ホールの響きに近づけるために床一面へ敷かれた毛布は、足元から熱を溜め込み、座っているだけで背中に汗を呼ぶ。閉め切った窓越しにも、蝉の声はこちらの事情などお構いなしに届いていた。
吹奏楽部員全員の目は、指揮台の高坂先輩に向けられている。振り下ろされる腕には迷いがなく、音楽室を埋め尽くす音が、一本に束ねられていく。
音程も和音の厚みも、夏の初めとは比べものにならない。けれど、吹き始めの一瞬や音と音の切れ目に耳を澄ませば、小さな粗がいくつも転がっている。
それは、オーディションの前にはなかったもの。
右脚の脇に構えたバリトンサックスが、いつもより重く感じられ、ストラップの食い込む首筋を、汗がひとすじ伝っていった。
高坂先輩の腕が下り、音が止む。この後はコンクールメンバーだけで合奏、という声に、メンバーではない部員たちが楽器を手に腰を浮かせかける。そこへ、壁や床へ吸われながらも確かな声が、部屋中に広がった。
「あの、これからも練習、ずっとこの形で進むんですか?」
「オーディションのたびにメンバーが変わるって」
「それって本当に演奏がよくなるのかなって」
トロンボーンとパーカスの先輩たちから続けざまに上がる声は、どれも俺たち一年生や二年生には到底口にできない言葉だった。近くの席で、誰かがリードを咥えたまま固まる。俺も、リードから離した唇を、どうしていいか分からずに結んだ。
「今は練習中だからとりあえず後にしよう。話は聞くから」
黄前先輩の声は、いつもより少し早い。口を開いた先輩たちが頷きかけ、俺も止めていた息を吐きかけた、その時――
「自分の不満をオーディションのせいにしないで下さい。わかった上で進めていることでしょう?」
黄前先輩が差し出した逃げ道を、高坂先輩の一言が真っ直ぐに塞いだ。
正しい。たぶん、どこまでも正しい。その迷いのなさは、昔の俺に少し重なった。周りの顔より、目標だけを見ていた頃の俺に。
「別に、私は不満なんか」
「滝先生が大会ごとにオーディションするって決めたわけだし」
「決めたのは滝先生じゃありません」
「そうなの?」
俺も、同じ言葉を飲み込んだ。
「提案したのは幹部。まあ、最終判断は滝先生だけど」
秀一先輩の言葉に、俯いていた顔がいくつか持ち上がる。
「じゃあ、私たちが前の形に戻したいって言えば」
「今更できるわけないでしょう」
持ち上がったばかりの顔が、また下を向く。黄前先輩が慌てて間に入った。
「ぶっ、部内のそういう声は幹部も理解しています。ただ今年はこの形で進めると決めたので、来年以降に」
「それって今年は諦めるって事?」
「誰もそんなこと言ってない。この方法がベストだと滝先生が判断して、私たちはそれを信じて演奏してきた」
高坂先輩の声は、最初からずっと同じ高さのままだ。けれど、その高さにいる人は少ない。
「だけどさ、場の空気なんとかしてよ。合宿からずっと悪いままだよ。部長だってそうでしょ。ソリ、急に変更になって…そういうのとか、なんて言うか」
その一言で、黄前先輩の肩がわずかに揺れる。そんな気がして見直したが、その肩はもう動いていない。
声がそこで途切れ、誰もが楽器を抱えたまま動かない。蝉の声と、どこかで鳴った椅子の軋みが、やけに大きく響く。
扉の開く音がして、全員の顔がそちらを向く。そこに立つ人の姿に、声にならないざわめきが広がった。
「どうしましたか。手を止めてる時間はありませんよ」
穏やかな、普段通りの丁寧な口調。けれど、声がいつもより半音低い。怒鳴られる方が、まだ楽だ。
黄前先輩の上擦った号令で、部員全員が一斉に立ち上がる。椅子の脚が毛布を擦る鈍い音が、ひとつに重なった。
コンクールメンバーが残り、指揮は滝先生に代わった。音は揃っている。音程も、縦の線も悪くない。それなのに、フレーズの終わりで、誰かの音がいつも少しだけ早く消える。吹き切る前に、息がもう次のことを考えている。
その誰かの中に、俺もいた。
バリトンサックスの最低音が、床の毛布に吸われて鈍く沈む。指はいつも通りに回る。ミスもない。だが、息の行き先が定まらなかった。
昔はもっと単純だった。1人で吹いていれば、全部消えた。客の話し声も、グラスの触れ合う音も、自分の事情さえも。だからこそ、上手くなれたのだと思っている。
なのに今は、消えない。
先輩たちの声も、黄前先輩の揺れた肩も、楽器を抱えたまま固まっていた誰かの横顔も。息を入れるたび、耳の奥に貼りついたまま離れない。それが悪いことなのかどうかすら、今の俺には分からない。
指ばかりが、赤い書き込みだらけの譜面を先に追っていく。自分がその音をどう鳴らしたかったのかは、吹き終えた後に思い出せない。合奏が終わったことにすら、周りが楽器を下ろし始めるまで気付かなかった。
ストラップを外すのも忘れたまま、音楽室から人が減っていくのをぼんやり眺めていると、怒鳴り声が耳に届いた。高坂先輩の声だ。
「私のせいだって言うの!あんたが仏の副部長とか言われて甘い顔してるから」
「それとこれは別の話だ!部長が収めようとしてんのに、ああ言う声にいちいち反応するなって言ってるだけだよ!」
仏の副部長が、怒鳴っていた。
「ほっとくほうがよっぽど問題!なあなあにしてたら、こっちが非を認める事になる!」
「正論で言い負かして、不満が消えると思うか!」
「だからって!」
「ふたりとも‼︎」
黄前先輩の声。それきり、何も聞こえなくなった。
こんな調子で、本当に大丈夫なのだろうか。全国金を目指している。それは誰も変わらないはずなのに。
大きなため息をひとつ溢し、楽器を片付け音楽室を出る。廊下の先に、二つの人影があった。黒江先輩はまだ分かる。でも、何故奏先輩がいるのだろう。
楽譜を挟んだままの譜面台を抱えている。個人練習の途中だったのだろうか。どこで練習しているのか、俺は知らない。低音の教室にいた頃は、それで十分だった。でも今は、パート練習で顔を合わせることもない。
あの朝、名前を呼ばれた時は、これで奏先輩と同じ舞台で吹けると思っていた。今、合奏で振り返っても、後ろの列に奏先輩はいない。今日の俺は、それを一度も確かめなかった。
2人が何を話しているのかまでは聞こえない。並んで歩く2人の間は、譜面台一つ分、空いている。黒江先輩はどこか思い詰めた表情で、それは辞退を口にしていた時の顔と重なる。隣を歩く奏先輩は、黒江先輩が北宇治に来た頃と同じ目をしている。
開きかけた口を閉じて、俺は2人の背中を見送った。その後のパート練習では、牧先輩に二度、名前を呼ばれた。
その日の帰り道、肺の奥にまだ残る音楽室の空気を振り払うように、普段は通らない道を歩いていた。
川面を渡ってくる風が、夏草と湿った土の匂いを連れながら、汗ばんだ肌を乾かしていく。西の空にはまだ昼の名残が薄く残り、水面はその色を細かく砕いては下流へ流していた。せせらぎに紛れて、頭の中の声がようやく遠のいていく。
「だからって言う事を聞いていたら!」
思わず足が止まる。聞き慣れたくなかった声色だった。
悪いとは思いながら近づいていくと、河川敷の方から、黄前先輩と高坂先輩の声がはっきりと聞こえてくる。
「副部長はなんて言ってるの?」
「基本的には賛成してくれてる。全国金、取りたいの。今のままじゃ関西大会を突破できるとはとても思えない」
「私は、賛成できない。今、滝先生がオーディションについて何か言ったら、逆に部はバラバラになる。不満のある人は、オーディションの結果が変わらない限り納得しない!」
その言葉に、一つの顔が頭に浮かぶ。表面上は何も言わないあの人が、胸の内にどれだけのものを抱えているのか。
分かるなんて、言えるはずがない。だって、俺は、選ばれた側だから。
「そうかもしれない!けど、このまま何もしないで関西大会」
「何もしないの?部長としてやる事が、滝先生に説明して欲しいってお願いすることなの?誰かに頼ることなの?」
頼ることの、何がいけないんだろう。
「そうじゃない!」
「そうにしか見えない!」
「じゃあ麗奈はどうしたらいいと思うの!上から正論言って納得するなら誰だって苦労しないよ!」
黄前先輩の声が、高坂先輩と同じ高さまで上がる。
「奏者として正しいと思う事を曲げるのは、今もこれからも北宇治のためにならない」
それでも、返ってきた声は最後まで動かなかった。ただ踵を返し、去っていくだけ。一度も振り返らない高坂先輩の背中が、河川敷の先で小さくなっていった。
残された黄前先輩は、一度だけ俯いた。けれど次の瞬間には、ベンチに置いていた鞄を拾い上げ、確かに歩き始めている。
だんだん大きくなるその姿に、かける言葉が見つからない。俯いたまま動けずにいたのは、俺の方だった。
「幸人君?」
「えっ…あーっと、お疲れ様です、黄前先輩」
そんな事をしていれば、見つかるのも当然だ。隠れる場所なら、いくらでもあったのに。
「どうしてこんな所にいるの?」
「いや…ちょっと気分転換に歩いてたら、なんと言いますか、声が…聞こえてきまして」
「…聞いてたんだ」
その目が、高坂先輩の去った方へ一度だけ流れる。
「すみません」
「まぁ、大きい声だったからね。しょうがないよ」
黄前先輩は笑顔の形だけを作ってみせ、そのまま川沿いを歩き出す。何も言わないその背中に、ついて来いと言われているようで、俺は隣に並んだ。
「部長って…大変ですね」
「…まあね」
「…」
「…」
黄前先輩の足音はいつもより遅く、俺はそれに歩幅を合わせる。川のせせらぎと、遠くを走る車の音。それだけが、2人の間を埋めていく。
「黄前先輩、最近練習できてますか?音、あまり聴こえてこないですけど」
「…できてるよ、って言っても無駄なんだよね」
足音が、半拍遅れた。
「聴こえないと思ったのは、あくまで個人的な印象ですけど…」
「そっか…」
「…」
「…」
水面が砕いていた昼の名残は、もう下流へ流れきっている。手の中にある葉書ほどの紙を、黄前先輩はずっと見つめていた。やがて、その紙に視線を落としたまま口を開く。
「…ねぇ、幸人君はさ、さっきの話、どこから聞いてたの?」
「えっと…秀一先輩の話が出たぐらいからですかね」
「そっか…幸人君はどう思った?滝先生に相談する話」
どう…か。一年生に聞く話じゃない気もするが、聞かれたからには答えない理由はない。
「どうと言われましても…高坂先輩の言ってることも、分かる気はします。でも、全部をそれだけで片付けるのは、ちょっと極端かなって。だからと言って、別の案があるわけでもないんですけど」
「まあ別の案なんて、そう簡単に思い浮かぶものじゃないからね」
語尾が、せせらぎに紛れていく。
「でも少なくとも、何をすべきか考えて動こうとしてる黄前先輩は、何もしないようには見えません。誰かを頼ることだって、悪いことだとは思いません」
その視線が、手元の紙から持ち上がる。
「…それ、幸人君が言うと説得力あるね」
「でしょ」
黄前先輩が、小さく吹き出した。形だけじゃない笑い方。紙を持つ手にわずかに力が籠もり、不意にその足が止まった。
「…ありがとね、幸人君。じゃあ私、こっちだから」
「はい、また明日」
見慣れない道の先へ、黄前先輩の背中が消えていく。遠ざかる足音は、いつもの速さに戻っていた。前に聞いた話では、黄前先輩の家はこの辺りではなかったはずだ。何か用事でもあるのだろうか。
考えても仕方のないことは脇に置いて、俺は来た道を引き返した。
家に着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。等間隔に並ぶ街灯が見慣れた道を照らし、その先で、店の窓だけが橙色に灯っている。何年経っても変わらないその灯りが見えると、足は自然と速くなる。
カランカラン。
聞き慣れたドアベルが鳴り、コーヒーの香りと一緒に中川さんが出てくる。
「おっ、奏とラブラブな幸人君じゃ〜ん。おかえり〜、遅かったね」
口の端を持ち上げたまま、中川さんが近づいてくる。からかう時の顔だ。
「一言目からそれですか…お疲れ様です」
「あれ?なんか反応わるいね」
身長差のせいで、下から覗き込まれる形になる。
「俺に何かあったわけじゃないんですけど、まあ、吹部内が色々と」
「え、今の時期に?関西大会、次の日曜じゃなかった?」
中川さんの声から、からかう調子がふっと抜け、窓から漏れる光がその横顔を半分だけ照らす。
「そうなんですよね。音は悪くないと思うんですけど、いまいち集中に欠けていると言うか。こんな調子で全国行けるのかなって」
「黄前ちゃんはどんな感じ?」
「今日は高坂先輩と川で喧嘩してましたね。その後は、知らない場所で、葉書みたいな紙を片手にどっか行きました」
驚くでもなく、心配するでもなく、中川さんは一つ頷いた。
「黄前ちゃんがちゃんと動いてるなら、大丈夫だと思うよ。去年も、一昨年も、黄前ちゃんの活躍は大きいし」
肩の力の抜けた、明るい声。
「信頼してるんですね。黄前先輩のこと」
「あったり前じゃん、私たちが選んだんだよ」
その口の端が、また持ち上がる。今度は、からかう時の顔ではなかった。
「…そういえばそうでしたね」
初めてこの店で会った日にも、この人は同じことを言っていた。
「じゃ、私は帰るから」
「送りましょうか?」
「珍しいね。なんで?」
「いや、別に外にいるからですけど」
「ふーん。ま、そういうのは奏にしてあげな。じゃ〜ね〜」
手をひらひらと振って、中川さんが街灯の向こうへ遠ざかっていく。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、俺は店の前から動けなかった。
大丈夫だと思うよ。
保証なんて、どこにもない。軽い調子の、根拠のない一言。
それなのに、その一言は、今日聞いたどの声よりも長く耳に残った。