サンライズフェスティバル当日。
朝一番、学校に集合してトラックへ楽器を積み込む頃には、指先はもう小さく震えていた。
別に、体調が悪いわけじゃない。
それなのに、楽器へ手をかけるたび指先が微かに震え、初めて行うこの作業もさらに慎重になる。
この感覚を覚えるのは、随分久々のことだ。
失敗しても、迷惑がかかるのはいつも自分一人だった。演奏を外すことなんて、もう長い間考えたこともない。人前で吹くことにだって、とうに慣れているはず。
なのに、今日は違う。
会場に着いて、その理由が少しだけ、わかった気がする。
すでに支度を終えた学校の衣装が、あちこちで日差しを弾く。楽器を担ぐ生徒たちの合間を縫うように、まだ本番前の緊張した空気が漂っていて、その先にはこれから俺たちを見るための観客がいた。
今日は、一人で吹くわけじゃない。俺が音を外せば、それを聞くのは俺だけじゃない。俺が足を乱せば、隣の誰かまで巻き込んでしまう。採点があるわけではないが、それでも今日は、北宇治高校吹奏楽部の一員として、観客の前に立つ。
さっきまでぼんやりとしていた指先の震えは、今はもう、誤魔化しようのないものになっていた。
その懐かしい感覚を抱えたまま、低音パートの輪の中で歩く。辺りを見渡していると、ふと、黄前先輩と奏先輩の姿がないことに気づいた。
軽く周囲を探すと、階段状になった広場の上で二人は足を止め、どこかの学校を眺めている。
呼びに行こうと近づくが、何を話しているかはまだ聞こえない。ただ、黄前先輩を見上げる奏先輩の横顔だけが、やけに鮮明に目に焼きつく。自分に向けられる事のない、柔らかすぎる表情だった。
「おーい!遅れますよー!」
「ごめーん!すぐ行くー!」
駆け寄ってきた先輩たちと横に並んで歩き出すと、ふと視線を感じた。先輩たちへ向けられたものだろうと振り返ってみても、それらしい主は見当たらない。
代わりに目が合ったのは他校の女子生徒で、振られた手に振り返していると、頭に軽い衝撃が走った。
「あいたっ」
「何油売ってるんですか。置いていきますよ」
驚いて振り返ると、奏先輩が後ろ手を組んだまま、そう言い残して先を歩いていく。
「すみません!すぐいきまーす!」
追いついた頃には、奏先輩はもう黄前先輩の隣に戻っていて、俺もその横に並んだ。
「2人で何してたの?」
「いえ、誰にでも尻尾を振る犬がいたので」
「ちょっ、奏先輩!」
「あーなるほどそういう事」
「黄前先輩も、違うんですよ」
俺の弁解には興味もなさそうに、2人は早足で歩き出す。追いかけるように移動していると、低音パートの輪への合流もあっけないほど早かった。
立ち止まっているみんなの視線の先には、見知らぬ老紳士と言葉を交わす滝先生の姿があった。
「あの人滝先生の知り合いですかね?」
「あれが僕のじいちゃんだよ」
「へーそうなんだ。じゃああれが龍聖か。応援団の衣装カッケーな羨まし」
「まあ男子校だし、衣装のデザインも自然とそっちによるからな」
そんな話をしていると、求の声に気づいたのだろう。滝先生との挨拶を終えた求のおじいさんが、こちらへと歩いてくる。
「求、元気そうでよかった。皆さん初めまして、求の祖父で月永源一郎と申します。いつも求がお世話になっております」
「いえいえそんなお世話だなんて」
「ちょっとじいちゃんそういうのいいから」
よほど恥ずかしかったのだろう。求は、返事をしていた黄前先輩の前に割って入り、おじいさんに食ってかかる。だが、おじいさんの方にはまだ言い足りないことがあるようだった。
「いや、でもな求がお世話になったし、色々ご迷惑もお掛けしたんじゃないかと思うとやっぱり一言くらい言っておくべきじゃないか」
「ちょっとじいちゃん本当に大丈夫だから!ほらもう言ったしそろそろいいでしょ」
おじいさんの背中を龍聖の列へ押し戻そうとする求は、耳まで赤く染まっていた。まあ、あれはさすがに同情する。
「分かったから最後に一言だけ、皆さんこれからも求の事どうぞ宜しくお願いします」
「えっ、あっ、はい! こちらこそよろしくお願いします」
求のおじいさんが見せた綺麗なお辞儀に、みんなが軽く動揺する中、また黄前先輩が返事を引き受けてくれる。俺たちもそれにつられて、頭を下げる。
その光景に満足したのか、求のおじいさんは龍聖の部員たちの下へ戻り、そのまま引き連れていった。
「求、話さなくてよかったの?知り合いとかいたんじゃない?」
「ん、ああ僕達もそろそろ着替えないとだし、また後で会いにいくよ。誰にも見られない時に」
そっぽを向いたまま歩き出した求の足は、更衣室へと向かっていて、俺もそれを追いかける。見渡せば、みんなもそれぞれの方向へ散り始めていた。
更衣室で袖を通していると、本番が近いという実感が、否応なく胸を締めつけてくる。震える指先は、ボタン一つ留めるのにも手間取った。
「幸人がそこまで緊張するなんて意外だな。さっきまでそんな事無かっただろ」
「求は俺の事何だと思ってんだよ。さっきまでは何というか、気が紛れてただけだよ」
「自信満々なお調子者」
「……間違っては無いけどさ、自信満々なのは自信がある事だけだよ。それより先輩としてなんかアドバイスとか無いの?」
「アドバイスは無いけど演奏って楽しいし、幸人なら大丈夫だと思うよ」
「そうだといいけどな」
吹奏楽部に男子は少ないとはいえ、いくつもの学校が集まれば更衣室もさすがに手狭になる。混み合う空気の中、手早く着替えを済ませて外へ出た。
集合場所に着く頃には、すでに人だかりができていて、その中からもうすっかり聞き慣れた声が届く。
「だよねーおかげで今日も私のズボンはLLサイズって言わすな!」
「へー意外だなそんなふうに見えないのに」
不意に耳に入った声に、つい思ったことを口にしてしまう。案の定、余計な一言だったらしく、顔を赤くした上石が詰め寄ってきた。
「いや違うから!ノリツッコミだから!元々ズボンがほつれてただけでそんなに太ってないから!」
「ほつれ?ああそういう事か悪かったって。元々そんな風には見えないし、似合ってるから大丈夫だよ。それよりそのほつれ直さなくていいのか?」
納得しかねる様子で口を開きかけた上石より先に、背後から救いの手が差し伸べられる。
「ほつれちゃったの?」
「あっはい」
「ちょっとおいで」
上石を手招きして連れていく黒江先輩に、針谷と釜谷もついていく。どうやら俺のことは、忘れてもらえたらしい。胸を撫で下ろしていると、目の前を通り過ぎるその姿に、思わず目を奪われた。
「奏先輩!やっぱりこの衣装似合いますね可愛いです!剣崎先輩も素敵ですね」
「ん?ああ、真島君かまあ当然ですね」
「かなで〜せっかく褒めてくれてるんだからさ〜、もっと素直になっていいんじゃないの〜?」
「これぐらいがちょうどいいの」
そう言い残して去っていく奏先輩を、剣崎先輩が追いかけていく。それを見送り俺は一人、ユーフォの表面をなぞり、指の動きを確認する。
思いの外集中できていたのだろう。気づけば、集合を告げる号令が耳に届いた。
慌ててその場へ向かうと、滝先生の前にはもう部員たちが集まり始めている。全員が揃い、点呼が終わると、滝先生は俺たちの顔をひとりひとり見渡してから口を開く。
「例年と違い今年はコンクールの練習が同時進行で大変だったと思います。にも関わらず今年は例年よりレベルが高い。ドラムメジャーの厳しい指導と皆さんの努力の賜物でしょうか」
そこで言葉を切った滝先生と打ち合わせをしていたのか、松本先生が口を開いた。
「このサンライズフェスティバルは地元の方や、保護者の方も多く訪れるイベントだ。これまでの練習の成果を思いっきりぶつけてこい!」
「「「「はい!」」」」
力強い松本先生の声に引かれるように、俺たちの返事も自然と重なる。
「じゃあ部長」
「あっ、うん。えーっとそれではご唱和下さい。北宇治ファイトー」
「「「「オー!」」」」
やはり、声を揃えるだけで気合いは変わる。出番までにはまだ時間があったはずなのに、それもあっという間に過ぎていった。
出発地点に整列し、最後の確認とばかりに軽くユーフォへ触れる。指先はまだ微かに震えていたが、この程度なら問題ない。
そして、ついに時間になり、高坂先輩のバトンを合図にマーチングが始まる。
最初の一歩を踏み出す。
その瞬間だけは、足を間違えないようにする事で頭がいっぱいだった。
一歩、二歩。
顔を動かさぬよう、横目で隣との距離を測る。楽器を構え、息を吸い、そして──音を出す。出だしに、ミスはない。
その事実にひとまず安堵する間もなく、意識はまた足元へと引き戻される。吹きながら歩く、ただそれだけのことが、座って楽器を鳴らすのとはまるで別の生き物のようだった。
足を揃え、周囲との間隔を保ちながら、それでも音は途切れさせない。視界の端で高坂先輩のバトンを追い、次の動きを読む。
一人で演奏している時なら、楽譜だけを意識すればいい。
だが今は違う。
俺の一歩が隣の一歩と重なり、俺の音が周りの音と重なる。自分一人では作れない音が、少しずつ形になっていく。
進んでいるとどうしても視界の端に観客の姿が入り込んでくる。いつもより近い距離で歩いているせいか、コンクールの舞台よりもずっと、一人一人の顔がよく見えた。
こちらを見ている人、手を叩いている人、小さな子供を抱き上げている人、その一人一人の反応が、吹いている俺のところまで届いてくる。
最初は、その視線が怖かった。何百もの目に、まだ拙い音も、覚束ない足取りも、全部見透かされているような気がして、知らぬ内に指に力がこもった。
けれど、周りの音に耳を澄ませ、それに合わせているうちに、不思議とその視線は気にならなくなっていく。
鼓動はまだ、普段より速い。けれど、もうそれを緊張とは呼ばない。胸の奥からせり上がってくるこの感覚には、覚えがあった。
一人で吹いて、誰かに聴いてもらう時と同じ、あの感覚。ただ、今日はそれが一人分じゃない。周りには仲間がいて、同じ音を鳴らしながら、同じ場所へと歩いている。
口元が緩む。誰に見せるためでもないその表情に、自分で気づいて少し驚いた。
気がつけば、最初は一歩ずつ確かめていた足も、もう自然に動いている。バトンを追う余裕や、観客へ目をやる余裕が出てきた頃には、曲はもう終盤に差しかかっていた。
最後の音を吹き終え、観客の視界から外れたところで、楽器を下ろす。その瞬間、張り詰めていた何かが、一気にほどけていくのがわかる。
無意識に、息が漏れた。技術的にはまだまだで、歩き方だって、演奏だって、もっと上手くできた部分はあるだろう。それでも、ミスらしいミスは無い。
体の中に残っているのは、心地よい火照りだけ。それだけで、十分すぎるほどだった。
あちこちで湧き上がる、喜びを分かち合う声を背に受けながら、ゆっくりと楽器を片付ける。ふとお手洗いへ行きたくなり歩いていると、ある声が耳に届いた。
「すごく良かった。時間のない中頑張ってくれてありがとう。初心者の貴方がここまで出来るって見せてくれたからみんなも頑張れたんだと思う」
「ありがとう……ございます」
「コンクール出場メンバー目指して。楽しみにしてる」
「はい!」
思わず足を止めてしまうほど、意外な光景だった。驚いたのは、高坂先輩が頭を下げていることにではない。厳しさの奥に、ちゃんと飴を隠し持っていたことにだ。
現に、目の前の武川は驚き、涙を滲ませながら、義井と一緒に喜びを分かち合っている。あれほど厳しかった高坂先輩に、あんな言葉をかけられたのだ。その表情を見ればそれが何よりのモチベーションになった事は明らかだった。
その光景を少しだけ羨ましく思いながら、俺はまた、歩き出した。