合宿が終わり、音楽室にはいつもの練習の音が戻ってきた。けれど、合宿前とは違う空気が、確かにそこに漂っている。
その空気が声となって葉月の耳に届いたのは、休憩中、個室に入った時のこと。
「今回のオーディション、絶対なんかおかしかったよね」
「ね。流石にあの一年のサックス聞かされたら実力で選ばれたってのは疑わないけどさ、奏も落ちちゃったし、部長もソリ外れたし。そんな短期間で変わらないでしょ」
「変わったと言えばさ、チューバ。なんか増えてたよね」
「あー確かに。なんか4人に増えてたね。たいして上手くない一年もそのままだったし。えっ、もしかして奏が上手いのに落ちたのってそのせい?」
「えーそれはどうだろう?」
「でもさ、目立たないのに上手くもない人増やすってさ、明らかにうちの弱点ってことじゃん」
「まあ、言えてるかもね」
葉月に聞こえたのはそこまで。
分かっていた。
声になるずっと前から、葉月自身が。先輩だった後藤卓也にも、長瀬梨子にも、まるで届いていない。後輩の鈴木美玲にだって、まだ及ばない。
自分がもっと上手ければ、あの二人もあんな話はしなかったのだろうか。そんな考えを、葉月は奥歯で噛み潰した。
ドアの向こうで蛇口を締める甲高い音が鳴り、話し声が遠ざかっていく。それでも葉月は、しばらく動かなかった。
やがて、小さく首を振る。
らしくない。
滝は実力を見て選ぶ。そして葉月は今年、その実力で選ばれた。一昨年も、去年も立てなかった舞台に、自分の力でようやく手が届いたのだ。
三年分の全部を、あの場所で鳴らす。
そう決めた人間が、こんな所で俯いている暇はない。足りないのなら、まだ上手くなればいい。
それに――
今の話が美玲の耳に入れば、あの子は言い返すだろう。けれど、さつきや、すずめや、弥生なら、きっと何も言わない。言わないまま、どこかで気にしてしまう。
可愛い後輩たちをまとめ、支えるのは自分の役目だ。
チューバの腕なら、美玲の方が上。だが、その役目だけは、誰にも譲るつもりがなかった。
絶対に、折れてやるもんか。
両手で頬を打つ乾いた音が、狭い個室に響く。
葉月は鍵を開け、一歩を踏み出した。
同じ頃、同じ空気が、とある教室では言葉になっていた。部長の久美子が進めるパートリーダー会議は、終わりに差しかかっている。
「では、あと何かある人いますか」
手が一つ上がる。主は、ホルンの森本美千代。
「この前のオーディションでコンクールメンバーから落ちちゃった子、結構落ち込んじゃってて。サックスとか特になんじゃない?ほら、バリサクとか」
「そこは大丈夫。私たちみんな、昔から幸人君のファンだったから。むしろ、アルトとテナーの方がね」
サックスのパートリーダー牧誓の返事に、久美子は少しだけ息をつく。
「うちも、次があるって励ましたいところなんだけど」
「でも、それも現状わからないですしね」
「どうやってモチベーション保ってあげられるか、だね」
「やらない子は放置でいいと思う」
麗奈だった。久美子には、その言葉が突き放しているようには聞こえない。けれど、皆にはきっと、冷たく響く。
「それじゃだめだろ!来年以降のこともあるんだから」
秀一の声が跳ね上がる。麗奈が口を開くより先に、久美子は割って入った。
「時間が解決してくれることもあるし、タイミング見て声かけてあげて」
「わかった。ただこっちも余裕ないんだよね。コンクール終わってもオーディションかってなると」
「去年に比べると、部の雰囲気も重いし」
「実力で選ばれてるのはわかるんだけどさ、あまりにも変わりすぎて、その基準だってわからなくて、みんな次は自分の番なんじゃって。私もそうだし」
「私は、このくらい緊張感がある方がいいと思ってる。現に去年よりも曲の完成度は上がってる」
納得した顔は、一つもない。だが、麗奈に正面から言い返す者もいなかった。
少なくとも、この場では。
会議が解散し、部員たちが去った後の廊下。あの場で飲み込まれた言葉が、吐き出される。
「これ以上締め付けても、みんな苦しくなるだけだって」
「締め付け?私は、普通のことを言ってるだけ」
「まあ、高坂にとっては普通なのかもしれないけどさ」
「私がとか関係ない。全国金を本気で取ろうとするなら、このくらい当たり前にしていかなきゃ。実際去年も一昨年も取れなかったんだから、今までとは変えなきゃいけない。違う?」
「正論ごもっとも」
皮肉を含んだその一言には取り合わず、麗奈は黙って見ていた久美子へと振り向く。
「久美子は、どう思うの?」
答えは、すぐには出てこなかった。少し俯いて言葉を探し、久美子は麗奈の目を見て、笑顔の形を作る。
「麗奈の言う通りだと思うよ」
麗奈がわずかに目を見開き、そのまま何も言わずに背を向ける。廊下に残されたのは、遠ざかっていく足音だけ。
「悪い」
「ん?ああ、うん。秀一の言うこともわかるよ」
「いや、合宿でのこと。大人気なかった」
久美子は思わず小さく吹き出す。
「大人だとか全然思ってないし」
「そっか」
その場には、いつもの軽さが戻っていた。
会議が終わり、パート練習の教室へ向かう誓の胸は、先ほどの重さに塞がれたままだった
。深く息を吸うのさえためらわれるような、あの空気。その一因が自分のパートにあることは、自覚している。
真島幸人。
関西大会のオーディションを前に、滝からバリトンサックスで受けるよう言われ、そのまま選ばれた一年生。あまりに唐突な抜擢に、部内はざわめいた。
けれど、それも一時のこと。
幸人が初めて参加した合奏練習の、最後の和音が消える頃には、誰もが理解していた。あれが実力による選出だったことを。
サックスパートの人間が、昔から知っていた。その実力を。
幸人が入学してくるより前から、パート内で流行っていたチャンネルがある。
Reed Log
二年前、何の予告もなく現れたそのチャンネルには、アルト、テナー、バリトン、ソプラノ――サックスであれば種類を問わず、圧倒的な技量で吹き込まれた演奏ばかりが並ぶ。
音質は、お世辞にも良いとは言えない。加工の一つもされていない、少しこもった音。次々と投稿される動画に、パートの全員が夢中になっていく。
だから、一年生として入ってきた幸人の演奏を初めて聴いた時、サックスパートの面々は、一斉に手を止めた。
音が、似ている。
それだけではない。いつだったか、突然始まった配信から聞こえてきたLogの肉声。あの声が幸人の声と重なり、画面の向こうの誰かが、目の前の一年生になる。
だからこそ、滝の口から幸人の名が出た時、ざわめきの中で、自分たちは静かに頷いた。
今、残っているのは、幸人のこととは別の疑問だ。
なぜ、このタイミングだったのか。久美子がソリから外れたのは、本当に実力だけの話なのか。あれほど上手い奏が、なぜ落ちたのか。
答えの出ない問いだけが、部の中に沈殿している。
それでも、誓にできることは一つしかなかった。自分のパートを明るく支え、まとめること。
自分たちの選択を、後悔させないために。
パート練習の教室の前で、誓は一度、深く息を吸った。
練習が終わり、夕焼けも薄れ始めた頃、久美子は麗奈と共に、帰り道のコンビニの前で葉月と緑を待っていた。
「うわっ、風が生温〜い」
「まだまだ暑いですよね」
「にしてもさ、橋もっちゃんいなくなって、練習さらにピリピリしてるよね。終わったらどっと疲れが来るって言うか」
少し後ろに佇む麗奈から目を離し、葉月の言葉に被せるように口を開く。
「まっ、まあ関西大会も近いし」
「それはわかるけどさ、上手くできなくて辛いんじゃないって言うか」
「わかります」
「あぁ、今はそういう話はいいんじゃないかな」
「どうして?」
そんな久美子を、緑がじっと見上げた。
「久美子ちゃんから見て、どうなんです?今の北宇治って」
その問いに、久美子の返事が一拍遅れる。
「あー、うん。まあ、色々あるのは把握してるよ。ただ、初めてのことだからねこの形式のオーディション」
「思ったより、大変だったってこと?」
「それはちょっと、思うかも」
「でも、一番の原因は滝先生な気もします」
「えっ?」
「府大会から色々変えすぎじゃないでしょうか」
「まあ、滝先生がそれがいいって判断したんだから考えはあるんだと思うんだけど」
「でも、真由ちゃんと久美子ちゃんは実力は同じだと思うんです。だったら久美子ちゃんの方が良かったって緑は思います」
「緑はそっち派なんだ」
「派というか、その方が部が落ち着くと思うんです。部員みんな不安になるし、代わりに入った真由ちゃんだって困ると思うんです」
「困るのかな…やっぱり」
真由の態度から、久美子が薄々感じ取っていたもの。それが緑の声になった途端、輪郭を持ち始める。
「直接聞いたわけではないですけど」
「でもさ、それ気にしてたらそもそもオーディションなんて、成り立たない気もするよ」
「それは…わかりますけど」
「少なくとも、私はシンプルに実力で選ばれていると思ってた。だから去年も納得したし、今年目指して頑張れた」
葉月の横顔が、保育士を志すと話したあの日の顔と重なる。自分だけが、同じ場所で足踏みをしたままだ。ポケットの中で、久美子の携帯が震えたのはその時だった。麗奈からの「先に帰る」という短い一文。振り返っても、もうその姿は見えない。久美子は話を切り上げ、気付けば走り出していた。
麗奈と歩いた通学路を思い出しながら、その先にいるはずの背中を追いかけ、灯ったばかりのまだ頼りない街灯の下を抜けると、見慣れた橋の上に、ようやくその姿が見える。
「はっ、はっ、麗奈、ごめん」
「久美子は…滝先生の判断どう思う?今のやり方は間違ってると思う?」
また、答えはすぐには出てこなかった。川面を渡る風が、走って火照った頬を冷ましていく。
「思うのね」
「いや、そうじゃないよ。ただ去年までと違って、どうしてその判断になったのか理由がわからないことが多いだけで」
「そこに疑問を抱いたら全てが崩れる。指導者の方針に従うのは大前提でしょ」
「みんな従ってるよ。ただ理解できないって言ってる人に、気持ちに蓋して盲信しろって言うのは無理でしょ」
麗奈が息を吸う。その短い呼吸に、怒りが混じる。
「それは、理解出来ないんじゃなくて、自分の努力不足を棚に上げて思い通りにならないって、そんな言い訳か文句が大半でしょ」
その言葉が、やけに真っ直ぐ耳に届いた。
特別になりたい。麗奈の隣で芽生えたその想いは、今も久美子の中にある。その麗奈が、数歩先に立っている。なのに、どうして今、こんなにも遠いのか。
「私は…そうは思わない。これだけ部員から疑問の声が出ているものを、部長として無視は出来ない。少なくとも今回の件に関しては、滝先生のことを全面的に信じていると言ったら嘘になる」
「本気で言ってる?」
「うん」
震えそうになる声を腹の底で支え、麗奈の目を真っ直ぐに見返す。
「そう。だったら部長失格ね」
麗奈が、すれ違っていく。遠ざかるその足音を背中で聞きながら、久美子は前を向いたまま足を踏み出した。
きっと明日から、一緒に学校へ行くことも、話すこともないのだろう。さよならでないだけまだましか――と、どこか他人事のように思いながら。