オーディションまで一ヶ月を切ったある休日、俺は少しずつ通っていた教習所を終え、普通二輪の免許を手にした。
想定より時間がかかり、随分ぎりぎりの時期になってしまったが、オーディション直前でなかっただけ十分だ。
たった一枚カードが増えただけなのに、いつもの財布が、少しだけ違うものになった気がする。
西日に照らされた道を、軽い足取りで帰る。ドアベルを鳴らして中に入ると、客のいない店内には中川さんが一人、カウンターの向こうで、暇そうにカップを磨いていた。この時間帯はもともと客が少ないし、マスターは買い出しにでも出ているのだろう。
考えてみれば、中川さんとまともに話すのは久しぶりだ。平日は部活。休日も今日のように出かけるか、彼女のいない日に店を手伝う。店には同じようにいるのに、なぜか顔を合わせる時間だけが噛み合わなかった。
「おかえりー。どうしたの?なんか嬉しそうじゃん」
「お疲れ様です。いやー実は普通二輪に合格しまして」
「えっ、そうなんだおめでとう。あれって16からだっけ?」
「そうですよ」
「じゃあもう誕生日きてるって事じゃん!教えてよ、小物くらい用意したのに」
「いえいえそんな、悪いですよ。そんなに気を遣ってもらわなくて大丈夫です」
「気を遣ってるとかそんなんじゃ無いんだけどな。まあいいや」
言われて、初めて気づいた。誕生日を祝ってくれる常連は何人かいる。でも、それは向こうが知っていて祝ってくれるだけで、自分から言ったことなど一度もない。
もし話していたら、あの人達は祝ってくれたのだろうか。今となっては答え合わせは来年だ。
「でもさ、そんな調子でほんとにみんなと仲良くやってるの?」
「やってますよ!それこそ求なんてもうマブですよ」
「へぇ求君と?じゃあ求君、もしかして」
「あ、はい。いい感じですよ。随分明るくなりました」
「そっかそっか、それは良かった」
「詳しい話も気になるかもしれないですけど、そこはまあ黙らせてください」
求は、今はもう前を向けているようだが、それでも、他人の口から軽々しく語っていい話では無い。
「そう言われると気になっちゃうな〜」
そう言いながらも、本気で追及する気はなさそうだ。ただ、この人が冗談のついでにどこへ話を転がすつもりなのかまでは、読めなかった。
「そんな風に言ってもダメです」
「えーじゃあ代わりに幸人君の事聞かせてもらおうかな」
「俺の事ですか?」
「そ、じゃあまずは軽く。誕生日って結局いつなの?」
「5月12日です」
「ふむふむなるほど。じゃあ次は何聞こうかな。血液型とか?」
「Bですけど、なんか無理して質問を絞り出して無いですか?」
「いざ改まって聞こうと思ったら意外と難しいよね。あとはどうしようかな、なんで北宇治を選んだのか、なんてどう?」
「どう、と聞かれましても。まあ知り合いがあまり行かない学校で絞った時に、制服が目に止まって」
「男子?女子?」
「…女子です」
その一言で、中川さんの目が、ほんの少しだけ細くなった。
「へぇ〜そうなんだ。制服フェチにはまだ早いんじゃない?」
「違いますよ!」
「またまたぁ、実はまだ取ってあるんだよね。今度、着て来てあげようか?」
「ちょっと!あんまり揶揄わないでくださいよ!」
「あははっ、ごめんごめん。思ったより面白そうな方向に行ったから、つい」
「ついじゃないですよ。まったく」
「じゃあ今度はどうしようかな」
質問攻めにされるのは構わない。ただ、揶揄われ続けるのだけは、御免だ。
「まだ続けるんですか?」
「だってお客さんこないし、店の掃除だってしたし、洗い終わったカップを磨くくらいしかやる事ないじゃん。それもずっと同じの」
「まあ、この時間はあまり人来ないですからね。でももうそろそろ常連さんが1人来ると思いますよ。それまで俺は勉強したり、楽器吹いたりしてますね」
「へぇ、あたしでも結構自由に過ごしていいのかな?」
「マスターはそこまで細かいこと気にする人じゃないんで、今日みたいに掃除とかやること終わってたら、何も言わないと思いますよ」
「そうなんだ。今度聞いてみようかな」
「はい。それがいいと思います」
「ところでさぁ、幸人君ってどんな子供だったの?」
「ちっ。誤魔化されませんでしたか」
わざとらしく、大きな舌打ちの真似をしてみせる。まあ、子供の頃の話くらいならいいか。どうせ面白い話なんて何もない。揶揄われる余地もなさそうだ。
「舌打ちって酷くない?あたし悲しいなぁ」
「じゃあ、あまり揶揄わないでくださいよ」
「わかったって。それで?どんな子供だったの?」
「サックスばっかのガキでしたね。学校では勉強して、楽譜見て、家ではサックスを吹く。そんなガキでした」
「へぇなんか意外。じゃあなんでサックス始めたの?」
「サックスを始めたのは、マスターに憧れたからですね。知ってます?マスターって昔、パリで吹いたこともあるんですよ」
口にした瞬間、自分でも少し得意になっているのが分かった。
「パリ!マスターって凄い人だったんだ」
「そうなんですよ。それで今は趣味でこの店を経営して、余生を過ごしてるって感じです」
「だから、あんまりお客さんこなくてもいいんだ」
「…まあ一応マスターは知る人ぞ知るって感じなんで、経営できてる程度にはお客さん来てるんですけどね」
「あはは…なんかごめん」
からんと軽い音を立ててドアが開いたのは、ちょうどそのタイミングで、顔を上げるとそこには予想通り、本間のじいちゃんが立っていた。
「「いらっしゃいませ」」
「ああ、幸ちゃん、夏紀ちゃん。マスターは?」
「マスターは今買い出しに行ってるんで、電話してきますね」
「そうかい、よろしくね。さて、じゃあマスターが帰ってくるまで、久しぶりに幸ちゃんのブレンドを貰おうかな」
「かしこまりました。少々お待ちください」
一礼して、カウンターの奥へ入る。手を洗い、サイフォンの前に立つ。最初はガラス球のどこに火を当てればいいのかさえわからなかったこの道具も、一年かけて指が自然と手順を追うようになってきた。
火を落とし、出来上がった一杯をカップへ注ぎ、電話を終えて戻ってきた中川さんに託す。今日はもとよりカウンターに立つ予定ではなかったし、あまり出しゃばるものでもないだろう。
一口飲んだ本間のじいちゃんの目元が、ふっと緩む。それだけで、十分だ。
落ち着いた様子の本間のじいちゃんに、俺は早速、今日の出来事を伝えた。
「本間のじいちゃん、俺今日、普通二輪の免許受かりましたよ!」
「おお!そうかい、そりゃあいい!バイクは今度時間のある時にでも取りにおいで」
「はい!ありがとうございます!」
「いや〜よかったよかった。そういえば、免許が取れたって事は、ユーフォの方もリクエストしていいのかい?」
「はい。今の全力、聞いてください」
「じゃあ、曲は幸ちゃんが吹けるやつで」
吹けるやつか。ユーフォでジャズを吹くのは、これが初めてだ。今練習しているコンクール曲を、というわけにもいかない。頭に入っているサックス用の楽譜の中から、今の自分の腕で形にできそうな一曲を選び、部屋へ楽譜を取りに戻る。
ユーフォを構え、いつもの位置に立つ。普段はマスターが吹いたり、時折呼ばれたゲストが立ったりする場所だが、俺自身、昔からここに立つことには慣れていた。
サックスなら、迷わず選んでいた一曲だった。普段なら、楽譜に目を通す必要はない。旋律は、もう頭の中にある。ただ、その旋律を今から鳴らすのは、いつもの楽器ではない。
マウスピースに唇を当て、息を入れる。すると低く、丸い音が返ってくる。サックスなら、もっと鋭く立ち上がるはずの音だった。
次に来る音は分かっている。その音をどう鳴らしたいのかも分かっている。なのに、身体だけが、その答えを知らない。
その音が、店の中に広がっていく。初めて吹いた頃は、この柔らかさが頼りなかった。
音の輪郭が掴めない。吹いている自分の方が、音に置いていかれるような感覚さえある。
それでも、二ヶ月も吹いていれば、少しずつ分かってくるものだ。この音には、この音の鳴り方があると。まだサックスのようにはいかないが、それでも今はもう、この音を出すことに戸惑いはない。
指を動かす。旋律は頭の中にある。
だが、サックスなら考えるまでもない跳躍で、指が一瞬だけ迷った。
一音遅れる。
それでも止めない。曲は、その一音くらいで待ってくれない。
スイングの波に乗せるように、旋律を少しだけ崩す。それは長い間、身体に染みついていて、考えるより先に、息が動く。
サックスなら、息を入れれば、すぐに音が手元へ返ってくる。けれどユーフォの音は違う。吹いた息が一度、楽器の奥深くへ沈んで、それからゆっくりと戻ってくるようだった。
(……そうなるか)
次のフレーズへ進みながら、息をほんの少し緩める。
さっきより柔らかい。ただ、今度は芯が足りない。
息を戻す。少しだけ強く。
音の奥に芯が戻る。
完璧じゃない。それでも、さっきよりは自分の欲しかった音に近い。ほんの少し息を変えただけで、音が変わる。その小さな違いが、妙に面白い。
指は、まだ迷っている。
息も、まだ探している。
それでも、音楽だけは迷わない。
気がつけば、店の空気が音に染まっていく。
最後の音を長く伸ばす。サックスほど鋭くはない。それでも、この柔らかな響きは、店の空気によく馴染んでいた。
今まで何度も聞いてきた店の音に、今日は少しだけ違う音が混ざっている。それが、不思議と心地いい。
息を抜く。
音が消える。
先ほどまでとはうって変わった静けさの中、中川さんが小さく笑って呟いた。
「すごいね。もう追いつかれちゃいそう。北宇治の未来は安泰だ」
「……いや、そんな」
反射的に否定しかけて、口を閉じる。何か言わなければと思うのに、ちょうどいい言葉が出てこない。
「……ありがとうございます」
結局、それだけ。
少し俯いた俺の視線の先に、本間のじいちゃんから千円札が差し出された。
リクエストに満足してもらえたら、チップをもらう。昔からよくあることだ。でも、いつものチップと同じはずなのに、今日はすぐに手が伸びなかった。
「いつもありがとうございます。俺の演奏に、これだけの価値はありましたか?」
「……いや。昔からよく知ってるから、という理由の方が大きいな」
「ですよね」
「けど、二ヶ月でそれなら、上等じゃないか」
その正直な答えに、思わず笑ってしまう。でもなんだか、それでよかった。差し出された千円札を受け取る。いつものと同じ重さのはずなのに、今日は少しだけ違う。
ドアを開け、買い出しから戻ったマスターは、店に入るなり俺の手元にあるユーフォへ目を止めた。
「……なるほど」
それだけ言って、少し笑う。その横では、本間のじいちゃんが今日の演奏を嬉しそうに話していた。
そこから先は、いつもの店の時間が流れた。買ってきた物を仕舞っていくマスターを手伝い、他愛のない話に時折笑いが挟まる。
いつもの店。
それが、居心地よかった。
日が沈みきる頃、本間のじいちゃんは杖を突きながら帰っていき、中川さんも「またねー」と軽い足取りで店を出ていった。閉店の札を返し、鍵を閉める。その一連の動作は、もう体が覚えている。
夕食の支度をするマスターの隣で、洗い物を手伝う。二人分の皿と鍋がシンクに並ぶ音だけが、しばらく店の奥に響く。
湯気の立つ味噌汁を挟んで向かい合うと、マスターが箸を止め、ふと、こちらを見た。
「最近、随分楽しそうだな」
不意打ちのような一言に、一瞬、返事に迷う。だが、その必要はなかったのかもしれない。
「うん。友達も出来たし、色々な事、経験出来てるから。楽しいよ」
飾らない言葉が、思ったよりすんなりと口から出る。思えば、こんな事を誰かに言った事があっただろうか。
「そりゃあ、良かった」
マスターは、それだけ言って、また味噌汁に口をつけた。多くを聞かない。多くを語らない。でも、その姿に不思議と安心できる。
その静かな横顔を見ているうちに、ふと口を開きかけた。
代わりに、箸を置いた。
「マスター……今日は俺が店を片付けるよ」
片付けなら、いつもやっていることだ。それでも今夜は、そうしたい気分だった。