聞き慣れた目覚ましの音が聞こえ、寝ぼけ眼を擦りながら目覚ましを止める。時間は朝5:30を示していた。今日から大幅に変化する事になる日常も、朝の習慣だけは変わる事はなかった。顔を洗うのもそこそこに、いつもの運動着に着替えバリトンサックスが入ったケースを背負い静かに家を出た。
家の前で軽く準備運動をしいつもの様に走り始める。いつも通りの景色だが最近咲き始めた桜がこの時間でも明るくなり始めた今の季節によく映える。
そんな事を考えながら走っていると、目的地に着くのも自然と早く感じられた。気付けば目の前に広がる大吉山の麓へと辿り着く。軽く水分補給を済ませた俺は、頂上へと向かい登山道を歩き始めた。
ここまで走ってきて息が上がっている俺の体にハイキングコースの様な大吉山の登山道は、歩いて登っても丁度いい負荷だった。自然の匂いと朝の日差しを感じながら歩くこの時間は、とても気持ちが良くてお気に入りの時間だった。
頂上まで登り切った俺はベンチへと背負っていたケースを下ろし、厳重に固定されているサックスを手早く取り出しながら軽く異常がないか確認していく。
ストラップを首にかけいつものように構えて音を出す。頭の中に入っている楽譜通りの音と寸分の狂いも無い。軽く息を整えただけの状態だが、天気のいい日は毎日行っている俺にとっては関係がなくいつも通りの音が出る。無茶な楽器の使い方をしている自覚はあるが、どうやら今日は調整は必要なさそうだった。
30分ほど吹き続け今日の練習に目処を付ける。疲労の溜まる体に鞭を打ち下山の準備を整える。きた道をそのまま引き返し街中を走って帰る。気持ちのいい疲労感が体に溜まる頃、俺の目に見慣れた二階建ての小洒落た一軒家が見えて来た。
Blue Lanternと言う看板が小さく掲げられたジャズカフェ。ここが俺の育った家だ。ドアを開けるとパンとスープのいい匂いが漂ってきた。
「おうおかえり。入学初日にも日課を欠かさないなんてお前は相変わらずだな」
「ただいま。流石に習慣になってるから入学ぐらいじゃ何も変わらないよ」
「そうかい。もうすぐ朝飯できるからさっさとシャワー浴びてこいよ」
「ありがとう。冷めないうちに戻って来るよ」
店内である一階を通り過ぎ奥の階段から2階へと上がりシャワーを浴びる。汗を流した俺は自室で真新しい制服に袖を通し一階へと戻った。
丁度出来上がった所だった様で、料理の盛り付けられた皿をいつも使っているテーブル席へと運ぶ。この店にはカウンターもあるが、正面から顔を見ながら一緒に食べたいというのがマスターの考えだった。
「「いただきます」」
2人で手を合わせ朝食に手を付ける。カフェを経営しているからか、我が家の朝食は洋食が多い。マスターの料理は店として出すだけあってとても美味く、食べ慣れた今でも自然と食べ進める手は止まらない。しかし、そんな手もマスターから話しかけられては止めざるを得なかった。
「高校では新しい事をしようと思ってるって言ってたけど何するか決めてるのか?」
「決まってないよ。というよりもどんな人がいるのかなってのを楽しみにしてる感じかな」
「そうか。まあ何をするかより誰とするかってのも大事な考え方だ。お前がそうしたいならそうしたらいいさ」
「誰と…か」
思えばマスターは似た様な事をよく言っていた様な気がした。この人とやりたいと思える人が現れるだろうか。焦る気持ちはない。だが、この先もそんな人に出会えないかもしれないと思うと少しだけ不安になった。
「うん。まあ楽しめそうなところを探してくるよ」
話の内容が世間話へとなるにつれ食事の手も進んでいき、食べ終わる頃にはそろそろ家を出るかという時間になっていた。自室へと戻り昨日のうちに準備しておいた鞄を手に取り、鏡で登校前の最後の確認をして部屋を後にする。一階へ降りると、マスターは朝食の片付けを終え開店準備を始めていた。
「いってきます」
「車に気をつけろよ」
短い挨拶を済ませ家を出る。少し歩くとそこにはさっき走った時には見かけなかった同級生達の姿をちらほらと見かけた。その姿は今日から入学する北宇治高校に近づくにつれ多く見かけ、聞こえてくる声も賑やかになっていった。
北宇治高校の校門まで辿り着くと、周囲には同級生の姿だけでなく、部活動の勧誘に勤しむ先輩達の姿が目立つ様になり、小さい頃から体を鍛えると、身長が伸びなくなると言われている説を裏切るかの様に、身長と筋肉を成長させたこの体を見た運動部の先輩達からの熱い勧誘を受けていた。
その場では断りつつも、各部活の活動場所を確認しいつでも見学できる様にしながら、新しい高校生活をどう過ごそうか考えていた。高校からは楽器を続ける事にこだわりは無かったし、校内のコミュニティである事にもこだわっていなかった。それが返って選択肢を広める事になり頭を悩ませた。
そんな事を考えながら校舎へと向かって歩いていた俺の耳へと、男子生徒の声が聞こえてきた。
「輝かしい皆さんの入学を祝して」
その声を発端に聞こえてきた演奏は、今流行りのドラマか何かのテーマソングだった。ドラマかどうか詳しい事は知らなかったが、先輩達の演奏に合わせて楽しそうに踊る同級生達がちらほらと見えた事もあり、少なくとも今流行している曲である事は確かだった。
音の粒が揃った上で、屋外である事を思わせないしっかりとした音圧。それでいて金管が木管を飲み込まず綺麗なハーモニーを奏でるその演奏は、確かな基礎を感じさせるレベルの高い演奏だった。
「吹奏楽部か…」
着慣れた制服に身を包み笑顔で楽しそうに演奏している先輩達の顔は、俺にはとても眩しく見えた。そんな風に思うのは今まで1人で吹いてきたからだろう。
そんな事を考えながら、明るく楽しげな演奏に心惹かれ、演奏している先輩達の姿を見回した。どの先輩も笑顔を浮かべ仲が良い様子が伺える。そんな中1人の先輩の姿が目に止まる。その瞬間から、その人以外が目に入らなくなっていた。
濡れ羽色に艶めく綺麗なショートボブに、赤いリボンを形取ったヘアクリップを添えた髪型が演奏に合わせて小さく体を動かすたびに揺れ、楽器を抱える綺麗な姿勢は崩れる様子を見せない。まるで楽器と一体になっているかの様に動くその指先は、手入れを欠かさない事が伺える綺麗な肌に包まれている。そんな彼女の一挙手一投足に俺は目を奪われていた。
「ユーフォニアム…か」
新しい事を始めようと思ってた俺にとって、別の楽器を始めるというのは考えてもいなかった。どんな楽器を始めるにしろ今までの経験を活かせる所は多少ならあるだろう。だがそれは0からではなく1から始める程度の違いでしかなく、間違いなく新しい挑戦だった。その上、ソロではなく吹奏楽という大人数で行う合奏もほとんど経験がなかった。それはまさしく新しい事を始めると言える事だ。
何かと理由を付けてみたが結局の所、これが一目惚れというやつなのだろう。
気付けば俺の頭の中からは吹奏楽部以外の選択肢は消えていた。
考えがまとまる頃には目の前の演奏は終わっており、先輩達は片付けを始め同級生達は校舎へと足を進めていた。遅れを取り戻す様に少し早足で校舎へと歩きながらこれからのことを考えていた。
(まずは全部のパートを見学しておくか)
焦る事なんてない。吹奏楽部に入る事はもう決めている。だからこそ、これから長い付き合いになる人達がどんな人なのか、ちゃんと知っておきたかった。
俺の中に朝感じていた漠然とした不安はもう無かった。