現在の想定では、アニメの内容を書き切る所で完結予定なので、この話も随分終盤まで来たんじゃないかと感慨深い気持ちです。
最後まで皆様に楽しんで頂けるよう頑張って書いていくので、これからもよろしくお願いします。
目覚ましが鳴った。窓の外は、明るくなるにはまだ早く、夜の色を残している。
それでも日課は変わらない。いつもと違うのは、背中が軽いことだけ。調整を済ませた楽器は、本番が終わるまでケースの中で休ませてある。
同じリズムで走るうちに、足音と呼吸が、一つのテンポに揃っていく。山の上で吹かない朝は、鳥の声がよく聞こえた。
店に戻ると、まだ早い時間なのに、マスターはいつもと同じ朝飯を並べている。本番の日だからといって、何も足さない。俺も、何も残さなかった。
関西吹奏楽コンクール、当日。
会場へ向かうバスの中は静かで、聞こえてくるのは小さな寝息と、小声の会話。時々上がる笑い声は、どれも隣の席までしか届かない。朝の早さを思えば当然の静けさなのに、このバスは、今の部の空気ごと運んでいるようだった。
隣で眠る求の向こう側を、まだ人の少ない街の景色や、高速道路の壁が流れていく。
「バスを降りたらすぐに荷物を纏めて楽器の運搬を始めて下さい。時間厳守ですが、慌てず丁寧に」
高速道路を降りたところで、高坂先輩の声が車内に通り、あちこちで隣を起こす手が動く。荷物をまとめる音が続く中、俺も求の肩を揺する。
バスが停まると、前の席から順に列が流れ出し、所定の場所に荷物を固める。列はそのままトラックの荷台へ伸び、楽器が手から手へ渡っていく。誰も声を荒げず、誰の手も止まらない。回ってきたケースを担ぐと、朝から軽かった背中に、いつもの重さが戻る。この列の中にいる間だけは、音楽室のことを忘れていられた。
準備を終えた控室から、少しずつ音が消えていく。
いつもと変わらない様子で俺たちに指示を出す滝先生。
いつもと変わらない様子で奏先輩に声をかける剣崎先輩。
その奏先輩の手には、今日は楽器が無い。目が合う前に、俺は譜面へ視線を落とした。
そこに響く一つの重低音。振り返らなくても、誰の音かは分かった。
控室で音を出してはいけない、それは府大会の時から言われていた事。チューバを抱えた釜谷が、慌ててマウスピースから口を離す。加藤先輩の注意は口調こそ軽いが、語尾まで緩まず、声もいつもより低く聞こえた。
「大丈夫なの?」
誰の声かは分からない。釜谷に向けたものか、それとも。
チューニング室。本番前に音を出せる、最後の部屋。音を合わせる合間にも、囁きがあちこちで止まない。その中で、滝先生だけはいつも通りに腕を構えた。
「頭から、もう一度だけお願いします」
幾度となく繰り返されたクラリネットの一音目が響き、そこへ一つ、また一つと音が重なっていく。
「はい!そこまで。いいですね、素晴らしいです」
決まった場所で、音が止まる。本番まであと10分くらい。そう聞こえてきた声に、自然と深い息が出た。
「私は、北宇治の音楽が、皆さんの演奏が素晴らしいものであると、信じています。結果は気になるでしょうが、まず自分たちの納得のいく演奏にしましょう」
「「「「はい!」」」」
「あの!少しだけいいですか!」
「もちろんです」
唐突に上がる手。滝先生の返事から始まった足音が、全員の前で止まる。そこに立ったのは、黄前先輩。
「部長の黄前です。あっ、えっと…言うだけ、難しく考えない。ゆっくり…ゆっくり…ふぅー落ち着いて、思っている事をちゃんと…」
「久美子!」
威勢のいい名乗りに続く小声が、どんどん大きくなっていく。加藤先輩がにこやかに突っ込むと、部屋中に笑いが広がった。
「あっ、その…私昔から思ったことを言っちゃう癖があって…だから、あの!思っている事を話します!正直に!そのまま‼︎」
赤い顔のまま、黄前先輩の声が一段ずつ上がっていく。笑い声は、いつの間にか止んでいた。
「私は、一年生も三年生も同じ土俵で競い合えて、一つの目標に向かって進む北宇治が、大好きです!その北宇治で全国金を取りたい。2年間ずっと思ってきたけど…でも、どうしてもそこに届かなかった。ここにいる二年と三年…そしてきっとここにいる滝先生も思ってる。なんでだよって。だから何かを変えなきゃいけないって幹部でそう考えて、このオーディション形式を提案しました。それが間違っていたとは思いません。より北宇治らしい方法だとも思いました。ただ、そのことで戸惑いを感じた人がいたことも事実です。部長としてこの場で謝らせて下さい。すみませんでした」
熱のこもった言葉が、途切れることなく続いていく。その間、誰も口を挟まず、楽器を持ち直す音ひとつしなかった。
沈黙を破ったのは、椅子の音だった。秀一先輩が立ち上がり、頭を下げている。続いて、また椅子が鳴る。高坂先輩だった。河川敷で一度も振り返らなかった背中が、深く折れている。
三人とも頭を下げたまま、黄前先輩の声が続く。
「今更謝られても納得できない人もいると思います。でも、それでも私は北宇治で全国金を取りたい!わがままかもしれない、でもここにいるメンバーと不満も戸惑いも全部吹き飛ばす最高の演奏をして全国に行きたいんです!1年間、みんなを見ていて思いました。こんなに練習しているのに上手くならないはずない。こんなに真剣に向き合ってるのに響かないはずない!北宇治なら取れる!私たちならできるはず!だから自信を持って。今までやってきた事を信じて…だからえっと…私が伝えたいことは…」
涙の混じった声が、途中で何度も裏返る。この数日で幾つも聞いた、耳に貼りつく声とは違う。自然と身体の奥に残る声。
言葉が、最後の最後で萎んでいく。なんとも締まらない。それでも、今度は誰も笑わなかった。
声の余韻が消えきる前に、誰かの手が鳴った。
「私も全国行きたいぞー!」
加藤先輩が、手も足も使って音を立てながら、思っていることを言葉にする。それと同時に、川島先輩はコントラバスを抱いたまま手を叩いていた。
「緑もです!」
「私も!取ろう全国金!」
「絶対に行こう!全国!」
ばらばらに鳴っていた音が、少しずつ一つに重なっていく。その中に、俺の手もあった。
オーディションの結果は変わらない。それでも、この拍手の音圧は、さっき合わせた演奏に負けていなかった。
「久美子」
「それではご唱和下さい!」
高坂先輩に名前を呼ばれ、黄前先輩が一つ頷いて構える。何をするかは、言われなくても分かり、全員が同じ構えになる。
「北宇治ファイトォー!」
「「「「オー!」」」」
その声は、どこも遅れなかった。
なるほど、確かにこれは大丈夫だな。
前の学校への拍手が、舞台袖の暗がりまで届く。先頭を歩く黄前先輩の後ろへ続いていく背中は、どれも真っ直ぐに伸びている。一歩出ると、照明の熱が頬に当たった。
大人数で立つ、2度目の舞台。府大会とは人数も、場所も、楽器も違う。バリトンサックスを握る手に、震えはない。譜面台の上で、赤い字だらけの譜面が照明を白く跳ね返している。頬に当たるその熱とは別の熱が、身体の奥にはまだ残っていた。
指揮台の上で、滝先生が全員を一度だけ見渡す。その腕に、五十五人の視線が集まった。これから12分、あの腕だけを見る。
その腕が、振り下ろされた。
最初の一音が、五十五人分、同じ瞬間に立ち上がる。
跳ねるように進む曲のどこにも、粗が転がっていない。吹き始めにも、音と音の切れ目にも。フレーズの終わりで、誰の音も先に消えない。吹き切るまで、息が音についていく。
激しく押し寄せた音が、ふっと柔らかな曲調へ切り替わる。テンポが変わっても、拍子が変わっても、誰かの音だけが先走ることはない。縦の線は、最後の和音まで一度もずれなかった。
楽譜をめくる音が重なり、それも止む。滝先生が小さく息を吸い、何度も見てきた動きそのままに、構えた腕を振り下ろした。
クラリネットが一本、歩き出す。音楽室で、合宿で、チューニング室で、幾度となく繰り返されたあの一音目。その澄んだ旋律にフルートとオーボエが寄り添い、三つの音が切れる瞬間、全ての音が一斉に流れ込む。
俺も、そこへ息を入れる。チューバ四本とコントラバス二本に重ねたバリトンサックスの最低音を、ホールの床はそのまま客席へ返した。本番の響きに寄せて整えた音楽室とも、また違う音が広がっていく。
十一年、いつも一番前で鳴っていたこの音が、今は一番下にいる。
トランペットのファンファーレが春を押し開き、曲は速い二拍子の夏へ駆け込んだ。
拍の頭を、チューバと同じ場所へ打ち込んでいく。太い管が膝の横で震え、靴の中で足の指が勝手に拍を刻んでいた。その上を、クラリネットの連符が流れていく。
本来なら休符の小節に、赤い字で書き込んだ音が並んでいる。それに沿ってちかお先輩と内田先輩の二本の音へ、この楽器にとっての高音域を差し込む。境目なく溶け込んだ音は、三本分の太さになって客席へ広がった。
吸った息がいつもより深く入り、音が一回り膨らむ。目で追い続けていた滝先生の左手が、こちらの列へ向かって伏せられた。息が楽譜の強さを追い越していたようだ。その手に合わせて息を戻すと、先生の目は別の列へと移っていく。
二小節先で、元の低音へ降りる。チューバの列に戻った俺の音を、床がまた客席へ運んでいく。
秋が、トランペット一本で始まる。
高坂先輩の音は、音楽室でも河川敷でも動かなかったあの声と、同じ高さにある。そこへ後ろの列からユーフォが一本、迷わずに上がってくる。その高さに、黒江先輩はいた。
トランペットに寄り添うように、柔らかなユーフォが鳴り、二つの音の間にマリンバが小さく重なる。その響きは、府大会のものとは違っていた。
鳴っているユーフォは、一本だけ。その隣の一本は、膝の上で黙っている。
ソリの最後の音へ、俺もそっと音を重ねる。寂しさを感じる曲調なのに、どこか明るく聞こえる和音。その中で、季節が一つ進む。
冬。そして、春の主題が帰ってきた。
旋律は、春と同じだった。けれど、それを包む音は、もう何もかもが違っている。五十五人全員で鳴らすその主題の一番下で、毎朝走って作った肺を底まで使い、一番長い音を支えていく。隣のテナーも、後ろのユーフォも、遠くのクラリネットも、何一つ消えない。消えないまま、全部が同じ方を向いている。
一つずつ、楽器が抜けていく。俺の最後の音も、決められた小節で終わった。残ったのは、フルートが一本。今朝、山の上で聞いた鳥の声のように、主題の切れ端を一人で歌い終える。
その音が消えていくのを、誰も急がせなかった。
滝先生の両手が、ゆっくりと下りる。
俺は、止めていた息を吐いた。
息と一緒に、熱が抜けていく。それでも、身体の奥にあるものは、随分小さくなったまま、消えずに残っていた。