世界一幸せな男   作:トトロのとろろ

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編集前と内容に違いはありません。読みやすくなればと思い一部文章を修正いたしました。


第1話

聞き慣れた目覚ましを、半分眠ったまま止める。時間は朝5:30。今日から大幅に変化する日常も、朝の習慣だけは変わる事はない。

 

顔を洗うのもそこそこに運動着に着替え、バリトンサックスのケースを背負って静かに家を出る。準備運動を済ませて走り出すと、まだ薄暗い道の先で、咲き始めた桜が白く浮かぶ。

 

少し冷たく、それでいてどこか甘い春の風を切って走るうちに、いつの間にか大吉山の麓に着いていた。水を一口含んで登山道へ入ると、ハイキングコースほどの坂道でも、走って上がった息にはほどよい負荷になる。湿った土の匂いを吸い込みながら登っていけば、木々の隙間から差し込む朝日が、少しずつ足元を明るくしていく。そんな時間が、お気に入りだった。

 

頂上のベンチにケースを下ろし、固定具を外してサックスを取り出す。キーを一つずつ押し込み、タンポの閉じ具合を指先で確かめてから、ストラップを首にかける。

 

息を整えることなく最初の音を吹くと、近くの木から、鳥が一斉に飛び立った。走ってきた身体のまま出した音は、頭の中の楽譜から一つもずれずに、朝の空気へ伸びていく。毎朝山を登らせても、楽器はまだ文句を言ってこないらしい。

 

30分ほど吹いてから、今日の練習を切り上げ、来た道を引き返す。朝日が昇り切って、さっきとは違う顔になった街を走って帰ると、見慣れた二階建ての小洒落た一軒家が見えてきた。

 

Blue Lanternという看板を小さく掲げたジャズカフェ。子供の頃から開けてきたドアに手をかけると、焼けたパンとスープの匂いが流れてくる。

 

「おうおかえり。入学初日にも日課を欠かさないなんてお前は相変わらずだな」

 

「ただいま。流石に習慣になってるから入学ぐらいじゃ何も変わらないよ」

 

「そうかい。もうすぐ朝飯できるからさっさとシャワー浴びてこいよ」

 

「ありがとう。冷めないうちに戻って来るよ」

 

店の奥の階段から二階へ上がり、シャワーで汗を流す。自室で真新しい制服に袖を通して下りると、ちょうど朝飯ができたところだった。皿を受け取り、いつものテーブル席へ運んでいく。店にはカウンターもあるが、食事は向かい合って食べる。マスターが昔から決めていることだ。

 

「「いただきます」」

 

2人で手を合わせスープに口を付ける。カフェを経営しているからか、我が家の朝食は洋食が多い。マスターの料理は店として出すだけあって、何年食べても飽きることがない。しかし、料理を口に運び続ける手も、マスターから話しかけられては止めざるを得なかった。

 

「高校では新しい事をしようと思ってるって言ってたけど何するか決めてるのか?」

 

「決まってないよ。というよりもどんな人がいるのかなってのを楽しみにしてる感じかな」

 

「そうか。まあ何をするかより誰とするかってのも大事な考え方だ。お前がそうしたいならそうしたらいいさ」

 

「誰と…か」

 

思えばマスターは、昔から似たようなことを言っていた。この人と一緒にやりたい。そう思える人に、俺は出会えるだろうか。焦りはない。それでも、この先もずっと出会えないかもしれないと思うと、少しだけ不安になった。

 

「うん。まあ楽しめそうなところを探してくるよ」

 

話が他愛のない世間話に移ると、止まっていた手もまた動き出す。食べ終わる頃には、そろそろ家を出るかという時間になっていた。自室へと戻り、昨夜のうちに用意しておいた鞄を手に取る。鏡で制服の襟を直してから下りると、マスターはもう片付けを終え、開店の準備に取りかかっていた。

 

「いってきます」

 

「車に気をつけろよ」

 

さっき走った道を、今度は制服で歩く。早朝には誰もいなかった通りに、同じ真新しい制服がちらほらと混ざっていた。北宇治高校に近づくにつれてその数は増え、聞こえてくる声も賑やかになる。

 

北宇治高校の校門をくぐると、同級生に混じって、部活動の勧誘に声を張り上げる先輩たちの姿が目に入る。鍛えると背が伸びなくなるという俗説を裏切って育ったこの身体は、運動部の先輩たちの目によく留まるらしく、次々に熱い声がかかった。

 

その場では断りながらも、各部の活動場所だけは頭に入れておく。高校で楽器を続けるかどうかも、学校の中で何かを始めるかどうかも、決めていない。そのぶん選択肢は広く、かえって頭を悩ませる。

 

そんな事を考えながら校舎へと向かって歩いていた俺の耳に、男子生徒の声が届いた。

 

「輝かしい皆さんの入学を祝して」

 

その声を合図に始まった演奏は、今流行りのドラマか何かの曲らしい。詳しくは知らないが、演奏に合わせて楽しそうに踊る同級生たちを見れば、流行っていることだけは分かる。

 

音の粒が揃った上で、屋外である事を思わせないしっかりとした音圧。それでいて金管が木管を飲み込まず、和音が濁らずに重なっていく。確かな基礎の上に立った演奏だった。

 

「吹奏楽部か…」

 

着慣れた制服に身を包み笑いながら吹く先輩たちの顔は、やけに眩しく見える。そんな風に思うのはきっと、今まで一人で吹いてきたからだろう。

 

明るい演奏に引かれるように、先輩たちの姿を見回していく。一つ一つの顔を見ながら聞いていると、その人の音だけが浮かび上がって聞こえる気がする。今朝も聞いたサックス。店でよく聞くフルート。空へ抜けていくトランペット。ただ、中には聞き慣れないものもある。旋律の裏を縫うように動く柔らかい音。どこで聞いたかも思い出せない、目立たない丸い音を追った先に、その人はいた。

 

そこから先は、もう他の誰も見ていなかった。

 

濡れ羽色のショートボブに、赤いリボンをかたどったヘアクリップ。演奏に合わせて小さく揺れる髪とは反対に、楽器を抱える姿勢は少しも崩れず、白い指先はピストンの上を迷いなく行き来していく。

 

「ユーフォニアム…か」

 

新しい事を始めるつもりでいた俺にとって、別の楽器というのは考えてもいなかった。

 

楽器が変わっても、これまでの経験が活きるところは多少あるだろう。それでも0が1になる程度の差で、新しい挑戦には違いない…と思う。しかも吹奏楽は大人数での合奏だ。一人で吹いてきた俺には、その経験がない。新しいことと呼ぶには十分すぎる。

 

…と、それらしい理由をいくつも並べてみたところで、結局のところ、これが一目惚れというやつなのだろう。

 

気付けば、俺の頭の中から吹奏楽部以外の選択肢は消えていた。

 

考えがまとまる頃には目の前の演奏は終わっていて、先輩たちは片付けを始め、同級生たちは校舎へと流れていく。遅れを取り戻すように、俺も少し早足でその流れに加わった。

 

(まずは全部のパートを見学しておくか)

 

焦る事なんてない。吹奏楽部に入る事はもう決めている。だからこそ、これから長い付き合いになる人たちがどんな人なのか、ちゃんと知っておきたかった。

 

俺の中に朝感じていた漠然とした不安はもう無かった。

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