コンクールまで残り一ヶ月。初夏の熱を帯びた空気の中、北宇治高校吹奏楽部はオーディションを目前に控え、練習もいよいよ大詰めを迎えていた。
けれど、そんな中でも、変わらない日常は過ぎていく。
「あがた祭の写真、出来たよ。修学旅行のも」
黒江先輩が机の上に写真を広げていく。その端から、低音パートの面々が吸い寄せられるように集まっていった。俺も、奏の隣で覗き込む。
軽く重なる写真の束をめくっていく指が、自然と止まったのは、あがた祭の集合写真だった。なんともまあ締まりのない顔。
せっかくの一枚だというのに、妙に居心地が悪い。そんな気分でいると、隣から声がかかった。
「よく撮れてますよね。この写真」
「奏先輩はそう思います?」
「しいて欠点をあげるなら、真島君の顔が緩みすぎて見てられないくらいじゃないですか」
「やっぱりそうですよね」
「私の方ばっかり見てるからそうなるんですよ。ちゃんと前を見てればよかったのに」
「しょうがないじゃないですか」
「しょうがなくないです」
写真から目を離さずにそう言う奏先輩の声に棘はない。それくらいは、もう分かる。俺もそれ以上は何も言わず、隣で写真を見ていく。
こうして並んでいることに、いつの間にか、気負いはなくなっていた。
「おお〜よく撮れてる!後で送ってー」
「あっごめん。フィルムだから焼き増しするよ」
そんな俺たちを置き去りに、周りは周りで盛り上がっている。
俺もこの写真は欲しいところだが、フィルムというのはどうやら一手間かかるらしい。それも、味というやつなのだろう。まあ頼めばもらえるようだし、その言葉に甘えるか。
「あれ?そういえば真由先輩、全然写ってないですね」
「…本当ですね」
「あっ、私自分が写真に写るのあんまり好きじゃないの。撮るのは好きなんだけど」
黒江先輩のその一言に、教室の誰もが返答を選びかねたように黙り込む。お互いに顔色を窺うその沈黙を、パンと手を叩く音が破った。流石は、頼れる俺らのパートリーダーだ。
「さて、写真を見るのはこのくらいにして、そろそろ練習にしましょうか」
川島先輩のその一言で、焼き増しする写真をまとめながら片付けが進む。そんな時間が流れるにつれ、教室の空気は練習モードへと切り替わっていく。
各自、楽器を準備しチューニングをしていく中、チューバの方から声が聞こえてきた。
「チューニングする時吹き方を変えてメモリに合わせようとしても意味ないよ」
「えーっ、そうなんですか」
「素で出した音が真ん中に来る様に、管の方を調整しなきゃ」
「なるほどぉ」
「正しくチューニング出来たらその時の音をここで覚えて、そこからピッチのズレを感じられる様にならなきゃね」
「全然できる気しない」
「急には難しいけどねぇ。どういう時に音が高くなりやすいとか知るだけで違うよ」
演奏家としては基本のやり取りだ。だが、身振り手振りを交えながら初心者二人にかみ砕いて伝えるさっちゃん先輩の姿は、まさに先輩の鏡だった。
「先輩方ってすごいですね!」
「これは基礎だからできる様になっていかなきゃ」
「佳穂ちゃんも頑張って」
一つの旋律が響く。針谷に発破をかけた奏先輩が、そのまま自分の練習に切り替えたらしい。
だが、その旋律に、俺は小さな引っかかりを覚えた。
「奏先輩、今の付点四分音符短くないですか」
「そう?」
「やっぱり耳いいね幸人君。私も同じこと思った」
「うん。タータタッだよ」
「あっ、はい。ありがとうございます。真島君も敵に塩を送るのは良いけど、自分でも吹けるようにね」
「うっ…すみません」
「謝らなくていいです」
教室に不穏な空気が忍び込み始めたのは、わざとらしく肩を落とす俺を、奏先輩が軽くフォローした直後のことだった。
「敵?」
「はい。オーディションはこれからですから。クラとかバチバチらしいですよ。一年に上手い子入ってきたとかで」
「だよね」
どこか思い詰めた表情のまま、黒江先輩の肩が少し落ちる。同じ「肩を落とす」でも、その理由が俺のものとはまるで違うことだけは、はっきりしている。
「やっぱり…私、辞退した方がいいんじゃないかな」
その一言に、誰もが息を呑んだ。
「前にも言ってましたね」
「だってユーフォって2人くらいでしょ、ソリだってあるし。もし私が選ばれて誰かが選ばれなかったら申し訳ないと言うか」
黒江先輩の言い分が、まるで分からないわけではない。転入していきなり実力で選ばれれば、選ばれた側も選ばれなかった側も、何かしら思うところはあるかもしれない。
「つまりこのままオーディションで普通に演奏すればご自身は必ず選ばれてしまうと?」
「えっ、いやそう言うわけじゃ無いよ…ただ」
その先の言葉は紡がれなかった。ただ、それは必要無い。黄前先輩に向けられた視線だけで言いたい事は伝わってきた。
「あっ…ええっと、真由ちゃん。ごめんね、私申し訳ないって言うのが、よく分からなくて」
「そうかな?前にも言った通りだよ。北宇治でずっと吹いてきた人を押しのけて私が吹くのは、申し訳ないって意味なんだけど」
「まあ、一理あるのは分かります。特に部長がコンクールメンバーから外れたら、部全体としても」
「奏ちゃん」
奏先輩の言葉を遮るように、黄前先輩が名前を呼ぶ。
「えっと、オーディションで各パートの上手い人を選んで大会に挑む。北宇治は毎年そうやってきたんだけど、それに反対って事?」
「反対って訳じゃないんだけど……私が選ばれて嬉しい人なんて、本当にいるのかな」
「いるよ!」「誰?」
被せる様に放たれたその一言は、今まで聞いたことのない程に力強く、そして冷たいものだった。
「……部員全員」
「黄前先輩、それは無いんじゃないですか?」
気がつけば、口が動いていた。一度開いてしまった以上、もう思ったことをそのまま吐き出すしかない。
「いや…まあ、なんていうか…その言い方だと、親におもちゃをねだる時の子供の言い訳にしか聞こえませんよ」
「そう…かな」
「少なくとも、俺にはそう聞こえました。でも黒江先輩も悪いと思います。オーディション前から辞退するなんて言われたら、これから一緒に競う側としては、いい気はしないですよ」
「…」
「俺は黒江先輩が胸を張って北宇治の代表として吹き続けてくれる限り、黒江先輩がコンクールメンバーになっても喜んで応援します」
「…でも、…ありがとう」
そう呟く黒江先輩の表情は、まだ晴れていなかった。
「俺、オーディションを受けるのは初めてですけど……普段の練習をしていれば、自分が今どのくらいなのかは、なんとなく分かります」
みんなの視線が、こちらへ向く。
「自分より上手い人がいるなら、何が違うのか考える。足りないものが分かったら、そこを練習する。俺は、ずっとそうやってきました」
黒江先輩の表情は、依然として動かなかった。
「だからこそ、最後はちゃんと自分の音を出したいです。練習してきたものを吹いて、それを聴いてもらって。その結果なら、選ばれても、選ばれなくても受け入れられると思うから」
少しだけ間を置く。
「だから俺なら、吹かずに終わるのは嫌ですね。その結果、誰かを押しのけることになったとしても……俺がちゃんと胸を張って吹いたものなら、きっと受け入れてもらえるって信じたいです。もう一度言います。黒江先輩がちゃんと胸を張って吹いたものなら俺は受け入れます」
それだけ言って、俺は口を閉じる。広がっていく沈黙だけが、やけに重かった。
「ご高説ありがとうございます。恥ずかしいくらいの理想論でしたけど、一理くらいはあるんじゃ無いですか?ね、久美子先輩」
「えっ、あー…うん。そうだね。…北宇治は全国金を目指してる。だから学年とか実績とか関係なく一番上手い人で挑む。それが目標を達成する最善だと思う。だからみんなでそう決めたし、みんなも幸人君みたいに受け入れてくれる…と思う」
「そう…かな」
「去年私がオーディションで手を抜こうとした時、久美子先輩に物凄く怒られましたし、その時の3年生にも怒られたので、そういう人は多いと思いますよ」
「そうなんだ」
「別に怒った訳じゃ無いけど」
「そうでしたっけ?」
教室に落ちていた影は、もうずいぶん薄くなっていた。それでも、それはまだどこかでくすぶっている。そんな気がした。
そうして時は瞬く間に過ぎ去り、気が付けばもうオーディション当日。
「全然ダメでしたぁ。間違っちゃったし」
「ううん、最初にしてはよく頑張ってたと思うよ」
「うん!音すっごい出てた」
「そんな事ないよぉ緊張したし」
「やっぱりする?」
「うん。特にあの軍曹先生こっちの手元じっと見てくるし」
ユーフォを構え、指の運びを確かめながら意識を集中させていると、チューバ組のオーディションが終わったのだろう、教室内が急に賑やかになる。
今頃、求がオーディションを受けているはずだ。あいつなら、心配はいらないだろう。
「もう少ししたらユーフォだよ。遅れないようにね」
黄前先輩のその言葉で俺は立ち上がる。ついに初めてのオーディションだ。緊張があまり無いのは、やはりオーディションはまだ1人だからだろうか。だが目の前にいる針谷は違うようだった。
「はぁ...緊張してきた」
「まあまあ、私達は来年に向けてだから」
「いかん。それはいかんぞ上石!」
「何?真島君、熱血系?急にどうしたの」
「今年コンクールに出場するつもりで頑張る。それが上手くなる近道だ!」
「でも、先輩方みんなすごいし」
「いーや。黄前先輩の席を奪うくらいの気持ちで行かないと」
「ええっそんなの無理だよ」
「気持ちだけだよ、気持ちだけ。黄前先輩の席を奪い取るぞー!おー!」
腹から声を出し拳を突き上げる。たったそれだけで気合が入る。
「おっ、おー!」
釣られて針谷も拳を突き上げる。その表情は先ほどよりも少し明るい。
「いい感じに気合入ったみたいだね。まぁ、席を譲るつもりは無いけど。じゃあ私は先に行くから、遅れないようにね」
そう言い残し、黄前先輩は教室を去っていく。その落ち着いた背中からは一切の緊張も感じられない。
「針谷、緊張はもう大丈夫?」
「あっ、うん大丈夫」
「そっか。なら良かった、俺も譲る気無いから。頑張ろうぜ」
そう言って去ろうとした時、後ろから声が聞こえてきた。
「わっ、私も…頑張るから!」
「おう!」
締まりはないが、行き先は同じだ。針谷と二人、並んで廊下を歩く。他愛のない会話を交わすうちに、互いの肩から、少しずつ力が抜けていくのが分かる。
「揃ったね。今緑ちゃんがオーディション受けてるから、終わったら学年順で、一年生は佳穂ちゃん、幸人君の順番でオーディションだから」
「「はい」」
音楽室の奥から、コントラバスの旋律が漏れ聞こえてくる。もう聞き慣れたその音は、楽器が違う以上単純に比べられないとわかっていても、この学校の中で指折りの上手さだと思わせるだけの説得力があった。
やがてその旋律が終わりを迎え、川島先輩と入れ替わるように、針谷が中へ入っていく。
最後の確認とばかりに、指を動かし、唇の感覚を確かめる。それだけで、自分の番が来るまでの時間は、あっという間に過ぎていき、針谷が音楽室から出てきた。
「全然だめでした…」
「ナイスファイト、良かったよ」
「うん、初めてにしてはすごく良かった」
「ありがとうございます」
さてと、いつまでも話しているというわけにもいかない。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
「頑張って」
黄前先輩と黒江先輩の返事に励まされた俺の視線は、つい奏先輩のほうへ向く。落ち着いた様子の奏先輩がそれに気付くのに、そう時間はかからなかった。
「私の応援が無いと頑張れないの?」
「そんな訳無いじゃないですか。俺はいつでも全力投球です」
音楽室のドアを開け、中に入る。
そこには中心にある一脚の椅子と、その正面の机に座る滝先生と松本先生。
たったそれだけで、いつも使っている場所とは思えない緊張感。
そんな雰囲気を一身に浴び、椅子の隣に立つ。
「一年、ユーフォニアム担当、真島幸人です。宜しくお願いします」
一礼して、椅子に腰を下ろす。目の前には、2ヶ月間繰り返し吹き続けた二曲分の楽譜。その楽譜は、すでに見る必要は無い。
最初の音を思い浮かべ、息を吸う。
一曲目。音は、思った通りに出た。
指も迷わない。長い音符では息を支え、細かな音符では舌を動かす。強弱も他の何もかも、練習してきた通り。
一つ一つの音を、楽譜に書かれた場所へ置いていく。
特別なことは何も起こらない。だからこそ、止まる理由もない。
「そこまで、では次自由曲を105小節目からお願いします」
「はい」
一瞬の静寂。
こちらも同じだった。
知っている旋律。知っている指使い。知っている息の入れ方。二ヶ月間、何度も繰り返した音が、身体からそのまま出てくる。
だが、吹きながら分かっていた。
足りない。
音は出ている。
楽譜通り吹けている。
練習したことも、ちゃんとできている。
それでも、先輩達の音には程遠い。
音の芯。
響きの広がり。
フレーズの中で音を繋ぐ感覚。
中にある音楽と、今鳴っている音との間に、まだ確かな距離がある。それを埋める術を、今の俺は持っていない。
それでも、今の俺が出せる音を、そのまま最後まで吹き切り、最後の音が音楽室の中へ静かに溶けていく。
息を抜き、そこで初めて肩に入っていた力が抜けた。
楽器を下ろし、一礼する。
「ありがとうございました」
滝先生も、松本先生も、何も言わない。でも、それでいい。俺自身にも、分かっている。
大きなミスはなかった。
音を外したわけでもない。
途中で止まったわけでもない。
二曲とも、練習してきた通りに吹けた。
それでも、今の俺は、ユーフォニアムをまだ三ヶ月しか吹いていない人間でしかない。
その時間が無駄だったとは思わない。むしろ、今の自分にできることは、全部やった。ただ、それでも足りなかっただけ。
椅子から立ち上がり、もう一度頭を下げる。
顔を上げ目に入るその場所は、入った時とはまるで違う。
いや違うのは俺の方か。
ドアを開くと、そこには入る前より一人減った三人の姿があった。その中の一人が、こちらへと歩いてくる。
「奏先輩、頑張ってください」
「うん」
短く返し、去っていくその横顔は、いつになく真剣だった。ユーフォの編成枠は、確か二人から三人ぐらいなんて話題もあった。だとすれば。
もっとも、まだ何も決まったわけではない。彼女の実力は本物だ。順当にいけば、落ちることはまずないだろう。
とにかく、俺の出番は終わった。結果は、明日には出る。あとは邪魔にならないようこの場を離れ、その日を待つだけだった。