5月下旬。サンフェスを終えた北宇治高校吹奏楽部は、コンクールへ向けて動き始めていた。
そして今日は音楽室に部員全員が集められ、オーディションについての説明が行われる。
「今年はオーディションの形式をガラリと変えて、各大会前にそれぞれオーディションを行いたいと思います。つまり全国大会まで進んだ場合、都合3回オーディションが行われる事になります」
黄前先輩がそう言うと、音楽室のあちこちで小さなどよめきが起こった。
合奏のオーディションを受けたことのない俺には、その制度がどれほど大きな意味を持つのかまではわからない。ただ、今年の北宇治が、これまでとは違う何かを選ぼうとしていることだけは伝わってきた。
「質問があるなら手を挙げてください」
高坂先輩の声で、音楽室が静かになる。誰も手を挙げず数秒。その沈黙を切るように、一つだけ手が上がった。
「はーい、久石さん」
「ソロの方はどうなるのでしょう? ソリストも毎回決め直す形になるのでしょうか?」
「そうなります」
「なるほど。実力の変化に合わせてベストメンバーを選ぶわけですね」
「北宇治は完全な実力主義。それが一番理にかなってると思います」
「そうですね。異論ありません。ありがとうございます」
奏先輩は何事もなかったように手を下ろした。場が止まったことを気にしたのか。それとも、ただ疑問に思ったから聞いただけなのか。そこまでは、俺にはわからない。
ただ、ああいう時にためらわず手を挙げる人なんだなと。それだけを覚えた。
それにしても、実力主義か。その言葉を、俺は頭の中でもう一度転がした。言葉にされたのは、多分これが初めてだ。けれど、その空気なら、とうに肌で感じていた。
全国大会で金賞を獲る。
それを目指しているなら、当然なのかもしれない。上手い奴が選ばれる。もっと上手い奴がいれば、そいつに席を譲る。単純な話だ。
俺がコンクールメンバーに選ばれる目は、これでほとんど消えた。それでも、別に構わない。
選ばれないからといって、上手くなろうとしない理由にはならない。
むしろ、選ばれる可能性がないから練習しないなんて、俺にはそっちの方がよくわからなかった。
「えっと、黒江さん」
考え事をしている間に、もう一つ手が上がっていた。
「いえ、あの……そのオーディションって、私もやるんですか」
「部員なので、当然そうなります」
「そうですか……」
黒江先輩は、それ以上何も言わなかった。でもその一言だけが、妙に耳に残った。理由はわからない。ただ、何かを飲み込んだような声だった。
そしてそのまま、小さな棘だけを残して、オーディションの説明は終わった。
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その話題が持ち上がったのは数日後の部活の休憩中、三年生が一人、また一人と二者面談のために席を外していく。その合間の、少し気の抜けた時間の事。
「皆さん知ってますか? 今度のあがた祭、トランペットパートはみんなで行くらしいですよ。私達もみんなで一緒に行きませんか!」
釜谷が勢いよく言った。
「私はつばめちゃんと行く約束してるから、つばめちゃんに一緒に行くか聞いてみるね」
「お姉ちゃんなら大丈夫ですよ! 絶対!」
釜谷は押しが強いな。
そんなことを考えていたところで、聞き慣れない言葉が一つ、会話の中に紛れ込んでいることに気づいた。
「奏先輩。あがた祭ってなんですか?」
「この辺で割と有名なお祭りだけど、真島くんこの辺の人じゃないんですか?」
奏先輩が俺を見る。
「生まれは違いますけど、この辺に来てからは長いですよ。まあ、今までお祭りなんて縁が無かったですけど」
「そうなんですね」
「そんなことより奏先輩。あがた祭、みんなで一緒に行きましょうよ」
「残念。私は梨々花と一緒に回るから」
「えー、遅かったかぁ」
話題が出たのは今日だ。先約があるのも当然だろう。そして何か言おうと開きかけた口は、勢いよく飛んできた声に押し戻される。
「えぇー、そんなぁー! 私達もみんなで一緒に回りたかったのにぃ」
「ごめんね、釜谷さん」
話が盛り上がるさなか、教室のドアが小さく音を立てた。
そこに立つ人影を見つけた釜谷が、今度こそとばかりに駆け寄り、その手を取る。
「あー、久美子先輩! 久美子先輩は行きますよね! あがた祭!」
「トランペットの子達がみんなで行くって聞いて!」
「低音もみんなで!」
「そうなんだ。あっ、でも……」
「さっきママ先輩に聞いたら、つばめ先輩と行く予定だから、つばめ先輩が良ければ一緒でもいいよーって」
黄前先輩は何か言いかけたまま、幼馴染三人組の勢いに押されて言葉を失った。
その輪の隅で、黒江先輩だけが何も言わず、首から提げたカメラを構えている。
カシャ。
返事の代わりなのか。ただ撮りたかっただけなのかわからない。だが一度、シャッターが降りた。
「おっ、古いカメラ!」
「フィルムカメラだよ。写真好きなんだ」
「素敵ですね! じゃあ、おしゃれして行きます!」
話題はまた別のところへ飛んでいく。そんな最中でも、釜谷と上石は相変わらずの勢いで黄前先輩に詰め寄っていた。
「ああー、えっとごめん。私はちょっと先約が……」
「えぇー!久美子先輩もー……秀一ですか!」
「違うわ‼︎」
釜谷の視線が、次の標的を探す。
「求パイセンは?」
「僕も悪いけど、副部長とか男子部員で行く事になってるから」
「へぇー、珍しいね。月永くんがみんなと一緒なんて」
「久石もくる? 先輩に言ってあげるよ。剣崎の事も」
「なっ……別にそんなの必要ないです」
奏先輩が、わずかに眉を寄せた。それにしてもやけに突っかかっているが、もしかして求に気でもあるのか。そんな考えが一瞬だけ浮かぶ。
けれど、そんな事よりもむきになって言い返しながら、逸らしているその横顔をつい見てしまう。何度も繰り返している気がするが、それでもいいとそう思えた。
それに気を取られてしまったが、さっきの会話に何か聞き捨てならない一言が混ざっていた気がする。
「なあ求。俺、それ誘われてないんだけど。もしかして、はぶられてる?」
「いや、副部長には僕から誘っておきますって言っておいた」
「誘ってくれて無いじゃん」
「先に久石を誘って振られるだろうから、気を遣って待ってた」
「……お気遣いどーも。それ、俺も行くから!」
「知ってる。副部長には僕から言っておくよ」
「よろしく」
その気遣いを、あながち余計だったとも言い切れないのが少し憎らしい。それでも、仲間外れにされていなかっただけ、まだいい。
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少し浮ついた空気のまま訪れたあがた祭当日。駅前には、それなりの人出があった。だがそれは待ち合わせに困るほどではなく、目当ての顔はすぐに見つかった。
見慣れたはずの通学路に、屋台がずらりと並んでいる。同じ道なのに別の場所みたいで、見慣れているのに、見慣れない。その妙な落差だけで、気分が浮き立つ。
何を食べたかなんて、もう覚えていない。袋の中身は減っていくのに、楽しい時間だけは増えていく。そんなことが、少し不思議だった。これが祭りか。
しばらく歩いていると、人混みの向こうに見覚えのある横顔があった。それだけで、足が止まる。
「ごめん求。なんかあったら連絡ちょうだい」
「何?急にどうしたんだよ」
求が俺を見る。正確には、俺が見ている方向を見る。
「すみません、俺ちょっと席外します。すぐ戻ってくるんで!」
「え?ああ、まあいいけど」
「行ってきます!」
男子メンバーと別れ、見失いかけていた影を追う。
祭りに合わせた浴衣。
結い上げた髪。
いつもとは違う姿だが、その横顔だけは見間違えなかった。
「奏先輩! 剣崎先輩!」
「あ~、真島くんだ~」
「男子メンバーで来てるんじゃなかったんですか?」
「そうなんですけど、ちょっと二人を見かけたので挨拶をと」
それから、少しだけ奏先輩を見る。
「そんなことより、2人共浴衣お似合いですね! 髪型も変えてますし。奏先輩、リップも変えました?」
剣崎先輩が笑う。
「おぉ~。ありがとね~。いや~、真島くんは奏のことよく見てるね~」
「そりゃあもう、毎日の様に会ってますし。ついつい見ちゃうんで」
「奏、可愛いもんね~。しょうがないよね~」
「よく本人を前にそんな会話できますね。気まずいんですけど」
「え~、いいじゃん。これくらい」
「そうですよ」
その時、ポケットの中でスマホが震える。差出人は求。
「呼ばれたんじゃないですか?」
「いや、まあ、それはそうなんですけど、男子グループが釜谷たちのとこと合流したみたいで、一緒に写真を撮らないかですって」
「写真?ああ、黒江先輩のあのカメラですか」
「まあ、そういう事なんだと思いますよ」
「へぇー、それにしても、月永君が。珍しいですね。私たちのことも知ってるんですか?」
「知ってますよ。求も見てましたし」
「ふーん」
「私はいいんじゃないかな~って思うんだけど、奏は?」
「いいんじゃないですか」
「よっしゃ! じゃあ行きましょう!」
その時になって、ふと思う。奏先輩と並んで写真に写るのは、これが初めてだ。そして、この先何度そんな機会があるかも分からない。だが、こういう時に隣に立つことを許してもらえるくらいには、奏先輩と仲良くなりたかった。
そんな事を考えているだけで合流場所に着いたのは、そもそも男子グループと離れてそこまで時間が経っていなかったからだろう。
「お待たせしましたー」
「おっ、きたきたー」
「じゃあ早速撮りましょうよ! ママ先輩お願いします!」
「うん、いいよ。じゃあみんなそこに並んで」
すでに固まっていた輪が、撮りやすいように形を整える。後から加わった俺たちは、空いた隙間へ滑り込む。そして俺は自然な流れで奏先輩の隣に立つ。今はまだこんなやり方しか出来ない。
それにしてもこれほどの人数で写真に収まるのは初めてで、どんな顔をすればいいのかわからない。だがわからないなりに、とりあえず指だけはピースの形にした。
「はーい、じゃあこっち向いてー。もう少し寄って、もう少し」
言われるまま、少しずつ奏先輩の隣へ詰めていく。さっきまで普通に話していたはずなのに。肩が触れるわけでもないそんな距離。それでも、近い。どこを見ていればいいのかわからなくなる。
「写真、撮られますよ。前見て」
「あっ、はい。すみません」
顔を逸らさないままそう言われ、何かが喉の奥で跳ねた。取り繕う間もなく前を向いたその一瞬後。シャッターが落ちた。
カシャ。
たぶん、この写真に今の俺は写らない。写るのは、奏先輩の隣で笑っている俺だけだ。
「はーい、撮れたよー」
「ありがとうございます!」
その一言を合図に、また賑やかな空気が戻ってくる。そしてその場で帰る者もいて、解散した後の顔ぶれは、集合した時とは少しだけ違っていた。
男子グループもいくつかに分かれ、俺は求と二人、提灯の灯りが並ぶ道を歩く。
「良かったな。久石の隣で撮れて」
「求だって川島先輩の隣だったじゃん」
「……なんでそこで緑先輩が出てくるんだよ」
「何でって、川島先輩の事好きなんだと思ってたから。もしかして違った?」
「そんなんじゃ、ない……と、思う。……たぶん」
求は、しばらく黙っていた。
俺も何も言わなかった。
提灯の明かりが、歩くたびに足元を横切っていく。
そんな雰囲気の中、求の言葉だけが妙に引っかかった。
「なあ、求」
「ん?」
「好きって、何なんだろうな」
その言葉が俺の口から出たと認識するまで、しばらくかかった。どうしてそんな言葉が口から出たのか、俺自身にもわからない。
そんな俺に、求は少しだけ前を見たまま答えた。
「それがわかってれば、あんな返事しないよ」
「そっか……そうだよな……」
止まっていた足を、また前へ動かす。
提灯の明かりが、一つ、また一つと通り過ぎる。そして答えの出ないまま、それでもささくれにかさぶたを作りながら、夜だけが先へ進んでいった。