも、リオンも。
崩壊していく悪魔の巨躯をただ見上げることしかできなかった。
「デリオラは……」
倒れたままのリオンが崩れゆくデリオラへ震える手を伸ばした。
「すでに、死んで……」
言葉はそこで途切れ、その先を継ぐ者もいなかった。
サラサラと、砂のように崩壊していくデリオラ。
十年。
その長い時間の中で、ウルの氷はただ封じていただけではなかった。
戦っていたのだ、この災厄と。ずっと、命を削り続けながら誰にも見えない場所で。
「かなわん」
リオンは地面を叩いた。
拳が震えている。
「オレには……ウルを超えられない」
その声は、子供のようにか細かった。
僕は何も言わなかった。
慰めることも、否定することもできなかった。
これはリオンの敗北であり、グレイの過去であり、ウルが残した答えだった。
やがて、デリオラの巨躯は完全に崩れ落ちた。
そこに残ったのは、冷たい水音だけ。
僕は静かに隣に立つグレイを見る。
グレイは溢れる涙を拭おうともせず、空になった空間を見つめていた。
「ありがとうございます……師匠」
その言葉だけが静まり返った洞窟に深く染み込んでいった。