読み飛ばしにご注意下さい
今回から幸人視点に戻ってきます
俺たちにとっての短い夏休みは、あっという間に終わった。三日もあったはずなのに、振り返れば一瞬。そんな休みが終われば、いつも通り練習が始まる。
休み明けの練習教室には、もう皆が集まっているようで、賑やかな声が廊下まで聞こえてくる。
「おはよーございまーす。そんなに固まって何やってるんですか?」
「おはよー。今、プールの写真見てるんだ」
「おおっ、もう出来たんですか、早いですね」
その机に向かって歩いていると、上石が横にずれ、奏先輩との間にスペースが開く。そこまで気を使わなくていいのにとも思うが、純粋にありがたくもある。
そのスペースにするりと収まり、写真を見る。たまたまなのか奏先輩の写真が一番上にあり、思わず手に取ってしまった。
「その写真、焼き増しなんて言わないで下さいね」
「えっ、いやいや流石の俺もそこまではしませんよ。写真写りいいなぁって思っただけです」
「なるほど、真島君は写真写りがいいだけで私自身はそこまで可愛くないと、傷つきますね」
「そんな事言ってないですよ!奏先輩という素晴らしい被写体があってこそです」
「もちろん冗談です」
教室に入った時にも感じた感覚。いつも通りの声がして、いつも通りに笑っている。変わらなくて良かった。
会うのはあの日、無理矢理あの場を明るくして以来。今まで自分の事を話したのは求だけだったから不安はあった。
俺を受け入れて貰えるか、何よりこの場所を壊してしまわないか。
「あれ?ねぇ、ママちゃん。最後にみんなで撮った写真は?」
「あぁ、あれ?現像上手くいかなくて。ごめんね」
背後から返事が聞こえ、ふと目線が机の上の集合写真に向く。奏先輩とみんなで写った写真、そこには黒江先輩の姿は無い。せっかくならみんなで写った写真も欲しかったが、無いのなら仕方ない。
そんな事を考えていると、また背後から声が聞こえてきた。
「久美子ちゃん。久美子ちゃんはなんで私の事を誘ってくれたんだろう」
「えっ?」
「私と何か話したいことあるのかなって、ずっと思ってて」
「真由ちゃん、あのね…」
「オーディションはちゃんと吹くから心配しないで。久美子ちゃんはオーディションで一番上手い人が選ばれて、それで北宇治が最高の演奏をして金賞を取りたいんだよね。それは分かってるから」
その言葉への返事は聞こえなかった。
目の前では笑い声が続いているのに、背後では別の話が進んでいる。後ろを気にしている奏先輩も、もしかしたら聞こえているのかもしれない。
俺が言えた話ではない。ただ、目の前の楽しげな空気の裏で、何かが引っかかっている気がした。
それでも、合宿前の忙しさはそんな事に構わず降りかかってくる。日々の練習に加え、合宿に向けた楽器移動の段取り確認や、オーディションに向けた追い込みの練習。そんな日々が続いていく。
楽しみだという気持ちを持ちつつも、一息付いたのはトラックに楽器を詰め込んで、バスに腰を下ろしてからだった。
こういう時、もうすっかり定位置となった求の横に座り、流れる景色を眺め続ける。
「なあ幸人」
「どうした?求」
「僕、今日の夜緑先輩に話そうと思う」
「そっか。頑張れよ」
「頑張れって…まぁ、そうだな頑張るよ」
「逃げんなよ」
「逃がさないくせに」
「そうだぞ。任せとけ」
その言葉を聞いた求は、真剣な顔をしながら目を瞑る。眠っているのか、考え事をしているのか。どちらにしろ、今の求の顔を見て、邪魔をする気にはなれなかった。
流れる景色が自然溢れる物に変化していき、やがて止まると、自分達の荷物を玄関前に纏めて下ろし、楽器を中へと運び込む。
最後に荷物を部屋へと片付け、全ての準備が終わった俺達は、合宿所の大研修室に集合していた。
「では、今回指導して下さる先生方を改めて紹介します」
「橋本真博です、パーカッションをメインにアドバイスしてるから気軽に声かけてね」
「新山聡美です。木管の指導を担当します。今年こそは結果が出せる様に一緒に頑張りましょう」
部屋中が拍手に包まれる。2人の先生は初めて見る人だったが、先輩達からすればお馴染みの様で、すっかり慣れきった空気が広がっていた。
「ではこれより、各パートに分かれての練習になります。以前伝えた通り関西大会のオーディションは今晩行います。皆さん気を引き締めて頑張って下さい」
「「「「はい!」」」」
広い合宿所を貸し切ってもパート毎に分かれるとなると、我ら低音パートは同じ教室に集まっていた。
バリトンサックスで関西大会に出場する事になれば、パート練習はサックスパートに参加する事になるだろうが、今はまだこっちに参加している。
「オーディション、今晩って聞くと胸がグッてなりますよね」
「なんか受験を思い出します」
「やめてぇ」
「結果も明日すぐ出るしね」
「あぁ、ドキドキ。夜寝れないかもです。あっチューバみんなで出れたらいいんですよ」
「いやいや5人もいるんだよ」
「でもチューバが5人くらいの編成も見たことありますよ」
「そうなの?」
「私も見たことあります。最近だと確か…」
「龍聖がやってましたね。ね、月永君」
「そうだね、じいちゃん低音しっかりしてるの好きだし」
「ええっ〜」
「なんだよ」
「別にぃ」
そんな会話を聞きながら、俺はずっとユーフォを触っていた。会話の邪魔をしない様、音は出さずに楽譜を見て、指の動きを確認して、音を想像する。
多分、明日俺はこの場にいないだろう。
それでも、指は動かした。
無駄だと分かっていても、少しでも触っていたかった。
そんな時、会話を中断させる音色が聞こえてくる。もちろん俺では無い。これはトランペットの音。主はおそらく――
「高坂先輩ですね」
「ソリのところだね」
そう言いながら黄前先輩の指が動き、ピストンが当たる音が小さく鳴る。その動きは聞こえてくる音に寄り添う動き。
「久美子先輩と高坂先輩のソリなら全国行けますよ」
「2人でどうにかなるもんじゃ無いでしょ」
「ふんっ」
そんな返事、求めていないとでも言わんばかりに頬を膨らませる奏先輩を見ていると、この顔を見ることも少なくなるのかなと、ふと思った。
「それにしても、真島君はさっきからずっと静かだね。雨でも降りそうなんだけど」
「えっ、あー、そうですかね」
「ほら、そういうとこ」
「確かに、ずっとユーフォ触ってたよね。オーディション、不安?」
「いや、不安って訳じゃ無いですよ。ただ、まぁちょっと、もしかしたら明日からパート練習がサックスパートになるかもしれないって考えたら、ちょっと触りたくなって」
「あっ、そっか…コンクールに出るなら、パート練習はそうなるよね」
「あっ、だからといってオーディションで手を抜くつもりは一切無いので、どんな結果になっても、滝先生がベストメンバーを選べる様に全力で吹きますよ」
「うん。その意気で頑張ってね。それじゃあ、最初から合わせてみようか」
黄前先輩のその一言で、練習は再開され、時間は瞬く間に過ぎていく。
「そこまで。そろそろ合奏練の時間だし移動しまーす」
「はーい」
楽器を持ったまま先程の大研修室へと移動すると、どのパートもギリギリまでパート練習をしていた様で、入り口は大勢の人で溢れかえっている。
それでも自分の定位置はいつもと変わらず、その大勢の人達もすぐに部屋の中へと収まっていく。
「時間通りですね。それでは頭から」
滝先生は小さく一つ頷くと、指揮棒を使わないその手を、勢いよく動かした。
「低音楽器のリズム、特に3小節目のシンコペーション気をつけて下さい」
「「「「はい!」」」」
「マリンバ!そこ見せ場だよ!恥ずかしがらず、私を見てでいいんだよ!」
「はい!」
「面倒くさがらない。丁寧に何度でも繰り返して身につける!」
「「「「はい!」」」」
「では、頭から全員でお願いします」
「「「「はい!」」」」
「もう一度!」
「「「「はい!」」」」
「もう一度」
「「「「はい!」」」」
「もう一度」
「「「「はい!」」」」
もう一度。何度も何度もその言葉が繰り返され、何度繰り返したかも分からなくなった頃、1日目の練習は終わりを迎えた。
流石は合宿と言うべき練習量だった。すっかり減った腹を満たすべく、カレーを盛り付け、水を汲み、食堂内を見渡す。
目的の人はこちらに向かって歩いてきていて、よく目立つのがありがたい。俺はもう一杯の水を汲み、その人の方へ歩き出した。
「奏先輩、水どうぞ。良かったら一緒に食べませんか」
「ありがとう。一緒に食べるのは良いけど、残念ながら久美子先輩と黒江先輩も一緒ですよ」
「へぇ、黒江先輩も?珍し…くもないんですかね、別に」
「どうして珍しいなんて思ったの?」
「えっ、だって奏先輩、黒江先輩のことあんまり気に入って無さそうなんで」
「はぁ、真島君。女の子には色々あるんだから、思っていても言わない方がいい事もあるの」
「えーっ、奏先輩が聞いてきたんじゃ無いですか」
「だとしても」
「はい、すみません」
そんな会話をしながら歩いていると、食器の音だけが鳴る場所へと辿り着く。
「奏先輩、なんですかこの空気」
「私に聞かれても知らないよ」
黄前先輩と黒江先輩が、向き合いつつも無言でカレーを食べ続ける。そんな空間に思わず小声になった俺達を責める人は誰もいないだろう。
「お疲れ様でーす…あの俺も一緒に食べてもいいですか?」
「すみません、遅くなりました」
「あっ、奏ちゃん。幸人君と一緒だったんだ。もちろんいいよ、とは言っても私はもうそろそろ麗奈と練習しに行くんだけど」
「へぇ、ソリの部分ですか?」
「うん、そう」
「久美子先輩と高坂先輩のソリの完成度が、上がるという訳ですか。また全国に近づきますね」
「もう、2人じゃどうにもならないの。奏ちゃんと幸人君も頑張るんだよ。じゃあ私そろそろ行くから」
「頑張って下さい」
「ありがとねー」
「私も、そろそろ行こうかな」
「黒江先輩もお疲れ様です。またオーディションの時に」
「うん。オーディション頑張ろうね」
「はい」
黄前先輩を見送った黒江先輩も席を立ち、正面に座る奏先輩と2人きりになる。
「何の話してたんでしょうね。あの2人」
「分からないけど、どうせまた黒江先輩が辞退するとでも言ったんじゃ無いの」
「あー、よく言ってますよね。なんでなんですかね」
「…まぁ、昔何かあったんじゃ無い?吹奏楽部って面倒な事も多いから」
「面倒な事ですか…起こらないといいですね。そんな事」
「それは無理でしょ。だって、こんなに人がいるんだから」
「奏先輩って本当に現実的ですよね」
「…そんな事ないよ」
聞き流してしまいそうなほど小さな声。いつの間にか、皿のカレーはなくなっていて、俺のスプーンは空を切った。