先週の月曜日から見ていないという方は、大分話が進んでいるので、読み飛ばしのないよう注意して下さい。
「これで全ての発表は終わりました。これから合奏練習に入ります。コンクールメンバーは音出しを。その他の人は移動をお願いします」
その言葉は、淡々と告げられた。他のパートでもメンバーの入れ替わりは発生していて、俯きながらそれでも部屋を出ていく人が多くいた。
俺も、いつまでもこの場に座ってるわけにはいかず、立とうとした。その声が聞こえてきたのは、そんな時。
「久美子ちゃん席、このままでいいからね。変わらなくていいから」
「黒江先輩はソリストが変わっても、指揮者側に座るのは久美子先輩のままでいい。とおっしゃっているんです」
「あっ、いやちゃんと変わろうよ」
「でも…」
「前にも言ったでしょ。北宇治は実力順だって」
吹奏楽の経験に乏しい俺には、その席順が持つ意味の重さまでは分からない。それでも、椅子ひとつの位置が、誰かの立場そのものを示してしまうということだけは、伝わってきた。
そして、奏先輩が立ち上がる。
「奏ちゃん?」
「大丈夫ですよ。また、練習後にでもお話しさせてください」
奏先輩は前だけを見て、部屋を出ていく。背筋だけは、いつもと変わらない。そんな背中に俺は声をかけることができなかった。
そして、俺はユーフォを胸に抱きしめるようにして、立ち上がる。
「幸人君…」
「俺も移動しますね。まぁバリトンサックスは任せといてくださいよ。必ず、いい演奏にしてみせます」
「うん、よろしくね」
「幸人君。いい演奏にしようね」
「はい」
俺は部屋の隅に置いておいたケースにユーフォを仕舞い、その隣のケースからバリトンサックスを取り出した。
「お疲れ様です。ちかお先輩、内田先輩。よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
「よろしくな。それにしても、後ろにいた幸人が隣にいるってなんか変な感じだな」
「ですね。ちょっと前に来ただけのはずなんですけど、なんと言うか景色が全然違いますね」
「俺は楽器が変わったことないからその感覚は分からないけど、少なくともトロンボーンを後頭部にぶつけられることはないぞ」
「えーっ、いいですね。痛かったんですよ、あれ」
「秀一とかにやられると痛いだろうなぁ」
「ははっ、ですね」
「ちかお先輩。私、席変わりましょうか?」
盛り上がる俺達の間に挟まれた内田先輩が、呆れたように声を上げる。
「ごめんごめん、悪かったって。そこまでしなくていいから」
パンッ。
滝先生が手を叩いた。
「それでは、合奏練習を始めます。早速頭から」
「「「「はい!」」」」
楽器が一斉に構えられる。滝先生の指揮に合わせ、最初の一音が響いた。
「クラリネット、オーボエ、フルート最初のトリルの音を切るタイミング合わせてください」
「「「「はい!」」」」
「今のクラリネットの連符もっと丁寧に」
「「「「はい!」」」」
「グロッケン。ここの入り方注意して、聞かせどころだよ」
「はい!」
「真島君、ここまでのテナーサックス、入れますか」
「はい」
返事は、綺麗に揃う。音も、綺麗に揃う。それなのに、何かが噛み合わない。今朝、あの部屋に残されたものが、そのまま楽器の中にまで入り込んでいるようだった。
「瀧君。少し話してもいい?」
「どうぞ」
「なんて言うか、今年はみんな、無茶苦茶ピリピリしてるんだよ。ガッチガチに固まっていると言うか、えっと、硬い!まあ、完全にカチカチ山の狸さんだな。一度おっぱいでも飲んでねんねする?」
……なんと言うか、無い。必死に明るくしようとしている意図は理解できる。だとしても、無い。
「あれ?もしかして僕、ドスベリした?すみません!」
勢いよく頭を下げる橋本先生に、ちらほらと笑いが生まれる。
「そうそう、その気持ち。心は柔らかく上級生は耳にタコかもしれないけど音を」
「楽しむ、と書いて音楽。ですね」
「本当に分かってるぅ?」
その言葉は、滝先生に向けられた。言葉の真意は分からない。この2人がどんな関係なのかも。
「分かっていますよ。では、もう一度最初から」
そして、もう一度練習は再開された。
俺に対する注意は飛んでこなかった。その代わり、「ここ入れますか」という言葉が繰り返される。チューバ、ユーフォ、テナーサックスなど。バリトンサックスが休符の場所は、様々な楽器の音を支えるように、音を差し込んでいく。
練習が終わる頃には、俺の譜面は赤い文字で埋め尽くされていた。
全ての練習が終わった後、俺はユーフォを触ろうと思ったが、その前にやりたいことがある。
合宿所の中を、部屋を一つずつ覗きながら、あてもなく進む。ただ目当ての人は見つからず、途方に暮れかけたその時、探していた背中がようやく視界に入った。
「奏先輩」
「真島君、どうしてこんなとこにいるの?この先は女子部屋だよ」
「奏先輩を探してたんです」
「私を?」
「あの、奏先輩。俺、全国では奏先輩と吹きたいです。そのために、全力で頑張ります。だから…」
「もしかして、慰めに来てくれたの?でも私は大丈夫。なんで選ばれなかったかも、ちゃんと分かってるから」
「奏先輩。そんなこと言わないでください」
「だから、大丈夫。それでも私も全国で吹きたいから」
「奏先輩!俺、絶対に全国に行きます。奏先輩にもう一度チャンスを作ります!」
「真島君1人が頑張っても、どうにもならないでしょ。でも頑張ってね」
「はい!」
奏先輩が落ちた理由なら、見当はつく。府大会の時と同じだ。足りないのはユーフォではなく、その下を支える音の厚み。たぶん、それだけのこと。
だから、あの人は「分かっている」と言った。分かった上で、それでも全国で吹きたいと言った。
自分の努力だけではどうにもならない可能性に気づきながら、それでも望むと言い切るあの人は、確かに現実的なんかじゃない。
そんな奏先輩のために俺ができることは、ただ一つだけだ。そのためなら、俺は…
その日、俺はバリトンサックスを吹き続けた。
気づけば辺りも暗くなっていた。それでも、もう少し吹こうとした、その時、部屋の扉が開く。
「こんなところにいたんだ」
「求?どうかしたの」
「花火。もうみんな集まってるよ」
「えっ、あ〜そういえばそんな予定あったっけ?」
「あったよ」
「あっ、ちょ、求。行くから、待てよ」
俺は構わず進んでいく求に置いて行かれないように、手早くサックスを片付け、背中を追いかけた。
「求、なんで呼びに来たくせに置いて行くんだよ」
「来ないなら興味ないかなって」
「だからと言って置いて行くの早すぎだろ」
「はい、これ」
「ん…ああ、花火か」
「…なあ、幸人。あれ」
「何?」
求の声に手元の花火から視線を上げると、そこには俯いた秀一先輩がいた。
「…副部長も誘おうか」
「いいじゃん。求がいくんだろ?」
「いってくれないのかよ」
「言い出しっぺのくせに」
「…分かったよ。僕が行く」
辺りに誰もおらず、明かりもあまり届かない薄暗さの中、秀一先輩は座っている。
「次、手伝ってもらってもいいですか?」
「何を」
短い一言だった。それだけで、隣の求が半歩下がる。話しかけられたわけでもない俺にまで、その温度は届いていた。
「秀一先輩。花火ですよ花火、俺らと一緒にしましょうよ」
「そんな気分じゃないんだ。ほっといてくれ」
「…そうですか」
秀一先輩はそれだけ言い残し去っていく。明らかに不機嫌だったが、こっちに当たらないだけまだマシか。それにしても、仏の副部長なんて言われてるのに、あそこまで荒れてるのも珍しい。
「なあ…あれ、大丈夫かな?」
「まあ部屋に戻ってもあの調子だったら、黄前先輩を召喚するしかないだろうな。あの人も大変だし、本当はやりたく無いけど、俺達にはどうにもできないだろ」
「まあ、確かにな」
「さて、どうする?川島先輩とか誘ってみる?加藤先輩といるみたいだけど」
「…やめとく。そっちこそ、久石のところに行かなくていいのかよ」
「自分で誘ってきたくせに。まあでも、それ抜きにしても奏先輩とはもう話したし、今は剣崎先輩と楽しそうにしてるから」
「ふーん、そっか。じゃあ大人しく2人でやるか」
「そうするか。で、これどうやんの?」
「ん?ああ線香花火か、それはそっちの細くなってるところに火をつけるんだよ」
「へ〜こっちなんだ。なんか意外だな」
求の言う通りに、火をつける。先端に火が灯り小さな火の玉から、細い火花がいくつも弾ける。思っていたより、綺麗だった。けれど、
「なんか地味だな」
「まあ、線香花火ってそんなもんだし。しゃがんで、誰かと一緒にその火の玉を見るのが風情なんだよ。多分」
「求の口から風情ですか。まあでも、そう言われて見たらそうなのかもな」
火の玉が落ちてしまった線香花火をバケツに捨て、新しい物に今度はしゃがんで火をつける。改めてそうやって花火を見ると、どうしても奏先輩のことが脳裏に浮かぶ。
ちらりと隣が視界に入る。その表情を見た時、鏡を見たら自分も同じ顔をしているかもしれない、そう思った。
「なあ、求。好きってなんなんだろうな」
「また?自分で決めたら?」
「自分でって…自分でかぁ」
難しいことを言う。それが分からないから悩んでいるのに。でも、確かにそうしないといけないのだろう。
「なあ、求」
「今度は何?」
「男2人で並んで線香花火ってさ、もしかして淋しい?」
「…言うなよ」
しばらくして立ち上がった俺達は、花火の後始末を終え部屋へと戻る。入り口から部屋を覗くと、秀一先輩はまだ不機嫌なようで、入り口と逆側に顔を向けながら横になっていた。
「重症だなこれ」
「みたいだね」
「とりあえず黄前先輩探すか」
「そうしようか」
頭を引っ込め、踵を返す。広い合宿所内を探し回っても見つからず、仕方なく大浴場の方へ向かってみると、ちょうど黄前先輩が出てくる。
高坂先輩と一緒に出てきた黄前先輩は、表面上はいつも通りに見えた。
「黄前せんぱーい」
「幸人君、求君、どうしたの?2人して」
「あの、実は…」
「お風呂上がりのところ申し訳ないんですけど、ちょっと旦那が重症なので、直してもらっていいですか」
「旦那?」
「まあ、とにかくついてきてもらっていいですか?」
「えっ、あーうん。別にいいけど。麗奈ごめん、ちょっと行ってくる」
「部屋で待ってる」
「高坂先輩もすみません。ちょっと借りていきます」
「気にしないで、私にも別の予定があったから」
そう言い残し、高坂先輩は去っていく。それを見送った俺達が部屋へ戻ると、黄前先輩は中を見ただけで全てを察したようだった。
「あー、なるほどね。ってか旦那じゃないし」
「すみません。部長も大変なのに」
「いや、全然いいんだよ。別に2人が何かしたわけじゃないんでしょ?」
「俺達が見つけたのは花火の時なんですけど、その時からあんな感じでした。それで、俺達じゃ逆効果かなって」
「まぁ、そうなるだろうね。ま、任せておいて伊達に長い付き合いじゃないから」
「よっ、流石ですね!」
「雑だね〜」
黄前先輩が中に入っていくのを見送り、入り口から中を覗きながら聞き耳を立てる。
「やめとけよ」
「いいじゃんこれくらい。あんだけビビらせてきたんだから」
「はぁ、僕はやらないから」
「分かったよ」
去っていく求の背中を見ながら、俺はまた中の話に聞き耳を立てた。
「何やってるの?下級生あんなに困らせて」
「周りが心配しすぎなんだって」
「何、イライラしてんの?」
「別に」
「言えないんだったら、イライラしてても周りに気づかれないように」
「久美子はいいのかよ。オーディション」
「えっ」
「俺、黒江よりも部長の方が下手だとは思えないんだよ」
「まさか、それで?」
「そういうわけじゃないけど…ただ、今回のオーディションは今までと違って、なんか納得できないって言うか…その、結果は結果なんだけどさ、なんと言うか急に変わるのは…その、おかしいって言うか」
その言葉を聞いたからか、黄前先輩の口からは、クスクスという笑いが漏れていた。
「何言ってんの。真由ちゃんの方が上手かったからこうなってるんでしょ。私は納得してるよ」
「本当か?」
「もちろん。だから余計なこと考えてないでしっかりしてよ。副•部•長なんだから」
2人の間には、笑顔があった。
やはり、俺達なんかより効果覿面だ。それにしても、あの2人は付き合っているという噂を聞いていたが、誰かのために、あそこまで腹を立てられるものなのか。それも、好きということなんだろうか。まあ、周りに迷惑をかけるのはどうかと思うが。
それにしても、オーディションか。今日の空気では納得していない人もいるとは思っていた。だが、まさかあの人までとは。
上手い人が選ばれた。そのはずなのに、どうしてこうも波が立つのか。
人が大勢いるって……面倒くさい。
そんな感情を生んだ合宿は、禍根を残したまま終わりを告げた。